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予兆
遭遇
しおりを挟む平日だと言うのに、セールをやっている時期なせいか、デパートもまた混み合っていた。
香水を買う春日の横で、透子は物珍しそうに辺りを見回していた。
その様子を見ながら春日は、香水つけないっていうのは、本当なんだな、と思った。
透子と居ると、ほんのりいい香りがするが、あれはきっとシャンプーか香なんだろうと思う。
買い物を済ませ、透子の肩を遠慮がちに叩いた。
すぐに小さな白い顔が振り返る。
この間あったばかりだというのに、なんだかほっとする顔だった。
「すみません、お待たせして。
お茶でも奢りますよ。
何処か行きたいとこ、ありますか?」
その言葉に、透子は嬉しそうに手を擦り合わせる。
「あ、じゃあ。
向かいのデパートの五階に、嘘臭いくらい、いい香りのする紅茶のお店があるんですけど―
って、春日さん、珈琲の方がいいですよね?」
気を使ってそう言ってくれる透子に微笑み返しながら、
「いえ、僕、紅茶も好きですよ。
その嘘臭いくらい、いい香りの紅茶、飲んでみたいです」
「あっ、信じてませんねっ?
ほんっとうに、いい香りなんですってばっ」
「そこ、紅茶の専門店なんですか?」
「いいえ。チョコレートの……」
言いながら、自分でも胡散臭げだと思ったのか、そこで言葉を切り、訴えるようにこちらを見た。
「ほんとうなんですよっ?」
「ま、まだ、何も言ってないじゃないですかっ」
その捨てられたハムスターのような目に、つい、どきりとして身を引いた。
だが、透子はそんな動揺には気づかずに、腕を掴んでくる。
「決めたっ。
絶対逃がしませんからね。
一度、飲んだらわかりますって」
「はいはい、お供しますよ」
なんとか笑って言った言葉に安心したのか、透子は手を放そうとした。
残念に思いかけたとき、げらげらと笑いながら歩いてきたおばさんの集団に背中からぶつかられ、軽い透子は弾き飛ばされていった。
「すっ、すみませんっ」
と彼女は振り返って謝っていたが、地にどっしりと根を生やしたようなおばさんは、ぶつかったことにさえ気づかなかったのか、そのまま行ってしまう。
運良く透子を抱きとめた春日は、
「ああ、危ないですよ、透子さん。
手、放さない方がいいかも」
と程よい展開に、ほくそ笑む。
透子は申し訳なさそうに、でも、と言った。
内心、どうしたら透子が、その手を放さないでいてくれるかと思案して、適当に言った。
「いや、だってほら。透子さん、あぶなっかしいから」
だが、透子はその言葉に過剰に反応する。
「や、やっぱり、そうなんですか……」
「え? やっぱりって?」
透子は沈痛な面持ちで床を見ながら歩いていた。
「私、歩き方、変だって言われるんです。
走り方もおかしいらしくて。
でも、あれって、走ってる途中で、右足出すのか左足出すのかわからなくなるからなんですけどっ」
振り返り、渾身の力を込めて言う透子は、
「そういうことって、よくありますよね?」
と春日を見上げる。
「……(まず)ないですね」
同意を懇願する透子の視線を浴びながらも、即答してしまった。
おまけに透子は高所恐怖症で、階段も一人では降りられないのだと言う。
「あれ? でも、透子さんち、すごい石段があるじゃないですか」
「だから、下りは裏の参道を通るんです。
和尚たちがいるときは、何も言わなくても、手を貸してくれるんですけど」
ああ、そうなんですか、と言いながら、少々面白くなかった。
あの忠尚などは、実にスマートに絶妙のタイミングで手を差し出すのだろうと思うと特に。
だが、春日はそんな感情は押し殺し、微笑みを浮かべて言った。
「よかったですね。今日からまた勝手に手を貸してくれる人間が増えましたよ」
え? と見上げたあとで、すみません、と照れたように俯く。
まだ、実際に貸したわけでもないのに、お礼を言ってくれる透子に笑った。
そんなこんなで、うまい具合に煙に巻き、透子に手を放させなかった。
いつもなら、ああいう無作法なおばさんたちは嫌いなのだが、今日ばかりは感謝したい気分だった。
腕を組むというより、はぐれないよう、透子の手が微かに触れているだけだったのだが、それでも上機嫌で春日は言った。
「でも、そうか。
透子さん、高所恐怖症なんですか。
じゃあ、今度、一緒に絶叫マシンとか乗りましょうね」
「……なんでですか」
透子の顔つきがおかしくて、春日は弾けるように笑った。
透子と居ると心地よかった。
その独特の空気も、常に小さな笑いを誘うしゃべり方も。
それに、彼女を連れて歩くと、ちょっとした優越感にも浸れる。
八坂より遥かに大きなこの街でも、透子が歩けば、大抵の人間が振り返る。
そのスタイルと美貌もだが、彼女には現代人が失った不思議な洗練された空気があった。
気分よく歩いていたが、目標のデパートまで後数メートルというところで、透子がいきなり手を振った。
さっきまで居た向こう側の道路を見ている。
「忠尚!」
その呼びかけに、春日は強張った。
あの透子べったりの幼なじみに、こんな場面を見られたら、何を言われるやらと思ったのだ。
だが、透子はすぐに手を下げ、やば、と舌を出した。
「どうしました?」
「女の子と一緒だったみたい。
忠尚じゃなくて女の子の方と目が合っちゃったみたい。
行きましょう、春日さん」
慌てて透子は腕を引く。
つい、透子が見ていた方を振り返ると、ちょうど顔を上げた忠尚と目が合ってしまった。
一瞬、驚いた顔をした後、険しい表情になる。
忠尚はいきなり、赤になった信号を突っ切ってきた。
いきなり走り出した彼に、取り残された女の子が何ごとか叫んでいる。
「透子っ!」
追いついた忠尚は息を切らし、透子の肩を引く。
その勢いに彼女は小さな悲鳴をあげ、よろめいた。
また腹の立つことに、見越したように忠尚はそれをうまく抱きとめる。
その弾みに透子の手は自分から離れていた。
「お前っ、なに逃げてんだよっ」
忠尚から離れた透子は手を合わせ、頭を下げる。
「ごっめーんっ。
今、一人に見えたから、手ぇ振っちゃった!」
なんだ、そんなことか、と溜息をつきながらも、忠尚はまだ警戒をとかずに言った。
「いいよ、別に。
あれはほら、大学のとき、家庭教師してた子だよ。
そんなんじゃないから」
「……そんなんじゃないこと、ないんじゃないかなあ」
ちらと透子はそちらを窺う。
「遠目にだけど、睨まれたような」
目が悪い分、透子はわずかな気配も見逃さないようだ。
遠慮がちに言う彼女に、忠尚は、じゃあ、俺が後で叱っといてやる、と言った。
「ええっ。
いいよっ」
透子が慌ててそれを遮る。
確かに更にややこしくなるだけだろう。
だが、そんな透子には構わず、忠尚は腰に手をやり、彼女を見下ろす。
「だいたいな。お前も睨まれたら睨み返せよ。
俺にとっては、替えのきく恋人より、お前の方が大事なんだから」
しかし、この平和主義的な透子に、そんなことができるはずもない。
それにしても、彼の透子に対する忠誠心のようなものには驚かされていた。
どうやら、ただの軽い男ではないらしい。
信号が変わり、慌てて追いかけてきた女の子に気づいて、透子は、
「じゃあ。私たち、もう行くね」
と逃げ出そうとした。
待てよ、と忠尚が透子の襟首を掴む。ひゃんっ、と猫の子のような声を上げた。
「まだ、なんでお前らがこんなとこに居るのか聞いてねえぞ」
春日は透子が可哀相になって割って入った。
「僕が無理やり連れ出したんですよ。
姉のプレゼントを買うのに付いてきて頂きたくて」
「あんたの姉貴の?」
忠尚は、それがただの口実だとわかっているらしく、因縁つけるように睨みつけてくる。
「忠尚さん」
後ろから、遠慮がちな声がかかった。
その顔を間近で見た透子は、あっ、と声を上げる。
その反応に、その子は慌てたように忠尚の陰に隠れた。
不審そうに、忠尚は自分の後ろを振り返る。
加奈子と呼ばれたその女は、小柄で可愛い感じの女の子で、透子とは正反対のタイプだった。
守備範囲が広いなあ、と変なところで感心する。
「透子。
加奈子を知ってるのか?」
忠尚のその言葉に反応するように、すうっと女の目が、鋭くなり透子を見た。
まるで、さっきまでの愛らしい顔つきは作り物であったかのように。
慌てて透子がフォローを入れる。
……弱い。
「あっ、あのっ。
よく、うちに御守り買いに来てくれるの」
ね、と加奈子を見る。
加奈子は黙って頷いた。
「あのっ、私たち、お茶飲みに行くところだったんで。それじゃっ」
怪しいくらい素早く去ろうとするその腕を忠尚が掴む。
「待てよ。
まだちゃんとお前等の話、聞いてないぞ」
「帰ってから、帰ってから話すって」
小声で叫ぶ透子はこれ以上、人の恋路を邪魔したくはないようで、じたばたと生け捕りにされたガチョウのように暴れている。
春日はつい、口を挟んだ。
「忠尚くん、心配されなくても、暗くなるまでにはお送りしますから。
お話はそれからにされたらいかがですか。
デートを中断されると、彼女に悪いでしょう」
透子の前でわざわざ『デート』と言ったのは、つい出てしまった厭味だった。
察した忠尚に睨まれる。
そこへまた、尻馬に乗った透子が舌を出した。
「忠尚が暗くなるまでに帰ってくればだけどねっ」
忠尚は無言で、掴んでいた透子の腕を捻る。
「痛い、痛いっ。
放してよおっ」
どうも、透子という女は自分の置かれている状況をいまいち理解しないらしかった。
だが、泣いて詫びる透子の可愛らしさに、悪いと思いながらも、春日は噴き出してしまう。
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