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二の章
しおりを挟む「・・・名前、覚えてくれていたんですね」
疑問符付きながら名前を間違わずに呼ばれたことを、青年は素直に喜んだ。
昼間の緊張や照れを隠すような無愛想さは、微塵もなかった。
好意を寄せての待ち伏せなのは明白だった。
小夜子は目の前の橋本を見つめながら、自分のカットしたヘアスタイルが良く似合っていると思った。
若々しさもそうだが待ち伏せという行為にも関わらず、その雰囲気からは育ちの良さが滲み出ている。
―住む世界が違う―
スタッフたちの噂話しにさえそう思ったことが、本人を前にすると余計強く感じられた。
「お客様商売ですから。・・・合コンだったかしら、私は行ったことがないのでよくわからないけれど、もう終ったの?」
「行かなくて正解です。面白くもなんともない」
「そう。それじゃ、あなたも帰るところね。そこまで一緒に帰りましょうか」
無闇に相手の行為を遮る言動は避けつつ、小夜子は橋本の思いをはっきりわかる形でいなした。
「待って!」
横をすり抜けてさっさと歩き出した小夜子の前を、橋本は回り込んでまたしても塞いだ。
「これ、受け取って下さい。もしも・・・小夜子さんにいま付き合っている奴がいなかったら、電話下さい!」
橋本は携帯番号のメモを突きつけた。
「ふふっ、橋本君、おかしな子ね。合コンじゃなくて、私なの?」
「茶化さないで下さい。俺、真面目です」
真剣な瞳に、誤魔化しは効かない。
いなしたつもりの小夜子だったが、橋本には通用しなかった。
「・・・ごめんなさい。そんなつもりじゃないの、あなた幾つ?」
「二十歳です」
「私は二十五よ。五歳差は、あなたが思う以上に大きいわよ。それに、あなたはまだ学生でしょ」
諭すつもりの言葉は、どちらかというと自分に言い聞かせているのだと小夜子は思った。
店の客には一線を引く、いつもそうして来たように。
しかし橋本は、小夜子の引いた一線を難なく超えて来た。
「そういうことを考えているってことは、いま付き合っている奴はいないってことですよね」
「あっ・・・違うの!あの・・・そうじゃなくて・・・」
「あっ」と、思わず洩れた小夜子の声は、その後をどう否定しようとも橋本の言葉を認めたようなものだった。
橋本は情熱的だった。
オーナーのように愛の言葉を囁くわけではないが、橋本の言動や行動はそのひとつひとつが小夜子にはとても新鮮で誠実だった。
何度かのやり取りの後、住む世界が違うと一旦は断ったが、結局橋本に押し切られて付き合うようになった。
押し切られたと言っても、小夜子自身橋本に惹かれて行く自分に、為す術がなかったというのが本当のところだった。
橋本は学生の身ながら、社会人の小夜子にデート代は一切持たせなかった。
育ちが良いといっても、贅沢に小遣いが使えるほど大金持ちでもない。
当然アルバイトにも精を出さなければならなかった。
時々それが二人の言い争いのタネになった。
小夜子からすれば橋本とのデート代など、はっきり言って知れたものなのだ。
ファーストフード店で食事を済ませてから映画を見て、その後は公園をぶらぶら歩いて帰った。
バイト代が入ったらレンタカーを借りて、仏閣や美術館を巡って造詣を深めた。
生きてきた環境は違うのに、二人の物事に対する価値観は非常に近かった。
「二人で楽しむことは、割り勘でいいんじゃないの。私は働いているのよ、学生のあなたに金銭的な負担はかけたくないわ」
なのに、その部分だけは頑として譲らなかった。
根負けした小夜子が「頑固者」と愛想を尽かすように言うと、決まって橋本は顰め面で黙った。
「髪、伸びたわね。切らなくちゃ。予約を取っておくから、いつにする?」
「いや、いい。美容院へは行かないよ」
「心配しないで。スタッフの人たちには、私たちのことは何も言ってないわよ」
「何の心配だよ。小夜子さんは、俺とのことをそんなふうに思ってんの?」
心外そうな橋本に、小夜子も言い返した。
「あなたは私に何もさせてくれないじゃない。そう思っても仕方ないでしょう」
「・・・ごめん。俺がまだ小夜子さんに何もしてやれないから・・・。嫌なんだ、自分が出来ないのに、してもらうのは」
ここと言うときに、橋本はストレートに自分の感情をぶつけてくる。
それは愛の言葉よりも強烈だった。
「私の部屋へ来て。私にあなたの髪を切らせて。・・・それも嫌?」
「・・・嫌じゃない」
小夜子は橋本と付き合っていても、結婚出来るとは思っていなかった。
だがオーナーの時のように、別れるという選択肢も持たなかった。
何故か橋本といると、安心感に包まれている気がするのだ。
何の安心感かはよくわからないが五歳も年下の橋本に、実際はあまり年の差を感じていないところなどがそのひとつなのかもしれない。
たぶん橋本は精一杯背伸びをしているのだろう。だからこそ小夜子も逃げないのだ。
橋本の愛は、初めて小夜子に自分の環境に立ち向かう勇気を与えた。
「君は避妊しているのか?もし子供が出来たら遠慮なく言いなさい。認知はしてあげよう。養育費も心配しなくていい。私も、君の子供なら悪くないしね」
「私に子供だけ作れとおっしゃるのですか」
「別に。君がいらないのならそれでいい。
まぁでも、この先子供でもいればまた仕事にも張り合いが出るし、君だって寂しくないだろう?」
価値観の違いとはこういうことを言うのだろうと、小夜子は嘔吐する胸を擦りながら、ふとそんなことを思い出した。
お腹に子供が出来ていた。
もちろん橋本の子供だった。
オーナーの時は、小夜子は避妊薬を飲んでいた。
妊娠だけは絶対避けなければいけない。
どれだけ愛に溺れても、それだけは頭から離れなかった。
避妊のことはあえて言わなかったが、オーナーにはどちらでも然したる問題ではなかったようだった。
あれほど妊娠に気をつけていた小夜子が、橋本には無防備だった。
避妊薬を飲む気にはなれなかった。
ただ自然に任せて、その上で子供が出来れば幸福だと思った。
いや、橋本の子供だからそう思ったのかもしれない。
これは自分の我が侭なのだから、学生の橋本に責任を負わすつもりはない。
全ての責任は自分が持つ。
そんなふうに小夜子は思っていたが、それは橋本も同じだった。
橋本は、小夜子の妊娠を喜んだ。
「おめでとうは俺もだよな!」
ああ、そうだった。彼はそういう人だったのだと、小夜子は橋本の背に熱い頬を押し付けた。
「以前あなたは言ったわね、何もしてやれない自分が嫌だと。私も同じなの。
お願い、あなたと産まれてくるこの子の為に、私に出来ることをさせて下さい」
「小夜子!俺は必ず上場企業に就職する。それまで子供のことも、俺はお前に甘えていいか・・・」
男の小さなプライドなど、大切な命の前では如何ほどのものか。
橋本は小夜子を抱きしめた。
小夜子は妊娠を機に、美容院を辞めた。
当分暮らして行くくらいの貯えはあったし、自分に代わる人材も育っている。
小夜子には、潮時でもあった。
オーナーには会えなかった。
最後に礼を言っておきたかったが、辞めて行く者に会ったところで時間の無駄くらいに思っているのだろう。
酷い人とは思わなかった。それがあの人のスタイルであることは十分理解出来た。
オーナーの望む仕事のプロにはなれなかったけれど、人として、女として成長させてくれた人だ。
感謝の気持ちがそれまでの思い出を溶かしてくれるように、小夜子の心に沁みこんだ。
それから一年、月日は緩やかに過ぎた。
小夜子はマンションを移り、子供が生まれ、橋本の学生生活も後半年を残すのみとなった。
卒業後の就職先も早々と上場企業に内定していた。
結婚式は挙げなかった。
婚姻届は子供が生まれる前に出していたが、橋本の両親が小夜子を認めていなかった。
頑なに拒み、会おうとすらしなかった。
小夜子には、それは最初からわかっていたことだった。
その上で橋本と結婚したのだ。
誰を恨むということもなかった。
橋本はすでに家を出て、小夜子のマンションで暮らしていた。
大学の費用も親子三人の生活費も、全て小夜子の貯えから賄った。
もし底をつけば、どこか小さな美容院で働けばいい。
資格を持っていたことは、ありがたかった。
橋本の家族には申し訳なかったが、小夜子は幸せだった。
「ハル~、パパは早く働きたい~。ママの世話になってるなんて、お前と一緒だな」
「なに馬鹿なこと言ってるの、やめて。せっかく眠ったのに陽仁が起きちゃうわ」
案の定、赤ん坊の陽仁が泣き声を上げた。
「ハルくん、寝んね、寝んね。ごめんね~、悪いパパね」
赤ん坊が生まれた時、橋本は産院で、
「俺たちの太陽だ!」
と、叫んだ。
二人に降り注ぐ〝陽〟の光。
橋本はその下に〝仁〟を付けて、陽仁と命名した。
〝仁〟は、他に対する労りある心、慈しみ、思いやり。
小夜子はその一文字で、夫の思いを知るのだった。
陽仁はそんな二人の愛情の中で、すくすくと育っていた。
親子三人初めて迎えたクリスマスでは、まだお座りも危うい陽仁に、橋本は足漕ぎ用の大きな玩具の車を買って来て小夜子を呆れさせた。
幸せな時は、どんなことにでも優しくなれる。
―――静かに、年が明けた。
「小夜子、今年は俺の元年だ。俺はやるぞ!」
短い言葉ながら滾る眼差しで、橋本が小夜子にきっぱり言い切ったのはついこの間だった。
何が起こったのか、まだその時はわからなかった。
橋本は、時折外泊することがあった。
一日だけのこともあるし、数日のこともある。
連絡は必ず入った。
外泊理由に触れていないことで、小夜子には橋本が実家にいるのだとわかる。
未だ和解出来ていない両親と自分たちのこと、実家を出たからといって説得の努力をおざなりにするような橋本ではない。
しかし小夜子は、気が付いていてもそれを口に出して訊ねることはなかった。
それが諦めの気持ちなのか、それとも橋本に対する徒労の申し訳なさなのか。
何れにしても小夜子には、橋本の両親に関わる自分が全く想像出来なかった。
その日もそうだった。
昼間、橋本から送られてきた携帯メール。
【遅くなる】
日付の変わる頃、またメールが入る。
【今日は帰れない】
いつもと同じ、要点だけのそっけない内容。
「ハルくん、パパ帰って来れないんですって。ママ、寂しいなぁ」
ぐっすり眠っている陽仁に、小夜子は本音を洩らした。
呟くように口にした本音は、愛されていると実感しているが故の我が侭だ。
とてもささやかではあるけれど。
小夜子のささやかな我が侭・・・もし橋本がそれを聞いていたなら、きっと愛しさに強く抱きしめたに違いない。
その二日後の夜のことだった。
夜といっても、時刻はとうに真夜中を過ぎていた。
カチャ、カチャ・・・
金属音・・・?
玄関の方から、鍵を開ける音がする。
小夜子は夫が帰ってきたと思って、急いで身を起こした。
次の瞬間、
ガチャーン!!
ドアストッパーの凄まじい音がした。
鍵が開いても、中から防犯用ストッパーを掛けている。
「誰!!?」
夫だと思っていた小夜子は足が震えた。
そう言えば、橋本からは帰って来ると連絡はなかったし、第一こんな乱暴なことをするとは考えられなかった。
ガチャーン!! ガチャーン!!
繰り返しドアストッパーの大きな音が、夜更けの集合住宅の廊下に響いた。
「や・・やめて!今開けますから!お願い・・・あなた・・・」
ドアの隙間から見えたのは、橋本だった。
和室の寝室では、大きな物音に陽仁が目を覚ましてしまっていた。
「ふぎゃぁん!!ぎゃぁぁん・・・!!」
大声で泣く陽仁を、小夜子は急いで抱き上げた。
何が起こったのか、まだその時はわからなかった。
橋本はダイニングの椅子に荒々しく座った。
かなり酒を飲んでいるように見えた。
橋本の荒れ様に、小夜子は不安が募るばかりだった。
どうにか陽仁を寝かしつけると、和室の襖をピタリと閉めてダイニングに戻った。
その間の橋本は自暴自棄のような姿を晒していても、視線はぶれることなく小夜子を捉えていた。
「・・・内定していた会社から、取り消しの通知が来た」
ああ・・・不安は、はっきり形になって表れた。
現実はそう言うものだと、一番わかっていたのは自分なのに。
「ごめんなさい」
「何が・・・」
「・・・私があなたに、わかっていて重荷を背負わせてしまった」
「俺は自分の女房と子供が重荷だなんて、これっぽっちも思わない。だがな・・・・・・陽仁は俺の子か?」
「あなた・・・何を言っているの・・・」
「答えろよ・・・」
予想外の言葉に動揺した小夜子だったが、いまの橋本には小夜子のその動揺は別の意味を持って映ったようだった。
橋本の抑えた声音が、猜疑心の深さを増幅させた。
小夜子はこの時点で、橋本の荒れている理由がわかった。
内定取り消しは、たぶんそれに付随してのことだろう。
いずれにしても・・・
「お願い、少し冷静になって。全てを話せと言うなら話します」
オーナーとのことを疑っているのは間違いなかった。
「冷静に?・・・冷静になって、お前たちの痴話話しを聞けってか?」
「・・・・・・・・・・・・」
青ざめた唇はただ小刻みに震えるだけで、返す言葉もなく小夜子は立ち尽くすのみだった。
かつてない二人の間に漂う深遠の闇は、ブラックホールにも似て。
二人の愛を呑み込んで行く。
「ふざけるなよ!!俺が聞いているのは、こいつが俺の子かどうかだけだ!!」
橋本はいきなり立ち上がると、陽仁の寝ている和室に向かった。
「やめて!!陽仁が寝ているのよ!!」
縋りついて止めようとしたものの、男の力の前にはとうてい敵わない。
ガタ――――ンッ・・・!!
力任せに引いた襖は、弾かれたような甲高い音を立てて溝から外れ、陽仁を掠めて倒れた。
大きな音に驚いた陽仁は、また火がついたように泣き出した。
橋本は一瞬躊躇したものの、すぐに陽仁を抱き上げようとした。
「さわらないで!!」
小夜子が後ろから橋本を突き飛ばすようにして、陽仁の上に馬乗りになった。
泣き叫ぶ陽仁の身を守るように、深く抱え込んだ。
「何ということをするの・・・。酷い・・・陽仁が怪我をするところだったじゃないの!」
「・・・そんなにあいつの子が大事か」
「馬鹿なことを・・・言わないで・・・。どうして?誰がそんなことを・・・」
「お前の・・・お前を捨てた相手さ」
現実はどこまでも小夜子を突き落とす。
涙も出ない。
「あの人とのことは、あなたと付き合う以前のことだわ」
「あの人?あんな下衆!何があの人だ!お前は子供が出来たからあいつに捨てられたんだろ!!」
「私が二股を掛けていたって言うの!?」
「お前なら出来るんじゃないか?小夜子。既婚者であろうと平気なんだろ」
倫理の前には、小夜子の切ない気持ちは通用しなかった。
だがそれでも、不実の愛と言われても、救われる魂はあるのだ。
小夜子は毅然と言い放った。
「否定はしないわ。だけど私は、あなたを裏切るようなことはしていません」
そして陽仁を橋本から隠すように抱き上げた。
例えそれが、また橋本を逆上させる行為になったとしても。
「陽仁を寄こせ。その真似は何だ・・・」
「あなたが疑っている限り、陽仁には指一本触れさせないわ!」
「それならどうしていつまでも美容院に勤めていたんだ!!普通だったら別れたらすぐ辞めるだろ!!それがどうだ!?辞めたのはこいつが出来てからだ!!小夜子!!」
「温々と育って来たあなたにはわからないのよ!!私の気持ちなんて!!もういい!!陽仁は誰の子でもないわ!!私の子よ!!」
心のひだを言葉にすることは出来ない。
感情の縺れは、感情でしか解けない。
愛の縺れは、愛でしか解けないのだ。
「お前は・・・馬鹿にしやがって―――!!」
小夜子は陽仁を覆うように抱いて、伏せた。
バコッ!!バキバキィ――ッ!!!
下げた頭の真上で、襖を蹴破る音がした。
ダイニングから差し込む朝日が、襖の外れた和室の畳を照らしていた。
夜が明けたのだ。
小夜子はずっと陽仁を抱いたままだった。
静かになって暫くすると、陽仁はすやすやと眠った。
「ハルくん、パパ出て行っちゃった。ママは寂しくなんかないですよー。あんな分からず屋のパパは要りませーん。ねぇ、ハルくん・・・二人でいいよね」
諍いなどという生易しいものではなかった。
大喧嘩だった。
小夜子は自分でも信じられなかった。
いままで人に対して、あんなに大声を上げたことも感情を剥き出しにしたこともなかった。
いつもどこかに、言えない部分の自分を抱えていた。
大人になっても膝を抱えたまま蹲っている小さな女の子・・・その部分こそが小夜子のプライドだったのに。
母親になっても、まだ丸ごと包み込んでくれる温もりを求めていた自分が可笑しかった。
小夜子は小さく嘆息すると、自分の気持ちを封印するように優しく微笑む母の顔で陽仁を見つめた。
厚い雲に覆われた冬の空。
凍てつく外気の道を行く。
春まだ遠く、街路樹の枯葉が風に吹かれて靡いていた。
あの未明の大喧嘩から一ヶ月。
小夜子は陽仁を乳母車に乗せて、週に一度老人ホームへ散髪のボランティアに通っていた。
あれだけの大喧嘩なのだ、騒ぎは両隣にも筒抜けだった。
不幸中の幸いだったのは、両隣の隣人がどちらも気の良い人たちだったことで、その後も度々様子を気に掛けてくれていた。
ボランティアの話は、たまたまその隣人のひとりが施設の職員で、小夜子が美容師の資格を持っているならと、懇願に近い誘いを受けてのことだった。
小夜子にとっても、お年寄り相手の散髪はとても良い気分転換となった。
橋本は未だ帰って来なかった。
連絡すらない。
冷静に考えれば、陽仁が橋本の子で有るか無いかなど証明するのは簡単なことだ。
本質的なところはオーナーとの関係なのだ。
あの人の倫理感では、それが許せなかっただけのことだ。
それまでの夫の自分への対し方を知っているだけに、小夜子は当然のことだと思った。
結局最初に感じた隔たりを、
―住む世界が違う―
埋めることは出来なかった。
そうやって少しずつ気持ちの整理をつける日々の中で、小夜子は一度だけオーナーに電話をかけた。
携帯のプライベート番号はとうに削除しているし、覚えていない。
いや覚えていたとしても、プライベート番号にかけるつもりはなかった。
「小夜子、待っていたよ。電話とはいえアポイントメントなしに話せるのは、君だけだぞ」
久し振りに耳にするオーナーの声は、相変わらず傲慢で自信に溢れていた。
だが同時に、どこか遠くから聞えてくるようなそんな距離を感じた。
「私がなぜ電話を差し上げたか、おわかりになっているはずです。私は貴方に感謝していましたし、尊敬もしていました。それがこんな形で恨まれていたなんて・・・残念です」
「恨まれる・・・?私は君を恨んでなんかいないよ」
「ではどうして!貴方とは関係のないあの人にお会いになったの!?」
「私が会いたいと言ったわけじゃないさ。あの若造が私のところへ乗り込んで来たのだ」
えっ?と小夜子は言葉を詰まらせた。
「随分感情豊かになったね、小夜子。やはり子供が出来たら変わるのかな、女は」
「・・・貴方、何をしたの・・・」
「察しがいいね、さすがだ。身上調書は正しく提出するものだと教えてやったら、凄まじい形相でやってきて被害妄想も甚だしい。あれじゃダメだね」
「どうしてそんなことを・・・あの人は関係ないじゃない!あの人の未来を潰すなんて、いくら貴方でも許さない!」
「ふん、簡単に潰れる未来なら、元からたいしたことはないのさ。小夜子、君は時々勘違いをするね。私は君に許してもらうことなどない」
携帯を握り締めながら、小夜子は改めてオーナーの怖さを思い知った。
自分や夫の敵う相手ではないのだ。
「もう二度と、私は貴方と関わり合いになることはありません」
「それは君の自由だ。だが覚えておきたまえ、その気になれば私はいつでも君の所在くらい調べがつく」
「そうやって、あの人の事も調べたのね」
「自分の愛しているものを粗末に扱われるのは嫌だからね。小夜子、声が聞けて嬉しかったよ」
不遜な響きの中に燃え上がる愛の焔は、小夜子の言葉を待つことなく切れた。
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