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男批判の男と男変薬~男は楽?女は楽?
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吉田のぞむは、オフィスにいた。
「吉田さん、コピーお願い」
「吉田さん、これ片付けといて」
まただ。
自分の仕事はあるはずなのに、
なぜか“手が空いている人”扱いされる。
「はい」と返事をするたび、
喉の奥がざらつく。
後輩の男性社員は、もう会議に出ている。
同じ入社年なのに。
(男だから?)
休憩室。
「うちの旦那さ~」
「生理ほんと無理~」
「でも男ってさ、楽だよね」
その言葉に、のぞむは小さく頷きそうになる。
(そう。男は楽)
泣かなくていい。
痛くならない。
化粧もしなくていい。
機嫌を取らなくていい。
“仕事してるだけで偉い”って顔していられる。
(私もそっち側に行きたい)
最近、駅前で見つけたBAR。
名前だけ覚えている。
入ったことはない。
でも今日は、帰る気になれなかった。
家に帰っても、明日が来るだけ。
のぞむは立ち止まり、
深く息を吐いた。
そして、看板の光に向かって歩き出す。
BARワンダーに入る、のぞむ。
扉を開けると、思っていたより静かだった。
ジャズが小さく流れている。
カウンターの奥に、高齢の男が二人。
そして作業着姿の男性が一人。
それだけ。
ネオンの派手さとは違う、落ち着いた空気。
一瞬、帰ろうかと思った。
「いらっしゃい。こちらへどうぞ」
マスターの声は低く、柔らかい。
カウンターの一番端の席を勧められる。
のぞむは黙って腰を下ろした。
「何にしますか?」
「そうね~、濃いめのハイボールで」
「はいよ」
氷の音。
炭酸が弾ける音。
グラスが目の前に置かれる。
のぞむは一口飲んだ。
「はぁ~……」
ため息が混じる。
マスターが静かにグラスを拭きながら言う。
「何か訳ありなため息ですね。話、聞きましょうか」
のぞむはグラスを握ったまま言った。
「マスターは男だし、わからないと思うけど。女って大変。生理でしょ、まだわからないけど出産の痛みでしょ、仕事だって大体雑用だし、メイクもしなくていいし、絶対男がいい、男が楽」
一気に吐き出す。
マスターはグラスを拭きながら、小さく笑った。
「なんか似たような話を聞いた事があるなぁ…」
「似たような話?」
カウンターの奥の爺さんが口を開く。
「性別に楽やら苦など関係ないぞ」
「そんな事ないわよ」
作業着の男――社長が、肩を揺らす。
「この前、爺さんに卸した薬、あれどうや?」
「うーん、あれか。ちょうど持っとるが…」
「薬?何?」
社長は胸ポケットから名刺を出す。
「せや、わしな色んな薬作ったりしてな、爺さんの店に卸しとるねん。名刺渡しとくわ」
のぞむは受け取る。
『㈲不思議堂 退職代行 不動産』
「何でも屋?」
「何でも屋みたいなもんやな。前にあんたと逆にな、女が楽っていう男がおってな。女に変身する薬、売ったんや」
「女に変身?!」
爺さんが小瓶を差し出す。
「これじゃ」
のぞむはラベルを見る。
「マハタ印の男変薬?これで男に変身できるの?」
「まだ誰にも売ってないので、わからんが社長の腕は確かじゃ」
「女に変身したんが2人おるからな、いけるやろ」
「そうなんだ、いくら?」
「成功払いの1万じゃ。男に変身して成功したら残り99万をここに払いに来れば良い」
「戻れる薬もあるし、なんかあったら名刺に連絡先書いてるよって」
のぞむは即答した。
「買います!!」
財布から一万円札を出す。
その瞬間、マスターがひょいと奪う。
「飲み代のツケな爺さん」
レジへ入れる。
「ちぇ、ちゃっかりしておる」
のぞむは小瓶を握った。
「じゃあ、私、帰ります」
会計を済ませ、店を出る。
手の中の瓶が、やけに軽い。
家に帰ってきた、のぞむ。
「ただいま~、って誰もいないっての~。彼氏もいないし~。まぁ作る気もないけどね~」
玄関で一人ツッコミ。
バッグをソファに投げて、バスルームへ向かう。
鏡の前でメイクを落としながら、ふと呟く。
「男になったら、こんなめんどくさい事もしなくていい」
アイラインが落ちていく。
今日の自分も、一緒に流れていく。
シャワーを浴びて、パジャマに着替え、ベッドに倒れ込む。
「なかなか雰囲気の良い店だったなぁ……」
天井を見上げて、思い出す。
「あっそうだ、あの薬だ」
バッグから小瓶を取り出す。
手のひらに収まる、やけに軽い瓶。
「多分、新手の詐欺だろうけど……騙されてみるか」
ラベルを読む。
「えーっと……自分のなりたい男性を思い浮かべ就寝前に飲んでください、か」
鼻で笑う。
蓋を開ける。
「イケメンでー、たくましくてー……背が高くて……」
少し本気で想像してしまう自分がいる。
「ゴクッ」
喉を通る。
何も起きない。
「で、寝たら男に変身。ないないw」
そう言って布団に入り、目を閉じた。
手の中の瓶を、枕元に置いたまま。
翌朝。
目覚ましより少し早く、のぞむは目を覚ました。
「……なんか、下半身に違和感あるなぁ。やだなぁ、生理かなぁ」
そう思いながら、布団をめくる。
「あれ? あれ? なんで下半身……膨らんでる……?」
パジャマのズボンを、恐る恐るちらっとめくる。
「ぎゃああああああああっ!!
お、男のアレが生えてる~~~~~~~~~ッ!!」
反射的にベッドを飛び降り、洗面所へ駆け込む。
「え、え、え、え~~~~~~~~~!?
あの薬、詐欺じゃないのー!!」
洗面所で一人、わたわたと足踏みする。
深呼吸しながら、鏡の前で自分の体を確認する。
「……顔、男。
喉仏……ある。
胸は……あるけど、筋肉……?」
そして、恐る恐るもう一度ズボンをちらり。
「……ある~~~~~~~~~~っ。
やばいやばいやばい……」
「落ち着け、落ち着け……私……
……俺、か……」
額に手を当て、必死に思考をまとめる。
「どうしよう……」
一瞬考えて、はっと顔を上げる。
「……そうだ!! 名刺!!
あの社長の名刺!」
そう言って急いでカバンをひっくり返し、名刺を探す。
スマホを取り出し、震える指で番号を押した。
呼び出し音がしばらく鳴る。
三回目で繋がった。
社長
「はい、㈲不思議堂です」
のぞむ
「あ、あ、あの~~~~~~~~昨日の夜のBARの~~~」
自分の声が低い。違和感が走る。
社長
「ちょっと1回深呼吸せぇ」
のぞむは深呼吸する。
のぞむ
「あの、男変薬を買った女です」
社長
「その男声って事は男になったんやな」
のぞむ
「は、はい、どうしたらいいですか?」
ベッドの縁を強く握る。
社長
「どうしたらって男は楽言うてたんやから男で生きるしかないやろ」
のぞむ
「はい……そうですね、でも今の会社行けないし…」
一拍。
社長
「はい退職代行不思議堂です。ご要件を」
のぞむ
「あ、お願いいたします」
社長
「はいはい、では、会社名会社の住所言うてくれたら適当な理由でやっとくわ」
のぞむは伝える。
社長
「はいはい、まぁ、服とか買いかえんとあかんやろうし、今度でええわ、ほな」
通話が切れる。
のぞむはしばらく動けなかった。
「とりあえず、仕事探さないと、その前に服」
のぞむはクローゼットを開ける。
ハンガーに並ぶスカートを無意識に避け、ジーパンとTシャツを引き抜いた。
「……」
着替えてみる。
「は、入らない、筋肉が邪魔する……昨日の想像した私……バカッ」
肩が引っかかり、腕が通らない。
鏡に映る自分に、思わず舌打ちする。
「とりあえず……アマゾネスで頼むか、外出れない……」
スマホを取り出し、ベッドに腰を下ろす。
アマゾネスのアプリを開き、サイズを何度も確認しながらスクロールする。
Tシャツ、ジーンズ、下着。
次々とカートに入れていく。
画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
スマホを置き、天井を見る。
スマホを取り出し、アマゾネスのアプリで色々注文する、のぞむだった。
「とりあえず、お腹空いたな」
そう言って、のぞむはキッチンへ向かう。
買い置きしてあったカップ麺を棚から取り出し、ポットのお湯を注ぐ。
フタを閉じ、テーブルに置く。
そのまま椅子に腰を下ろし、ぼんやり待つ。
数分後、フタを開け、箸で軽くかき混ぜる。
黙って口に運ぶ。
「……」
一息ついて、背もたれに体を預ける。
「はぁ~服届くまで、何にもできないや、この下着もくい込んで痛いし…」
言いながら、無意識に腰をずらす。
落ち着かないまま、残りを食べきる。
容器を片付け、ベッドへ向かう。
「とにかく寝よ」
そう言って、のぞむは布団に潜り込んだ。
部屋は静かで、さっきまでの慌ただしさが嘘みたいだった。
そのまま、目を閉じた。
「ふわぁ~、夜まで寝てしまった……」
のぞむは伸びをしながらベッドを出る。
とりあえず服が届いてないかと玄関へ向かい、ドアを開けた。
足元に、ダンボール。
「さすがアマゾネス、早いな」
それを抱えて部屋に戻り、まっすぐバスルームへ向かう。
とりあえず裸になる、のぞむ。
鏡に映る自分の姿を、改めて見る。
「顔はイケメン、あつい胸板、……」
視線が自然と下に落ちる。
「この部分は……やっぱり慣れない……」
小さくため息をつきつつ、気を取り直してダンボールを開ける。
「これがボクサーパンツで……」
一つずつ手に取り、身につけていく。
「よし、完成!」
鏡の前で軽く体をひねる。
「これならホストにでもなれそうだなぁ」
少しだけ気分が上がる。
「ちょっと外、ブラブラしてみるかぁ」
そう言って、ダンボールの底に残っていた靴を履き、のぞむは外に出ることにした。
そして夜道を歩く、のぞむ。
しばらく歩いていると――
男
「ちょっと姉ちゃん、飲みに行こうよ。その後、可愛がってあげるからよ~」
女性の腕を掴む男。
女性
「や、やめてください……」
どうにか腕を払い、女性はのぞむの方へ駆け寄る。そして、のぞむの後ろに隠れる。
女性
「た、助けてください」
男
「なんや兄ちゃん、正義のヒーロー気取りか?」
のぞむ
「い、いや、あ、あの……」
次の瞬間――
ボスッ。
男は、のぞむの腹を殴る。
のぞむ
「ぐ、うぅぅぅ……」
お腹をおさえ、うずくまる。
男
「なんや、見掛け倒しのヒーローやのぅ」
その時、パトカーのサイレンが近づく。
男
「チッ」
男はそのまま走り去った。
女性
「あ、あの、私のせいで、ごめんなさい」
のぞむ
「あ、大丈夫だよ」
どうにか立ち上がる。
女性
「私、そこの不思議な子猫ってガールズバーで働いてる、『のぶこ』って言います」
名刺を差し出す、のぶこ。
のぞむ
「そ、そうなんだ」
のぶこ
「お礼がしたいので、良かったら店に来てください」
のぞむ
「あ、あぁ」
そう言って、2人は店に向かった。
そして、のぶこに連れられ、2人は開店前のガールズバーに入った。
ママ
「あら、のぶこちゃん、同伴?」
ノゾミ
「イケメン捕まえたの?のぶこちゃん」
のぶこ
「違います、私が絡まれたのを助けてくれたんです」
ママ
「そうなの~?ありがとうございます」
ノゾミ
「それだけたくましいものね~さすが男の人~」
のぞむ
「あ、いや、あの~」
のぶこ
「お礼がしたくて…」
ママ
「そうね、お代はいいわ。今日は飲んでいってちょうだい」
のぞむ
「あ、はい」
そうして席を案内された、のぞむだった。
――一方的にやられたのに、言えなかった。
席に着いた、のぞむ。
ママ
「何飲む?何でもいいわよ」
のぞむ
「あ、はい、じゃあハイボールで」
のぶこが準備して、のぞむの前に置く。
「どうぞ」
のぞむ
「あ、ありがとう」
ノゾミ
「なんか緊張してる?こういうとこ、初めてなの?」
のぞむ
「そうですね、初めてです」
――当たり前だよ、女だったもん……
と心の中で思う、のぞむ。
ママ
「最近、うちも忙しくなったからチーフ雇おうかと思ってて。あなた仕事何してるの?」
のぞむ
「最近、仕事辞めて」
ママ
「いいじゃない。たまにセクハラとかしたりガラの悪い人も来るしさぁ、そのたくましい体なら守ってくれそう!」
――無理無理、さっきも一発でダウンだよ。
ノゾミ
「そうね~ムキムキだもん、賛成!」
――賛成しないで~。
ママ
「時給2000円!どう?それに女性客もつきそう。イケメンだし」
ノゾミ
「のぶこちゃんも、そう思うでしょ?」
のぶこ
「か、かっこいいです」
――時給2000円かぁ……どうしよう。
そんなガラの悪い男なんか滅多に来ないだろ。
のぞむ
「はい、わかりました」
ママ
「じゃあ、よろしくね」
あれよあれよと仕事が決まった、のぞむだった。
のぞむ
「じゃあ、そろそろ失礼します」
ママ
「あら、そう?また、いつから働けるか店に連絡ちょうだい」
のぞむ
「わかりました」
店の外まで、のぶこが見送る。
のぶこ
「あの……今日はママがお礼した感じになったので、私、たまに行くBARがあるので今度お礼させて下さい」
のぞむ
「あ、あぁ、わかった」
のぶこ
「渡した名刺に連絡先かいてあるので、またメッセージください」
のぞむ
「うん」
夜風が少し冷たい。
そう言って家に帰る、のぞむだった。
家に帰ってきた、のぞむ。
とりあえず、シャワーを浴びる事にした。
服を脱ぎ、鏡の前に立つ。
のぞむ
「うわ、お腹、ちょっとアザできてる~」
紫がかった跡を、指でそっと触る。
今まで、男性から守られる側だった。
でも今は、守る側。
「仕事決まったけど……女の子達を守るとか、できんのかなぁ」
さっきの一発が、じわっと思い出される。
そんな事を考えながら、シャワーを浴びる。
湯が当たると、腹が少し痛む。
新しく買い直したパジャマに着替え、ベッドに入る。
天井を見つめる。
――男って、守る側って、こういうこと?
そのまま、ゆっくり目を閉じた。
翌朝。
のぞむ
「うわ、またテントができてる……」
トイレに来たが、なかなか狙いが定まらない。
のぞむ
「うわぁぁ、やりにくい、おさまれよ、お前……」
結局、周りに飛び散ってしまい、黙って掃除する。
ため息。
トイレから出て、テーブルに置いたままの名刺に目がいく。
のぶこの名刺。
スマホを手に取り、少し迷ってから打つ。
「昨日の、のぞむ、です。今晩あたりどうですか?」
送信。
のぞむ
「顔洗うか」
洗面所へ。
鏡を見て、思わず眉をひそめる。
「めちゃくちゃヒゲ伸びてる」
女の時に使っていたムダ毛剃りのカミソリで、どうにか剃る。
のぞむ
「こんなの毎日剃るのかぁ……それ以外は、男だから良いけど……」
洗面所を出て、スマホを見る。
のぶこから返事が来ていた。
「はい、ちょうど休みなので19時ぐらいにガールズバーで待ってます のぶこ」
のぞむ
「19時か……まだまだ時間あるなぁ」
少し考えてから、つぶやく。
「カミソリとか、必要な物買いに行くか」
そう言って服を着替える、のぞむだった。
コンビニで、カミソリとヘアワックス、その他いくつかのメンズ用品を買い、袋を下げて家へ向かう。
昼間の空気は明るいのに、気持ちはまだ落ち着かない。
男として外を歩くのは、まだ少しぎこちない。
その途中。
背後から、聞き覚えのある声。
男
「昨日の兄ちゃんじゃん、昨日の続きしようぜ」
振り返る。
昨日、腹を殴ってきた男だった。
一瞬、体が強張る。
のぞむ
「ごめんなさい」
それだけ言って、踵を返す。
走る。
息が乱れる。
袋が揺れる。
何も考えず、とにかく走って、家へ向かった。
命からがら逃げて家に帰ってきた、のぞむ。
ドアを閉め、鍵をかける。
のぞむ
「ふぅ~~逃げきれた~、足ガクガク」
背中をドアにもたれさせる。
しばらく動けない。
心臓がうるさい。
息が荒い。
袋を床に落としたまま、這いずるようにベッドまで行く。
そのまま大の字になる。
天井を見つめる。
さっきの男の顔が、まだ頭に残っている。
――男って、楽なんじゃなかったのかよ……
何も考えられず、ぼーっとしていた、のぞむ。
時計を見る。
のぞむ
「こんな時間か……外出るの怖いけど行くか……」
深く息を吐く。
軽く身なりを整え、家を出る。
夜の空気は冷たい。
さっきの出来事が頭をよぎるが、足は止めない。
特に何もなく、ガールズバーまで着いた。
既に、のぶこが待っていた。
のぞむ
「お待たせ」
のぶこが気づく。
のぶこ
「あ、行きましょう、こっちです」
しばらく歩く。
静かな路地に入る。
のぶこ
「ここです、すごく雰囲気がいいBARなんです」
のぞむ
「ここって……」
見覚えのある扉。
まぁいいか、と思い、
2人でBARワンダーに入った。
マスター
「いらっしゃい。おや? のぶこちゃん、俺という彼氏がいながら男連れか?」
のぶこ
「いつからマスター彼氏になったんですか~、もう~」
社長
「同伴か?」
爺さん
「しかし女っぽくなったもんじゃな」
のぶこ
「違いますよ、ちょっと、お礼をかねてきただけです。のぞむさん、どうぞ」
のぞむ
「あ、あぁ」
2人はカウンター席に座る。
マスターはグラスを磨きながら、ちらりとのぞむを見る。
社長
「のぞむ……なるほど」
社長はボソッと独り言をいう。
爺さん
「面白い組み合わせじゃな」
と、社長に耳打ちする。
のぞむは、その視線の意味がわからないまま、落ち着かない様子で座っていた。
社長
「それよか貴子ちゃんに、あの店紹介されて、どうや?楽か?」
のぶこ
「最初は、本当に辞めようかと思った~、酔い潰されるし、ホテル誘ってきたり、セクハラされたり……」
社長
「最初の貴子ちゃんみたいやな」
爺さん
「マスターのようなスケベがいっぱいおるって事じゃな」
マスター
「違う!俺は真面目なスケベだ!」
軽い笑いが起こる。
その空気が静まった瞬間。
社長が、ゆっくりとのぞむを見る。
社長
「しかし、この前、男が楽って言うのが、ここに来てたけど、のぶこちゃん、どう思う?」
視線は、のぞむから外れない。
のぞむは、ビクっとする。
グラスの氷が、カランと鳴る。
いやぁ~男も大変ですよ~、今は女社会とか言われてるし、女性が総理大臣だし、ちょっとした一言でセクハラだ~、とか言われるし」
軽く肩をすくめるような調子で、のぞむが言う。
マスター
「そうそう、こうやって、のぶこちゃんの胸を観察してるだけでセクハラだって……」
のぶこは反射的に胸をおさえる。
「それはセクハラです」
即答だった。
社長
「ほぅ、男になれる薬あっても、なりたくないか」
のぶこ
「なりたくないです、貴子さんに言われた、今を頑張る 今と向き合う、それが大事だと思ったんです」
その言葉に、場の空気が少しだけ静まる。
爺さん
「まぁ、その言葉は、ワシが貴子ちゃんに言ったんじゃけどな、ほんに、それが大事じゃ」
のぞむ
「今を頑張る……今を生きる」
グラスを握ったまま、ぽつりとつぶやく。
……まだ、のぞむは、その言葉の本当の意味はわからなかった。
けれど、胸の奥に、なにか小さく引っかかるものが残っていた。
のぶこのスマホが短く震える。
「はい、のぶこです」
少しだけ声のトーンが変わる。
ママ
「ちょっと休みなのに悪いんだけど時給倍出すから今から店来れない」
のぶこ
「はい、わかりました、すぐ行きます」
即答だった。
通話を切り、スマホをバッグにしまう。
「マスターチェックで、のぞむさんの分も」
そう言って、カウンターに一万円札を置く。
「足りなかったら、今度払いに来ます~、のぞむさんは、ごゆっくり」
軽く頭を下げると、そのまま振り返り、足早に出口へ向かう。
ドアが閉まる音がして、店内に少しだけ静けさが戻った。
のぞむの前には、まだ手をつけていないグラスが残っていた。
社長「どや?男になってみて」
のぞむをチラっと見る。
のぞむ「えっ?!」
爺さん「最初からお見通しじゃ」
のぞむは一瞬言葉に詰まる。
のぞむ「いや、まだなったばかりでイマイチわからないですけど……」
マスター「男ならな、あんな可愛い胸の大きい子がいたら目を輝かせるもんだ!」
社長「そら、マスターだけや」
爺さん「男はスケベって事にするでない」
場が軽く緩む。
のぞむ「とりあえず、さっきの子の店のボーイとして働く事になったので頑張ってみます」
マスターは立ち上がる。
「さっき忙しいみたいな感じだったから、今から働いてこい、しかし、その服はダメだな」
そう言って奥へ消える。
すぐ戻り、服を差し出す。
「サイズ間違いで買ったパーテンダーの服だ、それやるよ、奥で着替えてこい」
のぞむ「えっ?いいんですか?」
服を受け取り、BARの奥へ。
着替えの途中。
マスター「どうだ?」とチラってみる。
のぞむ「きゃっ!」と体を隠す。
マスター「バカヤロウ、男には興味ねぇよ」
数分後、着替えて出てくる、のぞむ。
マスター「サイズピッタリだな」
社長「マスターより、似合ってるわ」
爺さん「頑張ってこい」
のぞむ「は、はい」
そのまま足早に店を後にした。
店に着いた、のぞむ。
ドアを開けた瞬間、いつもの空気とは違うざわつきが押し寄せた。店内はかなり慌ただしかった。
のぞむ
「あの、ママ、今から手伝わせてください」
ママ
「ありがとう~、色々話は、あとでするわ、とりあえず、あそこのグラスとか奥に運んで、テーブル拭いて~、それ終わったら洗い物お願い~」
のぞむ
「はい!」
返事だけは妙に大きい。
戸惑いも不安も飲み込んで、目の前のグラスを掴む。
そう言ってテーブルを片付け、洗い物をする、のぞむだった。
ぽつぽつとお客さんが帰り、一段落ついた。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、店内に静けさが戻る。
ママ
「ありがとうね~助かったわ~」
のぶこ
「ありがとうございます、助かりました」
ノゾミ
「もうヒーローきた~~~って感じだった~」
ヒーローか……
のぞむは、濡れた手をタオルで拭きながら、ほんの少しだけ視線を落とす。
昨日は一発で腹を殴られてうずくまったのに。
ヒーローなんて、程遠い。
そして閉店時間となった。
グラスの音も止み、店内にほっとした静けさが広がる。
ママ
「のぞむくん、今日はありがとうね、今日は、ちょっと忙しかったけど仕事内容は、こんな感じだけど、いけそう?」
のぞむ
「はい、なんとか頑張ってみます」
ノゾミ
「それに~この筋肉、守ってくれそう~」
そう言って、のぞむの腕の筋肉をさわさわする。
のぞむ
「あ、いやぁ~…」
喧嘩とか格闘技とかした事ない……
心の中では、正直にそう思っている。
のぶこ
「本当にたくましくて男らしいです」
ママ
「みんなも頼りにしてるし明日から、よろしくね」
のぞむ
「は、はい」
頼られる側。
守る側。
その言葉が、ほんの少しだけ重く胸に残る。
ママ
「さぁ、片付けて帰りましょ」
4人で片付けをするのだった。
店を出た、のぞむ。
夜のビルの前は、ネオンと呼び込みの声で少しざわついている。
女性
「ちょっと~イケメンのお兄さ~ん」
振り返ると、同じビルの店の女性店員がいた。
「お客さん、今ガラガラで~助けてくれな~い」
そう言って、のぞむの腕を掴み、胸を押し付ける。
のぞむ
「あ、いや、あの~」
女性
「飲み放題3000円だから」
3000円かぁ……。
断ったら、男としてダサいかな……。
そんな考えが一瞬よぎる。
その時。
のぶこ
「のぞむ!行こ!」
のぶこが、のぞむに腕を絡ませる。
女性
「なによ、あなた」
のぶこ
「今からデートなの~」
そう言って、のぞむを引っ張り歩き出す。
ビルの角を曲がったところで、のぶこが小さく息を吐く。
のぶこ
「あの店、あまり良い噂聞かないから」
のぞむ
「そ、そうなんだ……」
なんか逆に助けられてしまったかな……。
のぶこ
「じゃ、私、家、あっちなので」
そう言って、のぶこは手を振り、帰って行った。
家に着いた、のぞむ。
バスルームに向かいシャワーを浴びて、布団に入る。
今日一日の出来事が、頭の中でゆっくり巻き戻る。
「頼りにしてるか……」
天井を見つめたまま、小さく呟く。
「なんか逆にプレッシャーかも……」
ヒーロー。
守ってくれそう。
男らしい。
言われるたびに、胸の奥が少しざわつく。
「ていうか、あんなに動いたの久しぶりだし……寝よ」
そう言って、のぞむは目を閉じた。
体は疲れているのに、心はまだ少しだけ落ち着かないまま。
で、次の日から本格的にガールズバーで働く事になった。
黒いシャツにベスト。
昨日もらったバーテンダー用の服が、少しだけ背筋を伸ばさせる。
ママ
「ちょっと、のぞむくん、そちらのお客さんのお相手少しだけ、お願い」
のぞむ
「はい」
テーブルに向かう。
三十代くらいの男性客が、あからさまに眉をひそめた。
客
「え?男?」
のぞむ
「今日は少し混み合ってまして、すぐ女の子来ますので…」
客
「俺、男と話する為に来たんじゃないんだけど」
その言い方に、胸の奥がチクッとする。
客はグラスを持ち上げた。
「ほら、男なら酒飲めよ。付き合え」
のぞむは一瞬ためらう。
だが、ママも女の子も忙しそうだ。
断れない。
のぞむ
「はい…」
グラスを空ける。
客
「おかわりな」
次の一杯。
また一杯。
頭がふわっとしてくる。
客
「なんだよ、もう顔赤いじゃん」
笑い声。
「男のくせに情けないな」
その一言が、妙に重かった。
――男のくせに。
昨日は「守ってくれそう」。
今日は「男なら飲め」。
期待も圧も、全部“男だから”。
足元が少しふらつく。
ママがそっと割って入る。
「はいはい、そこまで~。のぞむくん、裏でちょっと水飲んできて」
のぞむは小さくうなずき、カウンターの奥へ下がる。
冷たい水を一気に飲む。
鏡に映る自分の顔は、確かに情けない。
でも。
女だった頃も、楽じゃなかった。
男になっても、楽じゃない。
「……どっちも、しんどいな」
小さく呟いた。
店内の片付けが終わり、
ノゾミも、のぶこも帰っていった。
シャッターを半分下ろした店内には、静かな空気が残る。
のぞむとママ、二人きりになった。
のぞむ
「ママ……俺、迷惑かけてませんか?」
少し視線を落としたまま、ぽつりと聞く。
ママはグラスを拭く手を止めない。
ママ
「あなたは頑張ってるわ」
軽く笑う。
「だって、お客さん怒らせたらいけないって頑張って飲んだんでしょ?」
のぞむ
「はい……そうですね」
元気のない返事。
ママは、のぞむの前に立つ。
ママ
「でもね」
少し間を置いて、
「男ならシャキっとしなさい」
そう言って、笑顔でのぞむの背中をパシッと叩く。
軽いはずの一発なのに、妙に重く感じた。
男なら。
またその言葉。
のぞむは、作った笑顔でうなずく。
「はい……」
家に帰ってきた、のぞむ。
シャワーを浴びる。
熱い湯が肩を打つたび、今日の言葉が頭の中で反芻される。
ベッドに横たわる。
天井を見つめたまま、目を閉じない。
「男のくせに……男なら……」
耳の奥に残っている。
「男って強くいないといけない?男って弱音吐いたらいけない?落ち込んだらいけない?」
問いかけても、答えは出ない。
女だった頃は、
「女なんだから」って言われた。
今は、
「男なんだから」って言われる。
どっちも、勝手に決められた役割。
でも。
ママの声がふと浮かぶ。
『あなたは頑張ってるわよ』
あの一言だけは、少し温かかった。
「とりあえず頑張るしかないか……」
そうつぶやき、ようやく目を閉じた。
そして、店の開店準備の為、早めに出勤した、のぞむ。
テナントビルの前で、聞き覚えのある声がする。
見ると――
この前、自分の腹を殴ったあの男が、また、のぶこに絡んでいる。
男
「おー、この前ワンパンでダウンしたヒーローじゃねぇか」
のぶこ
「やめてください……」
あの時、何もできずにうずくまった自分を思い出す。
腹の奥がひやっとする。
でも、足は止まらなかった。
のぞむは間に入る。
「うちの従業員です、やめてください」
男が鼻で笑う。
「ほらよ」
拳が振り下ろされる。
その瞬間。
『男ならシャキっとしなさい!』
ママの声がよぎる。
のぞむは、思い切り腹筋に力を入れる。
ドスッ。
鈍い衝撃。
でも――立っている。
のぞむ
「全然効かないけど」
男の表情が一瞬止まる。
のぞむ
「男の力って、そんな事に使うんじゃない、お前みたいな男がいるから男は野蛮だとか言われるんだよ」
静かな声。
男は舌打ちをする。
「ちぇっ」
そのまま逃げて行った。
しばらく動けない、のぞむ。
あれ?私……守れた……。
横を見ると、のぶこの目はハートマークになっていた。
「のぞむさん、かっこいい……さすが男……」
その言葉に、のぞむは少しだけ、複雑な顔をする。
そして2人で店に入る。
まだ準備中の店内に、のぶこの弾んだ声が響く。
のぶこ
「ママ~、のぞむさんに、さっき、また助けてもらって~めっちゃかっこよかったの~」
ママが振り向き、にやりと笑う。
ママ
「ちょっと~、のぶこちゃん目がハートマークよ~、というか、やるじゃない~」
そう言って、のぞむの胸板をツンツンする。
のぞむ
「ちょ、ちょっと~」
ノゾミも寄ってくる。
ノゾミ
「そうなの~見たかったなぁ~」
って、のぞむの胸板をツンツンする。
のぞむ
「ノゾミさんまで~」
軽く笑い声が広がる。
ママ
「さぁ~たくましいボデーガードもいるし私達は安心して今日も1日頑張るわよ」
ノゾミ のぶこ
「おーー!!」
のぞむは苦笑いしながら、その輪の中に立っていた。
そして店は開店した。
店が開店し、ぽつぽつと客が入り始める。
グラスの音と、軽い笑い声が店内に戻ってきた頃。
ママ
「のぞむくん、ちょっとだけ、あのお客さんお願い~」
のぞむ
「はい」
言われた席へ向かうと、そこにいたのは――
以前、無理に酒を飲まされて潰れた、あの客だった。
男性
「なんだよ、この前の男のクセに飲めない兄ちゃんか」
一瞬、体が強張る。
けれど、のぞむは深く息を吸った。
――今を頑張る。
そう決めた、のぞむは。
のぞむ
「そうなんです~実はオカマなんです~」
男性
「なんか、この前とかわったな」
軽口を交わしながら、その場の空気をやり過ごす。
大事にならずに済んだ。
少し離れた場所から、それを見ていたママが近づき、
のぞむの耳元で小さく囁く。
ママ
「ちょっとやるじゃない」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
しばらくして、今度は別の騒がしさが聞こえた。
のぶこの前の男性客が、
「のぶこちゃん、ちょっと触らせてよ~」
と、手を伸ばそうとしていた。
のぞむは、考えるより先に体が動いていた。
駆け寄り、間に入る。
のぞむ
「女の子にはセクハラだめですが、僕にはOKです」
そう言って、胸の筋肉をピクピクさせる。
男性客は、その動きを見て、
「いや、大丈夫です」
と、気まずそうに手を引っ込めた。
その場の空気が、ふっと緩む。
やがて、店内の明かりが少し落とされ、
閉店時間を告げる声が響いた。
そして、閉店時間となった。
閉店後、片付けをしながら。
のぶこが、そっとのぞむの近くに寄る。
のぶこ
「今日は2回も助けてもらって、ありがとうございます」
のぞむ
「いや、この前は、僕も助けてもらったし」
少し照れたように笑う。
ノゾミがニヤニヤしながら割って入る。
ノゾミ
「何、コソコソ話してるの~デートの約束~?」
のぶこ
「ち、違いますよ~」
そして、小さい声で。
「したいけど……」
のぞむの耳には、かすかに届いた気がした。
ママ
「はーい、片付けしなさーい」
ノゾミ のぶこ
「はーい」
軽い空気のまま、作業が進む。
やがて、片付けが終わり、
ノゾミも、のぶこも帰って行った。
静かな店内に、ママとのぞむだけが残る。
ママ
「のぞむくん」
のぞむ
「はい……」
ママは、のぞむの背中をパシーンとたたく。
ママ
「やればできるじゃない」
のぞむ
「あ、いやぁ、今を頑張るって決めたんです」
ママ
「その調子で頑張ってね」
のぞむ
「はい!」
ほんの少しだけ、胸を張って。
そして2人は店を後にした。
のぞむは、今日は休日で
BARワンダーに来ていた。
いつもの席に腰を下ろす。
社長
「どや?男の生活は、楽勝か?」
のぞむ
「一緒ですね、楽勝じゃないです」
爺さん
「そうじゃ、男だから、女だから、そんなの関係ないじゃろ」
社長
「戻れる薬あるけど、どないする?」
のぞむは少しだけ考えてから、笑う。
のぞむ
「いや、今を頑張るって決めたので、このままでいいです」
その時、ドアが開く。
のぶこが来店した。
のぞむ
「あれ?今日、お店は?」
のぶこ
「お店暇だから帰っていいって、それで、もしかしたら、のぞむさん、ここかな?って思って」
マスター
「え?この俺に会いに来たんじゃ?」
のぶこ
「違います」
マスター
「そんなキッパリ言うなよ」
のぞむは苦笑いする。
のぞむ
「もう帰ろうかと思ってたけど」
のぶこ
「じゃあ、どこか別の場所で飲みませんか?」
のぞむ
「あ、いいよ、じゃあ、マスターチェックで」
会計を済ませ、2人は並んで店を出て行った。
その背中を見送りながら。
社長
「あの2人が、カップルになったら複雑なカップルになるなぁ」
爺さん
「ふぉっふぉっふぉっ、女批判の男と男批判の女、面白いのぅ」
マスター
「あの胸を揉むのか……」
社長
「マスター、それしか頭にないな」
爺さん
「煩悩の塊じゃの」
店内に笑いが広がる。
外では、2人の足音が夜に溶けていく。
⸻
男が楽、女が楽などない。
今を頑張る。
今と向き合う。
今を生きる。
それが大事である。
⸻
おわり。
「吉田さん、コピーお願い」
「吉田さん、これ片付けといて」
まただ。
自分の仕事はあるはずなのに、
なぜか“手が空いている人”扱いされる。
「はい」と返事をするたび、
喉の奥がざらつく。
後輩の男性社員は、もう会議に出ている。
同じ入社年なのに。
(男だから?)
休憩室。
「うちの旦那さ~」
「生理ほんと無理~」
「でも男ってさ、楽だよね」
その言葉に、のぞむは小さく頷きそうになる。
(そう。男は楽)
泣かなくていい。
痛くならない。
化粧もしなくていい。
機嫌を取らなくていい。
“仕事してるだけで偉い”って顔していられる。
(私もそっち側に行きたい)
最近、駅前で見つけたBAR。
名前だけ覚えている。
入ったことはない。
でも今日は、帰る気になれなかった。
家に帰っても、明日が来るだけ。
のぞむは立ち止まり、
深く息を吐いた。
そして、看板の光に向かって歩き出す。
BARワンダーに入る、のぞむ。
扉を開けると、思っていたより静かだった。
ジャズが小さく流れている。
カウンターの奥に、高齢の男が二人。
そして作業着姿の男性が一人。
それだけ。
ネオンの派手さとは違う、落ち着いた空気。
一瞬、帰ろうかと思った。
「いらっしゃい。こちらへどうぞ」
マスターの声は低く、柔らかい。
カウンターの一番端の席を勧められる。
のぞむは黙って腰を下ろした。
「何にしますか?」
「そうね~、濃いめのハイボールで」
「はいよ」
氷の音。
炭酸が弾ける音。
グラスが目の前に置かれる。
のぞむは一口飲んだ。
「はぁ~……」
ため息が混じる。
マスターが静かにグラスを拭きながら言う。
「何か訳ありなため息ですね。話、聞きましょうか」
のぞむはグラスを握ったまま言った。
「マスターは男だし、わからないと思うけど。女って大変。生理でしょ、まだわからないけど出産の痛みでしょ、仕事だって大体雑用だし、メイクもしなくていいし、絶対男がいい、男が楽」
一気に吐き出す。
マスターはグラスを拭きながら、小さく笑った。
「なんか似たような話を聞いた事があるなぁ…」
「似たような話?」
カウンターの奥の爺さんが口を開く。
「性別に楽やら苦など関係ないぞ」
「そんな事ないわよ」
作業着の男――社長が、肩を揺らす。
「この前、爺さんに卸した薬、あれどうや?」
「うーん、あれか。ちょうど持っとるが…」
「薬?何?」
社長は胸ポケットから名刺を出す。
「せや、わしな色んな薬作ったりしてな、爺さんの店に卸しとるねん。名刺渡しとくわ」
のぞむは受け取る。
『㈲不思議堂 退職代行 不動産』
「何でも屋?」
「何でも屋みたいなもんやな。前にあんたと逆にな、女が楽っていう男がおってな。女に変身する薬、売ったんや」
「女に変身?!」
爺さんが小瓶を差し出す。
「これじゃ」
のぞむはラベルを見る。
「マハタ印の男変薬?これで男に変身できるの?」
「まだ誰にも売ってないので、わからんが社長の腕は確かじゃ」
「女に変身したんが2人おるからな、いけるやろ」
「そうなんだ、いくら?」
「成功払いの1万じゃ。男に変身して成功したら残り99万をここに払いに来れば良い」
「戻れる薬もあるし、なんかあったら名刺に連絡先書いてるよって」
のぞむは即答した。
「買います!!」
財布から一万円札を出す。
その瞬間、マスターがひょいと奪う。
「飲み代のツケな爺さん」
レジへ入れる。
「ちぇ、ちゃっかりしておる」
のぞむは小瓶を握った。
「じゃあ、私、帰ります」
会計を済ませ、店を出る。
手の中の瓶が、やけに軽い。
家に帰ってきた、のぞむ。
「ただいま~、って誰もいないっての~。彼氏もいないし~。まぁ作る気もないけどね~」
玄関で一人ツッコミ。
バッグをソファに投げて、バスルームへ向かう。
鏡の前でメイクを落としながら、ふと呟く。
「男になったら、こんなめんどくさい事もしなくていい」
アイラインが落ちていく。
今日の自分も、一緒に流れていく。
シャワーを浴びて、パジャマに着替え、ベッドに倒れ込む。
「なかなか雰囲気の良い店だったなぁ……」
天井を見上げて、思い出す。
「あっそうだ、あの薬だ」
バッグから小瓶を取り出す。
手のひらに収まる、やけに軽い瓶。
「多分、新手の詐欺だろうけど……騙されてみるか」
ラベルを読む。
「えーっと……自分のなりたい男性を思い浮かべ就寝前に飲んでください、か」
鼻で笑う。
蓋を開ける。
「イケメンでー、たくましくてー……背が高くて……」
少し本気で想像してしまう自分がいる。
「ゴクッ」
喉を通る。
何も起きない。
「で、寝たら男に変身。ないないw」
そう言って布団に入り、目を閉じた。
手の中の瓶を、枕元に置いたまま。
翌朝。
目覚ましより少し早く、のぞむは目を覚ました。
「……なんか、下半身に違和感あるなぁ。やだなぁ、生理かなぁ」
そう思いながら、布団をめくる。
「あれ? あれ? なんで下半身……膨らんでる……?」
パジャマのズボンを、恐る恐るちらっとめくる。
「ぎゃああああああああっ!!
お、男のアレが生えてる~~~~~~~~~ッ!!」
反射的にベッドを飛び降り、洗面所へ駆け込む。
「え、え、え、え~~~~~~~~~!?
あの薬、詐欺じゃないのー!!」
洗面所で一人、わたわたと足踏みする。
深呼吸しながら、鏡の前で自分の体を確認する。
「……顔、男。
喉仏……ある。
胸は……あるけど、筋肉……?」
そして、恐る恐るもう一度ズボンをちらり。
「……ある~~~~~~~~~~っ。
やばいやばいやばい……」
「落ち着け、落ち着け……私……
……俺、か……」
額に手を当て、必死に思考をまとめる。
「どうしよう……」
一瞬考えて、はっと顔を上げる。
「……そうだ!! 名刺!!
あの社長の名刺!」
そう言って急いでカバンをひっくり返し、名刺を探す。
スマホを取り出し、震える指で番号を押した。
呼び出し音がしばらく鳴る。
三回目で繋がった。
社長
「はい、㈲不思議堂です」
のぞむ
「あ、あ、あの~~~~~~~~昨日の夜のBARの~~~」
自分の声が低い。違和感が走る。
社長
「ちょっと1回深呼吸せぇ」
のぞむは深呼吸する。
のぞむ
「あの、男変薬を買った女です」
社長
「その男声って事は男になったんやな」
のぞむ
「は、はい、どうしたらいいですか?」
ベッドの縁を強く握る。
社長
「どうしたらって男は楽言うてたんやから男で生きるしかないやろ」
のぞむ
「はい……そうですね、でも今の会社行けないし…」
一拍。
社長
「はい退職代行不思議堂です。ご要件を」
のぞむ
「あ、お願いいたします」
社長
「はいはい、では、会社名会社の住所言うてくれたら適当な理由でやっとくわ」
のぞむは伝える。
社長
「はいはい、まぁ、服とか買いかえんとあかんやろうし、今度でええわ、ほな」
通話が切れる。
のぞむはしばらく動けなかった。
「とりあえず、仕事探さないと、その前に服」
のぞむはクローゼットを開ける。
ハンガーに並ぶスカートを無意識に避け、ジーパンとTシャツを引き抜いた。
「……」
着替えてみる。
「は、入らない、筋肉が邪魔する……昨日の想像した私……バカッ」
肩が引っかかり、腕が通らない。
鏡に映る自分に、思わず舌打ちする。
「とりあえず……アマゾネスで頼むか、外出れない……」
スマホを取り出し、ベッドに腰を下ろす。
アマゾネスのアプリを開き、サイズを何度も確認しながらスクロールする。
Tシャツ、ジーンズ、下着。
次々とカートに入れていく。
画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
スマホを置き、天井を見る。
スマホを取り出し、アマゾネスのアプリで色々注文する、のぞむだった。
「とりあえず、お腹空いたな」
そう言って、のぞむはキッチンへ向かう。
買い置きしてあったカップ麺を棚から取り出し、ポットのお湯を注ぐ。
フタを閉じ、テーブルに置く。
そのまま椅子に腰を下ろし、ぼんやり待つ。
数分後、フタを開け、箸で軽くかき混ぜる。
黙って口に運ぶ。
「……」
一息ついて、背もたれに体を預ける。
「はぁ~服届くまで、何にもできないや、この下着もくい込んで痛いし…」
言いながら、無意識に腰をずらす。
落ち着かないまま、残りを食べきる。
容器を片付け、ベッドへ向かう。
「とにかく寝よ」
そう言って、のぞむは布団に潜り込んだ。
部屋は静かで、さっきまでの慌ただしさが嘘みたいだった。
そのまま、目を閉じた。
「ふわぁ~、夜まで寝てしまった……」
のぞむは伸びをしながらベッドを出る。
とりあえず服が届いてないかと玄関へ向かい、ドアを開けた。
足元に、ダンボール。
「さすがアマゾネス、早いな」
それを抱えて部屋に戻り、まっすぐバスルームへ向かう。
とりあえず裸になる、のぞむ。
鏡に映る自分の姿を、改めて見る。
「顔はイケメン、あつい胸板、……」
視線が自然と下に落ちる。
「この部分は……やっぱり慣れない……」
小さくため息をつきつつ、気を取り直してダンボールを開ける。
「これがボクサーパンツで……」
一つずつ手に取り、身につけていく。
「よし、完成!」
鏡の前で軽く体をひねる。
「これならホストにでもなれそうだなぁ」
少しだけ気分が上がる。
「ちょっと外、ブラブラしてみるかぁ」
そう言って、ダンボールの底に残っていた靴を履き、のぞむは外に出ることにした。
そして夜道を歩く、のぞむ。
しばらく歩いていると――
男
「ちょっと姉ちゃん、飲みに行こうよ。その後、可愛がってあげるからよ~」
女性の腕を掴む男。
女性
「や、やめてください……」
どうにか腕を払い、女性はのぞむの方へ駆け寄る。そして、のぞむの後ろに隠れる。
女性
「た、助けてください」
男
「なんや兄ちゃん、正義のヒーロー気取りか?」
のぞむ
「い、いや、あ、あの……」
次の瞬間――
ボスッ。
男は、のぞむの腹を殴る。
のぞむ
「ぐ、うぅぅぅ……」
お腹をおさえ、うずくまる。
男
「なんや、見掛け倒しのヒーローやのぅ」
その時、パトカーのサイレンが近づく。
男
「チッ」
男はそのまま走り去った。
女性
「あ、あの、私のせいで、ごめんなさい」
のぞむ
「あ、大丈夫だよ」
どうにか立ち上がる。
女性
「私、そこの不思議な子猫ってガールズバーで働いてる、『のぶこ』って言います」
名刺を差し出す、のぶこ。
のぞむ
「そ、そうなんだ」
のぶこ
「お礼がしたいので、良かったら店に来てください」
のぞむ
「あ、あぁ」
そう言って、2人は店に向かった。
そして、のぶこに連れられ、2人は開店前のガールズバーに入った。
ママ
「あら、のぶこちゃん、同伴?」
ノゾミ
「イケメン捕まえたの?のぶこちゃん」
のぶこ
「違います、私が絡まれたのを助けてくれたんです」
ママ
「そうなの~?ありがとうございます」
ノゾミ
「それだけたくましいものね~さすが男の人~」
のぞむ
「あ、いや、あの~」
のぶこ
「お礼がしたくて…」
ママ
「そうね、お代はいいわ。今日は飲んでいってちょうだい」
のぞむ
「あ、はい」
そうして席を案内された、のぞむだった。
――一方的にやられたのに、言えなかった。
席に着いた、のぞむ。
ママ
「何飲む?何でもいいわよ」
のぞむ
「あ、はい、じゃあハイボールで」
のぶこが準備して、のぞむの前に置く。
「どうぞ」
のぞむ
「あ、ありがとう」
ノゾミ
「なんか緊張してる?こういうとこ、初めてなの?」
のぞむ
「そうですね、初めてです」
――当たり前だよ、女だったもん……
と心の中で思う、のぞむ。
ママ
「最近、うちも忙しくなったからチーフ雇おうかと思ってて。あなた仕事何してるの?」
のぞむ
「最近、仕事辞めて」
ママ
「いいじゃない。たまにセクハラとかしたりガラの悪い人も来るしさぁ、そのたくましい体なら守ってくれそう!」
――無理無理、さっきも一発でダウンだよ。
ノゾミ
「そうね~ムキムキだもん、賛成!」
――賛成しないで~。
ママ
「時給2000円!どう?それに女性客もつきそう。イケメンだし」
ノゾミ
「のぶこちゃんも、そう思うでしょ?」
のぶこ
「か、かっこいいです」
――時給2000円かぁ……どうしよう。
そんなガラの悪い男なんか滅多に来ないだろ。
のぞむ
「はい、わかりました」
ママ
「じゃあ、よろしくね」
あれよあれよと仕事が決まった、のぞむだった。
のぞむ
「じゃあ、そろそろ失礼します」
ママ
「あら、そう?また、いつから働けるか店に連絡ちょうだい」
のぞむ
「わかりました」
店の外まで、のぶこが見送る。
のぶこ
「あの……今日はママがお礼した感じになったので、私、たまに行くBARがあるので今度お礼させて下さい」
のぞむ
「あ、あぁ、わかった」
のぶこ
「渡した名刺に連絡先かいてあるので、またメッセージください」
のぞむ
「うん」
夜風が少し冷たい。
そう言って家に帰る、のぞむだった。
家に帰ってきた、のぞむ。
とりあえず、シャワーを浴びる事にした。
服を脱ぎ、鏡の前に立つ。
のぞむ
「うわ、お腹、ちょっとアザできてる~」
紫がかった跡を、指でそっと触る。
今まで、男性から守られる側だった。
でも今は、守る側。
「仕事決まったけど……女の子達を守るとか、できんのかなぁ」
さっきの一発が、じわっと思い出される。
そんな事を考えながら、シャワーを浴びる。
湯が当たると、腹が少し痛む。
新しく買い直したパジャマに着替え、ベッドに入る。
天井を見つめる。
――男って、守る側って、こういうこと?
そのまま、ゆっくり目を閉じた。
翌朝。
のぞむ
「うわ、またテントができてる……」
トイレに来たが、なかなか狙いが定まらない。
のぞむ
「うわぁぁ、やりにくい、おさまれよ、お前……」
結局、周りに飛び散ってしまい、黙って掃除する。
ため息。
トイレから出て、テーブルに置いたままの名刺に目がいく。
のぶこの名刺。
スマホを手に取り、少し迷ってから打つ。
「昨日の、のぞむ、です。今晩あたりどうですか?」
送信。
のぞむ
「顔洗うか」
洗面所へ。
鏡を見て、思わず眉をひそめる。
「めちゃくちゃヒゲ伸びてる」
女の時に使っていたムダ毛剃りのカミソリで、どうにか剃る。
のぞむ
「こんなの毎日剃るのかぁ……それ以外は、男だから良いけど……」
洗面所を出て、スマホを見る。
のぶこから返事が来ていた。
「はい、ちょうど休みなので19時ぐらいにガールズバーで待ってます のぶこ」
のぞむ
「19時か……まだまだ時間あるなぁ」
少し考えてから、つぶやく。
「カミソリとか、必要な物買いに行くか」
そう言って服を着替える、のぞむだった。
コンビニで、カミソリとヘアワックス、その他いくつかのメンズ用品を買い、袋を下げて家へ向かう。
昼間の空気は明るいのに、気持ちはまだ落ち着かない。
男として外を歩くのは、まだ少しぎこちない。
その途中。
背後から、聞き覚えのある声。
男
「昨日の兄ちゃんじゃん、昨日の続きしようぜ」
振り返る。
昨日、腹を殴ってきた男だった。
一瞬、体が強張る。
のぞむ
「ごめんなさい」
それだけ言って、踵を返す。
走る。
息が乱れる。
袋が揺れる。
何も考えず、とにかく走って、家へ向かった。
命からがら逃げて家に帰ってきた、のぞむ。
ドアを閉め、鍵をかける。
のぞむ
「ふぅ~~逃げきれた~、足ガクガク」
背中をドアにもたれさせる。
しばらく動けない。
心臓がうるさい。
息が荒い。
袋を床に落としたまま、這いずるようにベッドまで行く。
そのまま大の字になる。
天井を見つめる。
さっきの男の顔が、まだ頭に残っている。
――男って、楽なんじゃなかったのかよ……
何も考えられず、ぼーっとしていた、のぞむ。
時計を見る。
のぞむ
「こんな時間か……外出るの怖いけど行くか……」
深く息を吐く。
軽く身なりを整え、家を出る。
夜の空気は冷たい。
さっきの出来事が頭をよぎるが、足は止めない。
特に何もなく、ガールズバーまで着いた。
既に、のぶこが待っていた。
のぞむ
「お待たせ」
のぶこが気づく。
のぶこ
「あ、行きましょう、こっちです」
しばらく歩く。
静かな路地に入る。
のぶこ
「ここです、すごく雰囲気がいいBARなんです」
のぞむ
「ここって……」
見覚えのある扉。
まぁいいか、と思い、
2人でBARワンダーに入った。
マスター
「いらっしゃい。おや? のぶこちゃん、俺という彼氏がいながら男連れか?」
のぶこ
「いつからマスター彼氏になったんですか~、もう~」
社長
「同伴か?」
爺さん
「しかし女っぽくなったもんじゃな」
のぶこ
「違いますよ、ちょっと、お礼をかねてきただけです。のぞむさん、どうぞ」
のぞむ
「あ、あぁ」
2人はカウンター席に座る。
マスターはグラスを磨きながら、ちらりとのぞむを見る。
社長
「のぞむ……なるほど」
社長はボソッと独り言をいう。
爺さん
「面白い組み合わせじゃな」
と、社長に耳打ちする。
のぞむは、その視線の意味がわからないまま、落ち着かない様子で座っていた。
社長
「それよか貴子ちゃんに、あの店紹介されて、どうや?楽か?」
のぶこ
「最初は、本当に辞めようかと思った~、酔い潰されるし、ホテル誘ってきたり、セクハラされたり……」
社長
「最初の貴子ちゃんみたいやな」
爺さん
「マスターのようなスケベがいっぱいおるって事じゃな」
マスター
「違う!俺は真面目なスケベだ!」
軽い笑いが起こる。
その空気が静まった瞬間。
社長が、ゆっくりとのぞむを見る。
社長
「しかし、この前、男が楽って言うのが、ここに来てたけど、のぶこちゃん、どう思う?」
視線は、のぞむから外れない。
のぞむは、ビクっとする。
グラスの氷が、カランと鳴る。
いやぁ~男も大変ですよ~、今は女社会とか言われてるし、女性が総理大臣だし、ちょっとした一言でセクハラだ~、とか言われるし」
軽く肩をすくめるような調子で、のぞむが言う。
マスター
「そうそう、こうやって、のぶこちゃんの胸を観察してるだけでセクハラだって……」
のぶこは反射的に胸をおさえる。
「それはセクハラです」
即答だった。
社長
「ほぅ、男になれる薬あっても、なりたくないか」
のぶこ
「なりたくないです、貴子さんに言われた、今を頑張る 今と向き合う、それが大事だと思ったんです」
その言葉に、場の空気が少しだけ静まる。
爺さん
「まぁ、その言葉は、ワシが貴子ちゃんに言ったんじゃけどな、ほんに、それが大事じゃ」
のぞむ
「今を頑張る……今を生きる」
グラスを握ったまま、ぽつりとつぶやく。
……まだ、のぞむは、その言葉の本当の意味はわからなかった。
けれど、胸の奥に、なにか小さく引っかかるものが残っていた。
のぶこのスマホが短く震える。
「はい、のぶこです」
少しだけ声のトーンが変わる。
ママ
「ちょっと休みなのに悪いんだけど時給倍出すから今から店来れない」
のぶこ
「はい、わかりました、すぐ行きます」
即答だった。
通話を切り、スマホをバッグにしまう。
「マスターチェックで、のぞむさんの分も」
そう言って、カウンターに一万円札を置く。
「足りなかったら、今度払いに来ます~、のぞむさんは、ごゆっくり」
軽く頭を下げると、そのまま振り返り、足早に出口へ向かう。
ドアが閉まる音がして、店内に少しだけ静けさが戻った。
のぞむの前には、まだ手をつけていないグラスが残っていた。
社長「どや?男になってみて」
のぞむをチラっと見る。
のぞむ「えっ?!」
爺さん「最初からお見通しじゃ」
のぞむは一瞬言葉に詰まる。
のぞむ「いや、まだなったばかりでイマイチわからないですけど……」
マスター「男ならな、あんな可愛い胸の大きい子がいたら目を輝かせるもんだ!」
社長「そら、マスターだけや」
爺さん「男はスケベって事にするでない」
場が軽く緩む。
のぞむ「とりあえず、さっきの子の店のボーイとして働く事になったので頑張ってみます」
マスターは立ち上がる。
「さっき忙しいみたいな感じだったから、今から働いてこい、しかし、その服はダメだな」
そう言って奥へ消える。
すぐ戻り、服を差し出す。
「サイズ間違いで買ったパーテンダーの服だ、それやるよ、奥で着替えてこい」
のぞむ「えっ?いいんですか?」
服を受け取り、BARの奥へ。
着替えの途中。
マスター「どうだ?」とチラってみる。
のぞむ「きゃっ!」と体を隠す。
マスター「バカヤロウ、男には興味ねぇよ」
数分後、着替えて出てくる、のぞむ。
マスター「サイズピッタリだな」
社長「マスターより、似合ってるわ」
爺さん「頑張ってこい」
のぞむ「は、はい」
そのまま足早に店を後にした。
店に着いた、のぞむ。
ドアを開けた瞬間、いつもの空気とは違うざわつきが押し寄せた。店内はかなり慌ただしかった。
のぞむ
「あの、ママ、今から手伝わせてください」
ママ
「ありがとう~、色々話は、あとでするわ、とりあえず、あそこのグラスとか奥に運んで、テーブル拭いて~、それ終わったら洗い物お願い~」
のぞむ
「はい!」
返事だけは妙に大きい。
戸惑いも不安も飲み込んで、目の前のグラスを掴む。
そう言ってテーブルを片付け、洗い物をする、のぞむだった。
ぽつぽつとお客さんが帰り、一段落ついた。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、店内に静けさが戻る。
ママ
「ありがとうね~助かったわ~」
のぶこ
「ありがとうございます、助かりました」
ノゾミ
「もうヒーローきた~~~って感じだった~」
ヒーローか……
のぞむは、濡れた手をタオルで拭きながら、ほんの少しだけ視線を落とす。
昨日は一発で腹を殴られてうずくまったのに。
ヒーローなんて、程遠い。
そして閉店時間となった。
グラスの音も止み、店内にほっとした静けさが広がる。
ママ
「のぞむくん、今日はありがとうね、今日は、ちょっと忙しかったけど仕事内容は、こんな感じだけど、いけそう?」
のぞむ
「はい、なんとか頑張ってみます」
ノゾミ
「それに~この筋肉、守ってくれそう~」
そう言って、のぞむの腕の筋肉をさわさわする。
のぞむ
「あ、いやぁ~…」
喧嘩とか格闘技とかした事ない……
心の中では、正直にそう思っている。
のぶこ
「本当にたくましくて男らしいです」
ママ
「みんなも頼りにしてるし明日から、よろしくね」
のぞむ
「は、はい」
頼られる側。
守る側。
その言葉が、ほんの少しだけ重く胸に残る。
ママ
「さぁ、片付けて帰りましょ」
4人で片付けをするのだった。
店を出た、のぞむ。
夜のビルの前は、ネオンと呼び込みの声で少しざわついている。
女性
「ちょっと~イケメンのお兄さ~ん」
振り返ると、同じビルの店の女性店員がいた。
「お客さん、今ガラガラで~助けてくれな~い」
そう言って、のぞむの腕を掴み、胸を押し付ける。
のぞむ
「あ、いや、あの~」
女性
「飲み放題3000円だから」
3000円かぁ……。
断ったら、男としてダサいかな……。
そんな考えが一瞬よぎる。
その時。
のぶこ
「のぞむ!行こ!」
のぶこが、のぞむに腕を絡ませる。
女性
「なによ、あなた」
のぶこ
「今からデートなの~」
そう言って、のぞむを引っ張り歩き出す。
ビルの角を曲がったところで、のぶこが小さく息を吐く。
のぶこ
「あの店、あまり良い噂聞かないから」
のぞむ
「そ、そうなんだ……」
なんか逆に助けられてしまったかな……。
のぶこ
「じゃ、私、家、あっちなので」
そう言って、のぶこは手を振り、帰って行った。
家に着いた、のぞむ。
バスルームに向かいシャワーを浴びて、布団に入る。
今日一日の出来事が、頭の中でゆっくり巻き戻る。
「頼りにしてるか……」
天井を見つめたまま、小さく呟く。
「なんか逆にプレッシャーかも……」
ヒーロー。
守ってくれそう。
男らしい。
言われるたびに、胸の奥が少しざわつく。
「ていうか、あんなに動いたの久しぶりだし……寝よ」
そう言って、のぞむは目を閉じた。
体は疲れているのに、心はまだ少しだけ落ち着かないまま。
で、次の日から本格的にガールズバーで働く事になった。
黒いシャツにベスト。
昨日もらったバーテンダー用の服が、少しだけ背筋を伸ばさせる。
ママ
「ちょっと、のぞむくん、そちらのお客さんのお相手少しだけ、お願い」
のぞむ
「はい」
テーブルに向かう。
三十代くらいの男性客が、あからさまに眉をひそめた。
客
「え?男?」
のぞむ
「今日は少し混み合ってまして、すぐ女の子来ますので…」
客
「俺、男と話する為に来たんじゃないんだけど」
その言い方に、胸の奥がチクッとする。
客はグラスを持ち上げた。
「ほら、男なら酒飲めよ。付き合え」
のぞむは一瞬ためらう。
だが、ママも女の子も忙しそうだ。
断れない。
のぞむ
「はい…」
グラスを空ける。
客
「おかわりな」
次の一杯。
また一杯。
頭がふわっとしてくる。
客
「なんだよ、もう顔赤いじゃん」
笑い声。
「男のくせに情けないな」
その一言が、妙に重かった。
――男のくせに。
昨日は「守ってくれそう」。
今日は「男なら飲め」。
期待も圧も、全部“男だから”。
足元が少しふらつく。
ママがそっと割って入る。
「はいはい、そこまで~。のぞむくん、裏でちょっと水飲んできて」
のぞむは小さくうなずき、カウンターの奥へ下がる。
冷たい水を一気に飲む。
鏡に映る自分の顔は、確かに情けない。
でも。
女だった頃も、楽じゃなかった。
男になっても、楽じゃない。
「……どっちも、しんどいな」
小さく呟いた。
店内の片付けが終わり、
ノゾミも、のぶこも帰っていった。
シャッターを半分下ろした店内には、静かな空気が残る。
のぞむとママ、二人きりになった。
のぞむ
「ママ……俺、迷惑かけてませんか?」
少し視線を落としたまま、ぽつりと聞く。
ママはグラスを拭く手を止めない。
ママ
「あなたは頑張ってるわ」
軽く笑う。
「だって、お客さん怒らせたらいけないって頑張って飲んだんでしょ?」
のぞむ
「はい……そうですね」
元気のない返事。
ママは、のぞむの前に立つ。
ママ
「でもね」
少し間を置いて、
「男ならシャキっとしなさい」
そう言って、笑顔でのぞむの背中をパシッと叩く。
軽いはずの一発なのに、妙に重く感じた。
男なら。
またその言葉。
のぞむは、作った笑顔でうなずく。
「はい……」
家に帰ってきた、のぞむ。
シャワーを浴びる。
熱い湯が肩を打つたび、今日の言葉が頭の中で反芻される。
ベッドに横たわる。
天井を見つめたまま、目を閉じない。
「男のくせに……男なら……」
耳の奥に残っている。
「男って強くいないといけない?男って弱音吐いたらいけない?落ち込んだらいけない?」
問いかけても、答えは出ない。
女だった頃は、
「女なんだから」って言われた。
今は、
「男なんだから」って言われる。
どっちも、勝手に決められた役割。
でも。
ママの声がふと浮かぶ。
『あなたは頑張ってるわよ』
あの一言だけは、少し温かかった。
「とりあえず頑張るしかないか……」
そうつぶやき、ようやく目を閉じた。
そして、店の開店準備の為、早めに出勤した、のぞむ。
テナントビルの前で、聞き覚えのある声がする。
見ると――
この前、自分の腹を殴ったあの男が、また、のぶこに絡んでいる。
男
「おー、この前ワンパンでダウンしたヒーローじゃねぇか」
のぶこ
「やめてください……」
あの時、何もできずにうずくまった自分を思い出す。
腹の奥がひやっとする。
でも、足は止まらなかった。
のぞむは間に入る。
「うちの従業員です、やめてください」
男が鼻で笑う。
「ほらよ」
拳が振り下ろされる。
その瞬間。
『男ならシャキっとしなさい!』
ママの声がよぎる。
のぞむは、思い切り腹筋に力を入れる。
ドスッ。
鈍い衝撃。
でも――立っている。
のぞむ
「全然効かないけど」
男の表情が一瞬止まる。
のぞむ
「男の力って、そんな事に使うんじゃない、お前みたいな男がいるから男は野蛮だとか言われるんだよ」
静かな声。
男は舌打ちをする。
「ちぇっ」
そのまま逃げて行った。
しばらく動けない、のぞむ。
あれ?私……守れた……。
横を見ると、のぶこの目はハートマークになっていた。
「のぞむさん、かっこいい……さすが男……」
その言葉に、のぞむは少しだけ、複雑な顔をする。
そして2人で店に入る。
まだ準備中の店内に、のぶこの弾んだ声が響く。
のぶこ
「ママ~、のぞむさんに、さっき、また助けてもらって~めっちゃかっこよかったの~」
ママが振り向き、にやりと笑う。
ママ
「ちょっと~、のぶこちゃん目がハートマークよ~、というか、やるじゃない~」
そう言って、のぞむの胸板をツンツンする。
のぞむ
「ちょ、ちょっと~」
ノゾミも寄ってくる。
ノゾミ
「そうなの~見たかったなぁ~」
って、のぞむの胸板をツンツンする。
のぞむ
「ノゾミさんまで~」
軽く笑い声が広がる。
ママ
「さぁ~たくましいボデーガードもいるし私達は安心して今日も1日頑張るわよ」
ノゾミ のぶこ
「おーー!!」
のぞむは苦笑いしながら、その輪の中に立っていた。
そして店は開店した。
店が開店し、ぽつぽつと客が入り始める。
グラスの音と、軽い笑い声が店内に戻ってきた頃。
ママ
「のぞむくん、ちょっとだけ、あのお客さんお願い~」
のぞむ
「はい」
言われた席へ向かうと、そこにいたのは――
以前、無理に酒を飲まされて潰れた、あの客だった。
男性
「なんだよ、この前の男のクセに飲めない兄ちゃんか」
一瞬、体が強張る。
けれど、のぞむは深く息を吸った。
――今を頑張る。
そう決めた、のぞむは。
のぞむ
「そうなんです~実はオカマなんです~」
男性
「なんか、この前とかわったな」
軽口を交わしながら、その場の空気をやり過ごす。
大事にならずに済んだ。
少し離れた場所から、それを見ていたママが近づき、
のぞむの耳元で小さく囁く。
ママ
「ちょっとやるじゃない」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
しばらくして、今度は別の騒がしさが聞こえた。
のぶこの前の男性客が、
「のぶこちゃん、ちょっと触らせてよ~」
と、手を伸ばそうとしていた。
のぞむは、考えるより先に体が動いていた。
駆け寄り、間に入る。
のぞむ
「女の子にはセクハラだめですが、僕にはOKです」
そう言って、胸の筋肉をピクピクさせる。
男性客は、その動きを見て、
「いや、大丈夫です」
と、気まずそうに手を引っ込めた。
その場の空気が、ふっと緩む。
やがて、店内の明かりが少し落とされ、
閉店時間を告げる声が響いた。
そして、閉店時間となった。
閉店後、片付けをしながら。
のぶこが、そっとのぞむの近くに寄る。
のぶこ
「今日は2回も助けてもらって、ありがとうございます」
のぞむ
「いや、この前は、僕も助けてもらったし」
少し照れたように笑う。
ノゾミがニヤニヤしながら割って入る。
ノゾミ
「何、コソコソ話してるの~デートの約束~?」
のぶこ
「ち、違いますよ~」
そして、小さい声で。
「したいけど……」
のぞむの耳には、かすかに届いた気がした。
ママ
「はーい、片付けしなさーい」
ノゾミ のぶこ
「はーい」
軽い空気のまま、作業が進む。
やがて、片付けが終わり、
ノゾミも、のぶこも帰って行った。
静かな店内に、ママとのぞむだけが残る。
ママ
「のぞむくん」
のぞむ
「はい……」
ママは、のぞむの背中をパシーンとたたく。
ママ
「やればできるじゃない」
のぞむ
「あ、いやぁ、今を頑張るって決めたんです」
ママ
「その調子で頑張ってね」
のぞむ
「はい!」
ほんの少しだけ、胸を張って。
そして2人は店を後にした。
のぞむは、今日は休日で
BARワンダーに来ていた。
いつもの席に腰を下ろす。
社長
「どや?男の生活は、楽勝か?」
のぞむ
「一緒ですね、楽勝じゃないです」
爺さん
「そうじゃ、男だから、女だから、そんなの関係ないじゃろ」
社長
「戻れる薬あるけど、どないする?」
のぞむは少しだけ考えてから、笑う。
のぞむ
「いや、今を頑張るって決めたので、このままでいいです」
その時、ドアが開く。
のぶこが来店した。
のぞむ
「あれ?今日、お店は?」
のぶこ
「お店暇だから帰っていいって、それで、もしかしたら、のぞむさん、ここかな?って思って」
マスター
「え?この俺に会いに来たんじゃ?」
のぶこ
「違います」
マスター
「そんなキッパリ言うなよ」
のぞむは苦笑いする。
のぞむ
「もう帰ろうかと思ってたけど」
のぶこ
「じゃあ、どこか別の場所で飲みませんか?」
のぞむ
「あ、いいよ、じゃあ、マスターチェックで」
会計を済ませ、2人は並んで店を出て行った。
その背中を見送りながら。
社長
「あの2人が、カップルになったら複雑なカップルになるなぁ」
爺さん
「ふぉっふぉっふぉっ、女批判の男と男批判の女、面白いのぅ」
マスター
「あの胸を揉むのか……」
社長
「マスター、それしか頭にないな」
爺さん
「煩悩の塊じゃの」
店内に笑いが広がる。
外では、2人の足音が夜に溶けていく。
⸻
男が楽、女が楽などない。
今を頑張る。
今と向き合う。
今を生きる。
それが大事である。
⸻
おわり。
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