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第二章 ”動”
第十話「それぞれの選択Ⅱ」
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“お前さ、成仏なんて本当はしたくないんじゃねえの?”
その問いかけが、何度も頭の中で繰り返しリピートされている。これで十回目くらいだろうか。それは、赤崎にとってひどく居心地の悪いものであった。考えれば考えるほど、深い迷宮に入り込んでしまうような気がしてならない。
“お前さ、成仏なんて本当はしたくないんじゃねえの?”
もう一度問いかけられる。確かにその言葉は幼なじみのものであったが、トータルで十一回、初めの一回以外は全て赤崎自身が自ら繰り返したものだ。本当は成仏なんてしたくないのではないか、と。
果たして、川の流れに抵抗せず、流されるまま生きてきた自分に、意思や信念などというものが存在していたのだろうか。
昔から物欲がないとよく言われていた。誕生日プレゼントに何が欲しいかと聞かれた時、特に何もないと答えた自分にも、新しいおもちゃを買ってもらったんだと自慢する緑間に、それが何?程度の興味しか示さなかった自分にも、覚えがある。
それに物欲だけでなく、赤崎自身には「何かをしたい」や「何かをしたくない」等、そういった意思や欲が備わっていなかった。本当に、流されるまま今まで生きてきたんだな、と今更改めて赤崎は思う。
そして、そんな彼を流れに乗せていたのは、幼なじみである緑間と青子であった。彼らは、間違った方向にさえ身を任せようとする赤崎に手を差し出し、いつも正しい道に引き戻してくれていた。二人がいたから、赤崎は今まで不器用なりにも生きていくことができたのだ。
いつだって、手を引いてくれた彼らがいたから。
(あ、)
そっか。と、そこで赤崎は一つの事実に直面する。まず第一に、自分の中に意思がしっかりと確立していたということ。今までだってこれからだって、“一緒にいたい”と思う気持ちは、正真正銘赤崎自身の意思であり、信念でもあった。確かに赤崎には意思があり、信念があり、そしてほんの少しの自我が存在している。
だからつまり、この問いかけに対する自分の答えも、きちんと用意はされていたのだ。
本当は、成仏なんてしたくないんじゃないの?
(ああ、そうだよ。成仏なんてしたくないんだ)
これは、独りになることに対する不安なんかじゃない。どこまでも純粋な、僕の我儘だ。
***
「…ごめん、祭」
家に帰るなり、緑間は部屋にこもって自分のベッドに寝転がっていた。先刻の響との話、そして赤崎のことについて考えていたのだ。
考え始めて二十分ほど経っただろうか、ずっと窓から外を眺めていた赤崎が、ふいにそんなことを言った。何が、と緑間は素っ気無く返す。何に対して謝られたのか、いまいちピンとこなかった。
こういう突発的な脈絡のなさは、どうやら死んでも直らなかったらしい。
「さっき…あんな言い方をするつもりはなかったんだ。だから、ごめん」
「ああ…気にしてねえよ、別に。でしゃばった俺が悪かった。だから、そんな顔で謝ってくれるな」
気にしていない、というのは、決して言葉だけではなかった。実際少しも気にしていないと言えば嘘になるが、そんな深刻そうな顔で謝られるほどの問題ではない。
それにでも確かに、あの時突き立てられた刃が、浅く緑間の奥底に掠り傷を残していったことに違いはないけれど。
それについて赤崎に説明するつもりはなかったし、既に抑えの効かない怒りにも似た感情は冷めている。特に先ほどの出来事について、緑間は腹を立ててはいない。それは嘘ではなかった。
「…それだけじゃないんだ」
だが、どうやら赤崎の謝罪にはまだ別の意味が伴っているようだった。とはいえ、緑間には謝られる理由が特に何も思い当たらない。
確かにこの幼なじみは今まで、謝らなくてなくてはならないようなことを散々緑間にしてきたと言える。
たとえばそれは、昔貸した漫画の十五巻~二十三巻までを紛失したことであったり、最早日常茶飯事となっている、大事にとっておいた弁当のおかずを横取りされたことであったり、人が気持ちよく寝ているのをいいことに、油性マジックで顔に落書きをしたりと、まあ色々あったりするのだが。
「…あ、もしかしてこの間貸した三百円のことか?いいよいいよ別に。こうなっちまった以上、返せとは言わねえから」
「ああ…そういえばそんなこともあったっけ?忘れていたよ」
「お前なあ」
緑間は呆れた風に溜息をついた。
大体そうで、基本的に一度赤崎の手に渡ったものが、緑間の元に返ってくることはまずない。何度注意しても直らないので、緑間自身もそのことについてはもう諦めていた。だから、一度貸したらもう戻ってこない可能性も十分あるとわかった上で、今までこうしてやってきたのだ。
それでも、赤崎が戻ってこない可能性は、今まで一度も考えたことがなかったけれど。
「…ま、いっか。それでなんだよ、それだけじゃないって」
神妙に、深刻そうな表情を浮かべる赤崎とは対照的な、からかうような笑みを浮かべて緑間は言った。つとめて明るく、これからどんな言葉が幼なじみの口から飛び出してきても、動揺しないように。
どれだけ逃げ回っていても、いつかは向き合わなくてはならないことだ。緑間自身、そんなことは嫌というほどわかっている。
こんな能力、ない方がよかったのかもしれない。相手の考えていることがわかるなんて、実際問題苦しいだけだ。
「僕は、」
だが、その苦しさと引き換えに、覚悟と時間の猶予が与えられる。そう、たとえば今のように。
「ん?」
戸惑う必要はない。迷う必要も。自分はもう、十分すぎるほどに覚悟するだけの時間をもらったのだ。
(だから今度は、俺の覚悟が鈍らない内に)
緑間は寝転がっていた体をゆっくりと起こし、赤崎と向き直る。その先を急かすようなことはしなかった。窓から差し込む日の光が、きらきらと赤崎の綺麗な黒い瞳に反射して、とても綺麗だと緑間は思った。
一瞬だけ、時間が止まる。それは一秒よりも短く、そして永遠に近かった。
ゆっくりと時間が動き始める。動き出した時間の中で、赤崎は絞り出すようにか細い声で言った。
「本当は…成仏なんて、したくない」
「…そっか」
緑間は、くしゃっと赤崎の頭を撫でた。見る者によっては、緑間の浮かべる笑みが切なく、悲しいものであったことに気づいただろう。そして、長い付き合いである赤崎が、彼のその不自然な笑みに気がつかないはずがない。
しばらく経って、ぴたりと緑間は手を止める。
「…なあ、静。あの時俺が言ったこと、覚えてるか?」
「あの時…?」
赤崎が首を傾げる。わからないのも無理はない。“あの時”が該当する記憶が、彼らには多すぎた。緑間の言う“あの時”は、数多くあった“あの時”の中の一つにすぎないのだから。
そもそも赤崎は忘れているかもしれない。あの時緑間が言った言葉など。
だからもう一度繰り返す。
「俺も一緒にいってやる」
はっと、まるで我に返ったかのように赤崎は目を見開いた。
そう、これが、あの時彼が言ったこと。
「あの時言ったろ?俺の命くらい、お前にやるって。あの言葉に嘘はねえよ。俺の命くらい…安いもんだ」
(なあ、静)
ずっと、償いたいと思っていたんだ。たとえそれが、俺が自分で作り上げた幻の罪であったとしても。俺にはそれすら、初めから口実だったんだよ。
この命でお前が楽にいけるなら本望だ。一緒にいってやるよ。俺も一緒に〈あっち〉へいけば、お前にはもうこっちに縛られる理由がなくなるもんな。それに、俺にも静がいない世界から逃げ出す口実が出来て、一石二鳥だ。
「違…う、」
「違わねえよ。まだ気づいてないのか?お前、その為に俺のところに来たんだぜ?」
緑間の乾いた笑い声が、しんと静まり返った部屋に響いた。赤崎は口を閉ざし、小刻みに体を震わせている。何かに怯えているようにも見えた。
別段責めているわけでも、まして咎めているわけでもない。元々緑間は、初めて霊となった赤崎が家に訪れた時、薄々感づいてはいたのだ。
―自分を〈あっち〉に連れて行く為に、この幼なじみが舞い戻ってきたのだと。
それに関して赤崎を咎めるつもりは、緑間には更々なかった。この罪の幕引きが他の誰でもない赤崎の手で降ろされるなら、これ以上のものはないと、そう思う。
「ちょっと低いけど、頭から落ちれば普通に死ねると思うんだよな。一応二階だし。まあ、多分いけるだろ、これなら」
「何、言って」
「死ぬのってやっぱ怖いな。出来れば楽に逝きたいところだが…はは、それじゃあ意味ないか」
「ちょっと…祭ってば」
「死んだら天国と地獄、どっちに行くんだろうな。出来れば天国で頼むぜ、天の神様。あーあ、こんなことなら、響にあんなきつい言い方するんじゃ」
なかった、と緑間は続けようとした。だがそれは、ダンっという鈍い音によって遮られる。凄まじい力に、家全体が揺れたようにさえ緑間は感じた。
やったのは緑間ではなく、肉体を持たない、本来ならばそんなことが出来るはずのない赤崎だ。彼がこちらで唯一触れられるものは緑間だけ…のはずなのだが、確かに赤崎の拳はこの部屋の壁を殴っていた。それは見間違いようもなく、そしてまた、一体どういうことだと考える時間も、緑間にはなかった。
何故なら、今まで見たこともないような形相で、赤崎が鋭くこちらを睨んでいたからだ。本当に、今にも掴みかかってきそうな勢いで。
「何…言ってんの、って聞いているんだけど」
その声はとても冷たくて、それからほんの少しだけ泣きそうだった。
「何って…いや、だから」
「ふざけんな!!」
掴みかかってきそうというか、実際に掴みかかってきた。緑間は胸倉を掴まれ、ベッドに押し倒される。ベッドの上を選んだのは、背中をついた時に緑間に衝撃がいかないようにという、赤崎の無意識による優しさだった。
こんな時でさえ、本当に、この幼なじみは。
ベッドに組み敷かれ、顔の両サイドに手を置かれてしまい、緑間は本格的に身動きが取れなくなる。もっとも、彼自身は特に抵抗するつもりなどないのだが。
「ベッドに押し倒されるって、割とどぎまぎするもんだな。誰が相手でも」
「……」
冗談めいたことを言ってみたが、赤崎からの反応はなかった。
「…なんだよ、そんなおっかない顔して」
「祭が、バカなことを言うからだ」
怒っているのかと緑間は思った。それはもしかしたら怒りではなかったのかもしれない。今の赤崎は、呆れているようにも、何かに絶望しているようにも見える。
だが、緑間はどちらでもなく、やはり怒っているのではないかと思った。そしてその怒りはとても不安定で、ほんの少しの悲しみも含んでいる。少なくとも緑間には、そう見えたのだ。
こんな風に感情が荒ぶっている幼なじみを見るのは、いつぶりだろう。考えて、それから、いつぶりではなく見たことがないのだと気がついた。緑間は苦笑いをする。
(バカなこと…ね)
わかっている。自分がしようとしたこと、それがどうしようもなく愚かで馬鹿馬鹿しいことなのだと、わかっている。わかってはいた。ただ一人自分を除けば、他の誰もがそんなことを望んではいないのだと、わかってはいたのだ。
「じゃあ…どうすりゃあ、いいんだよ」
緑間は両腕で顔を覆い、今にも泣きそうな声でそう呟いた。それは独り言のようにも、また誰かに答えを求める問いかけのようにも聞こえる。
(俺は、どうすればいい)
あの時俺がどうすればよかったのかはわかっている。じゃあ、これから俺は、どうすればいい?考えて出てきた答えが、これだった。
それなのに、なんでお前はそれを否定する。俺は俺なりに覚悟を決めて、これ(・・)を選んだんだ。それを、
「そんな覚悟、僕はいらない。祭が言ったんだ、僕が成仏出来るまで付き合うって。それなのに…こんな、こんな中途半端に放り出されて、そうしたら僕は…僕はどうすればいいんだよ」
くしゃくしゃに歪んだ赤崎の顔を見て、緑間の胸がズキンと痛む。
ああ、そうだ。確かに言った。最後まで付き合ってやると、確かに。
「じゃあ…じゃあ、俺は、俺はどうすればいい?死ぬことも許されない、生きることを許せない。どっちにも転がれない俺は、一体どうすればいいんだよ…!」
「そんなの決まってるだろ!」
ぽたっと頬に何かが落ちてくる。頬に触れて、緑間は“何か”の正体を確かめた。見上げた幼なじみの顔は涙に濡れている。
(ああ、そうか)
「生きるんだよ!!」
これは、静の涙か。
「許せないなら、その許せない自分ごと背負って生きればいい。償いがどうとか、罪がどうとか、そういう綺麗事を並べるくらいなら…僕に悪かったと思っているなら!僕の分も生きて、幸せにならなくちゃダメなんだよ…!なんでそれが、わからないんだ」
赤崎が、しだれかかるように緑間の肩口に頭を乗せた。重みがある。まるで生きていた頃のように、その重みは確かなものであった。
(…泣くなよ、バカ)
でも、こいつはもう生きていない。生きているみたいに感じるだけで、生きていた頃との違いは明白だ。静はもう、生きていない。
でも、俺は生きている。じゃあどうして、俺は生きている?
「生きてほしかったから、こういう結果を迎えたことに後悔はしてない。恩着せがましいことを言いたいわけじゃないんだ…ただ、生きてほしいんだよ。僕にはもう、出来ないことだから」
その言葉があまりに悲しくて、緑間は涙が出た。今更になって、自分の無神経さに苛立ちさえ覚える。
緑間は、歯を食いしばった。
(今一番、生きたいと思ってる奴は誰なんだよ)
それは俺じゃなくて、静の方だろうが。
(馬鹿野郎…どうしようもない、大馬鹿野郎じゃねえか)
そんな奴の前で、救ってもらった命を自分から捨てようとするなんて。どうしようもない馬鹿野郎だ。
「ごめん…ごめん、静」
死ぬことが償いになるのではない。静の言うとおり、生きていくことが償いになる。どうしてそれに、気づけなかったのだろう。
(静にこんなことを言わせるまで、どうしても気づけなかったのかよ、俺は)
本当に、大馬鹿野郎だ。
生きる意味なら、あるじゃねえか。
「謝らなくていい。僕が祭と同じ立場だったら、きっと同じことを言ったと思うから」
涙を拭った赤崎が、小さく笑った。緑間のよく見知った顔だった。
赤崎がゆっくりと彼の上から退く。その目からはもう、先ほどまでの不安定な怒りも、その中に渦巻いていた悲しみも窺えない。どうやらそれは、赤崎の深い心の奥底に身を潜めたようである。
緑間も体を起こした。そして、先ほど掴まれた胸倉と、頭を乗せられていた肩口に手を当てる。
掴まれた感覚は確かにあった。肩口に感じた赤崎の少し低い体温も、くすぐったく首や頬に触れたさらさらの黒髪も、確かにここにあった。そう感じたはずだ。
緑間は幼なじみに目を向ける。「なに?」と赤崎が首を傾げた。
姿をお互い視覚できて、会話ができて、手を伸ばせばいつだってその体温を感じられる。それなのに、
(生きてないなんて、そんなのおかしいだろ)
今までなんとも思っていなかった。霊感が強かったから静が視えて、霊媒体質だから引き寄せた。姿が視えるのも会話ができるのも触れることが出来るのも、全て霊感があったからだと思っていたし、それ以外の理由なんて思いつかなかった。
だから何も変わらなかったんだ。昔も今も、生きている頃と生きていない今に、違いも違和感も感じなかった。静は俺にとって、今も確かに存在しているモノだったから。
今更になって改めて痛感させられる。確かにここに存在してはいるけれど、やはり静はもういないはずのモノなのだと。
それが悔しかった。視えて、話せて、触れて。笑って、泣いて、怒って。確かにここに存在しているというのに。
静はもう、生きていないなんて。
(…いや、違うか)
単に俺が、認めたくなかっただけだ。
「僕はもう死んでいるよ」
立ち上がってベッドから降りた赤崎が、再び窓の外に目を向けてそう言った。随分と脈絡のない切り出し方であったが、また考えていることが読まれた―いや、伝わってしまったのだろうと、緑間は思う。
“僕はもう死んでいるよ”
生きていないのと死んでいるのは同義だ。そう、静は生きていない。静は―死んでいる。
できればずっと、このままみんなと一緒がいい。赤崎はそう言った。
「でも、それじゃあやっぱりダメなんだ。それじゃあやっぱり、僕も祭も、みんながみんな、前に進めない」
だから、と幼なじみは続ける。
(ああ、そうか)
「僕を成仏させてほしいんだ」
それが、お前が俺のところに来た、本当の理由だったんだな。
「は…」
気の抜けた声が緑間の口から漏れた。随分渇いた声だった。それは次第に笑い声となった。
「は、はは。は、ははは…あーやばい、涙出そう」
突然笑い出して目元を押さえた緑間を、赤崎は特に驚いた様子もなくじっと見つめていた。その表情は心なしか、いくらかほっとしているようにも見える。そう、まるで、はぐれた子供が帰ってきた時に母親が浮かべるような表情だ。
緑間は迷子だったのだ、赤崎が死んだあの日からずっと。本人は気づいていなかったかもしれないが、彼は道に迷っていた。大事なものであった赤崎を失い、彼はずっと七月七日のあの日に置き去りにされていたのだ。
それは霊となった赤崎との再会により、一時的に脱することが出来たものの、再び逃れられない袋小路に閉じ込められ、緑間は気がつけばまた道しるべを見失った。そして今、出口のない迷路からようやく、彼は帰ってくることが出来たのである。
見失っていた“生きる意味”を思い出し、出口のなかった迷路に出口を作った。彼を出口へ導いたのは赤崎であり、また赤崎の言葉でもある。
おそらく緑間が迷路に迷い込むことは、もうないだろう。何故なら、彼は生きる理由と“目的”を得たからだ。赤崎を成仏させるという目的を。
その目的が果たされるまで、彼は立ち止まらないだろう。迷うべき迷路でさえ、壊しながら歩き続ける。緑間祭とは往来こういう人間だった。元々、悩んだり迷ったりするのは彼の性分ではない。そして彼は、頭の中でぐだぐだ考えることが大嫌いだ。
でも、もう大丈夫。緑間は迷路から無事に抜け出すことが出来たのだから。
「他力本願なところも、変わんねえな。ほんと」
未だに笑い続ける緑間に、「まあね」と赤崎が返した。
「ったく…言われなくても初めっからそのつもりだっつうの。もう間違えねえよ、お前の望むやり方で、俺が必ずお前を成仏させてやる」
にやりと笑って、緑間は拳を突き出した。しっかりと力強く握られたその拳は、彼の確固たる意思の強さを如実に物語っている。
(もう間違えない。俺は俺を許すことが出来ないけれど、お前が俺に生きろと言うなら、それが俺の生きる意味で、理由になる)
理由があれば、生きられるから。
生きるよ、お前の分も。精一杯、生きるから。
「一生の約束だ、静」
赤崎は、差し出された拳の確固たる強さに、ただ純粋に驚いていた。ああ、やっぱり強いな、と赤崎は目を僅かに細める。
(やっぱり祭しかいないんだ)
僕を成仏させることが出来るのは。
多分じゃなくて、絶対に。
赤崎も拳を作った。残念なことに緑間のような、強さを象徴する拳を作るには、まだしばらく時間がかかりそうだった。時間があとどれくらい残っているかは、わからないけれど。おそらくもう、ほとんど残ってはいないのだろうけれど。
真似る必要はないか、と赤崎は思った。
赤崎は赤崎で、緑間は緑間だ。どう頑張っても、同じものを作ることなど出来ないのだから。
(僕は、僕なりの覚悟をぶつければいい)
「死んだ奴に一生を使うなよ、バカ祭」
赤崎が皮肉と一緒に小さく笑い、こつんと緑間の拳に自分の拳をあてた。「うっせえよ」と緑間は口を尖らせる。
「だったらさっさと成仏しやがれ、アホ静」
「それができたら苦労はしてないさ」
「苦労してんのはお前じゃなくて俺だろ!この悪霊め!」
―でも君は、こんな悪霊を、一生かけてでも成仏させてくれるんだろう?
―当たり前だろ。一生の約束だからな。俺の一生は全部てめえにくれてやるよ、静。
「…いや、“一生”はいらないかな」
「奇遇だな。俺もそう思う」
二人は顔を見合わせる。お互いの考えていることが、手に取るようにわかった。
だが、これはおそらくテレパシーの力ではない。この力が無かった昔から、いつだって二人は互いに考えていることがわかっていたのだから。その感覚を、今まで忘れていただけで。
テレパシーはきっかけにすぎなかった。今ではもう、テレパシーなんて元より存在していなかったのではないかとさえ、二人は思う。
「今すぐに、っつうのはさすがに無理があるけどな。ま、もうすぐ夏休みだし、それまでは我慢しろよ」
「何言っているのさ。我慢しなきゃいけないのは祭の方でしょ。僕は成仏したくないんだから」
「はは、それもそうか」
そう、もうすぐ夏休みだ。そして夏休みが終われば、あっという間に秋が来る。
予感がした。この幼なじみはきっと、夏が終わる前にいくだろうと。そしてそれが変え難い現実になることを、この時緑間は、白昼夢でも見たかのように確かなビジョンで頭の中に思い描いた。
別れの時は、もう遠くはなくなっている。
「それでも僕は、いかなきゃならない。会って、向き合わなくちゃいけない人がいるから」
赤崎が向き合わなくてはならないこと。それは、随分昔に蓋をした、彼自身の過去にある。できることなら思い出したくもないであろう、あの七月七日に。
「本気なんだな」
「…うん」
出来ることなら緑間は反対したかった。もしかしたら赤崎も、心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。
「ったく。仕方ねえから、この俺が連れていってやるよ」
けれど、たとえ緑間が反対していたとしても、赤崎はおそらく退かないだろう。これがきっと、赤崎がこちらに留まっている理由の一つであり、そしてまた、雲の上の方に居座っているひげのはえたお偉いさんが、彼に与えた試練なのだろう。
つまるところ、ここから一歩前進するには、その試練を乗り越える必要があるというわけだ。
ならば今緑間がやるべきことは、その道を塞ぐことではなく、彼の道を作ることである。
「お前の母さんの実家に」
たとえそれが、どれほど辛く苦しいことであったとしても。
たとえそれが、どれだけの痛みを伴って彼の古傷を抉ろうとも。
傷つく赤崎を見たくないからと言って、緑間がその道を塞いでいいはずがない。
彼はいつだって、ひどく傾いた赤崎静という地軸を中心に、世界を回しているのだから。
「お前が望むなら、是が非でも必ず―俺が連れて行ってやる」
「…ありがとう。頼りにしているよ、祭」
その問いかけが、何度も頭の中で繰り返しリピートされている。これで十回目くらいだろうか。それは、赤崎にとってひどく居心地の悪いものであった。考えれば考えるほど、深い迷宮に入り込んでしまうような気がしてならない。
“お前さ、成仏なんて本当はしたくないんじゃねえの?”
もう一度問いかけられる。確かにその言葉は幼なじみのものであったが、トータルで十一回、初めの一回以外は全て赤崎自身が自ら繰り返したものだ。本当は成仏なんてしたくないのではないか、と。
果たして、川の流れに抵抗せず、流されるまま生きてきた自分に、意思や信念などというものが存在していたのだろうか。
昔から物欲がないとよく言われていた。誕生日プレゼントに何が欲しいかと聞かれた時、特に何もないと答えた自分にも、新しいおもちゃを買ってもらったんだと自慢する緑間に、それが何?程度の興味しか示さなかった自分にも、覚えがある。
それに物欲だけでなく、赤崎自身には「何かをしたい」や「何かをしたくない」等、そういった意思や欲が備わっていなかった。本当に、流されるまま今まで生きてきたんだな、と今更改めて赤崎は思う。
そして、そんな彼を流れに乗せていたのは、幼なじみである緑間と青子であった。彼らは、間違った方向にさえ身を任せようとする赤崎に手を差し出し、いつも正しい道に引き戻してくれていた。二人がいたから、赤崎は今まで不器用なりにも生きていくことができたのだ。
いつだって、手を引いてくれた彼らがいたから。
(あ、)
そっか。と、そこで赤崎は一つの事実に直面する。まず第一に、自分の中に意思がしっかりと確立していたということ。今までだってこれからだって、“一緒にいたい”と思う気持ちは、正真正銘赤崎自身の意思であり、信念でもあった。確かに赤崎には意思があり、信念があり、そしてほんの少しの自我が存在している。
だからつまり、この問いかけに対する自分の答えも、きちんと用意はされていたのだ。
本当は、成仏なんてしたくないんじゃないの?
(ああ、そうだよ。成仏なんてしたくないんだ)
これは、独りになることに対する不安なんかじゃない。どこまでも純粋な、僕の我儘だ。
***
「…ごめん、祭」
家に帰るなり、緑間は部屋にこもって自分のベッドに寝転がっていた。先刻の響との話、そして赤崎のことについて考えていたのだ。
考え始めて二十分ほど経っただろうか、ずっと窓から外を眺めていた赤崎が、ふいにそんなことを言った。何が、と緑間は素っ気無く返す。何に対して謝られたのか、いまいちピンとこなかった。
こういう突発的な脈絡のなさは、どうやら死んでも直らなかったらしい。
「さっき…あんな言い方をするつもりはなかったんだ。だから、ごめん」
「ああ…気にしてねえよ、別に。でしゃばった俺が悪かった。だから、そんな顔で謝ってくれるな」
気にしていない、というのは、決して言葉だけではなかった。実際少しも気にしていないと言えば嘘になるが、そんな深刻そうな顔で謝られるほどの問題ではない。
それにでも確かに、あの時突き立てられた刃が、浅く緑間の奥底に掠り傷を残していったことに違いはないけれど。
それについて赤崎に説明するつもりはなかったし、既に抑えの効かない怒りにも似た感情は冷めている。特に先ほどの出来事について、緑間は腹を立ててはいない。それは嘘ではなかった。
「…それだけじゃないんだ」
だが、どうやら赤崎の謝罪にはまだ別の意味が伴っているようだった。とはいえ、緑間には謝られる理由が特に何も思い当たらない。
確かにこの幼なじみは今まで、謝らなくてなくてはならないようなことを散々緑間にしてきたと言える。
たとえばそれは、昔貸した漫画の十五巻~二十三巻までを紛失したことであったり、最早日常茶飯事となっている、大事にとっておいた弁当のおかずを横取りされたことであったり、人が気持ちよく寝ているのをいいことに、油性マジックで顔に落書きをしたりと、まあ色々あったりするのだが。
「…あ、もしかしてこの間貸した三百円のことか?いいよいいよ別に。こうなっちまった以上、返せとは言わねえから」
「ああ…そういえばそんなこともあったっけ?忘れていたよ」
「お前なあ」
緑間は呆れた風に溜息をついた。
大体そうで、基本的に一度赤崎の手に渡ったものが、緑間の元に返ってくることはまずない。何度注意しても直らないので、緑間自身もそのことについてはもう諦めていた。だから、一度貸したらもう戻ってこない可能性も十分あるとわかった上で、今までこうしてやってきたのだ。
それでも、赤崎が戻ってこない可能性は、今まで一度も考えたことがなかったけれど。
「…ま、いっか。それでなんだよ、それだけじゃないって」
神妙に、深刻そうな表情を浮かべる赤崎とは対照的な、からかうような笑みを浮かべて緑間は言った。つとめて明るく、これからどんな言葉が幼なじみの口から飛び出してきても、動揺しないように。
どれだけ逃げ回っていても、いつかは向き合わなくてはならないことだ。緑間自身、そんなことは嫌というほどわかっている。
こんな能力、ない方がよかったのかもしれない。相手の考えていることがわかるなんて、実際問題苦しいだけだ。
「僕は、」
だが、その苦しさと引き換えに、覚悟と時間の猶予が与えられる。そう、たとえば今のように。
「ん?」
戸惑う必要はない。迷う必要も。自分はもう、十分すぎるほどに覚悟するだけの時間をもらったのだ。
(だから今度は、俺の覚悟が鈍らない内に)
緑間は寝転がっていた体をゆっくりと起こし、赤崎と向き直る。その先を急かすようなことはしなかった。窓から差し込む日の光が、きらきらと赤崎の綺麗な黒い瞳に反射して、とても綺麗だと緑間は思った。
一瞬だけ、時間が止まる。それは一秒よりも短く、そして永遠に近かった。
ゆっくりと時間が動き始める。動き出した時間の中で、赤崎は絞り出すようにか細い声で言った。
「本当は…成仏なんて、したくない」
「…そっか」
緑間は、くしゃっと赤崎の頭を撫でた。見る者によっては、緑間の浮かべる笑みが切なく、悲しいものであったことに気づいただろう。そして、長い付き合いである赤崎が、彼のその不自然な笑みに気がつかないはずがない。
しばらく経って、ぴたりと緑間は手を止める。
「…なあ、静。あの時俺が言ったこと、覚えてるか?」
「あの時…?」
赤崎が首を傾げる。わからないのも無理はない。“あの時”が該当する記憶が、彼らには多すぎた。緑間の言う“あの時”は、数多くあった“あの時”の中の一つにすぎないのだから。
そもそも赤崎は忘れているかもしれない。あの時緑間が言った言葉など。
だからもう一度繰り返す。
「俺も一緒にいってやる」
はっと、まるで我に返ったかのように赤崎は目を見開いた。
そう、これが、あの時彼が言ったこと。
「あの時言ったろ?俺の命くらい、お前にやるって。あの言葉に嘘はねえよ。俺の命くらい…安いもんだ」
(なあ、静)
ずっと、償いたいと思っていたんだ。たとえそれが、俺が自分で作り上げた幻の罪であったとしても。俺にはそれすら、初めから口実だったんだよ。
この命でお前が楽にいけるなら本望だ。一緒にいってやるよ。俺も一緒に〈あっち〉へいけば、お前にはもうこっちに縛られる理由がなくなるもんな。それに、俺にも静がいない世界から逃げ出す口実が出来て、一石二鳥だ。
「違…う、」
「違わねえよ。まだ気づいてないのか?お前、その為に俺のところに来たんだぜ?」
緑間の乾いた笑い声が、しんと静まり返った部屋に響いた。赤崎は口を閉ざし、小刻みに体を震わせている。何かに怯えているようにも見えた。
別段責めているわけでも、まして咎めているわけでもない。元々緑間は、初めて霊となった赤崎が家に訪れた時、薄々感づいてはいたのだ。
―自分を〈あっち〉に連れて行く為に、この幼なじみが舞い戻ってきたのだと。
それに関して赤崎を咎めるつもりは、緑間には更々なかった。この罪の幕引きが他の誰でもない赤崎の手で降ろされるなら、これ以上のものはないと、そう思う。
「ちょっと低いけど、頭から落ちれば普通に死ねると思うんだよな。一応二階だし。まあ、多分いけるだろ、これなら」
「何、言って」
「死ぬのってやっぱ怖いな。出来れば楽に逝きたいところだが…はは、それじゃあ意味ないか」
「ちょっと…祭ってば」
「死んだら天国と地獄、どっちに行くんだろうな。出来れば天国で頼むぜ、天の神様。あーあ、こんなことなら、響にあんなきつい言い方するんじゃ」
なかった、と緑間は続けようとした。だがそれは、ダンっという鈍い音によって遮られる。凄まじい力に、家全体が揺れたようにさえ緑間は感じた。
やったのは緑間ではなく、肉体を持たない、本来ならばそんなことが出来るはずのない赤崎だ。彼がこちらで唯一触れられるものは緑間だけ…のはずなのだが、確かに赤崎の拳はこの部屋の壁を殴っていた。それは見間違いようもなく、そしてまた、一体どういうことだと考える時間も、緑間にはなかった。
何故なら、今まで見たこともないような形相で、赤崎が鋭くこちらを睨んでいたからだ。本当に、今にも掴みかかってきそうな勢いで。
「何…言ってんの、って聞いているんだけど」
その声はとても冷たくて、それからほんの少しだけ泣きそうだった。
「何って…いや、だから」
「ふざけんな!!」
掴みかかってきそうというか、実際に掴みかかってきた。緑間は胸倉を掴まれ、ベッドに押し倒される。ベッドの上を選んだのは、背中をついた時に緑間に衝撃がいかないようにという、赤崎の無意識による優しさだった。
こんな時でさえ、本当に、この幼なじみは。
ベッドに組み敷かれ、顔の両サイドに手を置かれてしまい、緑間は本格的に身動きが取れなくなる。もっとも、彼自身は特に抵抗するつもりなどないのだが。
「ベッドに押し倒されるって、割とどぎまぎするもんだな。誰が相手でも」
「……」
冗談めいたことを言ってみたが、赤崎からの反応はなかった。
「…なんだよ、そんなおっかない顔して」
「祭が、バカなことを言うからだ」
怒っているのかと緑間は思った。それはもしかしたら怒りではなかったのかもしれない。今の赤崎は、呆れているようにも、何かに絶望しているようにも見える。
だが、緑間はどちらでもなく、やはり怒っているのではないかと思った。そしてその怒りはとても不安定で、ほんの少しの悲しみも含んでいる。少なくとも緑間には、そう見えたのだ。
こんな風に感情が荒ぶっている幼なじみを見るのは、いつぶりだろう。考えて、それから、いつぶりではなく見たことがないのだと気がついた。緑間は苦笑いをする。
(バカなこと…ね)
わかっている。自分がしようとしたこと、それがどうしようもなく愚かで馬鹿馬鹿しいことなのだと、わかっている。わかってはいた。ただ一人自分を除けば、他の誰もがそんなことを望んではいないのだと、わかってはいたのだ。
「じゃあ…どうすりゃあ、いいんだよ」
緑間は両腕で顔を覆い、今にも泣きそうな声でそう呟いた。それは独り言のようにも、また誰かに答えを求める問いかけのようにも聞こえる。
(俺は、どうすればいい)
あの時俺がどうすればよかったのかはわかっている。じゃあ、これから俺は、どうすればいい?考えて出てきた答えが、これだった。
それなのに、なんでお前はそれを否定する。俺は俺なりに覚悟を決めて、これ(・・)を選んだんだ。それを、
「そんな覚悟、僕はいらない。祭が言ったんだ、僕が成仏出来るまで付き合うって。それなのに…こんな、こんな中途半端に放り出されて、そうしたら僕は…僕はどうすればいいんだよ」
くしゃくしゃに歪んだ赤崎の顔を見て、緑間の胸がズキンと痛む。
ああ、そうだ。確かに言った。最後まで付き合ってやると、確かに。
「じゃあ…じゃあ、俺は、俺はどうすればいい?死ぬことも許されない、生きることを許せない。どっちにも転がれない俺は、一体どうすればいいんだよ…!」
「そんなの決まってるだろ!」
ぽたっと頬に何かが落ちてくる。頬に触れて、緑間は“何か”の正体を確かめた。見上げた幼なじみの顔は涙に濡れている。
(ああ、そうか)
「生きるんだよ!!」
これは、静の涙か。
「許せないなら、その許せない自分ごと背負って生きればいい。償いがどうとか、罪がどうとか、そういう綺麗事を並べるくらいなら…僕に悪かったと思っているなら!僕の分も生きて、幸せにならなくちゃダメなんだよ…!なんでそれが、わからないんだ」
赤崎が、しだれかかるように緑間の肩口に頭を乗せた。重みがある。まるで生きていた頃のように、その重みは確かなものであった。
(…泣くなよ、バカ)
でも、こいつはもう生きていない。生きているみたいに感じるだけで、生きていた頃との違いは明白だ。静はもう、生きていない。
でも、俺は生きている。じゃあどうして、俺は生きている?
「生きてほしかったから、こういう結果を迎えたことに後悔はしてない。恩着せがましいことを言いたいわけじゃないんだ…ただ、生きてほしいんだよ。僕にはもう、出来ないことだから」
その言葉があまりに悲しくて、緑間は涙が出た。今更になって、自分の無神経さに苛立ちさえ覚える。
緑間は、歯を食いしばった。
(今一番、生きたいと思ってる奴は誰なんだよ)
それは俺じゃなくて、静の方だろうが。
(馬鹿野郎…どうしようもない、大馬鹿野郎じゃねえか)
そんな奴の前で、救ってもらった命を自分から捨てようとするなんて。どうしようもない馬鹿野郎だ。
「ごめん…ごめん、静」
死ぬことが償いになるのではない。静の言うとおり、生きていくことが償いになる。どうしてそれに、気づけなかったのだろう。
(静にこんなことを言わせるまで、どうしても気づけなかったのかよ、俺は)
本当に、大馬鹿野郎だ。
生きる意味なら、あるじゃねえか。
「謝らなくていい。僕が祭と同じ立場だったら、きっと同じことを言ったと思うから」
涙を拭った赤崎が、小さく笑った。緑間のよく見知った顔だった。
赤崎がゆっくりと彼の上から退く。その目からはもう、先ほどまでの不安定な怒りも、その中に渦巻いていた悲しみも窺えない。どうやらそれは、赤崎の深い心の奥底に身を潜めたようである。
緑間も体を起こした。そして、先ほど掴まれた胸倉と、頭を乗せられていた肩口に手を当てる。
掴まれた感覚は確かにあった。肩口に感じた赤崎の少し低い体温も、くすぐったく首や頬に触れたさらさらの黒髪も、確かにここにあった。そう感じたはずだ。
緑間は幼なじみに目を向ける。「なに?」と赤崎が首を傾げた。
姿をお互い視覚できて、会話ができて、手を伸ばせばいつだってその体温を感じられる。それなのに、
(生きてないなんて、そんなのおかしいだろ)
今までなんとも思っていなかった。霊感が強かったから静が視えて、霊媒体質だから引き寄せた。姿が視えるのも会話ができるのも触れることが出来るのも、全て霊感があったからだと思っていたし、それ以外の理由なんて思いつかなかった。
だから何も変わらなかったんだ。昔も今も、生きている頃と生きていない今に、違いも違和感も感じなかった。静は俺にとって、今も確かに存在しているモノだったから。
今更になって改めて痛感させられる。確かにここに存在してはいるけれど、やはり静はもういないはずのモノなのだと。
それが悔しかった。視えて、話せて、触れて。笑って、泣いて、怒って。確かにここに存在しているというのに。
静はもう、生きていないなんて。
(…いや、違うか)
単に俺が、認めたくなかっただけだ。
「僕はもう死んでいるよ」
立ち上がってベッドから降りた赤崎が、再び窓の外に目を向けてそう言った。随分と脈絡のない切り出し方であったが、また考えていることが読まれた―いや、伝わってしまったのだろうと、緑間は思う。
“僕はもう死んでいるよ”
生きていないのと死んでいるのは同義だ。そう、静は生きていない。静は―死んでいる。
できればずっと、このままみんなと一緒がいい。赤崎はそう言った。
「でも、それじゃあやっぱりダメなんだ。それじゃあやっぱり、僕も祭も、みんながみんな、前に進めない」
だから、と幼なじみは続ける。
(ああ、そうか)
「僕を成仏させてほしいんだ」
それが、お前が俺のところに来た、本当の理由だったんだな。
「は…」
気の抜けた声が緑間の口から漏れた。随分渇いた声だった。それは次第に笑い声となった。
「は、はは。は、ははは…あーやばい、涙出そう」
突然笑い出して目元を押さえた緑間を、赤崎は特に驚いた様子もなくじっと見つめていた。その表情は心なしか、いくらかほっとしているようにも見える。そう、まるで、はぐれた子供が帰ってきた時に母親が浮かべるような表情だ。
緑間は迷子だったのだ、赤崎が死んだあの日からずっと。本人は気づいていなかったかもしれないが、彼は道に迷っていた。大事なものであった赤崎を失い、彼はずっと七月七日のあの日に置き去りにされていたのだ。
それは霊となった赤崎との再会により、一時的に脱することが出来たものの、再び逃れられない袋小路に閉じ込められ、緑間は気がつけばまた道しるべを見失った。そして今、出口のない迷路からようやく、彼は帰ってくることが出来たのである。
見失っていた“生きる意味”を思い出し、出口のなかった迷路に出口を作った。彼を出口へ導いたのは赤崎であり、また赤崎の言葉でもある。
おそらく緑間が迷路に迷い込むことは、もうないだろう。何故なら、彼は生きる理由と“目的”を得たからだ。赤崎を成仏させるという目的を。
その目的が果たされるまで、彼は立ち止まらないだろう。迷うべき迷路でさえ、壊しながら歩き続ける。緑間祭とは往来こういう人間だった。元々、悩んだり迷ったりするのは彼の性分ではない。そして彼は、頭の中でぐだぐだ考えることが大嫌いだ。
でも、もう大丈夫。緑間は迷路から無事に抜け出すことが出来たのだから。
「他力本願なところも、変わんねえな。ほんと」
未だに笑い続ける緑間に、「まあね」と赤崎が返した。
「ったく…言われなくても初めっからそのつもりだっつうの。もう間違えねえよ、お前の望むやり方で、俺が必ずお前を成仏させてやる」
にやりと笑って、緑間は拳を突き出した。しっかりと力強く握られたその拳は、彼の確固たる意思の強さを如実に物語っている。
(もう間違えない。俺は俺を許すことが出来ないけれど、お前が俺に生きろと言うなら、それが俺の生きる意味で、理由になる)
理由があれば、生きられるから。
生きるよ、お前の分も。精一杯、生きるから。
「一生の約束だ、静」
赤崎は、差し出された拳の確固たる強さに、ただ純粋に驚いていた。ああ、やっぱり強いな、と赤崎は目を僅かに細める。
(やっぱり祭しかいないんだ)
僕を成仏させることが出来るのは。
多分じゃなくて、絶対に。
赤崎も拳を作った。残念なことに緑間のような、強さを象徴する拳を作るには、まだしばらく時間がかかりそうだった。時間があとどれくらい残っているかは、わからないけれど。おそらくもう、ほとんど残ってはいないのだろうけれど。
真似る必要はないか、と赤崎は思った。
赤崎は赤崎で、緑間は緑間だ。どう頑張っても、同じものを作ることなど出来ないのだから。
(僕は、僕なりの覚悟をぶつければいい)
「死んだ奴に一生を使うなよ、バカ祭」
赤崎が皮肉と一緒に小さく笑い、こつんと緑間の拳に自分の拳をあてた。「うっせえよ」と緑間は口を尖らせる。
「だったらさっさと成仏しやがれ、アホ静」
「それができたら苦労はしてないさ」
「苦労してんのはお前じゃなくて俺だろ!この悪霊め!」
―でも君は、こんな悪霊を、一生かけてでも成仏させてくれるんだろう?
―当たり前だろ。一生の約束だからな。俺の一生は全部てめえにくれてやるよ、静。
「…いや、“一生”はいらないかな」
「奇遇だな。俺もそう思う」
二人は顔を見合わせる。お互いの考えていることが、手に取るようにわかった。
だが、これはおそらくテレパシーの力ではない。この力が無かった昔から、いつだって二人は互いに考えていることがわかっていたのだから。その感覚を、今まで忘れていただけで。
テレパシーはきっかけにすぎなかった。今ではもう、テレパシーなんて元より存在していなかったのではないかとさえ、二人は思う。
「今すぐに、っつうのはさすがに無理があるけどな。ま、もうすぐ夏休みだし、それまでは我慢しろよ」
「何言っているのさ。我慢しなきゃいけないのは祭の方でしょ。僕は成仏したくないんだから」
「はは、それもそうか」
そう、もうすぐ夏休みだ。そして夏休みが終われば、あっという間に秋が来る。
予感がした。この幼なじみはきっと、夏が終わる前にいくだろうと。そしてそれが変え難い現実になることを、この時緑間は、白昼夢でも見たかのように確かなビジョンで頭の中に思い描いた。
別れの時は、もう遠くはなくなっている。
「それでも僕は、いかなきゃならない。会って、向き合わなくちゃいけない人がいるから」
赤崎が向き合わなくてはならないこと。それは、随分昔に蓋をした、彼自身の過去にある。できることなら思い出したくもないであろう、あの七月七日に。
「本気なんだな」
「…うん」
出来ることなら緑間は反対したかった。もしかしたら赤崎も、心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。
「ったく。仕方ねえから、この俺が連れていってやるよ」
けれど、たとえ緑間が反対していたとしても、赤崎はおそらく退かないだろう。これがきっと、赤崎がこちらに留まっている理由の一つであり、そしてまた、雲の上の方に居座っているひげのはえたお偉いさんが、彼に与えた試練なのだろう。
つまるところ、ここから一歩前進するには、その試練を乗り越える必要があるというわけだ。
ならば今緑間がやるべきことは、その道を塞ぐことではなく、彼の道を作ることである。
「お前の母さんの実家に」
たとえそれが、どれほど辛く苦しいことであったとしても。
たとえそれが、どれだけの痛みを伴って彼の古傷を抉ろうとも。
傷つく赤崎を見たくないからと言って、緑間がその道を塞いでいいはずがない。
彼はいつだって、ひどく傾いた赤崎静という地軸を中心に、世界を回しているのだから。
「お前が望むなら、是が非でも必ず―俺が連れて行ってやる」
「…ありがとう。頼りにしているよ、祭」
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