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謀略の見合い
祠と満月
しおりを挟む逢魔が時の龍神ヶ淵には、オレンジの光が靄のように立ち込めていた。
見慣れているはずの透子も、つい足を止めて見入る。
龍神とは、神と人とを結ぶ自然の気であるという説があるが、それは本当かもしれないと思った。
圧倒的な景色の前に、人はいつも神を感じとる。
神域というのは、荘厳な光景を見せるタイミングの多い場所のことかもしれないと、ふと思った。
そのとき、祠の前に、小さな何かがあるのに気づき、目を細めた。
透子は生まれた落ちたその瞬間から目が悪かった。
コンタクトを入れるようになるまで、透子の知る世界はいつもぼんやりとぼやけていた。
だが、常に現実とは違う世界の狭間に居るようなその感じが、自分には相応しいように思えて、必要なとき以外、今も裸眼のままにしていた。
視力が悪いと光は少し広がり滲んで見える。
その夕暮れ時の光の中を、透子は祠に向かって歩いていった。
古びた石の祠の前に、小さな白い花弁の野の花が一輪、供えられていた。
その花が妙に力なく見え、透子は思わず手を伸ばす。
「触るな」
背後からした鋭い声に振り返ると、和尚が立っていた。
その目線は花の辺りを向いている。
「誰かが淵に願掛けしてるんだ。
邪念に当てられるぞ」
「願掛け?」
透子はしゃがみ込み、改めてその小さな花を見た。
どんな願いか知らないが、それを受けるにはちょっと力ない存在に思えた。
願いに供物が負けている。
その余剰分は何処へ行くのだろう。
そう思いながら、淵に視線を流すと、和尚の声がした。
「今どきわざわざ、こんな鬱蒼とした山の中まで来て龍神に願いをかけるなんて、ろくなもんじゃないないさ」
そう決め付け、祠の前から退けようとしたようだったが、花に触れた途端、和尚は何かに撃たれたように顔をしかめ、手を放す。
「和尚っ!」
淵に落ちたそれは、願掛けを助長することになってしまうかもしれないが、そんなことより、手を押さえている和尚を気遣い、声を荒げた。
「大丈夫っ?」
水面に浮いた花はゆっくりと下流へと流れていく。
口の中で微かに呟き、印を切った。
余計なことをすると嫌がるので、和尚に気づかれないようにそっとやる。
「願掛けの主の念が強すぎる」
消えていく花を見送る透子の後ろで、息をついた和尚が言った。
「なんの願いなの?」
「……お前が知る必要はない」
和尚の顔は裸眼で尚、はっきり見える。
だが、本当はそう感じているだけで、いつか間近に見たその顔に、自分の想像で年を上乗せしているだけなのかもしれなかった。
透子の視線を感じたように、和尚は目を逸らす。
「どうせ、すぐに飽きるさ。
これ一度きりかもしれないしな」
妙に心の籠もっていない声だった。
二人で祠を掃除したあと、水を打ち、その前に腰を下ろす。
透子は柏手を打ち、目を閉じた。
和尚は此処では絶対に柏手を打たない。
口の中で、小さく和尚に聞こえないよう、祝詞を唱える。
目を開けると、まだ何事か祈っている和尚が居た。
白い肌に夕日がよく映えている。
鼻筋の通ったその顔を見ていると、夕闇の色を乗せた風に、和尚の後ろ毛が棚引いた。
つい触れようとすると、気配を感じたように目を開く。
透子は手を引き、微笑んで言った。
「髪……伸びたね」
和尚は後ろに手をやり、ちょっと、伸ばそうかと思って、と言う。
「は?
伸ばす? 誰が?」
らしからぬ言葉につい訊き返す。
和尚はしゃがんだ膝に手を置き、溜息まじりに言った。
「この春から、本格的に檀家回ってるけど、年寄りは俺と忠尚の区別がつかねえんだよ。
あいつは、ほら、洒落っ気があるから、髪にも拘りがあるだろ。
だから俺が伸ばそうかと思って。
伸ばすだけなら、俺でもできるだろ」
「ああ、なるほどね。
外見に無頓着なあんたが、急に何をとち狂ったのかと思ったわ。
でもそうね、長い方がインスピレーションが湧くって言うしね。
いいかも。
あっ、じゃあ、それ伸びたら、私、括る係ねっ」
勢い込んで手を挙げた透子に、なんだ、それ、と和尚は苦笑した。
その顔に思わず見惚れる。
荘厳な淵の気配も、オレンジに満たされたこの空気も何も、この人の前には敵わない。
透子? と和尚が呼びかけた。その長い指先が自分に向かって伸びるのをぼんやりと見ていたとき、ぱしゃんっ、と、何かが跳ねる音がした。
びくりと二人は動きを止める。
淵を振り返ったが、何もない。
「……魚でも跳ねたのね」
自分にも、和尚にも言い聞かせるように呟く。
いつの間にか、和尚の袖を握り締めていたことに気づき、慌てて手を離した。
「さあって、帰ろっかなー」
わざと明るくそう言って立ち上がり、背を向ける。もう随分と高くなった陽はまだ、落ちる気配もなかった。
静かな夜だ――。
だが、淵の水は、ねったりと紅く澱んでいた。
巫女装束のまま淵に身を浸す透子は、その紅い水を掬ってみる。
指の間から、ずるりとそれは滑り落ちた。妙な粘り気がある。
なんだろう……これ。
気持ちの悪いそれから目を逸らすように、透子は空を見上げる。
満月。
透子にとっては、あるものの象徴だ。
その満月が今は紅く染まっていた。
気のせいか空自体が、どんよりと重く垂れ下がっているような気がする。
淵と空の境が曖昧だった。
その間にある黒ずんだ林を見ながら、透子は思う。
月が紅いから、淵の水が紅く見えるのか。
淵の水が紅いから、月まで紅く染まってしまったのか。
わからない わからない
そのとき、聞き慣れた声がした。
『透子』
はい?
透子は、もう一度、顔を上げた。
『透子 透子』
自分を繰り返し呼ぶ、その声は――
透子は、紅く染まった袴のまま、異様な色の空を見上げ、呟いた。
「お祖母ちゃん……?」
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