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わずかな静寂の後、オートロウリュ機能によってサウナ室にはほどよい熱さの蒸気が立ち込めてくる。
――ふふ。
どうやら、俺としたことがサウナに長く入りすぎていたらしい。やれやれと頭を振って、自分に呆れたように肩をすくめる。
幻覚が見えるほどサウナにいてしまったとは。あの十二分時計も、ややもすると既に二週目に入っていたのかもしれない。多分そうだろう。
とりあえず名前を呼んできた美少女の前を素通りし、サウナルームの扉を閉める。
水風呂のふちに備えられた桶を使って掛水をしてしっかりと汗を流し、キンキンに冷えた水風呂へと浸かる。隣のサウナ室からは何やら地団太のような音が聞こえるが、気のせいだろうと彼は目を閉じる。
一分ほど経過した後、ゆっくりと水風呂から上がって外の露天風呂スペースへと移動する。
手持ちのハンドタオルで全身をくまなく拭く。この作業をするかしないかではととのいに天と地ほどの差が生まれることを、彼は経験から知っていた。
濡れた状態では、外気に曝された体は急激に体温が低下する。その急激な低下がないように、しっかりと水滴はとっておく必要があるのだ。
十分に全身の水滴をタオルにしみ込ませたあと、彼は椅子へとゆっくり座りこむ。タオルをギュッと強く絞った後首にかけ、そのまま天を仰ぐ。
大海の頭には、立ち眩みにも似た、しかしその現象とは似て非なる感覚が訪れていた。
彼の頭から全身を包んでいくような、圧倒的な多幸感が包む。
「私を無視してくれるとは。あんた本当に大物ね」
しかしそんな多幸感は、怒気を孕んだ声で打ち消された。
気のせいではなかった。男湯にいるはずのない女性の存在は、紛れもなく真実だった。
熱でやられた際の幻想だと思っていたためサウナにいる間はほとんど見ていなかったが、水風呂で徐々にハッキリとしてきた頭をフル回転させながら、声の持ち主を見た。
サウナハットを被っているためその明るめの茶髪は一部隠れてはいるものの、やや癖の付いた髪型が可愛らしい。
最初は気が付かなかったが、女性は自分と同じくらいの年齢、高校生くらいであろうことが見て取れた。流石に水着を着用しているが(本来そういうスペースではないが)、その美貌とスタイルは水着越しでも同年代の女子とは比類ない。
高校ではなんの部活にも所属しておらず、あまり冴えない生活を送っている彼にして見れば、高嶺の花のような女子だ。
そんな女子を前に一呼吸置いた後、彼は再び頭を垂れて目線を外した。
「私は海城蒼(かいじょう あお)」
名は体を表す。とは言うが。
まさしく海の如く、深い蒼色の目を向けられる。
俺を見下すように、海城蒼と名乗った目の前の女は改めて口を開いた。
「あんた、サウナの帝王になりなさい」
先ほどの困惑の入り混じった沈黙とは明らかに違う、お互いの思いがぶつかり合うような沈黙。
視線はぶつかることはない。大海は蒼の言葉にも動ずることなく目を開けることもなく沈黙を続けている。
「今ととのってるから後にしてくれる?」
そしてたっぷり十数秒の時間を取った後、彼女に答えた。
俺の言葉を胸中で反芻するように蒼は何度もうなずき、引き続き語り掛ける。
「福良大海」
彼女の口から飛び出してくるのは、俺の過去だった。
「私が生まれてから遅れること一年、とある地方都市で生を受ける。成長したあんたはサウナ愛好家の両親の勧めでとあるスポーツを始め、中学三年時には中学体育連盟主催の全国大会、中体連で全国を制覇する」
蒼が大海の一個上であること以外は、彼自身が、大海自身がよく知っていることだった。
ここでようやく彼は蒼を見上げる。その情報は一体全体どこから手に入れたというのか。訝し気な視線を彼女へと向ける。
「誰もが羨むような栄光のサクセスストーリー。全国どんな高校でも行けたというのに、あんたはその身に余るほど来ていたであろう高校推薦を全て蹴り、普通の受験をして横浜中央高等学校へと進学した」
紛れもない事実だけを彼女は大海へと告げてくる。「調べはついている」のだと、暗に示すように。
大海はここまでの突飛すぎる彼女の行動の意味について、全く推理できていないわけではなかった。
しかしどうしても分からない。彼女が大海に対して、ここまでする意味が分からなかった。
単なる勧誘であれば、ここまでする必要はないからだ。普通に道で歩いているときや学校にいるときにでも声をかければいい。
女子がサウナスペースでもないところに単身乗り込み、一対一で同年代の男子と喋る機会を設ける必要なんてない。
その程度の勧誘で充分であるはずなのだ。
こんな、「勝つつもりもない」競技者には――
「あんたは栄光を手にした後、表舞台から姿を消した……って後にしてくれってなんなのバッカじゃないの!!」
「ツッコミ遅くない!?」
一言文句でも言ってやろうと思い、風呂椅子から立ち上がる。
その刹那。
はらり、と。
しなだれた俺の息子が、目の前のうるさい女子の眼前に現れる格好となった。
「ッッ!!!」
瞬時に蒼が立ち上がって振りかぶり、俺に尋常ではない速度の平手打ちを炸裂させた。
その平手打ちは、十四度しかない菊美湯の水風呂よりも俺の芯まで響いた。
――ふふ。
どうやら、俺としたことがサウナに長く入りすぎていたらしい。やれやれと頭を振って、自分に呆れたように肩をすくめる。
幻覚が見えるほどサウナにいてしまったとは。あの十二分時計も、ややもすると既に二週目に入っていたのかもしれない。多分そうだろう。
とりあえず名前を呼んできた美少女の前を素通りし、サウナルームの扉を閉める。
水風呂のふちに備えられた桶を使って掛水をしてしっかりと汗を流し、キンキンに冷えた水風呂へと浸かる。隣のサウナ室からは何やら地団太のような音が聞こえるが、気のせいだろうと彼は目を閉じる。
一分ほど経過した後、ゆっくりと水風呂から上がって外の露天風呂スペースへと移動する。
手持ちのハンドタオルで全身をくまなく拭く。この作業をするかしないかではととのいに天と地ほどの差が生まれることを、彼は経験から知っていた。
濡れた状態では、外気に曝された体は急激に体温が低下する。その急激な低下がないように、しっかりと水滴はとっておく必要があるのだ。
十分に全身の水滴をタオルにしみ込ませたあと、彼は椅子へとゆっくり座りこむ。タオルをギュッと強く絞った後首にかけ、そのまま天を仰ぐ。
大海の頭には、立ち眩みにも似た、しかしその現象とは似て非なる感覚が訪れていた。
彼の頭から全身を包んでいくような、圧倒的な多幸感が包む。
「私を無視してくれるとは。あんた本当に大物ね」
しかしそんな多幸感は、怒気を孕んだ声で打ち消された。
気のせいではなかった。男湯にいるはずのない女性の存在は、紛れもなく真実だった。
熱でやられた際の幻想だと思っていたためサウナにいる間はほとんど見ていなかったが、水風呂で徐々にハッキリとしてきた頭をフル回転させながら、声の持ち主を見た。
サウナハットを被っているためその明るめの茶髪は一部隠れてはいるものの、やや癖の付いた髪型が可愛らしい。
最初は気が付かなかったが、女性は自分と同じくらいの年齢、高校生くらいであろうことが見て取れた。流石に水着を着用しているが(本来そういうスペースではないが)、その美貌とスタイルは水着越しでも同年代の女子とは比類ない。
高校ではなんの部活にも所属しておらず、あまり冴えない生活を送っている彼にして見れば、高嶺の花のような女子だ。
そんな女子を前に一呼吸置いた後、彼は再び頭を垂れて目線を外した。
「私は海城蒼(かいじょう あお)」
名は体を表す。とは言うが。
まさしく海の如く、深い蒼色の目を向けられる。
俺を見下すように、海城蒼と名乗った目の前の女は改めて口を開いた。
「あんた、サウナの帝王になりなさい」
先ほどの困惑の入り混じった沈黙とは明らかに違う、お互いの思いがぶつかり合うような沈黙。
視線はぶつかることはない。大海は蒼の言葉にも動ずることなく目を開けることもなく沈黙を続けている。
「今ととのってるから後にしてくれる?」
そしてたっぷり十数秒の時間を取った後、彼女に答えた。
俺の言葉を胸中で反芻するように蒼は何度もうなずき、引き続き語り掛ける。
「福良大海」
彼女の口から飛び出してくるのは、俺の過去だった。
「私が生まれてから遅れること一年、とある地方都市で生を受ける。成長したあんたはサウナ愛好家の両親の勧めでとあるスポーツを始め、中学三年時には中学体育連盟主催の全国大会、中体連で全国を制覇する」
蒼が大海の一個上であること以外は、彼自身が、大海自身がよく知っていることだった。
ここでようやく彼は蒼を見上げる。その情報は一体全体どこから手に入れたというのか。訝し気な視線を彼女へと向ける。
「誰もが羨むような栄光のサクセスストーリー。全国どんな高校でも行けたというのに、あんたはその身に余るほど来ていたであろう高校推薦を全て蹴り、普通の受験をして横浜中央高等学校へと進学した」
紛れもない事実だけを彼女は大海へと告げてくる。「調べはついている」のだと、暗に示すように。
大海はここまでの突飛すぎる彼女の行動の意味について、全く推理できていないわけではなかった。
しかしどうしても分からない。彼女が大海に対して、ここまでする意味が分からなかった。
単なる勧誘であれば、ここまでする必要はないからだ。普通に道で歩いているときや学校にいるときにでも声をかければいい。
女子がサウナスペースでもないところに単身乗り込み、一対一で同年代の男子と喋る機会を設ける必要なんてない。
その程度の勧誘で充分であるはずなのだ。
こんな、「勝つつもりもない」競技者には――
「あんたは栄光を手にした後、表舞台から姿を消した……って後にしてくれってなんなのバッカじゃないの!!」
「ツッコミ遅くない!?」
一言文句でも言ってやろうと思い、風呂椅子から立ち上がる。
その刹那。
はらり、と。
しなだれた俺の息子が、目の前のうるさい女子の眼前に現れる格好となった。
「ッッ!!!」
瞬時に蒼が立ち上がって振りかぶり、俺に尋常ではない速度の平手打ちを炸裂させた。
その平手打ちは、十四度しかない菊美湯の水風呂よりも俺の芯まで響いた。
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