不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第171話 木もと竹うら

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 昨日一昨日と防戦に回るも、攻勢に転じた大久保党。占部川を挟んで針崎勝鬘寺の一揆勢と対峙する中、背後ともいえる西側から中之郷の浄妙寺からの援軍が襲来していた。

「仏敵を討ち滅ぼすのだ!同志を救えっ!」

 僧兵らが薙刀を片手に押し寄せる前に弓を片手に立ちはだかったのは筧図書重忠の嫡男・重成。静かに矢を番え、先頭きって突っ込んでくる僧兵の一人に狙いを定めて矢を放つ。

 弦を放れた矢は風を切り、僧兵の眉間を鮮やかに射抜く。この筧重成の文字通り一矢報いる行為に、まさか容赦なく矢を射てくるとは思わなかった浄妙寺の僧兵らは恐れをなして早くも崩れ出す。

「父上!敵が退散してゆきました!追い討ちいたしましょう!」

「止せ。僧兵を斬ったとて武功の足しにはならぬ。今は逃げる敵より、向かってくる敵に備えるべきじゃ」

「それもそうですな。では、七郎右衛門殿らと合流することといたしましょうぞ」

 早くも浄妙寺からの援軍を蹴散らして戻った筧重成の行いは大久保党の面々からも称賛され、「よくやった!」という声で満ちた。

 一方で、援軍があっさり撃退される様子を見た対岸の一向一揆勢は地団太踏んで悔しがった。

「くそっ!たかが僧兵が一人射られただけで撤退しよって!」

「これ、落ち着かぬか源蔵。まだ戦は終わっておらぬ」

「それはそうじゃが、助大夫殿には何ぞ策でもあるので」

「ある」

 筧助大夫正重はどこぞで拾ってきた木の枝を用いて、渡辺源蔵にも分かるように足元の砂地に図を描きだす。

「今敵がおるのは井内じゃ。まず、軍勢を二手に分け、一手はこのまま敵と対峙。別動隊は占部川を渡河して井内の北の妙国寺へ進出」

「ほう、挟撃策とは面白い。して、そのまま大久保党を壊滅させるか」

「いや、ここから南西の土井は深田であった。足元の悪い土井へ敵を誘い込んでおいて、大久保党を壊滅させる」

「なるほど、勢子が獣を射手の方へ追い立てるように土井の深田へ追い込むわけか。こいつは妙案じゃ!すぐにもやろう!半之丞もそう思うであろう!」

「あ、ああ」

 筧助大夫の策に膝を打って共感した渡辺源蔵から振られた言葉に対し、蜂屋半之丞貞次は浮かない顔で頷いた。

「いかがした、具合でも悪いのか」

「半之丞のことじゃ、その辺に生えとる野草でも食って腹壊したんだろ」

「たっ、たわけたことを!そのようなこと、あるわけなかろうが!」

 からかわれたことから逃げるようにその場を後にしようとする蜂屋半之丞を呼び止めると、「しょんべん!」とだけ言い捨てて走り去ってしまった。

 しかし、蜂屋半之丞は尿意を催したからその場を離脱したのではなかった。木につないであった自分の馬に跨ると、妙国寺の対岸に位置する柱の中之原へ向かったのである。

「助大夫の策が用いられれば、ここから一揆勢の別動隊が渡河し、大久保党を壊滅させる布石が打たれてしまう!それだけは断じて避けねばならぬ!」

 蜂屋半之丞の妻は岡崎城を守備する常源こと大久保新八郎忠俊の娘であり、一昨日の合戦で片目を失った大久保七郎左衛門忠勝の姉妹。

 要するに、一向一揆方の作戦を見て見ぬふりしては妻の実家が壊滅することになる。さりとて、裏切ることも今となっては叶わない。となれば、裏切らずに頑張って対岸の大久保党の者へ伝えるほかないのである。

 思い詰めた蜂屋半之丞は奇行に走った。柱の中之原を乗ってきた馬で無目的に駆けずりまわり始めたのである。そんな対岸での珍事は大久保党の見張りから首脳陣へ伝達された。

「ははは、半之丞のやつ気でも狂ったか」

 そう言って笑ったのは杉浦八郎五郎勝吉。それにつられて、大久保喜六郎忠豊や大久保助左衛門の兄弟も義兄弟の奇行に腹を抱えて笑い出す。

 その中でただ一人、静かに考え込んでいたのは大久保七郎右衛門忠世。大久保七郎右衛門の真剣な面持ちに、次第に皆が冷静さを取り戻し、どうして蜂屋半之丞が馬に乗って駆けずり回るという意味不明な行動を取ったのかを考え始める。

「半之丞のやつ、何かを伝えようとしておるのではないか」

 ぽつりとつぶやいたのは大久保八郎右衛門忠重。その言葉に刺激を受けたのか、大久保七郎右衛門は一足飛びに結論へ到達する。

「そうか。たしか、半之丞が馬に乗って駆けずり回っておるのは柱の中之原。あそこは占部川の渡河がしやすい地でもある。さては、敵方は軍勢を二つに割り、一手を柱の中之原から対岸の妙国寺へ渡し、我らの側面から奇襲する腹積もりやもしれぬ」

 大久保七郎右衛門が唱えた意見は真実とは少し異なっているが、蜂屋半之丞が伝えたかったことの五割くらいは伝わっている。

「ともすれば、ここに長陣しては危ういやもしれませぬ」

「図書殿も仰る通り、ここらが潮時やもしれぬ。一度上和田砦へ退却し、このことをただちに岡崎城の殿へ注進いたそう」

 そうと決まれば撤退だと大久保党の者たちは急ぎ退却の支度をはじめ、蜂屋半之丞が長い長い『しょんべん』を終えて味方の陣へ戻る頃には、対岸から大久保党の者たちが順次撤退を始めていた。

「半之丞!敵が退き始めたぞ!これでは挟撃策が実行できぬではないか!」

「しょんべんに行っとる間のことなんぞ申されても困る!」

 占部川がなければ追い討ちできるものを、と筧助大夫や渡辺源蔵は悔しがったが、大久保党の撤退を聞いた蜂屋半之丞の心は一揆方の誰よりも落ち着いていた。

 そうして大久保党が撤退したことを受けて、針崎勝鬘寺の一揆勢も軍勢を寺内へ収容し、再び守りを固める動きを取っていく。

 一方で、上和田砦へと無事に退却した大久保党からは岡崎城へ早馬を飛ばし、戦果のほどを報告させていた。時刻は正午である。

「そうか、針崎勝鬘寺の手前まで攻め寄せたか!ご苦労であったと皆に申し伝えておいてくれよ」

「ははっ!では、これにて失礼いたしまする!」

 大久保家からの使者を返すと、昼食を取り終えた家康は生き生きとした表情で起立する。

「一揆の者共も大久保党の撤退に油断しておろう。敵の目が針崎へ向いているうちに、迂回して土呂本宗寺を叩くことといたす!」

「と、殿!それは危のうございまする!」

「常源、案ずることはない。敵の戦力はそなたの一門がその多くを削いでおる。針崎の勝鬘寺も援軍を送る余力はないであろうし、土呂本宗寺など攻められることはないと高を括ってもおろう。今日のうちに下らぬ一揆も鎮圧となろう」

 さしもの宿老・常源であっても、ついに乗り気の家康を諫止することはできなかった。

 家康は奇襲が見抜かれては叶わぬと榊原隼之助忠政をはじめ、少数の兵で岡崎城を出陣。乙川沿いを東へ進み、本願寺派と対立する真宗高田派の満性寺を経由し、そこからさらに南東に進んだ大西、小豆坂方面から土呂本宗寺を攻めようというのが家康の狙いであった。

 そんな家康が通過しようとしている小豆坂付近には針崎勝鬘寺より出撃した渡辺半蔵守綱と渡辺源蔵率いる門徒武士らが待ち構えていた。

「半蔵、岡崎城内の大見藤六よりの報せによれば家康はここを通るとのことじゃ」

「うむ。殿御自ら土呂本宗寺を突かんとする。まこと、大見藤六よりの密使がなければ危うかった」

「まことじゃ。おう、来たぞ!厭離穢土欣求浄土の旗は間違いなく家康じゃ!」

 千に満たない手勢で進軍してくる家康の姿を確認した渡辺半蔵と渡辺源蔵は弓隊に矢を番えて待機させ、他の兵士らには刀や槍を構えさせていつでも突撃できるよう準備させた。

 そうとは知らない家康は小豆坂の手前にある北鼻と呼称される丘を物見と称し、単騎で登っていく。

「まこと、見晴らしがよい。なるほど、本宗寺はあそこか」

 小手をかざして土呂本宗寺の方を望見していた家康であったが、周囲から突如として鬨の声が上がる。

「殿!伏兵にござる!ここはお逃げくだされ!」

 すぐ傍に控えていた榊原隼之助に進められるがまま、ただちに北鼻の丘をかけ下る。四方より浴びせられる矢をかわしながら山中へ逃げ込むことには成功する家康。

 物見と称して、率いてきた軍勢から離れていたこともあり加勢もなく、逃げる途中で榊原隼之助らともはぐれてしまっていた。

 辺りを見回しても誰一人味方のいない状況。大将が単独で山の中を彷徨うというのは危険という次元を超越していた。

「いたぞ!あの金色の鎧は家康じゃ!逃がすな!」

 そんな声が辺りに響く。一揆勢に討たれるのも、捕縛されて屈辱を受けるのもご免であった。家康は途中で足を挫いた馬を乗り捨て、ただひたすらに山中を駆け回り、とにかく北を目指していく。

「おう、殿!」

 頼もしい味方が現れたかと思い振り返ってみれば、槍を担いだ胴丸姿の渡辺半蔵と渡辺源蔵であった。

「さっ、観念なされよ!」

「推参なる奴ばらよ!その槍は飾りか!かかって参れ!」

 馬を乗り捨て、山中を逃げ惑うには不自由だと槍も打ち捨てた家康にとって、武器と呼べるものは腰の刀のみ。それを鞘から抜き放って構えた際の咆哮に気圧されてか、渡辺半蔵・源蔵の両者はたじろいでしまう。

「さあ、どうした!突いて来ぬのか!」

 逆に激高した家康が刀を振り上げて前へ進み出ると、渡辺半蔵が逃亡し、それを見た渡辺源蔵は舌打ち混じりに逃げうせてしまった。

「あ奴らは一体何がしたいのじゃ……」

 てっきり自分を討ち取る、もしくは捕縛しに来たものだと考えていたが、今の二人の行動は明らかに不審であった。何はともあれ、松平きっての猛将二人とやり合わずに済んだことは家康にとっては僥倖。命拾いしたとばかりに山中を進み続け、乙川が見える位置へ転がり出た。

「殿!ご無事でしたか!」

「おお、隼之助か!」

 偶然にもはぐれた榊原隼之助と再会した家康であったが、周りを見回しても両手で数えるに足る人数しか侍っていない状況。その榊原隼之助も射られたのか、肩に矢が突き立ったまま手にする刀から血の雫を滴らせている。

 そこへ、満性寺とは乙川を挟んだ南岸に位置する明大寺方面から追撃してくる一揆勢を望むことができた。

「殿!」

「分かっておる!ここは高宮ゆえ、さらに東に位置する吹矢ヶ瀬ならば安全に乙川を渡河できよう」

「なるほど。然らば、殿が渡河するまでの時間は我らが稼ぎまするゆえ、先をお急ぎくださいませ!」

 主君を逃がすべく、榊原隼之助は周囲にいる数名と共にその場に踏みとどまることを選択。家康はただただすまぬという想いでひた走り、水辺に集まっていたカモを蹴散らしながら曲り水の中を突っ切っていく。

 装束に乙川の水が沁みて重たくなったのを感じながらも、遮二無二走り抜けた家康は満性寺へと単身転がり込んだ。

「ご領主さま、一体何事でございますか!?」

「うむ、小豆坂にて敵の待ち伏せを受け、ここまで落ち延びて参った次第」

 寺門付近で番をしていた僧兵は家康のずぶ濡れになった足元、鎧に木の枝が引っ掛かり、至る所が泥にまみれている様子からただ事ではないと察し、住職のもとへ報告へ向かう。

 そして、家康が単騎で満性寺へ駆け込んだことは寺内は無論のこと、近隣の松平家臣のもとへも伝わり、満性寺の僧兵や松平家臣たちが集結して乙川の河原を固めるほどの大騒ぎとなった。

「と、殿!」

「おお、隼之助!無事であったか!」

「はっ!殿を狙う不届き者を三名ばかり叩き斬ってやりました!こうして殿の無事なお姿を拝見できて、安堵いたしました」

「ご苦労であった。奥で傷の手当てをして参れ」

 傷だらけとなって戻ってきた家臣・榊原隼之助を手当てに向かわせると、入れ替わりに岡崎城の留守を任せていた常源老人が戦装束でやって来た。

「殿、お怪我は!?」

「案ずるな、ここへ落ちる途中で負った傷が少々あるくらいじゃ。それよりも、一揆勢はどうしておるか」

「はっ、乙川の南岸へ集結し、こちらへ攻め込まんばかり。今は満性寺の僧兵や地侍どもが対峙しておるらしく、ともに援軍としてやって来た筒井忠元や土屋重信らを援軍として向かわせておおりますれば

「それなら案ずることはないか。されど、一揆勢が大人しく引き下がるであろうか」

 心中の不安を常源へ吐露した家康であったが、その直後に乙川北岸に展開した味方からの伝令が駆け込んでくる。

「殿!一揆勢が撤退していきましてございます!」

「そうか!撤退したか!」

「はいっ!おそらく、守りが固められており、渡河することは困難であると判断したのではないかと」

「左様か。ならば、まことに撤退したのかが確認でき次第、撤収するよう伝えておくのだ」

 かくして、一揆勢が本当に撤退したことを受けて、上和田砦をめぐる三日間の合戦も一区切りとなった。
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