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一の章
しおりを挟む玄関の扉を開けると、陽光とともに冷気がキンッと頬を刺す。
昨日から降り続いていた雪が、一夜にして辺りを真白に包んでいた。
ほぅ…っと洩れた橋本の息も白い。
「行ってらっしゃいませ」
玄関口で、いつものように妻・小夜子の見送りを受ける。
ひとり息子の陽仁は門扉のところまでついてきた。
積雪の上を、楽しそうにサクサクと足音を鳴らして。
「パパァ!行ってらっしゃ~い!」
大きく手を振る息子に、父親は軽く右手を上げた。
鞄を持つ手は冷たいのに、上げた右手は温かだった。
玄関から門扉まで距離とも呼べない僅かな道を、陽仁の小さな手が父親の手をぎゅっと握り締めていた。
小さな手の大きな温もり。
温もりを逃がすまいと、橋本はコートのポケットに右手を入れた。
今日は12月25日土曜日。
本来なら土曜日は休みなのだが、レストランチェーンを母体とする企業がクリスマスに休めるわけがない。
年に一度の大イベントは、正月よりクリスマスなのだ。
レストラン勤務方はもちろん、営業、事務方、全社員がクリスマス臨戦態勢で望む。
クリスマスは仕事、橋本家のパパはそんな会社に勤めている。
パパ、外食系レストラン勤務。
ママ、来年第二子出産予定。
息子、6歳。来年小学校入学予定。
夫の見送りが済むと、小夜子も出掛ける用意を始めた。
クリスマスは毎年橋本の実家へ行く。
仕事柄、父親と一緒にクリスマスを過ごせない陽仁が寂しくないように。
舅と姑。年の離れた夫の妹。
陽仁はまだ二十一歳と若いその叔母を当然のようにお姉ちゃんと呼び、若い叔母は陽仁を弟のように可愛がっていた。
また今年も夫の顰めっ面を見るのだろうか。
去年のクリスマスの思い出に、小夜子の頬が自然と弛む。
仕事を終えて迎えに来る橋本は、自分の実家なのに顰めっ面が取れない。
プレゼントの山に埋もれて眠る陽仁を抱きかかえながら、甘すぎると妻に愚痴を零すのだ。
小夜子はくすくすと笑いを堪えながら、夫の愚痴を黙って聞き流す。
「何言ってるのよぉ、お兄ちゃんが一番甘いんじゃない。ハルが手に握っているミニチュアカー、あれいくらしたの?どうみても、玩具っていう値段じゃないわよね」
思うことは、きっちり義妹が言ってくれる。
車が大好きな陽仁は、最近ではより本物に近い物を欲しがるようになった。
眠っても離さないミニチュアカーは、よほど気に入ったのだろう。
「そりゃ、パパの車だもんねぇ。ほーんと、お兄ちゃんて親バカよねぇ、お義姉さん」
実の妹だけに、遠慮がない。
「うるさい!小夜子、帰るぞ!」
橋本の顰めっ面が、さらに深く歪む。
義妹は小夜子の方を見て、ペロリと舌を出した。
引き際も心得ているようだ。
さらりと話題を変えて、そのまま小夜子に拝む仕草で手を合わせた。
「それじゃ、お義姉さん。成人式は宜しくお願いします!」
「小夜子さん、私からもお願いします。素人の着付けでは、なかなかトータルには出来なくて」
「お義母様、私ももう素人ですわ」
「お義姉さんが素人なら、その辺の美容師はみんな素人よ!
お母さんの髪だって、すっごい綺麗にカットしてるじゃない。ねっ、お母さん」
「お母さん、この小夜子さんからのクリスマスプレゼントが、一番嬉しいの」
そう言って母は娘に、セミロングの髪を手で自慢げにサラサラとすべらした。
「小夜子!!」
いつまでも話し込む妻に、夫は苛立つばかりだ。
「何だね、あいつは大きな声で・・・。陽坊が目を覚ますじゃないか」
ああ・・・夫の顰めっ面は義父のDNAを受け継いでいるのだったと小夜子はそんなことを思い返しながら、シザーズセットを収納棚から取り出した。
橋本家では、夫と息子の散髪は小夜子がする。
小夜子は美容師の資格を持っていた。
橋本と知り合った頃は既に一線級のヘアスタイリストだった。
国内の美容コンクールで研鑽を積み、次は海外を目指すというところで橋本との結婚により美容界から身を引いた。
義妹に「お義姉さん、宜しくお願いします!」と手を合わされたのは、成人式で着る振袖のトータルコーディネート(ヘアメイク&着付け)を頼まれたのだった。
実践の現場からは離れていても、鍛えていた技術は手が覚えている。
義妹の艶やかな振袖姿は、成人式で友人達の驚嘆と羨望を独り占めにした。
義母には、毎年クリスマスに一年間の感謝を込めて。
流れるようなカットラインと丁寧なカラーリング。
小夜子の手が髪に潤いと光沢を与える。
一流の技術は、素人目には魔法のようだ。
「幾つになっても綺麗な髪で新年を迎えられるのは、女性としてとても幸せなことね。ありがとう、小夜子さん」
と、義母は何よりも喜んだ。
小夜子の手に馴染んだシザーズ・・・家族の為だけに残しておいた、唯一の理髪道具。
努力の分だけ、裏切ることなく身を守ってくれた美容師の仕事。
しかし未練はなかった。
それは感謝すべきことではあったが、そこに自分の求めるものはなかった。
「ママー、雪だるま出来たー!」
玄関先から、陽仁の声がした。
父親を見送って、そのまま庭で雪遊びに夢中のようだった。
小夜子はニットのハーフコートを羽織って、玄関を出た。
安定期に入ったとはいえ、陽仁との間に一度流産している。
少しの間でも、冷えは禁物だ。
「わぁ、ハル君。たくさん作ったのね」
コロコロと大きいのや小さいのやらが、花壇に置かれていた。
お団子のような雪だるまだが、殺風景な冬の花壇には可愛いオブジェのようだ。
「こっちの大きいのがパパ!こっちがママ!ぼくはパパの前にいるこの子なの。
それからねぇ・・・ぼくのとなりにいてママの前にいる、この子はだぁれ~だ!?」
陽仁の説明混じりのクイズは、その配置からすっかり答えを教えているようなものだった。
小夜子は少し考える振りをして、答えた。
「赤ちゃん」
「大せいか~い!」
陽仁は赤ちゃんを家族と認識していた。
小夜子のお腹が目立って膨らんできたからだろうか、或いは赤ちゃんの物が増えてきたからだろうか。
以前は赤ちゃんが母親のお腹にいるということが実感として捉えることが出来ず、ヤキモチを妬いていたときのことを思うとずいぶん成長している。
「じゃあ、次はママね。ハル君は赤ちゃんのな~んだ?」
「えへへっ、お兄ちゃん・・・」
照れくさそうに身を捩りながらも満面の笑みで、リンゴのような頬が落ちそうだ。
「大せいか~い。じゃあ、お兄ちゃんなら次から守れるかな。雪遊びするときは手袋をしてね。しもやけになっちゃうでしょう」
新米お兄ちゃんは、嬉しそうに頷いた。
陽仁の雪に濡れた手は驚くほど冷たかったが、小夜子が少し擦ってやると子供特有の高い体温のせいか、すぐ温かさを取り戻した。
「さあ、お洋服着替えましょう。おじいちゃまたち待っていらっしゃるわ」
ちょうど玄関の上がり口のところで、電話が鳴った。
「ぼく、出るー!」
身重の小夜子より数倍身軽な陽仁が、走って電話に出た。
「もしもしー・・・おばあちゃん!?・・・うん、お洋服お着がえしてから!
ママ?いるよー。おばあちゃん?あのね、あのね、おばあちゃんのお家も雪ある?」
どうやら義母からのようだった。
小夜子は陽仁が脱ぎ散らかした靴を片付けて、玄関口を上がった。
「じゃあね、ぼく雪だるまつくってあげる!待っててね!・・・はぁいっ!ママー、おばあちゃんお話があるってー!」
「おはようございます、お義母様。はい、これからお伺いいたします。・・・えっ、お義父様がお迎えに?
あっ、ちょっとすみません。ハル君、お着替えはひとりで出来るわね」
「できる~!お着がえ、お着がえ」
お兄ちゃんは何だってひとりで出来るのだ。
陽仁は二階の自分部屋へ駆け上がって行った。
「ええ、こちらも積もっていますが・・・そんな、大丈夫です。むしろ嬉しいくらいですわ。クリスマスに雪が降るなんて、そうありませんもの」
どうやらこの雪で身重の小夜子の身体を心配した義父が、家まで迎えに来るというのだ。
「それにお義母様ご存知でした?最近では、子供の喜ぶキャラクターデザインの電車が走っているんですよ。陽仁も電車に乗るのを、楽しみにしているんです」
〔 あら、それじゃお父さん勝てないわね。わかりました。急がなくて良いから、雪に滑らないようくれぐれも気をつけてね 〕
そう言って、義母は電話を切った。
「お義母様・・・」
胸の奥から込み上げてくる熱い思い。
義理の母でありながら、小夜子は慕うように呟いた。
リビングに戻ると、中断していた支度を始めた。
支度と言ってもプレゼントや荷物になる物は先に実家へ送っているので、残りはカバンひとつで十分だ。
さっき収納棚から出しておいたシザーズセットを、そっと手に取って丁寧にカバンに収めた。
小夜子の、一滴の涙と共に。
愛を謳えばー 小夜子。
小夜子に両親はいなかった。
物心の付いた時には、既に施設にいた。
小学校に入学するまで、そこが施設だということさえわからなかった。
中学生になって自分が施設で暮らさなければならなくなった経緯を、職員から少しだけ話を聞くことが出来た。
それはほんとうに少しで、職員がどれだけ事実をかき集め探しても何も出てこなかった。
職員は仕方なく、小夜子に戸籍を見せた。
本籍地は乳児院だった。小夜子の名前だけが記載されていた。
出生届もされておらず、両親の身元も不明。小夜子の為に作られた戸籍なのだ。
少ない話の中から、名字は乳児院の院長先生からもらい、名前は副院長先生がつけたと聞かされた。
名前すらなかったのか・・・。
当時中学一年生だった小夜子は、端的にそう思っただけだった。
学校に行き始め友達が出来て行動範囲が広がると、ことあるごとにいまのような出来事にぶつかるのだ。
いつしか寂しいとか悲しいとか、そういった感情には振り回されないようになっていた。
慣れなのか訓練なのか・・・その時はわからなかったが、後になってそれは訓練によるものだと小夜子は思った。
寂しさや悲しさに、慣れるということはないのだ。
中学の進路相談では、小夜子は美容師を希望した。
勉強もよく出来たので学校や施設からは高校進学を勧められたが、仮に進学したとしても身を立てるには学業は時間が掛かりすぎる。
美容師はひとりで生きて行く為に、小夜子自身が選んだ職業だった。
施設の中の規制された生活。感情を押し殺しながら笑顔で過ごした学校生活。
どれも贅沢なことさえ思わなければ、施設の職員の人たちは優しかったし学校でも友達は理解してくれていた。
その環境から、酷く苛められるということもなかった。
それでも、孤独が小夜子を駆り立てた。
中学を卒業すると、大手チェーン店の美容院に就職した。
住み込みで働きながら、美容師の資格が取れる。
それからの小夜子は無我夢中で働いた。
下働きのときは器具の手入れと床掃除、シャンプーとマッサージが延々と続いた。
仕事が終ってからウイッグを使ってのカット練習も、小夜子の順番までほとんど回ることはなかった。
しかしそれよりも辟易としたのが、職場の人間関係だった。
小夜子の職場は、言わば自分の腕一本でのし上がってきた者たちばかりなのだ。
神技のような技術で常に流行の先端を追う華やかな世界の反面、激しい競争心、嫉妬やいじめが渦巻く世界でもある。
先輩の女子はヒステリックに当り散らし、先輩の男子は下心丸出しで言い寄ってくる。
特に先輩の男子は、ものに出来ないとわかると途端に陰険になった。
こうなると男の方がよほど陰湿で性質が悪く、堪えきれず辞めていく同僚も多かった。
小夜子は辞めても帰るべき処がなかったので、そこで働くしかなかった。
そんな中でも、仕事はこなした分だけ忠実に結果が返ってきた。
美容師の資格も得て一人前に顧客のカットを任されるようになると、小夜子はめきめきと頭角を現した。
今までに何千人・・・いや何万人の頭髪を洗ってきただろう。
マッサージは頭頂部から、肩、肩甲骨、それこそ腕の先まで。
美容師と整体師と、どちらが本業かわからないくらいマッサージについても勉強した。
小夜子のシャンプーとマッサージに、それだけで満足だと言う客もいるほどだった。
さらに接客業の基本ともいうべき人当たりの柔らかさも、人気の後押しをした。
やがて小夜子は本店へ引き抜かれる形での異動となった。
給料も大幅にアップし、寮を出てマンションを借りた。
衣、食、住の〝住〟は、生まれて初めて自分の安息の場となった。
やっと息をついたそこには、化粧台の三面鏡に映る二十三歳の自分がいた。
十五歳で美容師の道を選んだ日から八年、ティーンエイジの時代はただ働くだけで過ぎてしまった。
恋愛に興味がなかったわけではない、そんな余裕がなかったのだ。
だが二十三歳のいま、小夜子は三面鏡の前で髪を梳かしながら、ようやく女としての自分を緩々と感じ始めていた。
ある日小夜子は、オーナー(経営者)の呼び出しを受ける。
いくら本店勤務とはいえ、一介の美容師が声を掛けられることは珍しい。
ましてや呼び出しとなると、小夜子自身何を言われるのか想像がつかなかった。
オーナーの付き人に案内されて、部屋に入った。
執務室は広さだけはあるが、華美な装飾は一切なかった。
大きなデスクと簡素な応接セットがあるだけだった。
付き人は部屋の中には入らず、外から頭を下げて扉を閉めた。
オーナーはデスクの縁に、背をあずけるように立っていた。
「待っていたよ。さあ、掛けたまえ」
数十店舗のチェーン店を束ねる実力者は、精悍な眼を細めて小夜子を手招いた。
オーナーが小夜子の存在を知ったのは、各店舗の店長から上がってくる勤務評価の報告書からだった。
A評価は特別珍しいことではなかったが、プロフィール欄が興味を引いた。
さっそく詳しい経歴を調べ、小夜子の勤めるチェーン店へ視察に出向いた。
全体を見る振りをして、小夜子だけを注視した。
それが目的なのだ、余分なことは目に入れない。
店長には暫く全員の勤務評価を毎月細かく報告するよう義務付けた。
結果、一年後小夜子は本店勤務となる。
「私は、これから君に投資する。投資とは特別扱いをすることではないよ、勘違いしないように。君に与えられるチャンスだ。
ものに出来るかは君次第だけど、私は心配していない。君は出来る子だ」
それからの小夜子は、ますます美容師としてのステージを上げていく。
権威ある美容コンクールや有名デザイナーのファッションショーのヘアメイクなど、与えられたチャンスを確実にこなして行った。
「小夜子、君は見かけとは違って実にストイックで強い。君のその部分は非常に価値があるし、そそられるね」
その口説き文句に喜ぶべきなのか抗議すべきなのか、小夜子は静かに目を伏せてオーナーの胸に顔を埋めた。
二人が男女の仲になるのは、自然なことだった。
情熱と信頼と尊敬と。
そして公私混同をしない、仕事への厳しさと。
小夜子はそんな関係に満足だった。
ただひとつ、オーナーが既婚者ということを除けば。
承知して受け入れた愛は、小夜子から感情のコントロールを取り去った。
抱かれる温もりも、愛の言葉も、痛いほど小夜子の身体と心を揺さぶった。
愛されることを知って、愛することを知った。
もう独りに戻れない。
だが・・・。
流れる月日と重なる年齢は、否応なく小夜子の心を波たたせた。
「ん?どうした?不安そうな顔だ・・・」
「・・・私も、もう二十五です。少し今後のことを考えさせて下さい」
「今後のこと?・・・結婚に欲が出来てきたか」
「私には、結婚は欲なのですか」
「君にとって、結婚は弊害でしかない。君は仕事と両立出来るタイプじゃないからね」
見抜かれている。
いつでも今の仕事を捨てることに、何の躊躇いも持っていないことを。
わかっていたことではあった。
愛されているのは美容師としての自分なのだ。
オーナーにとって、それ以外は何もいらない。
「別れて下さい」
後悔はなかった。
「・・・いいだろう。但し他店への移籍は認めないよ。君には投資しているんだ、まだまだウチで頑張ってもらわないとね」
小夜子の申し出に、オーナーは愛とビジネスを割り切る言葉であっさり同意した。
オーナーとの付き合いを解消した小夜子は、そのまま本店勤務を続けた。
競合となる他店への移籍は有り得なかった。いまの職場には育ててもらった恩がある。
優秀な若手スタッフに、自分の技術を引き継いでもらうまで。
「小夜子さん、次の予約は午後二時からカット、パーマ、カラーリングのお客様です」
「そう、まだ少し時間があるわね。お待ちのお客様に、お茶をお出しして来ます。カップは温めてある?」
「そんなこと、我々がします!小夜子さんは、休んでいてください!」
まだ見習いのスタッフが、恐縮するように飛んで来た。
小夜子は本店でも、もう指名客しか扱わない地位にいた。
「予約までまだ間があるから、大丈夫よ。
私に気を使う暇があるなら、あなたたちは一人でも多くのお客様の髪を触らせていただきなさい。シャンプーでも、カットでもね」
はいっ!と、真剣な表情で返事をする彼ら彼女たちに、昔の自分の姿が重なる。
言われるままに駆け回っていた頃、床に散った髪を掃き取り、器具を手入れし、指先の指紋が薬品で磨耗してもシャンプーをし続けた。
辛かったはずの毎日が、いまでは懐かしく思えるから不思議だ。
小夜子は昔を思い起こしながらお茶を載せたトレーを持って、順番待ちやカラーリング待ちの客の間を回った。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな方をお取り下さい」
「・・・俺?」
「ええ。コーヒーか紅茶ですが・・・冷たいお飲み物の方が宜しいですか?」
「いや、俺は客じゃないから。待ってるだけなんで・・・」
順番を待つコーナーのところで雑誌を読んでいた青年は、ぶっきらぼうに答えた。
見掛けは温和そうなのに、喋ると意外に無愛想だった。
長めの前髪を無造作に横に流して染めてもいないオーソドックスな髪型の青年は、どう見ても小夜子より若い。
「お待たせして申し訳ありません。どちらのお嬢様の彼氏さんかしら?」
客商売とはいえ何も四角四面に謙ることはない。
そこは臨機応変に、若者には少し砕けた友達感覚で接するのもまた人気店の要素のひとつなのだ。
「うおっ!小夜子さんだ!橋本!お前その人が小夜子さんだぞ!」
「きゃっ!お客様!急に頭を動かすと、滴が・・・!」
シャンプー台から若者の大きな声と、スタッフの小さな叫び声がした。
「あちらのお友達の方ですか」
橋本と呼ばれた青年は、すっと目を逸らした。
正確には、小夜子を正視出来ない様子だった。
「俺たち、これから合コンなんだよね。その前に、髪整えておこうと思ってさ。そいつは男が美容院なんて・・・みたいな、変に勘違いした先入観持ってんだよね」
シャンプーを終えて鏡の前に移った橋本の連れは、聞かれもしないのにペラペラと小夜子に向かって話した。
「中で待つのも嫌がってたくせにさ、最近小夜子さん店にいること多いじゃん。見るだけでも損しない彼女がいるって言ったら、ついて来てやがった」
とても滑らかな口は、余分なことまで言ってしまうようだ。
「すみません、小夜子さん!いま連絡が入って、二時の予約キャンセルです」
キャンセルは間々あることだが、間際のキャンセルはやはり困る。
次の予約までの時間調整がつき難いからだ。
小夜子は空き時間をどうしようかと考えたが、今回はすぐ名案が浮かんだ。
「そうだわ、シャンプーさせて下さい。あなたも合コンなんでしょう、私に任せて。サービスします」
昔を懐かしんだせいだろうか、久々にシャンプーをしたいと思った。
溌溂とした若いスタッフたちに混じって、原点に帰るのも良い。
「お、俺!?俺は・・・いい・・・」
「ばかやろうっ!!勿体無いこと言うんじゃねぇー!!」
「お客様ッ!!頭を動かさないで下さい!!切り口が揃わなくて仕舞いに坊主になりますよ!!」
和気藹々とした雰囲気が、ヘアサロンを包む。
小夜子もその雰囲気を楽しむように、さあどうぞと青年の背に手を回した。
「それにしてもあの青年、小夜子さんに髪をセットしてもらうなんて、ほんとラッキーだよね!」
「そうそう!おまけにタダなもんだから、連れに俺のヘア代半分払え!って、迫られてさ。結局払わされてたな」
閉店後、若手スタッフたちが可笑しそうに話しながら、後片付けをしていた。
「そうなの?かえって迷惑だったかしら・・・」
「小夜子さん、お疲れ様です!そんなことありませんよ!あの青年、めっちゃ小夜子さんのこと意識してましたよ。ずーっと緊張してて、顔真っ赤でしたもん」
「友達の方も儲かったって喜んでたし、今頃二人ともルンルンで合コン楽しんでますよ」
「そうだったらいいけど・・・」
スタッフたちの話につられるように、小夜子は昼間の青年を思い出した。
シャンプーの時はタオルを顔に掛けているので表情はわからないが、全体の雰囲気でガチガチに緊張しているのがわかった。
本来ならリラックスするはずなのに、小夜子は自分のシャンプーの腕が落ちたのかと思ったほどだった。
シャンプーの後、少し前髪を切ってから髪を乾かした。
軽く額に掛かった前髪が、青年の若さをより引き立たせた。
「それじゃ皆さん、お疲れ様。後を宜しくお願いします」
「はい!お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした!」
「・・・でさぁ、彼らN大の学生なんだって!私、聞いちゃった!」
「えーっ!?N大って超お利口じゃん!」
小夜子が帰る間際も、まだ話しは続いていた。
学生・・・何気なく耳に届いた内容は、ほんの一欠けらも小夜子の興味を引くことはなかった。
自分とは住む世界が違う。
彼らもまた日常のすれ違う多くの客のひとりとして、小夜子の視界から消えて行く。
乱立するビルの一角、いつものように従業員用の裏口から出た。
出口までの長いコンクリートの廊下は、ヒール音が響く。
カツン、カツン、カツ・・・
だがほんの二、三歩で、小夜子のヒール音は止まった。
「・・・あなた・・・橋本・・君?」
消えて行くはずの人が、目の前に立っていた。
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