不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第174話 生田原の戦い

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 家康が伯父の水野下野守信元の軍勢と共に引き返さんとしている頃、土呂街道を東進する一揆勢は石川新九郎親綱を大将とし、東へ東へ。

 軍勢の戦闘が大谷坂から馬頭原へ抜けたところで、朱色の甲冑に金の団扇の旗指物という戦場のどこに居ようとも目立つ石川新九郎のもとへ裏切ったばかりの大見藤六が走り寄る。

「新九郎殿!物見が戻ってきた!」

「左様か。して、物見をしてきた者らはなんと?」

「ここから岡崎城までの道のりを阻害するのは二つのみ。一つは乙川、もう一つは岡城」

「岡城といえば、三年も昔、深溝松平勢に中島城を奪われた板倉弾正重定が逃げ込んだ、あの岡城か」

「へい。城代はその板倉弾正を追い討ちした際に手柄を立てた河合宗在とのこと」

 河合宗在と聞いて、石川新九郎は恐れという感情が微塵も湧いてこなかった。三河四ヶ寺に集まった中で、最も多い八百もの門徒武士がここにいるのだ。岡城の敵を蹴散らし、岡崎城を攻めるなど造作もないことであった。

「よし、この馬頭原からは北に転じて生田を目指して進軍!そのすぐ北の岡城の軍勢を蹴散らし後、岡崎城へ攻め入ることといたす!者ども、奮起せよ!」

 家康の軍勢は今頃、矢田作十郎率いる佐々木上宮寺の一揆勢と交戦中。仮に、この進軍を耳にしたとて、矢矧川を渡河しているのだ。追い討ちを受けながら岡崎城まで戻ってくることはまずもって難しいだろう。

 ――それが石川新九郎の見解であり、此度の一揆勢を指揮する門徒武士たちの共通理解であった。

 そんな八百もの一揆勢が足並み揃えて北上中との火急の報せを受けた岡城代・河合宗在は舌打ちする。自分たちの倍以上の兵力を家康率いる主力抜きに相手をせねばならないのだから、そうなるのも致し方なかった。

「このまま一揆勢が進軍してきたならば、生田の町は焼かれてしまうことであろう。よって、郷民らを集め、岡城南の生田原に出て迎え撃つこととする。さすれば、生田の町を焼かれる心配もない」

 河合宗在が断言すると、他の在番衆の者たちも咆哮とともに賛同していく。町が焼かれてしまうのは、河合宗在に限らず、他の在番衆たちにとっても捨て置けることではない。それゆえに、打って出て一揆勢と戦わんとする河合宗在に同意したのである。

 かくして河合宗在率いる岡城の在番衆は岡・生田の郷民にも呼び掛け、生田原にて迎撃するべく、一揆勢がやって来るのを静かに待ち伏せた。

「河合様!来ました!一揆勢にございまする!」

「来たか。弓を持っている者らへ、矢を番えて指示を待つように伝えよ」

「ははっ!」

 河合宗在の指示を受けて、岡城に在番する将兵はいつでも射られるように矢を番え、岡・生田の郷民たちも敵軍の接近に固唾を飲む。そうして、開戦の時は来た。

「今じゃ!放てっ!」

 河合宗在の指示で少数ながらも一斉に矢が射かけられる。よもや岡城手前で攻撃を受けようとは思っていなかった一揆勢は動揺する。しかし、石川新九郎や佐橋甚五郎吉実といった名のある将たちが前線へ赴き、決死に指揮を執り始めるとみるみるうちに態勢を立て直していく。

「怯むなっ!矢の数からして敵の数は二百もおらぬわ!こちらは八百もおるのだ!負けることなど断じてない!」

「いかにも!見てみよ、北におる者共の半数はまともに鎧も付けず、竹槍しか持っておらぬ郷民どもではないか!そのような相手に不覚を取ったとあっては末代までの恥辱ぞ!」

 大将格の者たちにそう発破をかけられ、一揆方の武士たちは戦意を取り戻し、槍先を揃えて河合宗在率いる松平勢目がけて突撃を開始。数的優位に物を言わせ、あっという間に北へ北へと押し始める。

 河合宗在が数的不利を承知のうえで野戦を挑んだことは間違いであったかと悔やみ始めた頃、大平より援軍が到着する。岡城付近で合戦が行われていることが周囲の地侍らにも伝わり、本多党、吉野党の合わせて百五十ほどが河合宗在ら松平勢へと加勢したのである。

「新九郎殿!」

「おう、孫七郎か!敵に本多党、吉野党が加わったようだの」

「そのようです!とはいえ、依然こちらの半数以下!あの程度の数が増えたところで何ができましょうぞ!」

「その通りじゃ。ここは一挙に押し出し、まとめて蹴散らしてくれようぞ!」

 石川新九郎は同志の波切孫七郎とやり取りしながら、再度突撃を敢行するべく準備を整えさせていく。

 対して、多門重倍を筆頭に一揆勢へ立ち向かってくる援軍の士気は高く、河合宗在はこのまま押し戻せることを願ってしまう。だが、武神はなかなか味方してはくれなかった。

「やはり持ちこたえられぬか!いや、ここで退いては岡城だけでなく、岡崎城までもが危うくなるのだ!皆の者!ここが正念場ぞ!」

 そう叫びながら敵兵を斬る河合宗在の雄姿にその場の誰もが憧憬の念を抱き、兵数の劣る松平勢の希望そのものとなる。

 そうして河合宗在らの決死の奮闘が功を奏したのか、岡崎城からの援軍二百が生田川を渡河し、打って出てきたのである。これにより、兵数は未だ松平勢が不利であるものの、当初の兵力差を想えば、かなり縮まったと言える兵力差となった。

「ちっ、わらわらと集まってきよって!しかし、支度は整った!時は来たれり!突撃せよ!」

 徐々に突撃の準備を進めていた石川新九郎の命令で一揆勢はまとめて松平勢を粉砕するべく突撃を敢行。

 一揆勢の執念深い猛攻を前に、ついに松平勢も崩れるかに見えたその時。使い古した弓を手にした中根助市、中根七九郎、酒井忠光、近藤佐野右衛門、発知藤三郎、倉橋久次といったいずれも劣らぬ精鋭の射手たちが矢じりを揃え、狙いを付け始める。

「今じゃ!射かけよ!」

 松平方の弓兵が一斉に番えていた矢を放つ。突撃する一揆勢の頭上から多くの矢が飛来する中、弓の名手たちの矢は正面から門徒武士らの眉間や首筋を的確に射抜いてゆく。

 前に出た者たちが一揆勢を寄せ付けまいと刀や槍で奮戦する中で、少し後ろから弓の扱いに長けた者たちが今日で持っている矢をすべて使い切る勢いで射ては番え、射ては番えを繰り返す。この激しい抵抗を前に、さすがの石川新九郎も観念した。

「これはいかん!者共、馬頭原へ退却じゃ!退却せよっ!」

 そう言い捨て、自分が道筋を示すように真っ先に退き始めたのである。かくして、松平勢が粘りに粘ったおかげで、生田原での合戦は松平勢に軍配が上がった。

 そうして河合宗在をはじめとする味方が石川新九郎率いる土呂本宗寺の一揆勢と激しい攻防戦を繰り広げている頃、家康は佐々木上宮寺へ最低限の抑えの兵を配置し、行きと同じく渡の下ノ瀬より矢作川を渡河して上和田砦へ着陣していた。

 先日と大きく異なるのは上和田砦に厭離穢土欣求浄土の旗が風を受けて翻っているだけでなく、水野下野守信元率いる援軍の水野沢瀉の旗も翩翻と翻っているところにある。そこへ、土居の本多豊後守広孝が援軍として到着したのである。

「殿!それに、水野下野守殿!本多豊後守広孝、遅ればせながら着陣いたし申した」

「豊後守、よくぞ参った。富永伴五郎忠元を討ち取り名を馳せたそなたが来たと知れば、一揆の者らも震え上がろうぞ」

「それは分かりませぬが、この場におる誰よりも武功を立てる気概で臨んでおりまする」

「よくぞ申した!それでこそ本多豊後守ぞ!」

 戦慣れした本多豊後守率いる土居の軍勢が合流したことは家康としても心強い限りであった。松平家臣で本多豊後守の武名を知らない者の方が珍しいほどなのだ。そんな人物が加勢しているだけで敵の士気を低下させることに繋がる。

「殿。ここへ来る道中、物見を出しましたところ、針崎勝鬘寺はいたって静かにございました」

「ほう、ならば土呂本宗寺の一揆勢を針崎勝鬘寺の一揆勢が後詰めする恐れはなさそうか」

「はい。おそらくは連日の合戦で痛手を被っておりますゆえ、打って出て参る余力がないのでございましょう」

「これは土呂本宗寺の一揆勢を殲滅するまたとない好機。ただちに上和田砦を出陣する!」

 敵の後詰めがないことを確認した家康は床几を蹴って立ち上がる。本多豊後守もそれに続くように立ち上がり、麾下の将兵に出撃準備を命じていく。

「殿」

「おお、七郎左衛門ではないか。いかがした」

「はっ、我ら大久保党がしかと針崎勝鬘寺の一揆勢を睨みつけておきまするゆえ、心置きなく御出陣くだされ」

「うむ。そういたす。行路は羽根、盗木、小豆坂、馬頭を経由して一揆勢の背後へ回り込むつもりなのじゃが、地の利に詳しい者はおらぬか」

 家康からの問いに隻眼の猛将・大久保七郎左衛門忠勝は明瞭な言語態度で応じていく。

「然らば某の弟、大久保忠政をお使いくだされ。忠政、おるか」

「はっ、これにおりまする!」

「そなた、殿の案内役をしてはもらえぬか。小豆坂あたりの地形はよく心得ておろう」

「はいっ!幼少の頃よりの遊び場、某にとって庭のようなものにございまする!」

 兄からの頼みに否と申さず、間髪入れずに引き受けた大久保忠政を道案内させることを家康も認め、松平・水野連合軍は足早に上和田砦を出陣。

 案内役の大久保忠政を先頭に、羽根から盗木に向けて進軍。小豆坂方面へと進出していく。

「殿、この道は天文十七年に織田備後守信秀が今川軍と戦う折に通った道筋にございまする」

「天文十七年と申せば、十六年も昔のことになるか」

「そうなりまするな。あの頃は織田家と今川家が三河支配をめぐって激しく争っておりましたゆえ」

 天文十六年といえば、家康がまだ竹千代の頃で、まだ七ツの少年の頃。まだ今川家に人質へ行く前であり、織田信長の父・信秀も恩ある今川義元・太原崇孚の両名が存命であったし、実父・広忠も存命であったのだ。

 そのことを脳内で思い描くと、悠久の時が流れたようにも思えるが、家康も感傷に浸っていられるのは小豆坂を登り、馬頭の小路に進み出たところまでであった。

「殿!あれを!」

 傍らに長槍を担いで控えていた叔父・水野藤十郎忠重が指さす方へと家康も視線を移す。馬上より遠望してみれば、まばらに退却してくる一揆勢の姿が視認できた。

「おう、裏切り者の一揆勢が逃げてきたと見ゆる!者ども、一兵たりとて討ち漏らすでないぞ!弓隊構えっ!」

 家康が常よりも声を張り上げ、弓隊が矢を番えて進み出る。負けじと水野下野守率いる水野勢からも大勢の射手が進み出て、逃げ落ちてくる一揆勢へと狙いを定める。

「よしっ、今じゃ!放てっ!」

「放てぇっ!」

 家康と水野下野守の号令一下、数百もの矢が弦を放れて宙を舞う。突然の矢の雨に一揆勢は動揺し、次々と雨を受けて死傷していく。

「馬鹿なっ!あれは『厭離穢土欣求浄土』の旗!殿御自ら参っておるのか!」

「新九郎殿、それだけではござらぬ!水野の旗指物まで並んでござるぞ!」

 先頭きって馬頭原へ退却してきた石川新九郎や佐橋甚五郎らは慌てふためいた。それもそのはずである。自分たちが初めに率いて出陣した兵数が八百。少なく見積もってもその倍以上の兵数の軍勢と接敵したのだから、たまったものではない。

 加えて、味方は先ほどまで生田原にて岡城の在番衆や岡崎城や周辺から駆けつけた援軍と激戦を繰り広げて疲労困憊。対して、眼前の松平・水野連合軍は意気軒昂、戦意に満ちた新手とも言うべき軍勢であった。真正面からぶつかっては勝ち目のない、悲惨な連戦となるのであるから。

「大変じゃ!」

 馬上で狼狽える石川新九郎のもとへ走り寄ったのは、後方に残っていた波切孫七郎と大見藤六の両名であった。

「いかがした!」

「岡城の在番衆どもが生田原よりこちらへ向かってきておる!このままでは挟撃されることにもなる!」

 波切孫七郎と大見藤六の両名から告げられたことは、石川新九郎たちにとって『泣きっ面に蜂』、『踏んだり蹴ったり』といった言葉が似あう戦況であった。

 よもや、目の前の一揆勢がそれほど消耗しているとは知らず、家康は敵の兵数が千にも満たない数であることを目視して確認すると、全軍へ突撃を厳命する。

 ――よいか、一兵たりとて討ち漏らすでないぞ。

 家康の一言に松平勢は奮起し、かつての味方に向けて勢いよく突撃していく。昨日の味方は今日の敵、とも言うべき戦いであるが、家康に味方する松平家臣たちにとっては裏切って主君に刃を向けた時点でまごうことなき敵なのであり、討滅する対象であった。

 ここに生田原の戦いに続き、馬頭原の戦いの幕が上がる――!
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