不屈の葵

ヌマサン

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第3章 流転輪廻の章

第75話 家中のことと諸国の情勢

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 時おり雪のちらつく霜月の二十八日。駿府にて松平宗家の当主として励む松平蔵人佐元康はその日、寄進状をしたためていた。

「ふぅ……」

 吐く息とともに、それまで走らせていた筆を止め置く。ちらりと外を見やれば、外に灰雪が舞っている。冬をあれほど暑かった夏が過ぎ、実りの秋も過ぎ去った。時というものはあっという間に過ぎていくものらしい。

 雪の降る白の世界に、小さな足音が元康の耳に飛び込んでくる。

 ――さては。

 そう思い、手元にある書状や筆から視線をそらし、廊下の方を見やると、ハイハイをしてくる我が子の影が映る。

「おお、竹千代ではないか」

 満面の笑顔。子供らしい無邪気な笑みに、元康は心の換気が成せたような想いであった。そんな竹千代は書院の中を四つん這いで歩き回っていくのだが、元康はとっさに部屋に危ないものはないか、ぐるりと辺りを見回してしまう。

「うむ、刀はわしの側にあるし、落ちて来たり倒れるようなものもなかろう」

 そう独り言ちていると、竹千代は元康が右脇に置いていた和紙を破り始める。

 先ほどまで文机の上で書いていた寄進状の下書きとしてしたためたものであるため、破られても問題はない。そんな余裕でもって、元康はすぐ傍へ近づいてきた竹千代を眺めていた。

 そこへ、ドタバタと二、三人の足音が廊下から響き渡って来る。この竹千代が書院まで来ている状況から、一体誰が参ったというのか、元康はすぐに推理することができた。

「殿!竹千代さまがこちらに参りませなんだか!?」

「おお、やはり七之助と与七郎であったか。うむ、竹千代ならば、これにおる」

 元康がいい機会だとまだ小さい竹千代を抱きかかえる。しかし、先ほどまでの無邪気な笑顔から一転、泣き顔へと変貌する。

「殿、失礼いたしまする」

「おお、与七郎。竹千代を頼む」

 この場において幼子と接する経験が豊富な石川与七郎が竹千代を抱きかかえ、あやし始める。

「七之助、そなたは竹千代を泣かせることなく抱きかかえることはできるか」

「はっ、泣かせることなく抱くことはできまする。御前様や与七郎殿より、色々と教示いただきましたゆえ。されど、泣いた赤子をあやす腕前はそこらの侍女よりも与七郎殿の方が達者にございまする」

 平岩七之助がそう言い終わる頃には竹千代は笑顔とまではいかずとも、笑顔を見せるようになっていた。

「おお、さすがは与七郎じゃ」

「いえいえ、某は大したことはいたしておりませぬ」

「謙遜いたすな。そなたの方が侍女らよりも子供をあやすのが上手いそうではないか」

 実父である自身が抱くと泣く子が、家臣に抱かれれば泣き止む。なんとも口惜しい限りであったが、それについては今度瀬名に聞いてみよう。そんな上達したいという想いを生み出す源泉となる体験であった。

「そうじゃ、七之助。瀬名はまだ寝込んでおるか」

「はい。侍女らが申すには、つわりであろうと。時期を考えれば、つわりもまもなく収まるとも申しておりました」

「そうであったか」

 元康の正室・駿河御前はまたもや懐妊。来年にはまた一人、新たな家族が誕生する。それは元康としても不思議な感覚であった。

「今は瀬名も休みたい時分であろうゆえ、面会は控えた方が良いか。うむ、七之助。それに、与七郎。竹千代のこと、頼んだぞ」

「はっ!」

「お任せくだされ!」

「わしは寄進状を仕上げねばならぬゆえ、しかと竹千代のことは頼んだぞ」

 そう言うと、与七郎と七之助はそれ以上何も言わず、竹千代を伴ったうえで一礼して退出してゆく。

 再び静けさが戻った書院において、元康は再び筆をとる。岡崎の重臣たちと協議したうえで、此度の寄進状をしたためることとなった。それも、緊急を要することであるため、そうと決まった以上は急いで仕上げなければならなかった。

 この絶賛執筆中の寄進状は、元康が大浜の熊野上・下社神官の長田与助と同喜八郎広正に社領を寄進したもの。

 大浜の熊野上・下社の所領については、すでに寄進をしていたのだが、その後百姓による社地買収で社領の領有が不安定となり、神社の修理もままならない状況に陥っていた。

 そんな背景事情があり、元康はこの寄進状によって、買得された社地の返還に新寄進、すなわち寄進のし直しを実施し、社領の保護を行うこととなったのである。

 領内の神社における非常事態であるため、岡崎の重臣たちから元康直筆の寄進状を発給することが求められ、内容について何度も協議を重ねたうえで、今記している内容となっているのである。

「うむ、これで記載しておる文面も問題はなかろう」

 日付も今日、すなわち永禄二年十一月二十八日と記してあるし、宛先をはじめ、誤字脱字のないことを確認は完了。残すは岡崎へ届けるべく使者を派遣するのみ。

「ようやく心が休まるわ。とはいえ、鳥居伊賀や石川安芸らからの便りには大高城や鳴海城の周囲に織田が砦を築き、緊張が高まっているともあった。このまま小競り合い程度で済んでくれれば良いのじゃが……」

 駿府から遠く西に位置する三河・尾張。駿府に在していると織田と今川の小競り合いなど、他人事のように思えてしまうのが元康にはどうにも恐ろしかった。

「殿、駿府館よりの使者がご到着。ただちにご登城あるべし、との由」

「彦右衛門尉、ご苦労。使者殿には承知いたしたと伝えよ。わしは今より身支度を整えるゆえ、阿部善九郎と天野三郎兵衛らを呼んで参れ」

「承知!」

 鳥居彦右衛門尉が退出すると、元康はただちに登城の支度に取り掛かる。着物の召し替え、一刻も早く登城できるよう支度を整えていく。

「よし、此度の供は鳥居彦右衛門尉、阿部善九郎、天野三郎兵衛の三名といたす。ついて参れ!」

「「「はっ!」」」

 植村新六郎には先ほどしたためた寄進状を携えて岡崎へ向かうよう手配し、平岩善十郎には時おり平岩七之助や石川与七郎らの竹千代の世話を交替してやるように申しつけてある。

 そうして出立後のことを申しつけた元康が駿府館へと参じると、真っ直ぐに五郎氏真のいる広間へと通された。

「松平蔵人佐元康、ただいま参上いたしましてございます」

 元康が通された広間には舅の関口刑部少輔氏純、そして北条助五郎氏規、朝比奈備中守泰朝の三名が静かに座していた。

「おお、蔵人佐。会いたかったぞ」

「はっ、某も御屋形様にお目にかかれて嬉しゅうございます」

「よしよし。では、近う参れ。さように離れておっては、話しづらかろうが」

「ははっ、ではお言葉に甘えまして」

 毎度のことながら、氏真に招かれるまま広間の中央へと進み出る元康。しかし、その場の空気は元康に好意的なものであり、進む足が前に出ることをためらうようなことはなかった。

「して、此度のお呼び出し、何か火急のことがありましたでしょうか」

「ははは、ない!こうして、ゆるりと話すことのできぬ者共と話したいゆえ、予が指名して参集してもらったのじゃ」

「な、なるほど」

「それでじゃ、助五郎より聞いた隣国の話が興味深かったゆえな。助五郎、蔵人佐にもあの話を聞かせてやるがよい」

「ははっ、では――」

 北条助五郎の口から語られたことは隣国・北条家のことであった。この十一月、助五郎の父・北条氏康が西武蔵の支配を安定させるため、由井の大石氏へ助五郎の兄・源三を婿養子として送り込んだというのである。

「大石氏にはまだまだ北条家に従わぬ気風がございまする。それを見逃さず、父は兄・源三を大石綱周の娘である比左と申す姫君と娶わせ、付家老として狩野泰光と庄式部少輔を送り込んだのでございます。ゆえに、兄は今、大石源三氏照と名乗って、大石家当主となっております」

「予はそのようにして、本心から従っておらぬ国衆を取り込んでいくなど思いも寄らぬことであった。ゆえに、蔵人佐にも聞かせたいと思うて呼び寄せたのじゃ」

「それはかたじけのうございます。確かに、助五郎殿がお話はまこと興味深いものにございまする」

「であろう、であろう!」

 上機嫌で北条助五郎の話の余韻に浸る氏真。その様子を笑顔で見守る関口刑部少輔。生真面目に表情を崩さない朝比奈備中守と北条助五郎の姿があった。

「では、御屋形様。某からも、京の都より聞き及んだ諸大名の話を披露してもよろしいでしょうか」

「ほう、京の都とな。うむ、話してみよ」

「では、ご披露いたしまする」

 続いて、関口刑部少輔が京より入手した情報が皆の前で披露される。北条助五郎よりも冗長でありながら、話慣れている者の言葉は元康や、堅苦しい態度を貫いていた朝比奈備中守を自然と前のめりにさせる不思議な魅力があった。

「去る九日、越前の朝倉左衛門督義景殿が従四位下に叙位されたとのことです」

「従四位下とは我が父と同じではないか」

「その通りにございまする。朝倉左衛門督殿は御屋形様より五ツ上の二十七であるとか」

「ふむ、そう聞くとより凄みが増すというものぞ」

 氏真よりも五歳上。となれば、元康から見て九ツ上ということになる。その若さで従四位下に叙位される人物がこの世に存在するということが、どこか夢のようであった。

「続けて、同九日には将軍足利義輝様より、豊後の大友左近衛少将義鎮が九州探題に任命したとのこと。あわせて周防・長門・豊前・筑前の守護であった大内氏の家督も認め、九州の統治を委ねたとのことにございます」

「待て、何故豊後の大友氏が周防長門の大内氏の家督について認められておるのじゃ」

「はっ、それは二年前に大内義長殿が安芸の毛利元就によって討たれておりますこと、御屋形様もご存じでしょう」

「うむ、それは駿府の公家らからも聞いておるゆえ、存じておる」

「その大内義長は大友左近衛少将の実弟なのです。その経緯から大友氏が大内氏の家督について一任されたものと心得まする」

 さらに遠く西国の情勢であるが、何がどこでどのような影響を及ぼして来るかは分からぬのは、戦国の世でも変わりない。ゆえに、知っておいて損はない、ということでもあった。

「九州探題は三河の吉良氏と同じく、足利御一家衆の渋川氏が世襲しておりましたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれて断絶しておりますゆえ、それを補うための補任であるかと」

「そうであったか。父から聞いた話によれば、大友氏は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねておるそうではないか。都合六ヵ国の守護と一ヵ国の半国守護を務めておるとは、当家を上回る権勢ぶりではないか」

「いずれは九州を制覇するとまで言われておりまするからな」

 九州を一統する。東海道での争っている織田と今川しか知らぬ元康にとっては、どこか縁遠さを感じさせる話題ばかりであった。そこへ、関口刑部少輔が九州から変わって奥州へと話題を移したのである。

「また、京の公方様は陸奥の伊達晴宗を奥州探題に封じたとも聞いております」

「そうか。奥州の伊達も幕府の探題職についておるのか。我らは東海道を一統すれば、東海探題に封じられることは……」

「ございませぬ。そもそも、幕府にそのような役職はございませぬゆえ」

「そ、そうであったか」

 東海探題とは言い得て妙であるが、ないものはないのだ。それ以上、氏真が幕府の役職云々を申すことはなく、その後も諸大名の動きについて論じられていく。

 そうしているところへ、ご隠居・義元よりの使者が一書を携えて到着した。

「ほう、父上よりの使者と?」

「はい。使者は朝比奈兵衛尉元長とのことにございます」

「そうか、朝比奈兵衛尉が参ったか。これへ通すがよい」

 駿府館の主である今川五郎氏真よりの許諾を得て広間へ入室してきたのは朝比奈兵衛尉元長。元康や岡部丹波守元信と同じく、義元より『元』の一字を与えられた武士である。

 何より、元康のことを関口刑部少輔とともに後見している朝比奈丹波守親徳の長子である。

「御屋形様。朝比奈兵衛尉が持参いたした御隠居様よりの書状にございまする」

「うむ」

 関口刑部少輔より書状を手渡された氏真は眼の色を変えた。

「ち、父上御自ら、尾張表へ御出陣!?それも来春にと申すか!?」

「はっ!すでに同盟先の武田と北条にも援軍を要請し、着々と準備を進めておられまする。また、大高城代として新たに鵜殿藤太郎長照を送り込むとのことで、御屋形様のご承認をいただきたいと」

「うむ。それは良い。じゃが、先発隊として井伊信濃守直盛らの名と共に、松平蔵人佐元康の名があるのは解せぬ」

 そうか、太守様自ら尾張へ出陣か。

 どこか他人事のようにとらえていた元康の意識は氏真の言葉によって、目の前の現実へと引き戻されたのであった――
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