いつか、あなたに恋をする ~終わりなき世界の鎮魂歌~

菱沼あゆ

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蘇りの書

哲治のレコード

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 高坂は深夜、廃病院の廊下を歩いていた。

 軍の司令で、ここに戻ってきて、しばらく経つ。

 この静けさとそこここに霊の居る感じが落ち着くな、などと思っていると、
「高坂」
と誰も居ないはずなのに、ふいに名を呼ばれた。

 見れば、いつの間にか、背後に銃を手にした男が立っていた。

 見覚えのある男だ。
 海軍兵学校で一緒だった。

 侠気おとこぎのある、いい奴だった。

「お前が生きていたら、軍は生物兵器に手を出してしまう。

 頼む。
 死んでくれ」

 やれやれ。
 ここに来てから、物騒なことばかりだ。

 俺の愛人ということになっていた軍との連絡係も次々消えた。

 もう女を使うのはやめた方がいい、と思う。

 安っぽい女は警戒されにくいかもしれないが、こう次々消えられては、なにがあったのかとさすがに良心が傷む。

 これ以上、他の人間を巻き込むくらいなら、いっそ、今……と男を見ると、基本、人のいいその男は自分と視線を合わせ、ビクついたようだった。

 可哀想だが、どうせ死ぬ気で来たんだろう、と思いながら、

「わかった。
 こっちに来い。

 お前にあれを渡しておこう」
と病原体の存在を臭わせ、自室に誘導しようとする。

 だが、そのとき、男の後ろから誰かが現れた。

 降って湧いたように、突然し始めた靴音に振り返った瞬間、男は崩れ落ちていた。

 銃にしては音がしなかった。

 ナイフか? と見ると、倒れた男の向こうに、何故か、注射器を手にした女が立っていた。

「生きてますか? 高坂さん」

 月明かりの中、緊張を解かずに高坂はその女を見つめる。

 女は制服を着ていた。

 港町辺りの女学校のものに似ている。

 明らかに怪しい女だが、美しかった。

 まだ歳若いその女は年齢に不釣り合いなほど妖艶に微笑む。

「……お前は誰だ?」

 新しい刺客か? と高坂は問うてみた。

 こんな美しい女が現れると、ロクなことがないからだ。

 必ず、死と陰謀を連れてくる。

 そして、どの女も消えていった。

 だが、この女は強い瞳で自分を見つめ、言ってきた。

「私は、真生。
 如月真生」

 その名を聞いた高坂は、お前か、と言う。

「最近、ここに現れるという、俺が見たことも触ったこともない俺の愛人は」

 渕上婦長が言っていた、と言うと真生は苦笑する。

「その注射器はなんだ?」

 殺人兵器か? と問うと、

「いえいえ、これはですね。

 知人が貸してくれたもので、ちょっと意識がなくなるだけなんです。

 だから、早くどうにかしないと、この人」
と言ってくる。

 いや、どうにかと言われても、と高坂は男を見下ろした。

 今、八咫は居ないし。

 とりあえず、縛っておくか、と思う。

 真生は注射器をケースにしまいながら、

「いや~、こっちに飛び始めたら、やっぱり、ここより後ろには飛べなくなっちゃったんですよ。

 こう、弦が変なところに引っかかったみたいな感じなんですかね。

 と言いますか、きっとやるべきことがあるからですよね」

 一人がよくわからないことを言ったあとで、あれ? と真生は眉をひそめる。

「こっちからなにか聴こえてきますね」
と彼女は言うが、自分には聴こえない。

 真生は廃病院の中を一人歩き、今は使われていない部屋の前で足を止めた。

 そこは確か、作曲家であった叔父、哲治が使っていた部屋だった。

 真生は扉を開けて中に入る。

 一緒に覗くと、一瞬、奥のクローゼットの前に懐かしい叔父、越智哲治おち てつじの姿が見えた気がした。

 だが、すぐにふっとかき消える。

 今まで見えたこともなかったのに、何故、この女と居ると見えるんだ? と思った。

 叔父の部屋は彼が出征していったときのままだった。

 真生がクローゼットの扉を開けると、中から黒い円盤のようなものが転がり出て来た。

 レコードだ。

「これ……傷が入ってますね」

 そう言いながら、真生はクローゼットを振り返っている。

「かけてみるか」
と見知らぬ女を連れ、高坂は自室に戻った。

 蓄音機にそのレコードをかけると、物悲しいメロディが流れ始める。

 いつか聴いた気がする曲だった。

 なんとなく、二人で向かい合うように椅子に座り、目を閉じて、その曲を聴く。

 レコードは傷が多く、途中で止まり、その先へは行かなかったが、何度かかけた。

 不思議に惹きつけられる曲調だったが、それだけが理由ではない。

 自分の前で目を閉じ聴いているこの女と、もう少しこうしていたいと思ってしまったから。

 常に緊張し、切迫したように過ごしてきた自分に、初めて訪れた静かな時間のように感じた。

 いや、今、初めて、自分が緊張して生きてきたことがわかったというべきか。

 今までは、それで普通だと思っていたから。

 いつから?

 軍に入ってからか?

 反目し合っている海軍と陸軍が、この件に関しては、協力し合うくらい本気になっている病原体の問題に関わってからか?

 いや――

 一度死んで生まれ変わってからなのか。

 自分がこの世に生きている実感がなく、いつまた死ぬかと怯えていたからか。

 再び、曲が止まった瞬間、その女は目を開け、こちらを見た。

 視線を合わせ、笑いかけてくる。

 年下のようなのに、余裕のある落ち着いた笑みだった。

 自分と目を合わせた女は、大抵、挙動不審になるか、赤くなって俯くか、くらいのものだったのに。

「……もう一度、聴くか」

 気の利いたことのひとつも言えず、莫迦みたいにそう繰り返す自分に、彼女は、
「そうですね」
と微笑んだ。

 安堵して立ち上がりながら、蓄音機の許に行く。

 再び、レコードが曲を奏で始めた。

 戦争が始まる前の、落ち着かないこの張り詰めた空気を震わせるかのように。

 彼女は外を見て言った。

「綺麗ですね、ガス燈の灯り。

 人が人の手でつけて歩くから、あんなに暖かい光なんでしょうかね」

 ……そうだな、と呟き、彼女とともに、それを見る。

 今までそんな風に感じたことはなかったな、と思いながら、流れる曲に耳を傾け、霧で霞んだ町に広がるガス燈の灯りに目を向けた。

 


 それが真生と自分との出会いだった。

 真生にとっては、そうではなかったようだが――。





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