冷たい舌

菱沼あゆ

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神降ろし

終焉

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「透子っ! 透子!」
 赤い水を掻き分け、和尚がやってくる音がする。

 遠ざかりかけた意識が、ふっと現実に返った。

 自分の腹から血が流れ落ちている。熱いな、と思った。

 でも思ったほど、怖くない。

 何故だろう。

 もう意識が半分離れはじめているからか。

 自分の血が、剣から滴る龍神の血と混ざり合いながら、淵に落ちていくのをじっと見ていた。

「透子っ!」
 そんな声とともに駆け寄ってきた顔に、何かが重なる。

 口を開きかけて、痛みにしゃがみ込んだ。

 水に傷口が浸かると、より一層出血が激しくなる。

 だけど、これでいいのだ。
 これでなければならないのだ。

 この私の、この生贄の血で、紅い邪気に染まりかけた淵を染め替える――。

「透子っ、透子っ!」

 和尚の蜘蛛のように細い指先を背中に感じながら、ああ……懐かしい、と思っていた。

「可哀想な、私のドラゴン――」

 透子は最期の力を振り絞り、その頬に触れる。

「お前―― 知ってたのか」

 蒼褪めた和尚に、……舐めないでよね、と透子は小さく笑って見せる。

「和尚くんが龍神? どうして――」
 すぐ側で春日の声が聞こえた。

 彼もまた赤い水の反射する光に染まり立っていた。

 固まっている和尚の代わりに、透子は喘ぐように言葉を出した。

「神殺しの罪――。
 それは……人の身で神の力を負うことに他ならない」

 あのとき、透子は見ていた。

 龍神の、裂けた逆鱗から溢れ出した力が、和尚に向かって雪崩れ込むのを。

 あのとき自分たちがしたことは、図らずも龍神交代の儀式となったのだ。

 古い神を殺し、新しい神を作り出す――。

 人々の信仰が薄れ、力をなくしつつあった龍神を、一度死なせ、和尚の中に、その力を生まれ変わらせた。

 あやふやに分散していた力をこの器の中に集結させ形作るために。

 だが、強い霊力を宿すこの淵を、和尚は制御しきれなかった。

 人の器に収まり切れない力。
 苛立つ彼を、ただ見ているしかなかった。

「貴方が苦しむ姿、ずっと見てた。
 つらかったあ……」

 透子っ、と和尚が言葉を詰まらせる。

 笑いかけてあげたかったのだが、それも今はもう難しい。

 何処が痛いのかもよくわからないほど、全身がだるかった。

 もう血液の半分も残ってないのではないかという気がした。

 傷口から血が流れ続けているのを感じる。

 それは、龍神に与えられる力となって、淵に注がれ続けている。

「あと少しでいいから――
 いつもそればかり思ってた」

「透子……」

 ふと、瀧の音が聞こえてきた。
 林の陰から姿を現した男が、自分を見て、慌てふためいていた。

 だが、他の男と違い、彼は真っ直ぐ自分を見つめ返した。

 面白い男だと思った。
 透子の中に、当然のようにその記憶が蘇っていた。

「私―― なんでだろ。
 貴方が私を見るような目で、貴方を見てみたいと思ったの」

 だから、人になりたいと思った。
 人を愛せる、人になりたいと願った――。

 例え神の力を失い、龍神如きに縛られる身になろうとも。

 男は言った。
 お前は天女ではないのかと。

 天女? そうだろうか。
 私はなんなのだろうか。

 私にもわからない。
 気がついたら、私は此処に居た。

 気がついたら、人とは違うものとして、此処に存在していた。

 人としての命の名残りを吐き出すように、透子はその言葉を吐き出した。

「ねえ、和尚……」

「なんだ」
と膝の上に自分を抱いた和尚が、手を握る。

「私、死んでも貴方を好きな心だけは持って行けると思ってた。

 この淵で、ずっと貴方を見守っていられると思ってた。だけど―― きっと違うのね」

 空でもなく、月でもなく、もっと遠く儚いものを見つめ、透子は言った。

「和尚――。

 私はもう……
   二度と、貴方を愛さない」

 和尚の手が、すうっと冷えていくのがわかった。

「私、自分が何を恐れていたのか、やっとわかったの。

 死ぬことじゃない。
 貴方の側から離れることじゃない。

 あの紅い月。
 あれが現れたときが淵の限界。

 この邪気を埋めるために、私の血で染め替える。
 それはいいの。でも――

 そうして、『人間 神凪透子』が消えてしまえば、私は――

 私は、二度と人を愛せない。

 だって、人でない私は、誰か一人を愛することなど許されない存在なのだから」

 死にかけている自分よりも、和尚の方が息をしていないように見えた。

 透子は、ぎゅっと和尚の腕を袖ごと握り締めた。

 私は忘れてしまう。
 あれだけ和尚を愛した、この心を。

 もう、すぐそこまで、それが来ている予感があった。

 しゃべるのをやめたら、そこで事切れてしまいそうな気がして、透子は、口もきけないでいる和尚に向かい、話し続けた。

「……私、ほんとは見ていたかったよ。
 ずっとずっと。

 貴方の髪が、あの幻みたいに、伸びていくのをずっと」

 一瞬、あの龍のように、くねり流れる黄昏の淵の幻が見えた気がした――。

「透子!」

 ああ駄目、もう口が動かない。
 何か大きなものに呑み込まれていく――。

 魂がこの制約の多い身体から離れようとしているのを感じた。

 だけど、楽になるのと同時に訪れるのは、

  感情のない、永遠の深遠――。

「透子っ!」

 最期に、

  和尚の声が聞こえた気がした――。



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