56 / 70
蘇りの書
哲治のレコード
しおりを挟む高坂は深夜、廃病院の廊下を歩いていた。
軍の司令で、ここに戻ってきて、しばらく経つ。
この静けさとそこここに霊の居る感じが落ち着くな、などと思っていると、
「高坂」
と誰も居ないはずなのに、ふいに名を呼ばれた。
見れば、いつの間にか、背後に銃を手にした男が立っていた。
見覚えのある男だ。
海軍兵学校で一緒だった。
侠気のある、いい奴だった。
「お前が生きていたら、軍は生物兵器に手を出してしまう。
頼む。
死んでくれ」
やれやれ。
ここに来てから、物騒なことばかりだ。
俺の愛人ということになっていた軍との連絡係も次々消えた。
もう女を使うのはやめた方がいい、と思う。
安っぽい女は警戒されにくいかもしれないが、こう次々消えられては、なにがあったのかとさすがに良心が傷む。
これ以上、他の人間を巻き込むくらいなら、いっそ、今……と男を見ると、基本、人のいいその男は自分と視線を合わせ、ビクついたようだった。
可哀想だが、どうせ死ぬ気で来たんだろう、と思いながら、
「わかった。
こっちに来い。
お前にあれを渡しておこう」
と病原体の存在を臭わせ、自室に誘導しようとする。
だが、そのとき、男の後ろから誰かが現れた。
降って湧いたように、突然し始めた靴音に振り返った瞬間、男は崩れ落ちていた。
銃にしては音がしなかった。
ナイフか? と見ると、倒れた男の向こうに、何故か、注射器を手にした女が立っていた。
「生きてますか? 高坂さん」
月明かりの中、緊張を解かずに高坂はその女を見つめる。
女は制服を着ていた。
港町辺りの女学校のものに似ている。
明らかに怪しい女だが、美しかった。
まだ歳若いその女は年齢に不釣り合いなほど妖艶に微笑む。
「……お前は誰だ?」
新しい刺客か? と高坂は問うてみた。
こんな美しい女が現れると、ロクなことがないからだ。
必ず、死と陰謀を連れてくる。
そして、どの女も消えていった。
だが、この女は強い瞳で自分を見つめ、言ってきた。
「私は、真生。
如月真生」
その名を聞いた高坂は、お前か、と言う。
「最近、ここに現れるという、俺が見たことも触ったこともない俺の愛人は」
渕上婦長が言っていた、と言うと真生は苦笑する。
「その注射器はなんだ?」
殺人兵器か? と問うと、
「いえいえ、これはですね。
知人が貸してくれたもので、ちょっと意識がなくなるだけなんです。
だから、早くどうにかしないと、この人」
と言ってくる。
いや、どうにかと言われても、と高坂は男を見下ろした。
今、八咫は居ないし。
とりあえず、縛っておくか、と思う。
真生は注射器をケースにしまいながら、
「いや~、こっちに飛び始めたら、やっぱり、ここより後ろには飛べなくなっちゃったんですよ。
こう、弦が変なところに引っかかったみたいな感じなんですかね。
と言いますか、きっとやるべきことがあるからですよね」
一人がよくわからないことを言ったあとで、あれ? と真生は眉をひそめる。
「こっちからなにか聴こえてきますね」
と彼女は言うが、自分には聴こえない。
真生は廃病院の中を一人歩き、今は使われていない部屋の前で足を止めた。
そこは確か、作曲家であった叔父、哲治が使っていた部屋だった。
真生は扉を開けて中に入る。
一緒に覗くと、一瞬、奥のクローゼットの前に懐かしい叔父、越智哲治の姿が見えた気がした。
だが、すぐにふっとかき消える。
今まで見えたこともなかったのに、何故、この女と居ると見えるんだ? と思った。
叔父の部屋は彼が出征していったときのままだった。
真生がクローゼットの扉を開けると、中から黒い円盤のようなものが転がり出て来た。
レコードだ。
「これ……傷が入ってますね」
そう言いながら、真生はクローゼットを振り返っている。
「かけてみるか」
と見知らぬ女を連れ、高坂は自室に戻った。
蓄音機にそのレコードをかけると、物悲しいメロディが流れ始める。
いつか聴いた気がする曲だった。
なんとなく、二人で向かい合うように椅子に座り、目を閉じて、その曲を聴く。
レコードは傷が多く、途中で止まり、その先へは行かなかったが、何度かかけた。
不思議に惹きつけられる曲調だったが、それだけが理由ではない。
自分の前で目を閉じ聴いているこの女と、もう少しこうしていたいと思ってしまったから。
常に緊張し、切迫したように過ごしてきた自分に、初めて訪れた静かな時間のように感じた。
いや、今、初めて、自分が緊張して生きてきたことがわかったというべきか。
今までは、それで普通だと思っていたから。
いつから?
軍に入ってからか?
反目し合っている海軍と陸軍が、この件に関しては、協力し合うくらい本気になっている病原体の問題に関わってからか?
いや――
一度死んで生まれ変わってからなのか。
自分がこの世に生きている実感がなく、いつまた死ぬかと怯えていたからか。
再び、曲が止まった瞬間、その女は目を開け、こちらを見た。
視線を合わせ、笑いかけてくる。
年下のようなのに、余裕のある落ち着いた笑みだった。
自分と目を合わせた女は、大抵、挙動不審になるか、赤くなって俯くか、くらいのものだったのに。
「……もう一度、聴くか」
気の利いたことのひとつも言えず、莫迦みたいにそう繰り返す自分に、彼女は、
「そうですね」
と微笑んだ。
安堵して立ち上がりながら、蓄音機の許に行く。
再び、レコードが曲を奏で始めた。
戦争が始まる前の、落ち着かないこの張り詰めた空気を震わせるかのように。
彼女は外を見て言った。
「綺麗ですね、ガス燈の灯り。
人が人の手でつけて歩くから、あんなに暖かい光なんでしょうかね」
……そうだな、と呟き、彼女とともに、それを見る。
今までそんな風に感じたことはなかったな、と思いながら、流れる曲に耳を傾け、霧で霞んだ町に広がるガス燈の灯りに目を向けた。
それが真生と自分との出会いだった。
真生にとっては、そうではなかったようだが――。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる