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廃病院の男
パイプオルガン
しおりを挟む気がついたら、真生は礼拝堂の扉を開けて立っていた。
すぐ側に、それ自体が礼拝堂であるかのようにも見える巨大なパイプオルガンがある。
その横の壁にはステンドグラスがはめ込まれ、そこから夕暮れの光が差し込んでいた。
真生はその場に立ちすくみ、さっきまで高坂につかまれていたおのれの腕を見つめる。
確かにそこに残る高坂の指の感触に、自分もそっとその部分に触れてみようかと思い、やめた。
高坂に触れられた感覚が消えそうな気がしたからだ。
そんなことを怖がる自分を不思議に感じたとき、
「おっ、如月、なにやってんだ」
と後ろから声がした。
先程、自分が開けたままだった礼拝堂の入り口から、音楽の教師、坂部が入ってきた。
真生の親世代よりは少し下で、いつも子供の写真を見せてくる子煩悩な男だ。
「なにやってんだ。
ほら、早く弾けよ。
時間がないぞ。
まだ一度も通しで成功してないんだろうが。
理事長のご推薦なんだろ。
お前が失敗したら、理事長が大恥かくことになるんだからな」
こうして、いつも通りのお小言を聞いていると、今、見聞きしたものは、すべて幻だったようにも感じられるな、と思いながら、真生はパイプオルガンの電源を入れた。
それを見て坂部が、
「あっ、こらっ。
お前、まだなんの準備もしてないじゃないかっ」
と文句を言ってくる。
パイプオルガンは電動送風装置で風を送り込んで演奏する。
人力で吹子を動かし、風を送っていた十九世紀以前は、一人では演奏できない楽器だった。
なにもかも手動だった昔は、途中で音色を変えるのにも、他の人の手を借りたりしていたようだ。
「まあ、お前は頑張ってるとは思うよ」
と真生を見張るために、横に仁王立ちになりながらも、坂部は言ってくる。
「パイプオルガンを弾くこともそうだが。
この曲は楽譜だけで、手本になるような過去の演奏もないしな」
確かに、大変だ、と呟いたあとで、坂部は、
「でも、俺は好きだな、この曲」
と言ってきた。
「素朴なんだが、それ故に切ない感じが伝わってくるというか。
戦前に作られた曲らしいが、迫り来る戦争の影とか、未来が見通せない絶望感とか」
そんなものがひしひしと伝わってくる、と坂部は言った。
「そうですね。
でも、私は……」
と言いかけ、真生はやめた。
今にも裂けそうな古い楽譜を置き、弾き始める。
側に立つ教師は目を閉じ、聴いているようだった。
どこか物悲しいその旋律には、坂部が言う通り、自分が産まれて今まで、まだ感じたことのない切迫感のようなものがつまっている。
弾きながら、視線を上へ向けた真生の目に、それが入った。
パイプオルガンのすぐ横の壁にあるステンドグラス。
初めてこの曲を弾いたとき、マリア像や百合が描かれた古いステンドグラスの向こうに、あれが見えた。
ステンドグラスの色に遮られ、外の景色は見えないはずなのに、何故か見えた夕暮れの空と。
まるで、そこに居るのが当たり前のように、すうっと空を横切っていった三機の戦闘機――。
今、そのステンドグラスが、曲の響きに合わせ、震えているように見えた。
そして、その振動がパイプオルガンの音を増幅させ、この空間をも震わせているような。
ああ、似てるな、と真生は思った。
自分があの不思議な空間とつながるときに生じる揺らぎと。
そして、似ている。
この曲と――
昔、曾祖父が口ずさんでいたあのメロディが。
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