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第4章 苦海の章
第133話 隗より始めよ
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鵜殿藤太郎長照と牧野民部丞成定の二部隊を相手に善戦する松平勢。そんな中で、元康本陣から上がる狼煙に呼応して動き出したのは松平兵だけではなかった。
「者共!この稲垣氏連!これより松平蔵人佐元康殿へお味方いたす!狙うは先代の養子の分際で家督を継承した牧野民部丞成定じゃ!それっ!」
抜き打ちざまに傍らにいたかつての味方を血祭りに挙げ、血刀を引っ提げて牧野本陣を目指し斬り込んでいく稲垣氏連。彼こそ、元康が岡崎城を出陣する時点で調略済みだった牧野家の重臣であった。
この裏切りに、牧野民部丞以上に狼狽したのは稲垣氏連の兄にして牛久保六騎の一人に数えられる稲垣重宗と、その息子・平右衛門長茂であった。
「くそっ!弟めが裏切りおったか!」
当たり散らしたい気持ちを押さえながら、冷静に目の前の敵を斬り伏せ、周辺の牧野兵らを落ち着けようとするも、裏切り者の兄がいかに口で諭そうとしても誰も聞く耳など持たなかった。
一方で、戦場で若き槍の名手・渡辺半蔵守綱と遭遇して槍合わせしていた稲垣平右衛門は苦戦しながらも、一進一退の攻防を繰り広げていた。しかし、叔父・氏連の寝返りを聞くなり、渡辺半蔵に最速の一突きをくれて馬を返した。
「ちっ、逃げるか!」
「それどころではなくなったわ!また相手してやるで、此度は見逃せ!」
そう渡辺半蔵を振り向くこともなく馬を走らせ、牧野勢の中に姿を消していく稲垣平右衛門。そんな騎馬武者を見送るほかない徒歩の渡辺半蔵は追撃を諦めて周辺の牧野兵に槍をつけていく。
その頃、元康本陣では、元康のもとへ狼煙をあげた本多平八郎忠勝が駆け戻ってくる頃であった。
「殿!ただいま戻り申した!」
「平八郎、ご苦労であった。この合戦も潮時か」
「はっ、潮時とは一体――」
床几より立ち上がって東のかなたをみやる元康。そんな主君の視線の先を見やって、本多平八郎は驚愕した。
「あれは大原肥前守が旗!今川の援軍にございますぞ!」
「さすがは大原肥前守。これほどまでに迅速かつ卒なき動き、太守様より東三河統治の要として配置されただけのことはある」
「殿!感心されておる場合ではございませぬ!」
「おう、すまぬ。此度の戦はこれまで。撤退に移ることといたす!まずは本多肥後守ら鵜殿勢にぶつかっている隊を下がらせ、本陣へ合流させよ」
「然らば、この平八郎が行って参りまする!」
立候補によって本多平八郎が陣中にあった良馬を拝借して叔父のいる方向へと駆けだす。その間にも元康は各隊へ指示を出し、牧野勢を押し返し始めている夏目次郎左衛門尉広次らにも少しずつ後退を始めるよう伝達。
しかし、この元康の判断に納得していない人物が一人。そう、八名郡の西郷弾正左衛門正勝より岡崎へ人質として送られた次男・西郷孫九郎であった。
「松平蔵人佐殿!まこと、撤退なされるご所存か」
「いかにも。ここで敵方に大原肥前守率いる今川勢が加われば、兵数はほぼ互角。このまま対峙したとて、牛久保城を落とすことも野田城を奪還することも叶わぬのです」
「さ、されど、某の父や兄は今も八名郡で孤軍奮闘しておるのです!どうか、何卒蔵人佐殿の御力で大原肥前守らを退け、救援していただきたく存じます!」
「某も本心ではそうしたいと願ってもおります」
「なれば!」
「されど、まもなく稲刈りの時期じゃ。田畑に人手が必要な折に長期にわたる対陣など、民をいたずらに苦しめるのみ。加えて、稲刈りが無事に終えられねば、兵粮が不足する。兵粮が不足すれば当家は次の稲刈りまで東三河へ援軍を派兵することなど叶いませぬ」
西郷孫九郎としては、ここで元康に言い返したかった。豊川を渡って八名郡に入れば、窮地にある父や兄、自分の妻子もいるのだと。それを助けることも叶わず、退却するなど到底できぬ、と。
だがしかし、元康の言うことは戦いを恐れての言い訳などでは断じてない。当然起こり得る帰結を、淡々と語っているだけにすぎない。ここまで理屈で反論されては、西郷孫九郎としても反論することなど不可能であった。
「承知いたしました。まこと、松平蔵人佐殿が申す通りにございまする」
「孫九郎殿。此度は救援すること叶わず、まこと申し訳ござらぬ。次こそは、次こそは必ず御父上を救援してみせましょうほどに、此度は堪えてくだされ」
西郷孫九郎が元康の説得に納得し、首を縦に振った頃。松平勢は元康からの下知を受けて本陣へ戻る動きに出始めていた。
各戦線ともに敵を押し返したところであったため、この機を逃さずに本陣へと下がり始め、順調に松平勢は撤退の支度へ移っていくのである。
「殿!殿はこの夏目次郎左衛門尉が務めまする!殿は一刻も早うお退きくだされ!」
「うむ、然らば後のことは夏目次郎左衛門尉と、念のため本多肥後守と本多平八郎も残していく。協力して任を全うしてくれ」
「御意!ささっ、ここは我らに任せてくだされ」
元康は旗本衆に守られながら一足先に退却し、その後ろをこれまでの戦いで負傷した者たちが続き、最後尾に夏目次郎左衛門尉ら殿の部隊が残る形となった。
小坂井の地で合流した牧野勢と鵜殿勢は急に松平勢が撤退を開始したことを訝しんでいたところへ、吉田城代・大原肥前守資良が千を超える兵を引き連れて豊川を渡河している真っ最中だとの知らせを受け取り、両大将は顔を見合わせた。
「鵜殿藤太郎殿、これは蔵人佐めは援軍に恐れをなして撤退したに相違ない!」
「おお、某も牧野民部丞殿と同意見じゃ!ここは追撃し、蔵人佐が首を挙げる好機と心得る!」
「よしっ!然らば、ただちに追撃に移ることといたそう!じゃが、国府を抜ければ、東海道は道幅も狭くなり、伏兵を伏せられては叶わぬ。追い討ちは国府辺りまでといたそうぞ」
「承知した!」
思うように戦を優位に進められなかった鬱憤を散ずるべく、牧野勢と鵜殿勢による追撃が開始された。しかし、追撃など想定済みの松平勢にとっては、さほど恐れることでもなかった。
「弓隊、構えっ!敵を仕留めずともよい!敵の足を止めることだけ考えよ!今じゃっ!放てっ!」
自らも矢を番えていた本多肥後守の掛け声のもと、松平勢から待ってましたとばかりに矢が射かけられる。中でも、本多肥後守が射た矢は先頭の騎馬武者の眉間を射抜き、落馬させていた。
「肥後守殿!お見事!よし、次は某の番じゃ!槍隊、前へ!」
物理的に一矢報いた弓兵が後退し、槍兵が前へ出る。槍衾を形成した松平勢によって行く手が阻まれた牧野勢と鵜殿勢は突破に手間取る。その間に、その後ろから狙いすました矢が飛来し、的確に一人一人を射抜いていく。
撤退戦においても松平勢が奮戦し、戦いを優位に進めている頃。一足先に退却していた元康の方でも、異変が起ころうとしていた。
「小原殿!ご覧くだされ、あれを!」
「むっ、あの馬印は松平蔵人佐元康ではないか!しかも、従っておる兵数は五百もおらぬ!これは好機じゃ!糟谷殿、よくぞ知らせてくだすった!今こそ打って出て、松平蔵人佐が首を取り、駿府へ送れば大手柄ものじゃ!」
「然らば、某は兵卒らを叩き起こし、城門付近に集めておきまする!」
長らく攻略できずにいた長沢の鳥屋ヶ根城に在番していた小原鎮宗と糟谷宗益は、南にわずかな手勢に守られながら退却してくる元康の姿を発見し、その首を取るべく出陣を決断したのであった。
かくして、元康は追ってくる牧野勢や鵜殿勢とは正反対の方向から今川被官の小原鎮宗・糟谷宗益率いる今川勢と正面切って斬り合うこととなったのである!
北より鬨の声を上げて攻め寄せる今川勢に対し、さすがの元康も仰天せざるを得なかった。
「馬鹿な、ここで敵と遭遇することとなろうとは!」
「殿、敵は鳥屋ヶ根城に在番していた者らのようです!」
「なにっ、抑えとして残っている石川彦五郎と松平勘四郎らは何をしておる!」
馬上で爪を噛み始める元康であったが、それを宥めたのは状況を報告してきた渡辺半蔵であった。
「殿、ここにおらぬ者らのことで苛立っておる場合ではございませぬ!さっ、我らに敵を迎え撃つよう、ご下知を!」
「そうであった。よくぞ申してくれた、半蔵!者ども、よく聞け!迫りくる敵は小原鎮宗と糟谷宗益ら鳥屋ヶ根城に詰めておった兵らじゃ!我らにとっては絶体絶命の危地であるが、これは裏返せば城はがら空きということ!攻め寄せる者共を打ち払い、そのまま半年の長きに渡って続いた鳥屋ヶ根城攻めを終わらせようぞ!」
元康の演説が進むうちに、松平勢の動揺は静まっていく。金溜塗具足を身につけた元康が抜刀し、突撃の号令を発すると、渡辺半蔵以下、旗本衆らが勇躍して今川勢へとぶつかっていく。
長らく城を守っていたこともあり、久方ぶりの野戦となった今川勢に対し、先ほどまで命がけの準備運動をしていた元康麾下の旗本衆らとでははなから勝負にならなかった。
「おいっ、糟谷殿!我らが押されておるではないか!」
「そ、そのようなこと、某に申されましても困りまする!」
「なんじゃと!もとはと言えば、そなたが打って出ようと申したゆえ、こうしてわしまで出張って来ておるのではないか――」
そう小原鎮宗が言い終えた直後、自分たちの立っている地面が紅に染まり、背中にわずかながらじりじりと熱さが感じられた。一体何事かと口論をやめた両将が振り返ると、先刻まで自分たちが守っていた城が燃えているのである。
「な、な、な……!」
「お、小原殿!城が燃えておるぞ!あのような燃え方、失火の類ではござらぬぞ!」
「間違いない、誰ぞが火をかけたのじゃ!」
元康の退路を遮断し、すっかり勝った気になっていた小原鎮宗と糟谷宗益の両名であったが、逆に彼ら自身が帰る場所を失う結果となってしまっていた。
そんな彼らの元へ駆け寄ってきたのは、袖の火の粉を払いながら城を脱出してきた城兵であった。
「も、申し上げます!先ほど、城を取り囲んでいた石川彦五郎と松平勘四郎率いる松平勢が攻め寄せ、あっという間に城門が打ち破られ、すでに敵は本丸まで攻め入り、各所に火をかけておりまする!」
ここまで来ると、小原鎮宗と糟谷宗益から見れば、自分たちがこうして城を打って出てくるように元康が仕組んだ計略であったとしか思えなかった。そうでなければ、こうも早く包囲していた松平勢が動き得るはずがない、と。
そして、背後の鳥屋ヶ根城に火がかけられたことで、打って出てきた今川勢は元康の手勢と戦うことをやめ、周章狼狽して逃げ散り始めていた。
「小原殿!こうなれば、東へ逃れ、吉田城の大原肥前守殿を頼るよりほかはない!」
「そうじゃ、逃げるよりほかはない!急ぎ東へ向かおうぞ!」
無論、逃げ出したのは雑兵足軽に留まらず、今川被官の小原鎮宗と糟谷宗益の両名も同じであった。目の前の敵を打ち破ることもできず、守備していた城も炎上しているのだから、残された選択は東へ逃げ、吉田城の大原肥前守を頼るの一択であった。
そうして逃げ出したうち、糟谷宗益は無事に東三河まで敗走したが、もう一人の在番衆・小原鎮宗は運が悪かった。
「某は松平蔵人佐元康が家臣!渡辺半蔵守綱じゃ!」
「わしは小原鎮宗じゃ!どけっ!この若造めが!」
行く手を遮る胴丸姿の若武者・渡辺半蔵。そんな若造など相手にするまでもないと馬を進めようとした小原鎮宗であったが、次の瞬間には渡辺半蔵が馬の前で槍をぶん回したことで、驚いた馬が暴れ出し、小原鎮宗は地面の上へ放り出されることとなった。
「くそっ!この若造が!わしの邪魔をするでないわ!」
落馬した際に腰を痛めたこともあり、小原鎮宗の動きは鈍かった。易々と攻撃を見切られ、次の瞬間には渡辺半蔵の正確無比な突きによって右わき腹を突かれ、そのまま強引に体内へ穂先を押し込まれたことが致命傷となり、絶命していた。
「敵将、小原鎮宗!渡辺半蔵守綱が討ち取ったり!」
ついに小原鎮宗は渡辺半蔵守綱の手にかかり、討ち取られることとなった。
一方で牧野勢と鵜殿勢による追撃が続く中、一足先に西三河へ退却中であった元康一行は図らずも長沢の鳥屋ヶ根城から今川派の者たちを追い落とし、東三河へ抜ける要衝を確保したのである。
城を占領した様子を見た元康は、『これがあとひと月早く決着していたならば、鳥屋ヶ根城攻囲に回していた軍勢を此度の東三河遠征へ投入できたものを』と、喜び半分悔しさ半分といった心持ちで見ていたのであった。
「者共!この稲垣氏連!これより松平蔵人佐元康殿へお味方いたす!狙うは先代の養子の分際で家督を継承した牧野民部丞成定じゃ!それっ!」
抜き打ちざまに傍らにいたかつての味方を血祭りに挙げ、血刀を引っ提げて牧野本陣を目指し斬り込んでいく稲垣氏連。彼こそ、元康が岡崎城を出陣する時点で調略済みだった牧野家の重臣であった。
この裏切りに、牧野民部丞以上に狼狽したのは稲垣氏連の兄にして牛久保六騎の一人に数えられる稲垣重宗と、その息子・平右衛門長茂であった。
「くそっ!弟めが裏切りおったか!」
当たり散らしたい気持ちを押さえながら、冷静に目の前の敵を斬り伏せ、周辺の牧野兵らを落ち着けようとするも、裏切り者の兄がいかに口で諭そうとしても誰も聞く耳など持たなかった。
一方で、戦場で若き槍の名手・渡辺半蔵守綱と遭遇して槍合わせしていた稲垣平右衛門は苦戦しながらも、一進一退の攻防を繰り広げていた。しかし、叔父・氏連の寝返りを聞くなり、渡辺半蔵に最速の一突きをくれて馬を返した。
「ちっ、逃げるか!」
「それどころではなくなったわ!また相手してやるで、此度は見逃せ!」
そう渡辺半蔵を振り向くこともなく馬を走らせ、牧野勢の中に姿を消していく稲垣平右衛門。そんな騎馬武者を見送るほかない徒歩の渡辺半蔵は追撃を諦めて周辺の牧野兵に槍をつけていく。
その頃、元康本陣では、元康のもとへ狼煙をあげた本多平八郎忠勝が駆け戻ってくる頃であった。
「殿!ただいま戻り申した!」
「平八郎、ご苦労であった。この合戦も潮時か」
「はっ、潮時とは一体――」
床几より立ち上がって東のかなたをみやる元康。そんな主君の視線の先を見やって、本多平八郎は驚愕した。
「あれは大原肥前守が旗!今川の援軍にございますぞ!」
「さすがは大原肥前守。これほどまでに迅速かつ卒なき動き、太守様より東三河統治の要として配置されただけのことはある」
「殿!感心されておる場合ではございませぬ!」
「おう、すまぬ。此度の戦はこれまで。撤退に移ることといたす!まずは本多肥後守ら鵜殿勢にぶつかっている隊を下がらせ、本陣へ合流させよ」
「然らば、この平八郎が行って参りまする!」
立候補によって本多平八郎が陣中にあった良馬を拝借して叔父のいる方向へと駆けだす。その間にも元康は各隊へ指示を出し、牧野勢を押し返し始めている夏目次郎左衛門尉広次らにも少しずつ後退を始めるよう伝達。
しかし、この元康の判断に納得していない人物が一人。そう、八名郡の西郷弾正左衛門正勝より岡崎へ人質として送られた次男・西郷孫九郎であった。
「松平蔵人佐殿!まこと、撤退なされるご所存か」
「いかにも。ここで敵方に大原肥前守率いる今川勢が加われば、兵数はほぼ互角。このまま対峙したとて、牛久保城を落とすことも野田城を奪還することも叶わぬのです」
「さ、されど、某の父や兄は今も八名郡で孤軍奮闘しておるのです!どうか、何卒蔵人佐殿の御力で大原肥前守らを退け、救援していただきたく存じます!」
「某も本心ではそうしたいと願ってもおります」
「なれば!」
「されど、まもなく稲刈りの時期じゃ。田畑に人手が必要な折に長期にわたる対陣など、民をいたずらに苦しめるのみ。加えて、稲刈りが無事に終えられねば、兵粮が不足する。兵粮が不足すれば当家は次の稲刈りまで東三河へ援軍を派兵することなど叶いませぬ」
西郷孫九郎としては、ここで元康に言い返したかった。豊川を渡って八名郡に入れば、窮地にある父や兄、自分の妻子もいるのだと。それを助けることも叶わず、退却するなど到底できぬ、と。
だがしかし、元康の言うことは戦いを恐れての言い訳などでは断じてない。当然起こり得る帰結を、淡々と語っているだけにすぎない。ここまで理屈で反論されては、西郷孫九郎としても反論することなど不可能であった。
「承知いたしました。まこと、松平蔵人佐殿が申す通りにございまする」
「孫九郎殿。此度は救援すること叶わず、まこと申し訳ござらぬ。次こそは、次こそは必ず御父上を救援してみせましょうほどに、此度は堪えてくだされ」
西郷孫九郎が元康の説得に納得し、首を縦に振った頃。松平勢は元康からの下知を受けて本陣へ戻る動きに出始めていた。
各戦線ともに敵を押し返したところであったため、この機を逃さずに本陣へと下がり始め、順調に松平勢は撤退の支度へ移っていくのである。
「殿!殿はこの夏目次郎左衛門尉が務めまする!殿は一刻も早うお退きくだされ!」
「うむ、然らば後のことは夏目次郎左衛門尉と、念のため本多肥後守と本多平八郎も残していく。協力して任を全うしてくれ」
「御意!ささっ、ここは我らに任せてくだされ」
元康は旗本衆に守られながら一足先に退却し、その後ろをこれまでの戦いで負傷した者たちが続き、最後尾に夏目次郎左衛門尉ら殿の部隊が残る形となった。
小坂井の地で合流した牧野勢と鵜殿勢は急に松平勢が撤退を開始したことを訝しんでいたところへ、吉田城代・大原肥前守資良が千を超える兵を引き連れて豊川を渡河している真っ最中だとの知らせを受け取り、両大将は顔を見合わせた。
「鵜殿藤太郎殿、これは蔵人佐めは援軍に恐れをなして撤退したに相違ない!」
「おお、某も牧野民部丞殿と同意見じゃ!ここは追撃し、蔵人佐が首を挙げる好機と心得る!」
「よしっ!然らば、ただちに追撃に移ることといたそう!じゃが、国府を抜ければ、東海道は道幅も狭くなり、伏兵を伏せられては叶わぬ。追い討ちは国府辺りまでといたそうぞ」
「承知した!」
思うように戦を優位に進められなかった鬱憤を散ずるべく、牧野勢と鵜殿勢による追撃が開始された。しかし、追撃など想定済みの松平勢にとっては、さほど恐れることでもなかった。
「弓隊、構えっ!敵を仕留めずともよい!敵の足を止めることだけ考えよ!今じゃっ!放てっ!」
自らも矢を番えていた本多肥後守の掛け声のもと、松平勢から待ってましたとばかりに矢が射かけられる。中でも、本多肥後守が射た矢は先頭の騎馬武者の眉間を射抜き、落馬させていた。
「肥後守殿!お見事!よし、次は某の番じゃ!槍隊、前へ!」
物理的に一矢報いた弓兵が後退し、槍兵が前へ出る。槍衾を形成した松平勢によって行く手が阻まれた牧野勢と鵜殿勢は突破に手間取る。その間に、その後ろから狙いすました矢が飛来し、的確に一人一人を射抜いていく。
撤退戦においても松平勢が奮戦し、戦いを優位に進めている頃。一足先に退却していた元康の方でも、異変が起ころうとしていた。
「小原殿!ご覧くだされ、あれを!」
「むっ、あの馬印は松平蔵人佐元康ではないか!しかも、従っておる兵数は五百もおらぬ!これは好機じゃ!糟谷殿、よくぞ知らせてくだすった!今こそ打って出て、松平蔵人佐が首を取り、駿府へ送れば大手柄ものじゃ!」
「然らば、某は兵卒らを叩き起こし、城門付近に集めておきまする!」
長らく攻略できずにいた長沢の鳥屋ヶ根城に在番していた小原鎮宗と糟谷宗益は、南にわずかな手勢に守られながら退却してくる元康の姿を発見し、その首を取るべく出陣を決断したのであった。
かくして、元康は追ってくる牧野勢や鵜殿勢とは正反対の方向から今川被官の小原鎮宗・糟谷宗益率いる今川勢と正面切って斬り合うこととなったのである!
北より鬨の声を上げて攻め寄せる今川勢に対し、さすがの元康も仰天せざるを得なかった。
「馬鹿な、ここで敵と遭遇することとなろうとは!」
「殿、敵は鳥屋ヶ根城に在番していた者らのようです!」
「なにっ、抑えとして残っている石川彦五郎と松平勘四郎らは何をしておる!」
馬上で爪を噛み始める元康であったが、それを宥めたのは状況を報告してきた渡辺半蔵であった。
「殿、ここにおらぬ者らのことで苛立っておる場合ではございませぬ!さっ、我らに敵を迎え撃つよう、ご下知を!」
「そうであった。よくぞ申してくれた、半蔵!者ども、よく聞け!迫りくる敵は小原鎮宗と糟谷宗益ら鳥屋ヶ根城に詰めておった兵らじゃ!我らにとっては絶体絶命の危地であるが、これは裏返せば城はがら空きということ!攻め寄せる者共を打ち払い、そのまま半年の長きに渡って続いた鳥屋ヶ根城攻めを終わらせようぞ!」
元康の演説が進むうちに、松平勢の動揺は静まっていく。金溜塗具足を身につけた元康が抜刀し、突撃の号令を発すると、渡辺半蔵以下、旗本衆らが勇躍して今川勢へとぶつかっていく。
長らく城を守っていたこともあり、久方ぶりの野戦となった今川勢に対し、先ほどまで命がけの準備運動をしていた元康麾下の旗本衆らとでははなから勝負にならなかった。
「おいっ、糟谷殿!我らが押されておるではないか!」
「そ、そのようなこと、某に申されましても困りまする!」
「なんじゃと!もとはと言えば、そなたが打って出ようと申したゆえ、こうしてわしまで出張って来ておるのではないか――」
そう小原鎮宗が言い終えた直後、自分たちの立っている地面が紅に染まり、背中にわずかながらじりじりと熱さが感じられた。一体何事かと口論をやめた両将が振り返ると、先刻まで自分たちが守っていた城が燃えているのである。
「な、な、な……!」
「お、小原殿!城が燃えておるぞ!あのような燃え方、失火の類ではござらぬぞ!」
「間違いない、誰ぞが火をかけたのじゃ!」
元康の退路を遮断し、すっかり勝った気になっていた小原鎮宗と糟谷宗益の両名であったが、逆に彼ら自身が帰る場所を失う結果となってしまっていた。
そんな彼らの元へ駆け寄ってきたのは、袖の火の粉を払いながら城を脱出してきた城兵であった。
「も、申し上げます!先ほど、城を取り囲んでいた石川彦五郎と松平勘四郎率いる松平勢が攻め寄せ、あっという間に城門が打ち破られ、すでに敵は本丸まで攻め入り、各所に火をかけておりまする!」
ここまで来ると、小原鎮宗と糟谷宗益から見れば、自分たちがこうして城を打って出てくるように元康が仕組んだ計略であったとしか思えなかった。そうでなければ、こうも早く包囲していた松平勢が動き得るはずがない、と。
そして、背後の鳥屋ヶ根城に火がかけられたことで、打って出てきた今川勢は元康の手勢と戦うことをやめ、周章狼狽して逃げ散り始めていた。
「小原殿!こうなれば、東へ逃れ、吉田城の大原肥前守殿を頼るよりほかはない!」
「そうじゃ、逃げるよりほかはない!急ぎ東へ向かおうぞ!」
無論、逃げ出したのは雑兵足軽に留まらず、今川被官の小原鎮宗と糟谷宗益の両名も同じであった。目の前の敵を打ち破ることもできず、守備していた城も炎上しているのだから、残された選択は東へ逃げ、吉田城の大原肥前守を頼るの一択であった。
そうして逃げ出したうち、糟谷宗益は無事に東三河まで敗走したが、もう一人の在番衆・小原鎮宗は運が悪かった。
「某は松平蔵人佐元康が家臣!渡辺半蔵守綱じゃ!」
「わしは小原鎮宗じゃ!どけっ!この若造めが!」
行く手を遮る胴丸姿の若武者・渡辺半蔵。そんな若造など相手にするまでもないと馬を進めようとした小原鎮宗であったが、次の瞬間には渡辺半蔵が馬の前で槍をぶん回したことで、驚いた馬が暴れ出し、小原鎮宗は地面の上へ放り出されることとなった。
「くそっ!この若造が!わしの邪魔をするでないわ!」
落馬した際に腰を痛めたこともあり、小原鎮宗の動きは鈍かった。易々と攻撃を見切られ、次の瞬間には渡辺半蔵の正確無比な突きによって右わき腹を突かれ、そのまま強引に体内へ穂先を押し込まれたことが致命傷となり、絶命していた。
「敵将、小原鎮宗!渡辺半蔵守綱が討ち取ったり!」
ついに小原鎮宗は渡辺半蔵守綱の手にかかり、討ち取られることとなった。
一方で牧野勢と鵜殿勢による追撃が続く中、一足先に西三河へ退却中であった元康一行は図らずも長沢の鳥屋ヶ根城から今川派の者たちを追い落とし、東三河へ抜ける要衝を確保したのである。
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未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
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