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第一章 幽霊花魁

咲夜の過去

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 不思議な男だな、と思いながら、咲夜は脇息に寄りかかり、閉まった回転扉を見つめていた。

 自分を買っている男も変わっているか、あの那津という男も変わっている。

 高い金を出して姉さんを買っておいて、こんなところをフラフラしているなんて、と咲夜は笑った。

 男なら一度は手に入れてみたいと思うだろう桧山に触れられるかもしれない機会をむざむざと逃がすとは。

 それはあの、異様に整った顔から来る余裕なのか。

 そんなことを思っていたとき、襖が開き、長太郎が姿を現した。

 無言で咲夜の後ろに座ると、髪に触れてくる。

 どうやら、少し乱れていたようだ。

 咲夜は手許にあった朱色の鏡を手にする。

 長太郎が、なにも言わずに、髪の乱れた部分を結い直してくれていた。

 高級遊女は髪結いにやってもらうが、普通は自分でやるものだ。

 だが、不器用な自分は、いつもこの男にやってもらっていた。

 着物の脱ぎ着も手伝ってもらう始末だったので、左衛門は呆れているようだったが、特に文句を言うこともなかった。

 長太郎は左衛門の隠し子だという話もあるので、息子が、たいして稼ぎもしない小娘にこき使われるのを、内心、どう思っているのかは知らないが。

 それにしても、あの人にあの金を渡すだなんて。

 兄さまは余程、彼を買っているのね、と鏡に映る自分を見ながら咲夜は思う。

『どうしたの? 迷子かい?』

 当時、吉原の店で働いていた隆次が、自分に声をかけてきたのは、明らかにこの町に馴染んでいなかったからだろう。

 町娘が親とはぐれたくらいに思ったのだろう。

 ちょうど吉原は、花菖蒲の季節で、観光に訪れる女たちも多かったから。

 だが、振り返った自分の顔を見た彼は息を呑み、迷わず扇花屋へと連れていった。

 店に入ると、階段上に、当時既に有名な花魁となっていた桧山が立っていた。

『わかっていたわ。
 お前が来ることは』

 吉原の言葉ではなく、素の言葉で、彼女は自分を見下ろし、そう言った。

 だが、自分の視線は階段の下を見ていた。

 そのことは桧山にもわかっていただろう。

 だからこそ、そういう言い方をしたのだ。

 鏡に映っていた自分の顔が、そのとき醜く歪んだ。

 だが、自分で表情を変えた覚えはない。

 咲夜はひとつ溜息をつき、それを膝の上に伏せた。



 髪結いが終わったあと、咲夜は廊下にそっと出た。

 女たちの笑い声が遠くでしている。

 見つからないように桧山の部屋まで行った。

 彼女は文を書きかけたまま、突っ伏し、寝ていた。

 今日の客であるはずの那津は自分のところに来ていたから、特にすることもなかったのだろう。

 そっと肩に着物をかけてやろうとすると、桧山は目を開けた。

 そのまま、こちらを見ている。

 彼女は紅に彩られた、その小さな口を開けてこう言った。

「お前など拾うんじゃなかった。

 お前など――

 拾うんじゃなかったわ」

 あの日。

 初めて此処に来た日、階段下を無言で見つめていた自分を桧山は、この店の遊女にした。

 咲夜には身寄りがなく、かつて、家族を助けるために吉原に身を売ったという姉は既に死んでいたからだ。

 咲夜は死んだ姉の借金をそのまま自分が被ることになった。

 だが、それは言い訳に過ぎない。

 桧山にも左衛門にも、咲夜を此処へ留めておかねばならない理由があったのだ。

「いっそ、お前を殺してしまいたい。

 でも、咲夜。
 私のことをわかるのはお前だけだから」

 自分を抱き寄せる桧山をそっと抱き返し、咲夜はその温かい薫りに顔を埋めた。

「私の『姉さん』は貴女だけです」

 障子の向こうに女が立っている。

 目をぎらつかせ、こちらを見ている。

 女は訴えていた。

 何してるのよ。

 殺しなさいよ、その女を。

 なんで、その女なのよ。

 殺しなさいよ、その女を。

 咲夜はその姿から目を逸らし、もう一度、桧山の胸に顔を寄せた。

 醜い現実から目を逸らすように。

 男たちを惑わせる桧山の香りが、今、咲夜の心をも、この美しい偽物の世界に向かわせてくれる。


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