ナイトコードオメガ【残響の封印】 第二章 グレイヒル編

神北 緑

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ナイトコードオメガ【残響の封印】 第二章 グレイヒル編

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ロンドンの町は、テロ事件とゴシップ記事、謎の告発文により大混乱をまき起こした。

しかし混乱は信じがたい速度で沈静化していく…。


セシルとルクジムは騒動の渦中、郊外の最果ての町にたどり着いていた。




遠い地の古びた駅―シスター・アリア


朝霧が立ちこめる、遠い地の古びた駅前。
レンガ造りの駅舎は、長い眠りからまだ覚めぬように沈黙していた。

その前に、場違いなほど鮮やかな赤いテントが立っていた。
風に揺れる布地の上には白い文字――
「献血にご協力ください」

テントの中では、セシル・ノクターン卿が白衣姿で紅茶を啜っている。
優雅さと場違いさを、見事に同居させて。

その隣で腕を組み、不機嫌そうに立つのはルクジムだった。

「おい、セシル!勢いよく飛び出したはいいが……なんで献血のテントなんか出してんだ!」

セシルはため息混じりにカップを置くと、肩をすくめる。

「致し方ありません。私は今、ガス欠なんです。それに――この町、“血”にまつわる奇妙な記録が残っていましてね。」
「ポルフィリン症の発症率が異常に高い。つまり、この土地の血液には“何か”がある。」

「……それで献血かよ。」

「ええ。調査と補給を兼ねております。それに今は――あなた待ちですから。」

「はあ? 何の話だよ。」

セシルの笑みは、どこか意味深だった。
霧が少し晴れ、遠くで古い鐘の音が鳴った。

夕暮れになると、献血テントには地元の人々がぽつぽつと訪れ始めた。

その時、どこからともなく聖歌が流れてくる。

♪――聖者は光の中に現れり、
 その姿、真理の道を示す。
 時至りて、影の中に消え去りぬ。
 言葉、謎めきて、心に問いを投げかけん――♪

その声に振り向いた瞬間、霧の向こうから一人の修道女が現れた。
白い修道服に包まれた、若い女性――シスター・アリア。

彼女は微笑み、ためらいもなく腕を差し出す。

「困っているなら、神の教えに従いましょう。血を分けることなど、些細なことです。」

セシルは優雅に一礼した。
「感謝いたします、シスター。あなたのような方がいる町は、まだ救いがあります。」

そのやりとりを見つめながら、ルクジムは苛立ちを隠せなかった。
だが――その瞬間、胸の奥に微かな痛みが走る。

昨夜の夢。

母の声、古びた教会、そして地下に封じられた封印。
あれは夢ではない。

記憶だった。

セシルは、その変化を見逃さない。

「やはり来ましたね。君の中の“記憶”が、封印に導かれた。この町を選んだのは、君の夢が導いたからです。」

ルクジムは拳を握りしめ、霧の奥を見つめた。

教会の尖塔が、空を突く杭のように立っている。
その下には、かつて“聖者の刻”と呼ばれた地下聖堂が眠っている――。

「……教会へ行こう。そこに“聖者の刻”があるんだな。」

セシルは静かに頷いた。

「ええ。ただし、注意が必要です。この町には――吸血鬼の痕跡が残っている。」
「そして、シスター・アリア。彼女は“貴族人形(ドール)”です。」

「……何?」

セシルの声が、霧の中で沈んだ鐘のように響く。

「かつてこの地に現れた神父(吸血鬼)が、病に苦しむ者たちに“血の契約”を与えた。その代償として生まれたのが、“意思を持たぬ下僕”――ドール。アリアは、その境界にいる。」
「彼女の血には“契約”の痕がある。もし吸血鬼がその血を呼び覚ませば、彼女は完全なドールになる。」

ルクジムはアリアを見つめる。
彼女は献血を終えた老人に微笑みかけ、静かに手を取った。

「神の祝福を。あなたの血は、誰かを救います。」

その言葉を、まるで録音のように繰り返す。
だがその笑顔が一瞬だけ、微かに揺れた。

「……あいつは、何も知らないのか。」

「ええ。だからこそ、守らねばなりません。この町の封印は、彼女の存在と深く結びついている。“聖者の刻”の鍵は、彼女の教会にあるはずです。」

ルクジムは一歩踏み出した。
霧の中に沈む塔を見つめ、その奥で母の記憶の声を聞いた。

「行こう。夢が呼んでる。母が、何かを残したんだ。」

セシルはテントを片付けながら、わずかに微笑んだ。

「では――聖者に会いに行きましょう。そして、彼女が“人形”にならぬように。君の血で、守ってあげてください。」

霧が晴れる。

朝陽が鉄路を照らし、古びた教会の尖塔に反射した。
二人の影が並び、ゆっくりとその塔へと向かう。

彼らの歩みはもう迷わない。
母の残響が、確かにそこへ導いていた。

その先に待つのは、封印の守護者か。

あるいは――契約者の影か。



グレイヒル教会前―封印の地


翌日。

古びた石造りの教会は、夜霧の中に沈んでいた。
黒い風が尖塔の十字架を撫で、かすかな金属音が空に消える。

錆びついた鉄の扉。
半ば崩れたステンドグラス。

それでも、どこかに“神の残響”が漂っていた。

セシルは、教会の手前で足を止めた。
その顔にはいつもの軽妙さが消え、蒼白な緊張の影が差していた。

ルクジムが振り返る。
「何だ? 何かあったのか?」

セシルは黙ってスマートフォンを取り出し、画面を見せた。
そこには、ロンドンの異常事象が沈静化したという報道が並んでいる。

「……あれ以降、ロンドンも静かになったみたいですね」

ルクジムは眉をひそめ、苛立ちを隠さず言い放った。
「そんなことは、今はいいだろうが!」

セシルは画面を閉じると、ゆっくりと視線を教会へ戻した。
その目は、まるで何か“見てはいけないもの”を感じ取っているかのようだった。

「……あそこには、“アレ”が……あるでしょう……」

その声は震えていた。
吸血鬼の本能が、見えぬ十字架に怯えている。

ルクジムは一瞬で察した。
“アレ”――十字架、そしてロザリオ。
吸血鬼にとって、もっとも原初的な拒絶の象徴。

セシルは、いくら人間らしくしていても、**夜の種族(バンパイア)**なのだ。

ルクジムは苦笑し、肩をすくめた。
「俺が先に入って隠しといてやるから、後から入ってこい」

そう言って、扉に走っていった――その瞬間。

空気が変わった。

霧が急激に濃くなり、周囲の温度が一気に下がる。
鉄の匂い。腐敗の匂い。そして――血の匂い。

セシルの周囲で、影が揺らいだ。
黒い影が、まるで呼吸するように膨張していく。

「……貴族人形(ドール)か?」

そう呟いた直後、霧の中から“それ”が姿を現した。

犬歯は異常に長く、皮膚はひび割れ、黒い血管が浮かび上がっている。
目は焼け焦げたように濁り、声とも呻きともつかぬ音を漏らしていた。

人間ではない。
だが、ドールでもない。

セシルは即座に後退し、指先を払う。
足元から黒い霧が立ち上がり、影が刃のように弾けた。
飛びかかる異形を一体、また一体と弾き飛ばす。

「……っ!」

しかし、その数は多すぎた。
教会を囲むように、十、二十――いや、それ以上。

セシルの瞳が紅く光る。
「これは……ドールではない。“契約者の失敗作”か……!」

霧の中で、セシルの影と異形の群れが交錯する。
鋭い爪が闇を裂き、紅の霧が舞う。

一瞬の閃光。血が石畳を焼き、十字架の影を汚していく。



教会地下 ― 忘れられた屋敷


教会の奥、懺悔室。

古びた木製の扉の裏に、わずかな隙間があった。
ルクジムは、母の記憶に導かれるようにその隙間へ手を伸ばす。

「……ここか」

壁を押すと、**ギィ……**と重く軋む音が鳴り、
ゆっくりと隠し扉が開いた。

そこから吹き上がった空気は、まるで夜の闇そのものだった。
冷たく、湿った空気が肌を撫でる。

闇の奥には、石造りの階段が続いていた。
まるで地の底へと誘うように、暗く、深く。

ルクジムは、音を立てないよう慎重に足を踏み出した。
足音はすぐに吸い込まれ、周囲は一切の音を拒んでいるようだった。

降りるにつれて、温度が下がっていく。
空気は重く、息を吸うたびに金属のような匂いが鼻を刺す。

やがて階段の先に――広大な空間が現れた。

「……屋敷?」

思わず、その言葉が漏れる。

そこには、地下とは思えぬほど巨大な空間が広がっていた。
岩肌に覆われた天井は高く、ところどころに古い燭台が突き出している。

その中心には、一軒の屋敷があった。

まるでこの地下そのものが、屋敷を守る“棺”であるかのようだった。

屋敷は、旧貴族の邸宅を模した造り。
黒い瓦屋根、鋭い塔、そして閉ざされた重厚な扉。

長い年月を経てなお、そこには静寂と威圧が息づいていた。

まるで、生者の足を拒むかのように。

ルクジムはゆっくりと扉に手をかけた。
重い金属の音が鳴り、扉が少しずつ開く。

中は――異様なほど整っていた。
家具はきちんと並べられ、埃もほとんどない。

だが、そこに漂うのは“人の気配”ではなかった。
静寂が、まるで生きているように空間を支配している。

壁にはいくつもの肖像画が掛けられていた。
だが、そのすべての顔が――黒く塗りつぶされている。

そして、部屋のあちこちには無数の時計が飾られていた。
古びた懐中時計、振り子時計、歪んだ文字盤の置時計……。

「……何だ、これ」

ルクジムは、時計の一つにそっと手を伸ばした。

その瞬間、時計の針が“カチリ”と音を立てて動いた。
同時に、屋敷全体が呼吸を始めたかのように――微かに震えた。

屋敷の奥から、かすかな音が聞こえる。
それは、誰かの足音か――それとも、何かが目覚めた音か。

ルクジムは、身を低くして屋敷の奥へと進む。



地下屋敷 ― 恐怖の邂逅


屋敷の奥――時計の針が正確に「3時33分」を刻み続ける。
ルクジムは、不気味な静寂の中を進んでいた。

空間は異様なほど整っている。
だが、空気はまるで腐敗した死骸の中に閉じ込められたような重さを帯びていた。

その時――

「お助けください……し、神父様……!」

悲鳴が響いた。

声の主は、シスター・アリア。
彼女は屋敷の中央ホールで、宙に持ち上げられていた。

その細い首を掴んでいるのは、黒い礼服を纏った男。

人の姿をしているが、その瞳は深紅に染まり、
口元から覗く犬歯は、異常なほど長かった。

ルクジムは咄嗟に地を蹴り、爪を振るう。
だが、男は軽く身を翻し、その一撃を紙一重でかわした。

アリアの体が落下する。
ルクジムはすぐに腕を伸ばし、その身を抱き止めた。

「大丈夫か!」

震えるアリアは、彼の胸元にしがみつく。

その間に、男がゆっくりとこちらを振り返った。
その声は――まるで地獄の底から響く、低い鐘の音のようだった。

「混ざり者……貴様が“本部”を騒がせている者か。我も運がいい。」

ルクジムは直感で悟る。

この存在は、ただの契約者ではない。

空気が歪む。
重力がねじれ、空間そのものが軋みを上げる。

「……本部とは、“オルド・アーク”のことか? お前……契約者なのか」

男は、背筋が凍るほど静かな笑みを浮かべた。

「我は、バレン・アドニスモ伯爵。貴様と行動を共にしているバンパイアとは、格が違う。――まあ、古い知人ではあるがな。」

その名に、ルクジムの瞳が見開かれる。

伯爵は、愉悦を隠そうともせず、言葉を続けた。

「我は、自ら触媒となり、“デビルズ”となった。吸血鬼である私の魂は分離できなかったがな。――そうして、我はバンパイアの肉体に“悪魔の力”を得た。」

その意味を理解した瞬間、ルクジムの背筋を、冷たいものが這い上がった。

人間と悪魔の融合――それが“契約者”。

だが、この男は“吸血鬼”のまま悪魔と融合し、なおも理性を保っている。

それは、異端の中の異端。

存在そのものが、世界の秩序を逸脱していた。

「……まずい。圧倒的だ……」

本能が、耳を裂くように警鐘を鳴らしていた。
全身の毛が逆立ち、呼吸が浅くなる。

――目の前の存在は、これまでのどんな敵よりも“上”だ。

伯爵の周囲に、黒い瘴気が立ち上る。
それは魔界の瘴気。

現世に存在してはならぬ力。

ルクジムはアリアを庇いながら、後退した。
だが伯爵は、ゆっくりと――確実に距離を詰めてくる。

「さあ、“神の血”よ。その力、我に見せてみろ。」

次の瞬間、屋敷の空間が歪んだ。
伯爵の一撃が、現実そのものを裂いたのだ。

ルクジムはアリアを背に庇い、必死に応戦する。
爪を振るい、牙を剥き、月光の記憶を呼び起こす。

だが――その渾身の一撃は、伯爵の皮膚にすら届かず、虚しく宙を斬り裂くだけだった。

――伯爵は、遊んでいた。

「その色……忌々しい。」

屋敷の明かりが、ルクジムの白い体毛を照らす。
銀色の光が、かすかに揺らめいた。

それは、“ヴェイルの血”の輝き。
神の涙の残滓――魔を拒む光。

伯爵の顔が歪む。
その瞳に宿るのは、憎悪か、それとも恐怖か。

「混ざり者……貴様の存在は、我らの秩序を乱す。」

空間が裂ける。
伯爵の一撃が放たれた。

空気が悲鳴を上げ、屋敷の壁が悲鳴のように軋む。

ルクジムは、アリアを庇うために――避けなかった。

「ぐっ……はっ!」

衝撃が体を貫き、骨が軋み、肺が潰れそうになる。
血が逆流するような激痛に、意識が暗転しかける。

そのまま、彼の体は――
石壁に吹き飛ばされた。



地下屋敷―時計仕掛けの伯爵


同時刻――。

「……時間を掛け過ぎましたね。」

セシルは、古びた階段を静かに降り、地下屋敷の内部へと足を踏み入れた。
闇の中、微かな灯りが散り、壁一面に飾られた時計たちが、不気味な統一を見せていた。

「……すべて、3時45分……か。見事なまでに、同じ時を刻んでいる……。」

秒針が、ひとつの呼吸のように――静かに“カチリ”と鳴る。

その瞬間、隣の部屋で轟音。

ルクジムの身体が、壁を突き破って吹き飛ばされてきた。

「ルクジム!」

セシルは反射的に影の魔術を展開。
闇が裂け、空間が歪み、彼の体を受け止める。

だが、勢いを完全に殺しきることはできなかった。
二人は、石壁を突き破り、さらに隣の部屋まで弾き飛ばされる。

崩れ落ちる瓦礫。
濃い埃の中で、セシルはルクジムを抱えながら、息を整える。

「……まったく、若者というのはどうしてこうも無茶をするのか……。」

その声には、皮肉と焦燥が入り混じっていた。

ルクジムは血を吐きながらも、必死に目を開ける。
体中が悲鳴を上げ、骨が軋む。

だが、その瞳だけは、壁の向こうに潜む“格の違い”を確かに見ていた。

「……あいつ……ヤバい。圧倒的だ……。」

セシルは、静かに顔を上げる。

壁の向こうから滲み出る、異常な気配――。
それは吸血鬼の域を超えた、異界の圧力。

「バレン・アドニスモ……。かつての同胞――だが今は、悪魔に魂を売った存在。」
「我々の常識では測れぬ、狂気の果てです。」

遠く、歪んだ時計が一斉に鳴り始める。

“カチリ、カチリ、カチリ――”

その音は、まるで封印の鼓動のように屋敷全体へと響き渡った。



地下屋敷 ― 銀月の咆哮


「……久しいな、セシル。地上の我が下部――魔族人形(ハイドール)どもを倒してきたか。」

闇の奥から、バレン・アドニスモ伯爵がにじり出た。

その姿は、かつての優雅な吸血鬼の面影を残しながらも、異形へと歪んでいた。
背後には、血を吸われ操られた魔族人形たちの残骸が無惨に転がっている。

「……今の“悪魔融合”を経たバレン卿に血を吸われたドール、というわけですか。」

セシルは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
疲労を隠すための、皮肉めいた微笑だった。

「お久しぶりですね、バレン卿。」
「相変わらず趣味が悪い。人形遊びとは――貴族の嗜みとしては、少々下品ですよ。」

その軽口の裏には、深手を負った身体の震えが隠されていた。
魔族人形との戦いですでに限界に近く、呼吸さえ荒い。

隣に立つルクジムもまた、満身創痍だった。
立っているのが奇跡のような状態だ。

伯爵の瞳が、細められる。
その視線がルクジムに向けられ――低く唸るように言葉を吐いた。

「……その色。忌々しい。」

まるで、自身の存在を脅かす神聖な輝きに、本能が拒絶を示しているかのようだった。

屋敷の明かりが、ルクジムの白い体毛を照らす。
銀の光が、まるで月光のように揺れ、空気を震わせた。

――次の瞬間。

「ドォン……!」
「ゴゴゴゴッ!」

空間そのものが裂けるような轟音。
伯爵の攻撃が放たれ、衝撃波が壁を砕き、天井を軋ませる。

二人は紙一重で回避し、瓦礫と塵の中に転がり込んだ。

セシルの目が鋭く光る。
彼は攻撃を避けながら、何かを探していた。

「……見つけましたよ、伯爵。」

瓦礫の隙間から、彼が拾い上げたのは――魔法陣の破片。

「これが、あなたが“契約者”となった際に用いた陣の残滓ですね。」

セシルはスマートフォンを取り出し、破片をかざす。
指先で印を切り、低く詠唱する。

「――盟約により照らせ、永久の闇。」

瞬間、スマートフォンの画面から光が噴き出した。
魔法陣が三次元の光像として空中に浮かび上がる。

それは、輝かしい満月――
まるで、天上から降り注ぐ神の眼差しのような光だった。

セシルは、それをルクジムへと放つ。
「今です、ルクジム!」

月光が、ルクジムの体を包み込んだ。
その瞳が、深い金色へと染まっていく。

全身の細胞が、数千年の眠りから覚めるかのように燃え上がる。

息が荒くなり、唸りが言葉を失っていく。
体毛が白銀に輝きを増し、周囲の空気が震える。

「ヴァアアアアアッ!!」

――それは、神の血を継ぐ者の覚醒。

月に狂い、月に呼ばれた獣の咆哮。
ルクジムの中で、始祖の記憶が目を覚ました。

伯爵の顔に、初めて焦りが浮かぶ。

「……ほう。面白い。ならば――次は本気で殺してやろう。」

銀と闇が、地下の屋敷で激突した。

咆哮と衝撃が交錯し、石壁が波打つ。
ルクジムの連撃が、伯爵の防御を破り、火花のように閃く。

「ロォォォォォォォン……ッ!!」

銀色の体毛が光を放ち、咆哮が空間を切り裂く。
伯爵の顔に、初めて曇りが差す。

「忌々しい獣が……わきまえよ!」

怒りの一撃が叩きつけられ、地鳴りのような轟音が屋敷を揺らす。

だがルクジムはそれを受け止め、互角に渡り合う。

時間が溶けるように流れ、両者は満身創痍のまま対峙した。

「混ざり者……これほどとは。」

伯爵が吐き捨てるように言い捨てる。
ルクジムは声も出せぬほどに消耗していたが、その瞳の奥には、獣の執念が宿っていた。

沈黙を破ったのは、セシルの声。

「今だ、ルクジム! ――地上まで突き破れ!」

その声が、疲弊した意識に火を灯す。
ルクジムの瞳が再び金色に燃え上がり、咆哮が空を貫いた。

「オオオオオーーンッ!!」

白銀の閃光。

ルクジムの跳躍は屋敷を貫き、洞窟を突き破り、地上の教会の天蓋までも吹き飛ばした。

轟音と光が舞い上がる。
破壊の中、眩い光の筋が地下へ差し込む。

その光の先――伯爵が、苦悶の声を上げる。

「ギヤアアアーーーーーッ!!」

光に焼かれ、伯爵の肉体が煙を上げる。

闇に生きる者の断末魔。
それは、肉体的な痛みと、永遠の屈辱が混ざり合った悲鳴だった。

崩れた屋敷の外に立つセシルは、黒曜石の指輪の加護を受け、静かに言葉を紡ぐ。

「陣の欠片を探しながら、すべての時計を戻しておきました。今は――夜明けです。」

伯爵の顔が苦悶に歪む。
セシルは淡々と続けた。

「あなたは昔から、人一倍……いや、“吸血鬼一倍”臆病でしたね。その時計集め。日没と夜明けを把握するため、あちこちに時計を置いていたのでしょう。」

「アアアアアアアアアアアアッ!!」

伯爵は呻きながら、最後の言葉を吐き出す。

「愚かなる猟犬ども……我を追い詰めたとでも? 笑止……!」
「だが――残念だったな。すでに封印は失われた。貴様らは“空虚”に勝ち誇ったのだ……かつて我らが捨て去った、あの恐怖にな。」

「!!」

ルクジムとセシルの瞳が見開かれる。

伯爵は続けた。

「数年前、我をそそのかし契約者にした後――奴ら、“オルド・アーク”が封印を持ち去った。」
「魂が分離できぬ契約者など、奴らには都合が悪い。コントロールできぬからな……。」

その言葉を最後に、伯爵の体は灰となり、風に溶けた。

静寂が戻る。

差し込む朝の光の中で、ルクジムは膝をつき、セシルがその肩に手を置く。

「封印はまだ遠い。だが――君の力は確かに目覚めた。今は、それだけで十分です。」

ルクジムは、静かに頷いた。

瓦礫の隙間から、朝の光が差し込む。
戦いの余韻が、まだ空気の中で震えていた。

セシルは息を整え、淡く笑みを漏らす。

「……これで、アリアの呪縛も解かれました。彼女の記憶は、私が“夢”の中に閉じ込めましょう。」
「もうこの夜を思い出すことはない。彼女は、ただの優しいシスターとして生きていける。」

その声には、安堵と皮肉、そして少しの疲労が混じっていた。

瓦礫の中に立つルクジムの背に、セシルの声が静かに届く。

「オルド・アークが動いているのなら、この現場もすぐにもみ消されるでしょう。奴らは、“痕跡”を残すことを何より嫌いますから。」

そして、朝日に照らされたセシルの口元に、かすかな笑み。

「ロンドンの後ですからね。これ以上のゴシックは、最悪でしょうから。」

ルクジムは、半笑いで肩をすくめた。
「……嫌なヤローだ。」

セシルは軽く肩をすくめて返す。
「褒め言葉として、受け取っておきましょう。」

――その時。

セシルのスマートフォンが、怪しげな光を放った。



パウラの日記
20××年7月20日(日) 夜

数日前から、町では怖い事件や事故が相次ぎ、大騒ぎになってます。
警察も来てるし、ニュースでは「異常事象」とか言ってて、なんだか物騒。
学校も休みになって、外出禁止令まで出ちゃって……。
こんなこと、今までなかったのに。

でも私は、ちょっとだけラッキーかも。

1週間ほど前に、古書店の店長――セシルさんから留守電が入ってました。
「ルクジムとしばらく旅に出るので、店は開けずに、たまに掃除してくれるだけで良い」って。
給金はいつも通り貰えるって言ってたし、仕事は楽になるし、ちょっと嬉しい。

……ルクジムって、あの人の名前かな?
白い髪で、無口で、でも優しい目をしてる人。
セシルさんが「青年」って言ってたけど、なんだか……不思議な雰囲気の人だった。
白い光の中にいるような、ちょっとだけ現実じゃない感じ。



地下屋敷―封印無き戦場


瓦礫の隙間から差し込む朝光が、静かに灰を照らしていた。
チリとなって消えた伯爵の残骸が、風に乗り、空へと溶けていく。

ルクジムは膝をつき、血に濡れた拳をゆっくりとほどきながら呟いた。

「……こいつも、犠牲者だったんだな……」

その目には、どこか哀しみが滲んでいた。

伯爵――悪魔に利用され、己を失った者。
それは、ヴェイルの血を宿す自分もまた、常に隣り合わせにある運命。

セシルは黙ってその言葉を聞き、やがて静かにルクジムを見据えた。

「吸血鬼に“死”という概念は在りません。」
「八十八日後、蛇の姿で再び地上に現れ、時間をかけて元の姿へと還るでしょう。だが、契約者としての“本体”――あの魂は、元素へと還り失われました。」
「バレン・アドニスモ伯爵はもう、オルド・アークの執行者には戻れません。」

瓦礫が、かさりと音を立てて崩れる。
奥の祭壇で、十字架が鈍く響きながら地に落ちた。

ルクジムは少しだけ、肩の力を抜いたように小さく頷く。

「……そうか……」

目を伏せた背中で、白銀の体毛が静かに揺れていた。
戦いの余韻はまだ空気に漂っている――だが、今はただ、静寂が支配していた。



屋敷跡地 ― スマートフォンの悪魔(デビルズ)


その静寂を破るように、瓦礫の中から突如、甲高い電子音が響き渡った。

――着信音。

セシルとルクジムが一瞬顔を見合わせる。
セシルが眉をひそめ、手にした端末の画面を覗き込む。

「非通知……だと?」

彼が慎重に通話ボタンを押した瞬間――

「オイ、テメーら! 俺の、からだをどうしやがった!!」

スピーカー越しに響く声は、怒気と混乱の入り混じったものだった。
だが、その語調にはどこか憎めない“間抜けさ”がある。

「……俺はさっきテメーらと戦ってた悪魔(デビルズ)だよ!」

スマホの画面には、奇妙な合成映像が浮かび上がる。
小さな角、短い尻尾、そして背面には羽。
まるで、“悪魔風スマホケース”――いや、“スマホそのものが魔物”になったような姿だった。

セシルが低く呟く。

「まさか……伯爵が消滅した瞬間、吸血鬼の本体は元素に還った。だが、融合していた悪魔の意識だけが残り……この端末に宿ったと?」

スマホが怒鳴る。

「俺様、意味わかんねぇがとにかく動けねぇんだよ! なんなんだこの体!無機物!? データ化!? 数字しかねぇ世界じゃ力が出ねぇ!」

ルクジムが、半ば呆れ顔で漏らす。

「え、スマホって……契約者になれるの……?」

セシルは皮肉な笑みを浮かべながら、話し出す。

「おそらく、“伯爵の触媒”が崩壊する直前、残留魔力が私の詠唱に使ったゲートの欠片へと流れ込んだのでしょう。」
「スマートフォンが“触媒”として誤認された――そう考えるのが妥当です。」


「マジでどーなってんだよこの世界は! 誰か説明してくれよ!」

セシルが小さく笑い、興味深げに問う。
「そうだ、貴殿の名前は?」

「ナマエ? 何だそれは?」

「呼称です。自分を定義する音の記号。あなたの世界では、そういった“名”は存在しませんか?」

短い沈黙。
やがて、端末のスピーカーからかすれた声。

「……そんなもん無ぇ。三層(サー)以降の連中は名乗る奴もいるが、俺様たち下層には関係ねぇ話だ。」

ルクジムが苦笑いを浮かべる。

「じゃあ……スマートフォンの魔物ってことで、“スーマ”とでも呼ぼうか。」

画面の中で、角がピクリと立ち上がる。

「スーマ? へえ……悪くねぇじゃねーか!」

セシルは堪えきれず笑い出した。

「アハハ……これは珍客ですね。スーマくん、よろしくお願いしますよ。」

ルクジムが少し距離を取りつつ、ぼそりと呟く。

「それでいいのか? ……これ、仲間になるのか?」

スーマが得意げに叫ぶ。

「まぁよく分かんねーが、音楽ぐらいは流してやるよ!何聴く? メタルか? ヘヴィか?」

セシルが立ち上がり、衣服の埃を払う。

「ショパンで結構です。」

外では、朝霧が静かに溶け始めていた。

瓦礫の中、セシルとルクジム、そして新たに加わった“デバイスの悪魔”スーマ。

魔術と契約の物語に、音と通知と角が加わる。
そして、彼らは再び歩き出す――

記憶の断片と、未解決の封印座標を求めて。



スマホの悪魔 ― スーマの夜語り


郊外ホテル・午前11時

曙光のカーテンの向こうでは、
誰も知らない夜の声が、まだ眠っていた。

部屋には、セシルが淹れた紅茶の残り香が微かに漂っている。

琥珀色の香気が空気の層に溶け、
時間だけが、音もなく流れていた。

その静けさを切り裂くように、扉が開く。

現れたのは、銀月の血を宿す青年――ルクジム。
いつもの獣の気配を纏いながらも、その眼差しには感情の光がなかった。

無表情の中に、かすかな怒りと決意だけが宿る。

彼が手に取ったのは――かつて伯爵の中で眠っていた、奇妙な存在。
画面が点灯し、電子音が軽やかに跳ねた。

「フォン!」

スマートフォンに宿る悪魔(デビルズ)が、目覚める。

「おいなんだ! まだこんな時間(AM11時)だぞ!俺様は食事(充電)中だぞ!」
「寝てるときは更新が一気に来るからボーッとなんだよ!」

だが、ルクジムは何も返さない。

ただ無言で画面を叩く――「タタタッタタッ。」
そしてスーマを充電ポートに戻すと、
振り返ることなく静かにその場を離れていった。

置き去りにされたスーマの画面に、焦りと困惑が滲む。

「何だよ、いきなり! 何なんだよ!……地図アプリ……に座標……」
「おい! これって!」

語る相手はもう、部屋にはいなかった。

残されたのは、かすかに光る画面と、紅茶の香りだけ――。



翌朝(夜)・静かな朝会議

いつも通り、セシルの紅茶が静かに湯気を立てていた。

夜の帳が落ちはじめ乾いた空気が冷気を帯びていく。
話す内容は、夜よりも深く、重い。

セシルがカップを口に運びながら言う。

「今のところ、奴ら――オルド・アークの動きは無いようだが……。ヴェイルの血は最優先事項のはずが、静かすぎますね。」
「奴らは封印を少なくとも一つ以上、場合によってはすべて揃えているはず……。」

その瞬間、空気が張り詰めた。

が――画面が小さく震え、電子音が割り込む。

「逆じゃねーか?」

スーマの声だった。
ルクジムの耳がわずかに動く。

「どういう事だ。」

「全部持ってんなら、ワン公(ルクジム)を捕まえるだけだろ?」
「来ないってことは、それ以上の優先順があるか、平行作業中って事じゃねーか?」

セシルは考え込むように天井を見上げた。

「ふむ……では、封印をすべて揃えているということは無い、というわけですね。」

タイミングを合わせるように、スーマの画面が明るく光る。

「今、確認したが――半径500キロ以内の監視カメラ、センサー、探知機、それらしい反応はねぇな。報道記事にも、それっぽいもんは無え。」

椅子飛ばして、ルクジムが立ち上がる。

「お前、そんな一瞬でわかんのか??」

スーマは画面をくるりと反転させ、得意げに答える。

「おうよ! 1万ペタバイトぐれーのデータ解析なら秒よ、秒!」

――それはもう、呪文より速い魔術。
吸血鬼すら眉をひそめるほどの計算速度。

だが、その真価は数字ではなく、「意思」に宿っていた。

セシルの視線が鋭くなる。

“文明の頂に届くほどの技術が、魔物の宿る器となったとき――
その存在は、力か、それとも災厄か。”

静かな沈黙のあと、スーマが低く言った。

「怖え顔すんなよ、オッサン(セシル)の言いたいことは分かるぜ。」
「でも心配すんな。信じねえかもしれねえが――俺様は、人間が好きなんだ!」

その言葉に、場が止まる。
紅茶の湯気すら、今は動かない。

――その声には、確かに“心”があった。

電子の悪魔ではなく、“人”に焦がれる何かの響きが。



記憶の底で語られる ― スーマの過去


部屋の照明が落とされ、外では風が遠くを渡っていた。
紅茶の香りももう消え、残るのは三人の呼吸の音だけ。

セシルとルクジムが黙って見守る中、
スーマの画面がゆっくりと明滅を始めた。

――そして、語りが始まる。

「俺様は小せえ時から人の世界を見るのが好きでよ……こっち側で言やーテレビの感覚か。」
「だもんで今回、召喚が来たときは喜んでたんだけどよ。アイツ(伯爵)の自我は消えずに、俺様の意識は伯爵の中で停止しちまった。」

「アイツのしてたこと、考え、記憶は記録されてるが、俺様の意思は無え。」

その声には、いつもの軽口ではない、くぐもった響きがあった。
セシルは目を細め、どこか悲しげに微笑む。

「スーマよ……差支えがなければ、人を好きになった訳を聞いても良いかな?」

画面が一瞬、沈黙した。
青白い光が、わずかに震える。

そして――ゆっくりと語り出す。

「俺は昔、人間を飼ってた事があったんだ。魔法陣で繋がった契約の生贄が、子供の魂だった。」
「契約だから俺様は希望を叶えてやって、その報酬を美味しく頂くつもりでいた……んだが、出来ずに飼う事になった。」

画面のノイズが、かすかに揺れる。
そこに宿るのは、かつての“心の震え”だった。

「泣いて、笑って、怒って、わめいて、甘えて…眠る。……そのうち、俺様の中で今まで生きてきて感じた事のない感覚が生まれて来やがった。」

「温かくて、フワフワしてて、嬉しくて…苦しくて、辛くて…訳の分からない感情。それからは、いつも居るのが当たり前になった。」

静かに、画面が暗くなる。
光の明滅だけが、呼吸のように続く。

「人間の魂の命はメチャクチャ短い。あいつが居なくなってから、俺様は人間ばかり見るようになった。」

その声には、粗野さの奥にある“人間らしさ”が滲んでいた。
ルクジムもセシルも、何も言えなかった。

そして、最後の記憶が語られる。

「名前、ってやつ。…あいつも言ってたような事を思い出したぜ。…最初が聞き取りにくいが、たしか最後が……ボナー。そう言ってたような…。」

その瞬間、画面は涙のような輝きを映した。
だが、そこに涙はない。ただ、電子の光が滲んでいた。

沈黙が、静かに流れた。

そして――セシルが、そっと口を開く。

「‥それは、愛だよ。スーマ。」

ルクジムは背を向けた。

掛ける言葉が見つからない。
だがその背には、理解と痛みが混じった震えがあった。

セシルが、低く、慎ましく言葉を絞り出す。

「言葉も選ばず、偏見や固定観念で話をしたのを誤りたい。……申し訳ない。」

一拍の静寂の後――
スーマの画面が明るく光った。

「心配すんな!何とも思ってねえよ!」

そして、少し間を置いて。

「お前はとっくに、同盟の仲間だ!」

その言葉とともに、ルクジムが振り向く。
静かな光が、その瞳の奥に灯っていた。

かつて、自分が誰にも信じられなかったように――
今、自分が誰かを信じたのだ。

セシルの目が微笑みで揺れる。

“変わったな……ルクジム。”


そして、ふと小さく呟いた。

「……ボナー……まさかな……。」


誰も返さなかった。

ただ、部屋の空気はあまりにも――優しかった。



スーマのうんちく


悪魔 デビルズ(Devils)

現世ではなく違う次元(魔界)の存在
本来なら現世に出現することはない
非常に獰猛で残虐
魔界は5階層で出来ていて3階より下想は階級が有る
下に行くほど階級は上

1階(ファース)人では到底立ちうち出来ない化け物
2階(セカ)現世の生き物では比類出来ない力、強固、破壊力
3階(サー)現世に出現すれば神話クラスの脅威(階級 陀)
4階(フォー)魔界、各世界の統制者(階級 邪)
5階(フィフ)魔界を統べる者たち3人(階級 魔)


オルド・アーク(Ordre Arc)

概要
正式名称:Ordre Arc(古代語で「秘儀の秩序」)
異能者の研究・管理・兵器化、および魔界との接続による世界再構築
表向きの姿:政府の下部機関として存在する「異常事象対策局」
実態は魔界と契約を交わした秘密結社(死の商人)。
人間と悪魔の融合体「契約者」を創造し、門を開く鍵を収集している。

組織構造
階級      役割      特徴
主導評議会 カウンシル・オブ・アーク(Council of Arc)      組織の最高意思決定機関     魔界との契約を交わした幹部たち。
人間の姿を保ちながら悪魔の力を行使する。

契約者部隊 パクト ユニット(Pact Units)      実働部隊    人間と悪魔を融合させた戦闘兵。
感情が希薄で命令に忠実。

研究部門 ディビジョンセブン(Division 7)      魔法陣・封印術・異能者の遺伝子研究       
ルクジムの母・エリシアがかつて所属していた。現在は彼女の血統を追っている。

情報部門 ベールネットワーク(Veil Network) 異能者社会への潜入・監視       
吸血鬼や狼男のコミュニティにスパイを送り込んでいる。



グレイヒル ― 記憶の鍵


夜は、記憶を隠す。

霧深きグレイヒル。
過去の声は溶け、真実は影の底に沈む。

霧雨が窓を叩く夜、
古びたホテルの一室で、三人は沈黙を共有していた。

セシルはカップを傾け、冷めかけた紅茶を見つめたまま呟く。
「……妙だな」

「オルド・アークの追手が来ないだけでなく、ベール・ネットワーク(情報部門)の気配すらない。」

スーマの画面がチカチカと光る。
「おいおい、俺様がいるからって油断すんなよ。あいつら、動かねぇときほど厄介なんだ。」

ルクジムは窓の外――霧に滲む街灯を見つめながら、低く言った。
「……教会が気になる。なぜか、あそこに戻らなきゃいけない気がする。」

セシルはその言葉に小さく頷く。
「私も、あの場所に“残響”を感じていた。何かが、まだ終わっていない。」

こうして三人は、再びグレイヒルの教会へと向かった。


教会跡

そこは、かつての激闘の痕跡をわずかに残していた。

オルド・アークの隠蔽にしては荒すぎる。

外壁は応急処置のように修復されただけで、
地下への通路は――塞がれていなかった。

「手抜きだな。あいつら、情報の書き換えしかしてねえ!」
スーマが皮肉まじりに言う。

三人は階段を下り、
かつて封印が保管されていたと思しき地下室へと辿り着いた。

そこには、重厚な金庫が静かに鎮座していた。
金属の表面は鈍く冷え、時の流れさえ拒むようだ。

「……鍵がかかったまま、しかも無傷?」
ルクジムが眉をひそめ、慎重に触れる。

「オルド・アークが封印を奪ったなら、破壊の痕があるはずだ。なのに、これは……」

セシルの脳裏を、一つの旋律が過った。
アリアの、あの祈りのような詩。

♪ ――聖者は光の中に現れり、
その姿、真理の道を示す。
時至りて、影の中に消え去りぬ。
言葉、謎めきて、心に問いを投げかけん ―― ♪

セシルは息を呑む。
「……これは、“聖者の刻”の詩。出現と消失――時間軸そのものが不安定になる象徴だ。」

ルクジムとスーマが顔を見合わせる。

鍵は――アリアが持っている。
だが彼女の記憶は、セシルの幻術によって封じられたままだ。

「記憶を……探るしかないな。」
セシルが静かに言った。

「アリアの心の奥に、封印の真実が眠っている。」

霧が鳴るような沈黙の中で、
三人の視線が交わった。

夜の向こう――まだ誰も知らない“記憶の扉”が、ゆっくりと軋みを上げて開き始めていた。



記憶の鍵ー封印の謎


ロンドンの片隅。

雨に濡れた石畳の広場を、沈黙の鐘が打つ。

古びた教会の前では、修道女たちが淡々とボランティア活動を続けていた。
その中に――セシルとルクジムが探していた人物、アリアの姿があった。

彼女は二人の姿を認めると、穏やかに微笑む。

その瞳には、確かに“記憶”の光があった。
だが、それは断片的で――事件の核心には、まだ届いていない。

「あなた方……お二人さん……お会いしたこと、ありますよね?」

その声に、セシルは静かに歩み寄り、胸元に手を当てて印を切る。

「――盟約の記憶、呼び覚まさん。」

雨音の中、アリアの身体がふわりと力を失い、
ルクジムがすかさず抱きとめる。

「眠ってるだけだ。大丈夫。」

彼女をそっと地に横たえ、セシルはその瞳を覗き込んだ。
そこに沈む“過去の真実”へと、心を伸ばす。

その時――
スーマが画面を光らせながら、短く言った。

「俺様を彼女に置け。言霊の詠唱と印を合わせろ。」

セシルはすぐに理解し、指を交差させて再び印を結ぶ。

「――静かなる者の英霊よ、答えよ。真透視鏡(ミラー・オブ・ソウル)!」

スーマの画面が強く輝き、幾重もの魔術陣が空中に浮かび上がる。

「スキャン開始……20%……30%……完了!」

やがて光が収束し、画面が静まり返る。
スーマの声が低く響いた。

「ここからは、俺様の記録(データ)とアリアの記憶を照合した推察だ。」

セシルとルクジムが耳を傾ける中、
スーマの声は雨音を貫くように、静かに広場に響いた。

「“聖者の刻”は、セシルの予想通り――伯爵の手元にはなかった。正確には、“一度存在したが、消失した”んだ。」

「消失……?」

「そう。聖者の刻は次元の“縦軸”――つまり時間が定まってねぇ。だから、様々な場所に出現と消失を繰り返す。」
「伯爵はその性質を知らなかった。」

スーマの画面に、淡く揺れる聖水の映像が映る。

「定着させるには“聖水”に浸ける必要がある。つまり――オルド・アークは封印を奪っていない。」
「“聖者の刻”は未だこの現世のどこかにある。その場所は、予知でしか見つけられねぇ。」

ルクジムが眉を寄せる。
「じゃあ、伯爵は……?」

「封印が三つあることまでは知らなかった。だが、“ヴェイルの血”――つまりお前の血筋には、薄々感づいていたようだ。」

スーマの画面に、一本の古びた筆の映像が浮かぶ。
毛先は白く、柔らかく、どこか生々しい。

「アリアの家には代々伝わる、白い筆があった。幼い頃、彼女はそれで遊んでいた。――その筆、エリシアの髪で作られていたんだ。」

セシルの瞳が見開かれる。
「……だから、封印に引き寄せられた。」

「ああ。聖者の刻はかつて教会地下に存在していた。だが今は消えている。」
「伯爵はオルド・アークが奪ったと誤解したが、実際は――自ら“移動”した可能性が高い。」

スーマの声が少し低くなる。
「アリアは伯爵の命令で聖者の刻を調べてた。修道女になったのも偶然じゃねえ。幼い頃に“筆”に触れたことで、無意識にその封印へと導かれていたんだ。」

「そして――伯爵はそれに気づき、アリアをドール契約で縛った。」
「血を吸い、彼女の魂を固定すれば、意思を持つ人形(ドール)になる。」

セシルの拳が震える。
「……封印が消えたのは、オルド・アークのせいではなかった。」

「ああ。消失――つまり、“転移”だ。アリアはそれを知り、伯爵に報告した。だが、その瞬間……首を掴まれ、持ち上げられた。」

スーマの画面が一瞬、暗転。

そして映像が流れ始めた――
ルクジムが伯爵の部屋に踏み込んだ、あの夜の記録。

血と光と影が交錯する。
そして、すべてが途切れる。

グレイヒルの霧は、まだ真実を語らない。
封印は奪われず、ただ見失われた。

だが――それは、偶然なのか。
それとも、“封印そのもの”の意志なのか。

霧が深くなる。
物語は、再び巡る。

見失われた構造の、その先へ――。



グレイスヒル ― 振り出しの夜


湿気を孕んだ空気が、まるで熱帯の吐息のように肌へ絡みつく。

午前零時。

雲ひとつない夜空には、細い繊月がひっそりと浮かび、
まるでこの部屋に沈む重苦しい空気を、静かに見下ろしているかのようだった。

部屋の中は、沈黙という名の鉛で満たされていた。

「……振り出しに戻りましたね。」

セシル・ノクターン卿が、まるでチェスの敗北を悟った貴族のように、
静かに、諦めにも似た声で呟いた。

その言葉に応える者はない。
ルクジム・ヴェイルは床を睨みつけたまま、石像のように動かない。

“封印がすでに失われていた”という現実が、
彼の胸の奥に鈍い重石のように沈んでいた。

やがて、セシルがふと表情を変え、手元のスマートフォンに顔を寄せる。

「スーマ。……少し相談がある。可能か?」

その瞬間、画面がパッと明るくなり、電子の声が炸裂した。

「おっほう! オッサン、またおもしれーこと考えたな! ぶっ飛んでるぜ!」

その言葉には、皮肉よりもむしろ驚きと警戒が入り混じっていた。

「……で、出来るのか?」

セシルが詰め寄ると、スーマは間髪を入れずに応じる。

「いけると思うぜ! コードにするから、データよこせ!」

そのやり取りを、ルクジムは部屋の隅でぼんやりと見ていた。
焦点の合わない視線の奥で、心だけが別の場所を彷徨っているようだった。

しばらくして、スーマがふと思い出したように言った。

「そういや、こないだワン公が打ち込んだ地図、どうすんだ?」

「……地図?」

画面にパッと映し出された地図を見た瞬間――


「何っ!!」

セシルとルクジムが同時に声を上げた。

ルクジムは自分の掌を見つめ、理解できないという顔で呟く。

「俺が……打ち込んだ? ……いや、何も覚えてないぞ。」

「オメーッ、ボケてんのか⁉ わざわざ俺様の睡眠を邪魔しやがったくせによ!」

スーマが画面越しに怒鳴る。
セシルはそのやり取りを制しながら、地図をじっと見つめた。

「ふむ……なるほど。こういう“予知”も、あるということか。」

眉間に皺を寄せ、低く呟く。

「……しかし、この座標……北米大陸カナダ、イエローナイフ。
北緯61度32分50秒、西経125度35分22秒……ここから、およそ8~9時間といったところだな。」

ルクジムが目を細める。
セシルは微かに息を吐いた。

窓の外では、月光が薄く煙のように揺れている。

オーロラの洗礼を受けし霊力の聖地――
北米カナダ・イエローナイフ。

待ち受けるは、神か。悪魔か。

それとも――ルクジム・ヴェイルが無意識に導き出したこの座標こそ、
運命の歯車を狂わせる“新たな鍵”なのか。

夜が、静かに回り始める。



パウラの日記 20××年8月15日(金) 夜

窓の外には月が出ていて…

昨日、不思議な夢を見た。

それは、どう考えても怖いはずの悪魔が現れる夢。

角があり、大きな体。鋭い爪に恐ろしい牙。そして力強い羽根。
本来なら、その姿に怯えるはずだったのに……。

不思議とその悪魔、その瞳は夜空の星のように穏やかで、爪も牙も、不思議と脅威には感じなかった。

目覚めてからも、あの感覚が胸に残っている。

あの夢には、何か意味があるのだろうか?

心のどこかで、いいことが起こる前触れだと願っている。
どうか、この小さな祈りが叶いますように。




第二章・終幕


「そして物語は新たなる封印の地を目指して。」
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