不屈の葵

ヌマサン

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第2章 水沫泡焔の章

第35話 いよいよ迎えた元服の時

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 秋の風景も見慣れてきた天文二十三年十一月。竹千代が駿府で教養を身につけ、武士として成長を遂げている頃。

 甲相駿三国同盟が成立したのと同じ七月、尾張の織田弾正忠家は清洲の織田大和守家を相手に善戦。柴田権六勝家らの奮戦もあり、安食の戦いにおいて勝利を収めていた。

 しかし、織田上総介信長と勘十郎信勝の対立は織田大和守家の勢いが衰えてきた頃から目立つようになってきていた。

「殿、随分と勘十郎のことで苦慮しておられる様子ですな」

「おお、三郎五郎兄者。ともに織田大和守家と戦ってきたは良いが、ここへ来ておれへの挑発行為を仕掛けてきたのだ」

「挑発行為、にございますか?」

 かつて安城城攻めにおいて今川軍に生け捕られ、竹千代との人質交換に使われた織田三郎五郎信広。

 先代・織田備後守信秀の諸長子である彼は嫡男の異母弟・信長に仕えることとなっていた。そんな信長と争っている勘十郎信勝もまた、織田三郎五郎にとって異母弟にあたる。

「兄者、これを」

「これは勘十郎からの書状ではありませぬか」

 信長から受け取った書状。その書状を目を通して最初の頃は何の問題もなかった。しかし、問題は末尾の名乗りの部分であった。

「織田弾正忠達成……!?だ、弾正忠の官途名を名乗っているではありませんか……!さらに達の一字は織田大和守家を意識してのことではございませぬか!?」

「さすがは兄者。よくぞ見抜かれた。いかにも、勘十郎のやつは自分こそが弾正忠家の当主であるという立場をとったつもりであろう」

「このまま手をこまねていていては、事態は悪化するばかり!なんとかせねばなりますまい」

「無論、おれも捨て置くつもりはない。織田大和守家ともども誅さねばなるまい」

 言葉に怒気が見え隠れしている。そんな異母弟の様子に内心では震え上がりながらも、平常を装って会話を続けていく。そのあたりはさすが年長者といったところである。

「されど、兵力が足りぬかと。まずは織田大和守家、次いで勘十郎めを征伐という流れが順当かと」

「で、ある。この信長とて第一に織田大和守家、第二に勘十郎が事と考えておった。よもや同じことを考えておったとは奇遇ですな」

「まことに」

 家督を継承してより織田家内部の対立に東奔西走している織田信長。ここへ来て、さらに厄介な火種に着火してしまった。この火種をどう鎮火するか、頭を悩ませることになる信長なのであった。

 そんな一族間での対立に頭を悩ませる者がいる一方で、兄弟間での争いを味わうことなく日々を過ごしている者もいた。そう、駿府の竹千代である。

 明けて天文二十四年三月。竹千代も十四歳となり、いよいよ元服の時を迎えようとしていた。

 竹千代元服の儀が執り行われたのは駿府館。いよいよ松平宗家の当主が元服するのだと想像するだけで、酒井雅楽助政家以下、松平家臣たちは袖を己の眼から溢れるもので濡らしていた。

 松平家からは近侍の鳥居彦右衛門尉をはじめ、竹千代の側近と呼べる人らが居並んでいる。他にも、松平宗家嫡男の烏帽子親を代々担ってきた吉良家の吉良義安もまた臨席している。

 そして、元服の儀が執り行われる広間の上座には脇息を傍らに置き、上機嫌な駿府館の主が腰かけていた。

「吉良三郎義安」

「はっ!」

 別名『髪上げの儀』とも呼ばれる、元服の儀。そこで烏帽子親よりも先に出番があるのは理髪の役。

 子どものうちは顔の左右で結うのが普通であったため、儀式を境に髪をひとつに結って冠をかぶる。そのため、まずは髪を結う役目である理髪の役の出番となる。その理髪の役を務める者こそ、竹千代と同じく駿府で暮らしていた吉良三郎義安であった。

 この理髪において、理髪の役の他にも、髪を整えるために使用する湯水を入れる容器を扱う泔杯の役。理髪時に切り落とした髪を入れる箱を扱う打乱箱の役。鏡台を扱う鏡台并鏡の役などの人がいた。

「初めてそなたと駿府で会うた折には八つの童であったが、もう十四となられたのだな」

「吉良三郎さまもあの折は十四、今では二十歳になられておられます」

「ほほほ、そうであった。まこと時が経つのは早いものよ」

「まことに」

 本来松平宗家嫡男の烏帽子親も務めるはずであった吉良三郎。竹千代の父・松平広忠は吉良三郎の養父・吉良持広から偏諱を、祖父・松平清康は吉良持広の父・吉良持清より偏諱を受けている。

 吉良義安が今川氏に叛いていなければ、吉良義安より「義」もしくは「安」の偏諱を受けていたかもしれなかった。

「髪を結い終わりましたぞ」

「ありがとう存じます」

 眼の前の鏡へと視線を移すと、元服の儀が始まる前とは別人のようであった。変わったのは髪型だけなのだが、一気に大人へ変貌したかのような錯覚を覚える。

 髪型の次には、今川義元の指図で作られた新しい大人用の衣服へと取り換えられ、子供らしさが瞬く間に消え失せていく。なんとも不思議な感覚であった。そうして、ついに今川治部太輔義元の手で竹千代の頭上へ烏帽子がのせられる。

「松平竹千代、そちに我が名乗りの『義』の一字を与え――」

「た、太守様!それは将軍足利義晴様より拝領した一字にございますゆえ、臣下に授けることはできぬかと……!」

「うむうむ、分かっておる。先ほどから竹千代は緊張して体が強張っておろう。それゆえに、予自ら緊張をほぐしてやろうと思ったまでのこと」

「お、お気遣いいただきありがとうございます」

 間違えたのはわざとであった。本当に間違えていたらどうなることかと思ったが、義元の本心を聞き、竹千代も安堵していた。

「ごほん、気を取り直して参ろう。松平竹千代、そちに我が名乗りの『元』の一字を与える。本日より松平|次郎三郎元信と名乗るがよい」

「ははっ!松平次郎三郎元信、以後も忠勤に励みまする!」

 竹千代改め、松平次郎三郎元信の加冠の式を終え、これ以上ないほどに満足げな今川義元は元信に言葉をかける。

「よし、次郎三郎元信。まことにめでたい日じゃ。お許の願いを一つだけ聞くとしよう。無論、予がかなえられる範囲で頼むぞよ」

「然らば、某の近侍である鳥居彦右衛門尉の烏帽子親を太守様につとめていただきとう存じます」

「ほほう、近侍の元服が願いであると申すか」

「はい。この者は某より三つ年上でありながら、主君より先に元服などできぬと申す忠義者。この忠義に今ここで報いてやりとうございます」

「殊勝なことよ。よかろう、その願い聞き入れたぞ。鳥居彦右衛門尉とやら、前へ出よ」

 突然、駿河今川氏の当主より名を呼ばれたこともあり、とっさに体を硬直させる鳥居彦右衛門尉。されど、背中を押すような優しい瞳で見つめている主君の姿に勇気を得て、一歩を踏み出す。

「松平次郎三郎元信が近侍、鳥居彦右衛門尉にございまする」

「うむ、次郎三郎たっての願いじゃ。特別に予が烏帽子親を務める。そちの父の名を申してみよ」

「鳥居伊賀守忠吉にございます」

「ふむ、元忠か元吉か迷うところではあるが、忠義者なそなたを表す方を選び、本日より鳥居彦右衛門尉元忠と名乗るがよい」

「恐悦至極に存じ奉ります……!」

 こうして鳥居元忠も主君・松平元信と同じく、今川義元を烏帽子親として元服することが許され、今川義元の「元」の偏諱授与の栄誉を受けることができた。

 この元服の儀により、義元は「元」の一字を授けることで元信との主従関係を深化させつつも、元服を遂げた彼が今川家の政治的・軍事的な保護を得た従属国衆の当主の立場にあることを改めて世間に確認させることができた。

 その点においても、今川義元にとって実に満足のいく元服の儀となったのである。

 めでたく元服の儀が終わりし後、成人した松平元信は今川義元のもとを改めて訪れていた。

「太守様、この度は烏帽子親をつとめていただき、まこと感謝の念に堪えませぬ」

「よいよい、予もお許の烏帽子親となれたこと、心底より満足しておる。予の偏諱『元』、そこへ信の一字を加えた良き名であろう。儒学では仁義礼智信の五常の一徳目に含まれておる一字ゆえな」

「そのようなお考えがあったとは恐れ入りました。論語には『民信無なくば立たたず』とあり、政を行ううえでも大切な一字。太守様よりの偏諱ともども、ありがたく拝領いたしまする」

「うむ。信の一字は孟子の『五倫』では朋友の信として、守るべき徳の一つとして挙げられていることも忘れてはならぬ」

「ははっ!肝に銘じておきまする!」

 孔子や孟子の重要な教えに含まれる一字、それが今川義元より賜った一字とともに自分の名に刻まれている。立派な人々から与えられた名であると考えるだけで、文字通り感慨無量であった。

「残るは初陣と婚礼じゃの」

「はい!」

「良き返事じゃ。初陣も立派に飾らせるゆえ、しばし待つがよい。婚礼も予が姫を見繕って遣わす。そちらも今しばらく待つがよいぞ」

「は、ははっ!何から何までお世話になりまする」

 初陣に婚礼。未体験の出来事に心を躍らせながら、元信は自らの屋敷へ帰った。屋敷では駿府に在する松平家臣らが集まり、宴会の支度を進めていた。

 準備をする松平家臣だけでなく、下男や侍女にいたるまで生き生きとした様子で働いている。そんな様子に元信からも思わず笑みがこぼれる。

 同じく駿府に庵を結ぶ祖母・源応尼も訪れており、重臣の酒井左衛門尉忠次と何やら話し込んでいる様子。七つになる男子を持つ一児の父・酒井雅楽助政家も生き生きした様子で奉公人や侍女らに指示を飛ばし、自らも準備を手伝っているようであった。

「殿、お席はあちらになりまする」

「徳千代か、案内いたせ」

 近侍の阿部徳千代に案内される形で、元信はひとまず席についた。それからは国元にいる六つになった徳千代が弟、善八は元気にしているかなど、国元の家族のことを訪ねたりした。

 そこへ、同じく近侍の天野三郎兵衛景能が混じってきたり、油を売っている暇があったら手伝えと石川与七郎が天野三郎兵衛を拉致したり、元信の周囲は常に慌ただしかった。

「与七郎も昨年、嫡男が生まれたそうな。その子が元服する折には、一字を与えてみたいものよ」

「今の殿のお言葉を聞けば与七郎殿も泣いて喜ばれましょうな」

「ははは、そうであろうな。今にも目に浮かんでくるようじゃ」

 楽し気に宴の支度が進んでいく様を眺める元信。周囲にいる者たちが楽しそうに笑って準備している様子につられるように、自然に笑みも増えてゆく。

「殿。此度の儀、まこと祝着の極みに存じ奉ります」

「おお、植村新六郎ではないか。そなたも元服した暁には、父にも勝る武功を挙げてくれよ」

「勿体ないお言葉……!この植村新六郎、必ずや父をも超える武功を挙げ、三河全土に名を轟かせてご覧にいれまする!」

「よしよし、その意気じゃ」

 阿部徳千代と同じく十五歳の植村新六郎は嬉々とした様子で元信の前から去っていく。三年前に父を亡くし、今日まで立派に植村家の当主として務めている者。将来有望な若武者であると、かように元信は見ていた。

「この宴には大久保や筧、本多に内藤といった者らも呼んでやりたいものであるが……」

「駿府へ召喚するわけにも参りませぬからな。殿が三河へ入られた折に改めて宴を催す方が良いやもしれませぬ」

「徳千代、よいことを申してくれた!うむ、そうしようぞ」

 徳千代の進言を採用し、国元でも宴を催したいと思うようになった元信。その光景を夢想しているところへ、高力与左衛門清長がお祝いの言葉を述べていく。

 平岩七之助・善十郎の兄弟が酒井雅楽助の元で機敏に仕事をこなし、鳥居彦右衛門尉元忠も台所と広間とを忙しく往来していた。

 駿府館にて元服の儀が執り行われ、松平次郎三郎元信として戦国の世を生きていこうとする節目の日。

 駿府の松平家の屋敷では盛大に主君の元服を家中一統が喜んで迎え、久しぶりに酒井左衛門尉渾身のえびすくいが披露されるなど、実に楽しい宴となった。

 この天文二十四年の三月六日。元信の父・広忠が病を得て亡くなってより、実に六年という月日が流れていた。

 今川領国の駿河・遠江・三河で検地が実施され、山間部の奥三河では反今川の機運がくすぶっている中、今川義元を烏帽子親として元服を迎えた松平竹千代、改め松平次郎三郎元信。

 彼が主君想いの三河武士たちを率い、本格的に乱世へ乗り出していくのも、もう間もなくのこととなる。乞うご期待!
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