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暁の静 漆黒の乃ノ子 ~大正時代編~
古き名前
しおりを挟む昼下がりの事務所。
腹の上にすねこすりに乗られ、イチは、うつらうつらしていた。
古い古い世界の夢を見る。
「シズ、今日こそ、あかりなし蕎麦の屋台を見つけるぞ」
夜の街で、壱がそう言うと、静は、ええ~? という顔をする。
「なんで見つけたいんですか。
見つけてなにするんですか」
今も昔も変わらぬ反抗的な口調で静は言ってくる。
「食うんだろう」
「……食うんですか」
と言いながらも、静はついて来た。
「他になにか食べたいものはあるか」
「食べたいものですか~」
と言いながら、静はガス灯に照らし出された賑やかな街を眺めている。
この辺りもかなり西洋建築が多くなってきたな、と思ったとき、静が言った。
「……不二家のショートケーキですかね」
近年発売された不二家のショートケーキは女子に人気のようだった。
だが、壱は文句を言う。
「俺は今、蕎麦っぽいものが食べたいんだ。
なんでいきなりケーキだ」
食事がしたいのに決まってるだろう、と言うと、
「だって、私、もう食べて来ちゃったんで。
壱さんが食べるの見ながら、なにか甘いものでも食べたいです」
と笑って静は言う。
夕食のあと、部屋で読書や刺繍などするふりをして引っ込み。
あの理解あるじいやさんの手助けにより、屋敷を抜け出してきたようだった。
その格好で塀を乗り越えてきたんじゃないだろうな、と娘らしい華やかな色柄の着物を着た静を見て思う。
「わかった。
お前は甘いものな。
行くぞ、シズ」
「……イチさんの呼ぶ、『静』って、普通の人とちょっと違う感じなんですよね」
後をついてくる静がそう呟いているのが聞こえてきた。
それは口に馴染まないからだ、と壱は思う。
こいつが静かじゃないのに、『静』だからじゃなくて。
やっと新しい名前に慣れたと思ったら、また違う名前になって。
馴染まない……。
こいつの最初の名前、なんだったっけ?
ああそう。
「……イ……」
その名前を口から出しかけてやめた。
こいつの中に眠るものも一緒に目覚めそうだと思ったからだ。
あれをおのれの身体に封じ込め、消えた巫女の魂は、徐々に内なる闇に侵食されながら、転生しているはずだった。
「あ、すねこすり」
いつの間にか、何処からか現れたすねこすりが、側を飛び跳ねるようにしてついて来ていた。
だが、静が触りたがって手を伸ばすと、路地裏に隠れてしまう。
つまらなさそうに静は、すねこすりの隠れた場所を見ている。
幾ら見つめていても、すねこすりはお前の側には行かないよ。
その闇に侵食されるのを恐れて。
「……漆黒の乃ノ子」
そう夢の中で呼びかけたとき、目が覚めた。
「イチさんっ。
イチさんっ、起きてくださいっ」
側で切羽詰まった声がしていた。
どうやら、この声で目を覚ましたようだ、
と思うイチに向かい、後藤が両手で握った拳銃を向けている。
「早く起きて身構えてくださいっ、イチさんっ。
でないと、殺ってしまいます~っ」
「イチさん~っ。
兄貴を殺人犯にしないためにも起きてください~っ」
と後藤の舎弟、蓮川が祈るように手を合わせ、こちらを見ている。
めんどくさい人間関係が続いてるな、此処も……と思いながら、イチは呑み仲間がムショにぶち込まれないよう、欠伸をしながら起き上がった。
腹に乗っていたはずのすねこすりは、もう居なくなっていた。
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