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終章 仏像の還る場所

私が殺してさしあげますよ

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『もう近くまで来てるっす』
と電話に出た俊哉は言っていた。

 案の定、
『藤堂さんの事件の遺族の人の住所、調べときました』
と言ってくる。

 一見、惚けているが、さすが議員の孫、やるべきときにやるべきことがわかっているようだ、と晴比古は思った。

『小田切栄介《おだぎり えいすけ》って人っす。
 被害者のご主人』

 子どもたちの住所もわかったらしいが、幽霊の年齢、背格好からこの男に絞ったという。

「……幕田より使えるな」
といつも余計な情報を並べて混乱させるか。

 今回のように、なんだかわからない事件を持ってくるかの幕田を思い、つい、そう呟く。

 本人が横で、ええっ? と言っていたが。

『ふたつ先の駅近くで、奥さんの夢だった小さな喫茶店をやってるらしいっす』

 あの疾走する幽霊を見た喫茶店のマスターを思い浮かべる。

 幽霊の正体は、奇しくも同業者だったようだ。

『やっぱり、事故のせいで、車に乗れないそうです。
 免許も返上したって聞きました』

 それで、駅の近くで店をやっているのかな、と思った。

『藤堂さん殴ったの、こいつですかね?』

「いや……違うだろう」
と晴比古は言った。

「なんだかその人にはやれない気がするよ」

 真っ暗な夜道を必死に疾走していたという、あの幽霊には。

 自分の悲しみをまた、人に押し付けることなど出来ない気がする。

 最初は捕まりたくないから、アリバイ作りをしていたのかもしれないが。

 途中からは、ただ、藤堂を殺すことを先延ばしにしたいからやっていたのではないだろうか。

 そうして、殺人の準備をしていると思うことで、自らの気持ちを静めるために。

「犯人が、その小田切さんなら、あの洞穴に、あんな扮装をさせて、藤堂を置く意味がわからないし。

 第一、その間、同じ格好をした支配人を何処にやってたんだ?」

『えっ、じゃあ……』
と俊哉が言いかけたのを察した深鈴が横から、

「俊哉くん、黙って。
 たまには先生に言わせてあげて」
と言い出した。

 おいおい、と思いながらも、晴比古は言った。

「犯人は、古田支配人だ。
 持田が奴を低血糖昏睡にしなかったことから言っても、たぶんな」
と言うと、幕田が、へ? なんで? という顔をする。

 菜切にはわかっているようで、ただ青い顔で俯いていた。



「珈琲でも飲みますか?」
と言って、小田切は持田にカウンターに座るよう促してきた。

 もう話しながら、珈琲は淹れてあったようだ。

「大丈夫。
 毒なんて入れませんよ」
と笑う。

 小田切は、後ろを向いて、棚からカップを出しながら言った。

「あんなに苦労して、アリバイを作ろうとしていたのに。
 結局、当日の私のアリバイ、なくなってたんですよ」

 もう遠い想い出話でも語るように、軽やかに小田切は言った。

「いつも夜、同じ時間に、孫が家の方に電話かけてくれてたんですよね。
 私のことを心配して、娘がかけさせてたんです。

 幼稚園であったこととかを話して、適当に切る。

 だから、それまで、何度かやってみたけど。
 自動でテープが、うんうんって返答してても、孫は気がつかないようでした。

 身内の証言じゃアリバイにはならないけど、娘はフラメンコを習ってて。

 その稽古場からも同じ時間に、そこで待ってる孫にかけさせるから。

 他人の目がある、そのときがいいかな、と思ってました。

 幽霊の噂もたっぷり流して、よし、今日だ、と思ったその日――。

 私は、広まり過ぎた噂のために、どのタクシーにも乗せてもらえず、泣きながら夜道を走りました」

 そこで小田切は少し笑った。

「傘持ってたんじゃ、乗せてくれなくなってて。
 わざわざ見えないように、傘を巻いて隠したりしてたんですけどね。

 もうあの通りに立ってるだけで警戒されて。

 そりゃそうですよね。
 人気のない、人が居るはずのない通りなんですから。

 馬鹿みたいでした。
 あんなに時間をかけて、計画を立てて、準備したのに。

 しかも、行ってみたら、仏像がないんですよ。

 私は一度、仏像を確認したあと、殺すその当日まで、行ってみてなかったんです。

 うろつく姿を誰にも見られたくなかったから。

 山の小道はどれも似て見えて、集落へ登る道がわからない。

 それに、藤堂の家の明かりも山には見えない。

 私は足を止め、泣き出しました。

 すべてのものが自分を阻んでいるかのように感じました。

 まるで、誰かが藤堂さんを殺すなと言っているようだと思いました。

 まあ、乗ったタクシーが事故に遭って、ひっくり返ったとき、それが天啓だと思って、諦めればよかったんですけどね」
と小田切は言う。

 額を擦りむき、流した血を落とさないように気をつけながら、幽霊の細工をして、菜切が意識を取り戻す前に、その場を立ち去ったという。

 幽霊が怪我して搬送されるわけにはいかないからだ。

「莫迦みたいですよね……」

 ぽつりと小田切はそう言った。

「結局、私は家に帰りました。
 そしたら、翌日、娘が電話してきたんです」

『昨日は、ごめんねえ、お父さん。
 急に、さとる、高熱が出て病院行ったから、電話のこと、すっかり忘れてたのよ。

 いつもかけるのにかからなかったから、心配したでしょ?

 結局、入院になったけど。
 もう落ち着いたから、大丈夫』

 そう娘は言ったのだと、小田切は言う。

「あのとき、実行に移していたら、私にはアリバイ、なかったんですよ。

 涙が出ました。

 なにかが守ってくれた気がして」

 それは小田切の妻だろうか、と思っていると、小田切は、

「なんででしょうね。
 そのとき、妻とともに、あの仏像の姿が頭に浮かんだんです。

 藤堂さんが彫って、私に殺しに来いと置いておいてくれたあの仏像。

 月明かりの下で一度だけ見たあれには、藤堂さんの想いが込められている気がしました。

 私に殺しに来いと言いながら、きっと彼はそれを望んではいなかったんだと思います」

「……そうですね。
 殺して欲しいと願っていたのかもしれないけど。

 でも、貴方のためには、そうしない方がいいとわかっていたと思うから、きっと――」

「あの仏像を見たときだけ、思いました。

 あんな事故さえ起こさなければ、彼にも明るい未来があったんだろうにな、と。

 人気の講師だったと聞きました。

 何事もなければ、貴女と結婚して、幸せな家庭を築けていたんでしょうに」

 ああ、すみません、と小田切がこちらを見て言ったのは、自分が泣いていたからのようだった。

 いえ、と持田は言う。

「どうなんでしょう。
 そんな未来など最初からなかったのかもしれません。

 私は結局、藤堂さんを支え切れなかった。

 ピンチのときに支えられてこその家族だと思うのに。

 ……私は初めから、彼と結婚できるようにはなっていなかったんじゃないかと最近思うんです」

 持田さん、と小田切が呼びかけてきた。

「殺してあげましょうか、私が」

 え? と持田は顔を上げた。

「やっぱり、このままでは、なんだか半端なんです」

 このやり残した殺意をどこへ向けたらいいのかわからない、と彼は言った。

「貴女には感謝こそすれ、恨みはありません。

 私が殺してさしあげますよ。
 貴女が先程話してらっしゃった『その男』」

 その言葉に持田は黙り込む。


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