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ささやかなる同居

もう保険の人が来るから

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 ……あれはジョウビタキ。

 これはカチョウ。

 お前は万千湖。

 そんな感じに軽く呼んでみたい。

 そう駿佑が思っているのも万千湖は知らなかった。



 昼休みになっても、駿佑は万千湖の名前が呼べないことについて、ずっと悩んでいた。

 このままでは仕事に支障をきたしてしまうな、と雁夜と来ていたリラクゼーションルームで思ったとき、

「なに見てんのー?」
とやってきた綿貫が駿佑の手許にある書類を覗き込んだ。

「車の保険だ。
 ちょうど更新時期なんだ。

 ほっといたら、自動更新なんだが。
 今日、ちょうど保険会社の人が来るんで――」

「ああ、そ……」

 そうなんだー、と言いながら綿貫が珈琲をとりに行こうとしたとき、書類を見つめたまま駿佑が言った。

「だから、白雪にプロポーズしようかと思って悩んでたんだが」

 何故っ!?
という顔で綿貫と雁夜が見たようだった。

 雁夜が焦ったように言ってきた。

「さっき、マチカを名前で呼べないって悩んでなかった?
 なんで、名前呼べない人がプロポーズできるのっ?」

 駿佑は書類から顔を上げ、
「プロポーズするとき、名字で呼びかけてプロポーズしてはいけない決まりでもあるのか」
と言う。

「さっきからずっと迷ってたんだ」

「プロポーズするかどうか?」

「いや、保険」

 ……保険? と二人が訊き返してくる。

「白雪が六万の車を買いたいと言うんだ。
 そんなすぐ車検が切れそうな車を買うより。

 運転したいのなら、俺の車を貸してやるのにと思ったんだが。
 今の保険では白雪は乗れないんだ」

 本人限定になってるからな、と駿佑は言った。

「いろいろ悩んだ結果。
 白雪と結婚して、本人・配偶者限定にするのが一番いいという結論にたどり着いた」

 そんなことでかっ、と二人は言うが。

 単に、どうしても、万千湖と呼べないと思い詰めていたところに、保険のことも重なって。

 脳の容量を超えたからだった。

 脳というか、感情か。

 駿佑は恥と照れと不安を捨て、仕事のときのように判断していた。

 保険の内容を切り替えるなら今だ。

 白雪も運転できるようにするためには、本人・配偶者限定にするのが一番いい。

 俺はどうやら白雪が好きらしいし。

 あの家にも白雪としか住むつもりはない。

 だったら、結婚するのが一番だ。

 仕事モードの駿佑の脳はその決定を下した。

 白雪には断られるかもしれないが。

 なにもしないより、した方がいい。

 倒れるときは、常に前のめりであるべきだ。

 仕事モードの駿佑はそう思っていた。

「昼過ぎに保険の人が来る。
 白雪は何処だ?」
と駿佑は立ち上がる。

「えっ? 今からっ?」

「そ、そのままでいいのっ?

 ゆ、指輪とか……
 あっ、渡したかっ」

「思い出の場所とか、夜景の素敵なレストランとかでなくていいのか?
 プロポーズがしょぼいと一生言われるぞっ」
と心配してくれる二人をお供のように引き連れ、駿佑は万千湖を探して社内を歩く。

 そうだ、恐るな。
 失敗しても、フラれるだけだっ。

 ……フラれ……。

 駿佑の頭の中に、万千湖が去り、激突してくる鳥と狸とあの家に取り残される自分の幻が浮かんだ。

 足許には万千湖が残して行ったまつぼっくり。

 いや、狸がいるのはコンビニだったな……。

 ちょっと気持ちがえそうになったが、保険の人はあと少しで来てしまう。

 どうも自分は恋愛に関しては、積極的でないようだ。

 今のこの勢いでどうにかすべきだ、と駿佑は思っていた。


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