私の幸せな身籠り結婚

彩空百々花

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Mission2 夜に響く欲情

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 ◇◇◇


「は、い…。あの私、初めて、なので……」



 颯霞さんの顔が嬉しそうにくしゃりとなる。私がまだ初めてだと知り、喜んでくれているのだろうか。


 颯霞さんの屋敷の寝室にて。恐らく今、私は人生で最大の羞恥を味わっている。



「もちろん、優しくするつもりです。もし止められなかったら、本当にすみません」



 こんなにも恥ずかしい言葉が、自然と口から出てきてしまう颯霞さんが半ば信じられない。


 細身だと思っていた颯霞さんの体は、私が思っていたよりも大きくて、程よい筋肉が付いている。色が他の人よりも断然白いのは、譲ることが出来ないが。



「七海さん、…大丈夫ですか」



 颯霞さんも、早く欲求を抑える苦しみから解き放たれたいだろうに、こんな時までも、私の気持ちを最優先してくれる。この人は、なんて良い人なのかしら。



「は、い。私も、颯霞さんの全部、欲しい、です…」



 そう頬を赤らめて呟くと、颯霞さんの柔らかそうな唇が私の唇を塞ぐようにして優しく重なる。



「…っん、」



 颯霞さんの舌が口の中に入ってきて、口の中も犯されている気分だ。


 でも、それも何だか心地よくて、人の体温の温かさに酷く安心する。颯霞さんといる時、颯霞さんと一つになっている時、私の胸はどうして、こんなにも温かくなるのだろう……。


 私の初めてを捧げてもいいと思えた相手は颯霞さんが初めてだ。……なんて、颯霞さんには絶対に言わないけれど。私がそんなことを言った暁には、天にまで昇ってしまいそうなほどに喜んでしまうと思うから。


 なんて傲慢で自意識過剰な考えなのだろう。そんな風に心の中で思うが、そんなことを忘れさせられるくらいの甘い痛みが私の体全体を蝕んでいく。


 蝶の毒に侵されたようにして、私の脳内は彼と今繋がっていることだけしか考えられない。


 私は颯霞さんの首に腕を絡ませて、抱きついた。



「七海、さん……?」


「颯霞さ、…あっ……キス、したい。キス、してください」



 私がそう言うと、颯霞さんが激しく驚いたのが伝わってきた。



「七海さん、…っそれって、俺のこと…好きになってくれたってことですか……?」



 私はその質問には答えたくなくて、颯霞さんの唇に自分の唇を重ね合わせた。颯霞さんの灰色の瞳が、目が、大きく見開く。でも、それは一瞬の出来事で、次の瞬間には、貪り合うような、激しいキスが始まった。



「んっ…ぁ、……んん」


「ななみ、さん……っ。愛しています、本当に心の底から、貴女だけを、」



 颯霞さんは何度も何度も私に深いキスの雨を降らす。その声音は少し切なげで、颯霞さんの心の籠もった告白を今だけは素直に受け取りたいと思ったのだ。



「颯霞、さん……っ」



 ───そんな甘くて苦い初夜を、私達は過ごした。


 ◇◇◇


 眩しい太陽の光が、カーテンの隙間からこちらを照らしている。私はその眩しい光で目を覚ました。起きた時、自分が真っ裸になっていて驚いたが、昨夜の颯霞さんとの情事を思い出して、顔が火照ってしまった。



「ん、……七海さん。おはようございます」


「え、えと……はい。おはようございます」


「七海さん。なんであの時、キスしてくれたんですか」



 颯霞さんの綺麗な顔が、私に近づいてくる。それにあたふたしていまう私を楽しんでいるかのように、颯霞さんの表情は意地悪だ。



「ねぇ、七海さん。どうしてですか」



 お互いの唇の距離が、もう僅か1センチほどになった時、私は観念して、今の自分の想いをさらけ出してしまった。



「私は、颯霞さんのことを、とても良い人だと思っています。私に無償の優しさを与えてくれて、それにとてもかっこいいです……。私は、颯霞さんと、なら……結婚しても良いと思ったんです」



 たどたどしくなってしまったけれど、これは全て、嘘偽りのない私の本音だ。颯霞さんにこんなことを伝える予定など一切なかった。


 一切なかったのに、純粋に期待してくれていて、私を信じてくれる颯霞さんに本音で向き合わないということは、出来なかった。



「それってやっぱり、……俺と同じ気持ち、ということでいいんですかっ?」



 颯霞さんは、やっぱり可愛い。こんなにもかっこよくて、綺麗なのに、それだけではなくて、可愛ささえもを兼ね備えてしまっているなんて、少しずるい。


 そんな風にキラキラとした、小さな子供のような瞳で期待されてしまうと、断ることなんて、出来なくなってしまう。


 颯霞さんはどこまで私を困らせたら、気が済むのだろう。もちろん、彼が私を困らせようとしているなんて、毛頭ないと思ってはいるが。



「は、い……」



 恥ずかしすぎて、死んでしまいたいと思うほど私にとって自分の本音を伝えるということは難し過ぎた。いや、慣れていなかった。



「七海さんっ……!」


「わっ、…そ、颯霞さん……?どうしたのです……んんっ」



 突然、颯霞さんから唇を塞がれた。そしてそれは、一度や二度の口づけではなくて、お互いの唇は離れることなくどんどん深くなっていく。


 お互いの体は密着していて、裸のせいかいつもよりも体温を近くに感じる。



「七海さん、……好きです、大好き……」


「んぁっ、…。んっ」



 颯霞さんはそう言いながら、私の首元に噛み付いた。昨日の一晩だけで、私の体にはもう“颯霞さんのもの”という意味を表すキスマークで埋め尽くされていた。


 颯霞さんは、支配欲求がとても強いということが、あの一晩だけで身に染みて分かってしまった。



「だ、だめ…です……っ!今、は」


「じゃあ、今じゃなければいいんですね?」



 昨日同じ、獣のような瞳に捕らわれて、ダメと言ってはいけない雰囲気が漂う。それはまるで危険信号のように、私の脳内に刻まれた。



「は、い……」


 ◇◇◇

 
 今日は、颯霞さんの屋敷に住み始める日。颯霞さんとの初夜から三日程の日が経って、私は只今、仮嫁入りの荷造りをしているところだ。


 仮、というのはまだ私と颯霞さんの正式な結婚が行われていないからだ。


 森の奥にひっそりとして建っている、書院造の屋敷に私は一人で住んでいる。


 国内最高の令嬢とされている私は幼少期から、琴、笛、生花、舞、文学と色々なことを両親から教え込まれた。と言っても、その両親は本当の親などではないのだが……。


 あの二人夫婦は私が本堂の娘だと、思い込んでいる。その経緯いきさつはまだ話すことは出来ないが、この機密情報がもし外部に漏れてしまうという愚行が見られた場合、私は殺される。


 そして、私の周りにいる仲間も、殺されてしまう。そして、颯霞さんも私のことなど虫けらのように扱うかもしれない。


 颯霞さんは私を包み込むように抱きしめて眠っていた。私、今まで、颯霞さんの腕の中で眠ってしまっていたの……!?


 またもや私を襲った羞恥心のせいで、中々颯霞さんの顔を見ることが出来ない。


 なぜなら彼は、今、すごく愛おしそうに私を見つめてくるんだもの……。


 初めて颯霞さんとお会いした、あの時のお見合いの日。私を見る颯霞さんの眼差しの冷たさと、今とでは全く違いすぎていて、頭が混乱してしまう。


 私が、颯霞さんを傷つけてしまう日が来るかもしれない。色々な不安を抱えたまま、私は今日、この日まで生きてきた。


 大切な人がいる。愛おしいと思う人が出来た。守りたいと思うけれど、純粋な気持ちでそれを実行することが、出来ない。私は、悪い人間だ。


 この世で一番、皮肉で、みっともなくて、恥しかない、悪者、……。


 誰かに優しさを、本当の優しさを、与えられたことなど一度もなかった。温かい目で、私を見つめてくれた人など、この十七年間、一人もいなかった。


 でも、颯霞さんだけは、颯霞さんだけは、そうではないと思いたい。信じてみたい。それだけで、こんなにも心が、満たされるのだから……。


 私は自分の荷造りを終えて、外衣に着替える。淡い水色や濃い青色などが使われている菖蒲あやめの花が、繊細に描かれた着物。自分には、水色が一番合うのだ。


 ………今日はなんだか、寂しくなってしまうほどに辺りが静かだ。風の音も、鳥のさえずる声でさえも、聴くことはできない。半分、気持ちが下へ傾きかけていた、その時。



「七海さん。お待ちしていました」



 そこには、優しく微笑んでいる、颯霞さんがいた。突然の出来事に、頭が追いつかなくて目を見開く他ない。


 洋装をした颯霞さんは車に寄りかかって私を待っていたみたいで、その目が優しく細められた。今日も今日とて、とてもお美しい姿に思わず目が眩む。



「あ、あの…颯霞さん。どうして、…」


「七海さんをお迎えに参りました。さすがに好きな女性を歩いて越させる男など、底辺でもありえません」


「あ、ええと……」



 颯霞さんの整った綺麗な顔を見ていると、3日前の夜のことが思い出されてしまう。


 血走った目と獣のように激しかったあの日の颯霞さん。愛おしそうに私を触る、あの手付き。


 思わず、顔が真っ赤に染まった。



「七海さん……?大丈夫ですか、顔が真っ赤です。熱があるのでは…」



 こういうところで鈍感な颯霞さんに、少し不満を抱いてしまう。国内最高の隊を担う人なのだから、頭の回転は常人よりも遥かに速いはずだろうし、その鈍感さが嘘ではないから、憎めない。



「な、なんでもありません!」



 やや不満を含んだ声を発した私に、颯霞さんは目をまん丸くして笑った。



「ふふっ、七海さん、駄々をこねる子供のようです」


「か、からかわないでください!」



 こっちは心臓が持ちそうにないんです!という意味を込めた瞳を颯霞さんに向ける。彼は未だに楽しそうに笑い続けている。



「颯霞さん。この荷物を車に入れてもらってもいいですか。私を笑った罰です」



 怒気を含んだ声でそう告げると、颯霞さんは締まらない緩んだ頬のまま、嬉しそうに頷いた。こんなにも感情を揺さぶられてしまうなんて、らしくない。


 颯霞さんは、いつも私が想像していることの斜め上のことをしてくる。急に真剣な顔をして、抱かせてください、だなんて言ったときはさすがに驚いてしまって声さえ出なかったものだ。



「七海さん。これで荷物は全部ですか?俺が思っていたよりも少ないですね…」


「あ、いえ。本当はまだ中にもあります。しかし、それらは琴や花瓶やお裁縫道具などと重いものなので、…迷惑かなと思いまして、……」



 お稽古の道具を持っていきたかったのは山々だが、颯霞さんに迷惑はかけられない。そう思って、半ば諦めていたのだが…。



「迷惑だなんて、そんな言葉、もう二度と言わないでください」



 途端に怖い顔をして、颯霞さんの背後に黒い霧が押し寄せたと、思った。怖気づいて少し下がろうとした私の腰を、颯霞さんが素早く抱き寄せる。そして次の瞬間には、唇を塞がれてしまっていた。



「んっ、……!?」



 一度や二度の口付けじゃない。これはもう深すぎるほどの口付けだ。颯霞さんの舌が私の舌と絡みついて離さない。私の唾液を全てを飲み飲むかのように、ごくんと大きくて立派な喉仏が上下に揺れた。


 息が出来ないほどの口付けをされて、さすがに限界だった。しかし、私が唇を離そうと身をもがくと、颯霞さんが私を抱きしめる力を強くする。



「七海、さん。もっと俺に、頼って。俺を独占して。束縛してよ。他の女とかなんか目も合わせちゃだめだっていうくらい、俺に七海の嫉妬をくれ」


「へ、……?」



 甘くて深すぎる口づけの合間に、颯霞さんらしくない口調で、声音で、そう言われる。しかも今、七海って私のことを呼び捨てした。


 本当の颯霞さんはどっちなの?


 獣のように飢えた瞳で私を見つめないでよ。そんなに寂しそうな顔して、私に口付けしないでよ。



「七海。好き。大好き…。こんな気持ち、初めてなんだ。だから、……俺から離れていかないで、俺をずっと好きでいて」



 私のちょっとした言動が、颯霞さんをこんなにも不安にしてしまうなんて……。


 恋人として、婚約者として、失敗じゃない……!


 颯霞さんは、きっと普通の人たちのように愛情を受けて育ってこられなかったのだろう。


 国一番の隊長という肩書に加え、そんな国民からの重圧を背負い、どれだけ肩身の狭い毎日を過ごしてきたのだろう。そう考えてしまうと、とても胸が痛む。



「颯霞さん。これからは、ちゃんと颯霞さんのことを頼ります。私は、貴方の妻になる者として、相応しいのでしょうか」


「何言ってるんですか。殺しますよ?貴女は、もう俺だけのものです。七海さん以上に素晴らしい女性はこの世に存在しません。俺から離れていくようでしたら、七海さんを殺して、俺も死にます。だから、絶対に俺から逃げないでください」



 狂気じみた言葉。その覇気にまたもや怖気づいてしまったが、それが颯霞さんの本音だと思うと、なんだか嬉しくなってしまう。


 こんなにも私のことを愛してくれて、強すぎるほどの束縛をしてくれる。こんな風に思ってしまう私は、結構Mだったりするのだろうか?


 一人でそんなことを考えながら、小さく吹き出した。


 こんなにも幸せな日が、ずっと続けばいいのに……。


 颯霞さんを傷つけてしまう日が来ることなんて、今日は忘れて、颯霞さんにいっぱい愛してもらいたい。


 そして、私も心から、颯霞さんを愛していると、伝えたい。


 私たちの行き着く先は、こんなにも明るいものではないかもしれない。颯霞さんと一緒になったことを後悔する日が来るかもしれない。


 でも今は、ずっと、颯霞さんの腕の中で、安心できるところで、静かに存在したい。


 そう思ってしまっては、だめなのでしょうか……?


 ◇◇◇


 颯霞さんと仲直り出来たあと、私は颯霞さんに琴やら花瓶やら色々な大道具を車まで運んでもらって、一息ついていた。


 先程までの狂気じみた颯霞さんはもうそこにはいなくて、いつもの穏やかで優しい颯霞さんがいた。



「七海さん。眠っていてください。俺の屋敷まではまだまだ遠いですから」


「あ、では…」



 何から何までしてもらって申し訳ないのは山々だが、先程ちゃんと約束したのだ。


 颯霞さんを頼ると。


 颯霞さんは迷惑だなんて思っていないのだから、私は私のしたいことをやればいいと。


 そう言われても、そう簡単に出来ないのが長年の習慣だ。いつも下の身分だった私は、頭を下げること、謝ること、迷惑をかけないこと、……などの沢山の『遠慮』を叩き込まれてきたのだ。


 そう簡単に、その悪い癖が治るとは到底思えない。


 私はゆっくりの目を閉じて、眠るよう努力する。しかし、努力するまでもなく、私は颯霞さんの静かな運転のおかげで、すぐに深い眠りに落ちていた。


 ◇◇◇


「……さん。…七海……起きて……さい」


「ん、……」



 俺は七海さんを起こそうと、優しく肩を揺さぶる。それでも七海さんは、寝ぼけたように俺の名前を囁き、また夢の中へ入っていこうとする。



「颯霞さん~……」



 少し掠れた、七海さんの甘えたような声。それだけで、俺の理性が揺らいで下半身が反応してしまいそうになる。しかし七海さんは、さらに追い打ちをかけるように、寝ぼけまなこで俺に抱きついてきた。



「は、……!?七海、さん…?」


「ん~、……私は、なんで言うことを聞かなきゃだめなんですか~…!こっちはそれどころじゃないんですー…!」



 何だか分からない寝言を叫び、力尽きたように俺に体を預ける七海さん。俺は取り敢えず七海さんをしっかりと座らせ、車から降車する。


 そして右の助手席の方へと移動する。この車は外国製のもので、普通は左が助手席、右が運転席となっているが日本製の車とは左右が反対なのだ。



「七海さん。失礼しますね」


 一度断りを申してから、七海さんの膝の裏に腕を回す。

 そしてお姫様抱っこをするように、七海さんを抱き上げた。起こすと申し訳ないから、自分で勝手に運んでおこうと考えたのだ。

 七海さんはいつまでも穏やかに、眠り続けている。とても穏やかで、優しい表情だ。

 すっと通った鼻筋に、綺麗に整えられている眉毛。ぷるんとした柔らかな唇に、長い睫毛まつげ。  

 俺の屋敷に行くためだったのか、化粧もしている。透明のように白い頬。閉じられた瞼にはピンク系統のアイシャドウが付けられている。

 はっきり言って、七海さんの顔は俺の好みだ。

 今まで女性に興味さえ抱いていなかったのに、七海さんに出会ってからは、自分の好みも明確になっていった。

 屋敷の前にそびえ立つ、金で作られた門に近づくとそれは勝手に開く。この屋敷には、色々な魔法のような仕掛けが施されているのだ。

 玄関も同じく、勝手に開き、何も敷かれていなかった床には、赤いカーペットがすばやく現れる。


「旦那様、おかえりなさいませ」


 沢山のメイドや執事が俺の帰りを迎え入れる。

 長すぎる廊下に綺麗に一列に並んで、綺麗な背格好で御辞儀をするその姿は、軍隊の人たちととてもよく似ている。

 俺はそれを軽く受け流して、廊下の一番奥にある私部屋へ向かう。

 七海さんは俺の腕の中で気持ち良さそうに寝息をたてていて、自分の中にある男の欲求というものがくすぐられる。

 入った先にある部屋は水色が基調とされた簡素な部屋。必要最低限のものしかこの部屋にはなく、ベッドにソファ、デスクや椅子など本当に寂しいくらい、何もない。

 昔はこの部屋に閉じ込められるようにして勉学に励んでいたな……。

 そう懐かしむように考えた後、七海さんをゆっくりとベッドに下ろす。

 今日からは七海さんもこの屋敷で住むのだと考えたら、嬉しくてたまらない。頬が四六時中緩んでいそうだ。

 今まで、数え切れないほどに婚約者が父上の手で移り変わっていた俺は、嫌悪していた女性のこともあまりよく知らない。

 これまでの婚約者とは、口を利くことすら御免だった。

 女性は何を好むのか。七海さんにどんなものを贈ったら、喜んでくれるのか。七海さんは俺に甘えてほしいのか。

 それとも甘えたいのか。これ程ないほどまでに七海さんに対し、愛という感情を知ってしまった今と前とでは、見える世界が全く違う。

 まるで、そう。

 天と地の差があるのだ。


「七海さん、……大好きです」


 そっと七海さんの耳元で、極限までに低めた甘い声で、そうつぶやいてみる。

 そうした後、何だか気恥ずかしくなって七海さんから離れようとすると、突然左手首を掴まれた。

 白くて細い綺麗な七海さんの手が、俺の腕を掴んで離さない。そして次の瞬間には、俺は七海さんと同じベッドの上にいた───。


「は、……!?」


 七海さんの綺麗な顔がドアップで俺の前に現れる。押し倒されて、る……!?


「颯霞さぁん~……わたし~、颯霞さんとほぉんとうに結婚したいんですう……。でもぉー、リリー様とぉ、ノア様がぁ……それを許して……くれ、な……ですぅ……」


 ま、まさか七海さん……酔ってしまってる!?

 でもいつお酒なんかを、……。

 あ、もしかしてあれ…か?

 七海さんが飲んでいたお酒らしきもの。容器が普通のものとは違っていたからそこで気づくべきだった……!

 しかもリリー様とかノア様とか一体誰のことを言っているんだ……?

 まさか、七海さんの御両親、……とかか?

 でも、そうなると一つの疑問が浮かんでくる。

 それは、この縁談自体、七海さんの御両親と俺の両親の意見が一致したからこその政略結婚だったのだ。

 今はお互い相思相愛になって、幸せに結婚できる未来があるというのに、あちら側がこちらとの縁談を拒んでいるのだとしたら……?

 そうしたら、もうこちらに勝ち目などないのではないか。氷織家は初代当主の頃から位の高い貴族だったが、それ以上の権力を握っていたのは、実は子規堂家なのだ。

 国一番のお嬢様。

 国一番の権力を持つ家柄。

 今では七海さんの御両親がこの国を担っていく者なのだ。


「七海さん。起きてください…!さっきのは、さっき言ったことは一体どういうことなんですか……!」


 俺の中で、嫌な想像が広がっていく。やっと大切な人を見つけられたと思ったのに。

 また、俺から……大切なものを奪っていくのか……?

 ………そうだ。七海さんとの婚約が破棄にならないようにするためには、その方法は一つしかない。それは、

 七海さんを孕ませること。

 子供さえ妊娠すれば、あちらといえども無理矢理婚約破棄することもないだろう。これまでの情事だって避妊具を使わずにしていた。

 それなら今までと変わりなくすれば、妊娠する未来も近い。

 俺は眠っている七海さんを自分の方へ抱き寄せて、その柔らかそうな七海さんの唇に、自分のものを重ねる。

 舌を入れると、七海さんの舌が自分の舌に絡みついてくる。口づけがどんどん深くなっていき、七海さんは苦しそうに眉を顰める。


「ん、颯霞さん……?んんぅ、……ん、苦し」

「あ、起きましたか……。先程言っていたことは、一体何のことですか?」


 寝起きの七海さんは、いつもの可憐さが消え、可愛さが倍に増していたが、俺は今、それどころじゃない。


「……?何の、ことですか」


 もしかして覚えていないのだろうか。

 だけど、よくよく考えてみると自分が寝ている間に言っていた寝言など、覚えている者の方が常人ではない。

 でも七海さんは、いつも抜かりない完璧な人だ。夢の内容くらい、覚えているだろう。


「リリー様やノア様という人たちのことです。先程、そう呟いていました」


 俺は端的にそう言う。すると、七海さんからは予想外の反応が返ってきた。真っ白で綺麗な顔がどんどん真っ青になっていくのだ。何事だ、と思った。

 その名を知られては、何かまずいことでもあるのではないか。そう勘ぐってしまう。


「え、えと……あの、それは颯霞さんには関係のないことです。そうむやみに干渉されると、あまり良い気はしません」


 真っ青だった顔色が、だんだんと通常の顔色に戻っていく。


「それは、俺には言えないようなことですか」


 関係ない、と言われると少し寂しさを感じてしまう。

 俺にとって七海さんはもう、ただの他人ではないし、それどころか結婚したいとまで思っているのだから。

 でも、七海さんは俺と同じ気持ちではないと言われているようで、少しだけ心臓がえぐられる。


「七海さん…?」

「あ、……はい」


 こんな七海さんは、珍しい……。

 いつもはボーっとすることなんて絶対にないのに、今の七海さんは少し、魂が抜けてしまったように感じられる。


「颯霞さん。いつまでもこうしているわけにはいきません。今日は、颯霞さんのご両親にご挨拶に参ったのです」


 今は、それどころではないというのに。

 俺は貴女に、寝言の内容を話して欲しいのに。

 七海さんはきっと、自分から折れるということを知らない女性だ。それはやましいことからくる行為ではなく、七海さんのプライドが高いからであろう。


「あ、……はい」


 今、完全に境界線を引かれてしまったかな……。

 俺はそう一人、落ち込む。今日は、俺の両親に七海さんを紹介する日だ。

 今はちょうど正午で、約束の時間まではあと少し。


「颯霞さん。私は別に、境界線を引いたわけではありません。ですが誰にも言えない秘密があるということは必ずしも私だけだということはないでしょう?」


 まるで俺の心の中を見透かしたような言葉だった。こうやって何度か体を重ねて、七海さんは俺の心まで見透かしてしまえるようになったのだろうか。


「そう、ですね」


 何も反論出来ずに俺はただ一度頷いた。だって、今七海さんが言ったことは正論だったから。

 誰にだって、他人には言えない秘密が一つや二つは必ずある。

 それは当たり前で、当たり前過ぎて今まで忘れてしまっていたことだ。

 俺の返答を聞いて満足そうに頷いた七海さんは、きちんと背を正して俺の腕に七海さんの腕を回す。


「行きましょうか。颯霞さん」


 ふわっと微笑んだ七海さんの表情が大輪の薔薇よりも美しいと感じたことは、俺だけの秘密だ。


 ◇◇◇


「いやぁ、七海さん。遠い所からよく来てくれたね」

「ふふ、私も嬉しいわぁ」


 金を基調としたヨーロッパ風の雰囲気が漂う洋室の一角で、私は背筋をピンと正して良い婚約者を演じていた。

 ふんわりとした柔らかい笑みを湛え、見ている人全員が好気的な視線を寄越してきた私のこの笑顔。

 見ているだけで嫌な気持ちが全て浄化されていくような、荒れ狂っていた心の海が穏やかに凪いでいくような、そんな気持ちにさせられる。

 もちろん、そんなことを私は知る由もないが。

 ただ、そう噂されてきたことは知っている。私はやはり、自分への評価が高い人間なのだろう。そうでなければ、自分の噂もこの耳へは入ってくるまい。


氷織 縁壱ひおり よりいち様、氷織 茉吏ひおり まつり様。今日はわたくしめを如月家へお呼びいただき誠にありがとうございます」


 七海はそう言って、両の手の指先を綺麗に合わせ、深く深く御辞儀をする。凛とした声音。

 立派な正装を纏った七海が綺麗な着物の裾を床を擦る趣のある音を奏でる。

 それは意図的ではなく、ごく自然に。


「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ、七海さん」


 颯霞さんのお父様である縁壱様は優しい声音でそう囁いて、私の肩に手を置いた。

 軍服のよく似合う、立派なお方。かつてはこの日本国を世界的に進化させた軍隊の元総監督であった偉人。

 それが、颯霞さんのお父様なのだ。


「七海さんのお話は颯霞から耳にタコができるのではないかというくらい沢山聞いておりましたよ。颯霞の言う通り、本当にお美しい方ですごく驚いておりますわ」


 そう言って茉吏様はお上品に笑った。


「恐縮な限りです……」


 七海はそう言ってもう一度深く頭を下げた後、真っ直ぐに氷織夫婦を見つめた。その目はあの見合いの日に見た一点の曇もない綺麗な颯霞の瞳と酷似していた。

 その内側から溢れ出ている淑女しゅくじょとしての自信。その自信は傲慢さを通り越して、もはや心地良くも思えてくる。

 自信はこの時代を生きる人間にとって最強の武器だ。時に美しく、しなやかで、危険が迫るとその隠していた牙を剝く。なんて恐ろしいものなのだろう。


「婚約式に挙式、結婚式にとこれから色々と大変だろうが颯霞がきっと七海さんを手助けしてくれると思うから安心しなさい」


 耳に心地よく響く縁壱様の低い声。私はそれに笑顔を浮かべて上品さを纏った仕草で頷いた。


「はい。そうおっしゃっていただけてすごく安心しましたわ」


 私はそう言って、一輪の薔薇が咲いたようにふわっと可憐に笑った。
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