悠久の栞

伽倶夜咲良

文字の大きさ
1 / 4

#1 目指す場所

しおりを挟む
 二時間あまりをかけて男は尾根に通じる細い山道さんどうを登ってきたが、大きく右にまわりこんで登りきったところで突然にその視界が開けた。
 そこはもう山頂。左右に広がる尾根の連なりが見渡せる場所だった。
 山道さんどうを出てすぐのところに、長年風雨にさらされていたことがありありと窺える木造きづくりりの案内板が立てられていた。
 右の矢印は穀物の神様が祀られているという神社を指しており、左の矢印は、この山の名所のひとつともなっている滝を示している。矢印の下に、そこまでの距離が書かれていたので、目を凝らして見てみたが文字の擦れがひどくて読み取ることはできなかった。

 男は、肩で呼吸いきをしながらしばらく案内板を眺めていたが、ここまで来れば探している場所まではもうそれほどでもないだろうと思いながら、滝の方へ足を進めた。
 方向は間違いない。
 何度も地図で確かめてすっかり頭の中へ入っている。まったく地図のとおりだ。
 しかし、おやじが話していたあの時からかなりの年月が経っているというのに、その頃の地図から何も変わっていないというのは不思議な感じだった。
 自然というのは偉大なものなんだなあ、と、そんな当たり前のことをぼんやり考えながら男は尾根の道を進んだ。
 尾根の道は一メートル足らずの幅しかなく、その両側は深い谷間となって落ち込んでいる。尾根の少し下までは岩肌が見えているが、谷間のほとんどは手入れされている様子もなく鬱蒼とした雑木林が下から伸びてどこまでも続いているように見えた。
 男は、こういう場所に立つのは初めてだったが、まるで、ものすごく巨大な平均台の上をバランスを取りながら歩いているような変な感じだった。

 しばらく進むと、両端が切り立った尾根は少し下り勾配となり、道の左側には別の山肌が迫り、右側はこれまでと同じような切り立った崖になっている山道へと景色が変わっていった。
 山道を少し入ったところで、左側の斜面から突き出すような形で大きな岩がせり出しているのが見えた。
 腰を降ろすのにちょうどよさそうだ。
 そう思って、男はそのせり出した岩に腰をかけ、しばらく休むことにした。
 背中のデイパックを降ろして、小型の保冷バックを取り出し、その中から用意してきた350mlの缶ビールを一つ手に取った。そして、プルタブを引き開けた。
 背中で揺れてきたせいなのか、気圧が低いせいなのか、ビールの泡がプシュッ!と、勢いよく吹き出した。鼻の頭にかかった泡を手の甲で拭いながら、ごくごくと一気に喉の奥へとビールを流し込んだ。
「うまいっ!」という一言が思わず口から漏れた。
 食道を通って胃の中へ拡がっていくビールの泡のはじけるような感じが何とも言えず心地よかった。
 冷蔵庫から取り出したばかりのようにキンキンに冷えているというわけではなかったが、そんなことは帳消しにしてくれる多くのものがここにはあった。
 身体から噴き出してくる汗。
 肌にその圧力を感じられるほどのカラッとした日差し。
 風。空。雲。緑。鳥のさえずり。まわりを包む空気の匂い。
 そんな景色と、荒い呼吸が折り重なった絶妙のバランスが心地いい。
 男は、履いていたトレッキングシューズを脱いで足の裏を揉んだ。
 初めての山歩きだったので、靴の良し悪しもわからずデザインと価格だけで適当に選んだものだった。
 もう少し専門家に聞いて、本格的なものを選んでおけば、疲労感がもう少し和らいだのかもしれない。と、思いながら、踵から土踏まずへ、土踏まずから指の付け根の方に向かって手の親指で力を込めてしごくように何度も揉み上げた。
 今まで踏ん張っていた力が足の裏から、じわあっと、しびれるような感覚を伴って抜け出していくようだ。
 気持ちいい。
 初夏のこの季節に来たのは正解だった。
 清涼な空気の流れが谷間から吹き上げてきて、そのまま男を撫でるように巻き込んで、反対側の斜面に駆け上っていく。
 Tシャツに沁みた汗が冷たく冷える。
 蒼い空を背景に切れ切れの薄い膜のような白い雲が流れていく。
 眼下の雑木林のわずかに開いた隙間からところどころに見える林道は、先ほど入ってきた登山道の入り口からつながる道なのだろうか?
 登ってきた山道は深い木々の枝葉に埋もれて見ることはできない。
 谷間は次の山の稜線へと続き、その稜線はまた深い谷間へと落ちていく。
 そうした山々の連なりが遙かな先へと広がっていく。
 何種類もの鳥や、虫の声が風に運ばれてきて、どのあたりで鳴いているのかさえ判別することはできない。
 緑の色合いがこれほど変化にとんでいるものとは考えてもみなかった。草木くさきの枝葉どれ一つをとってみても、同じ緑など存在しなかった。
 山と山の間に挟まれるようにして、下の方の、遠くに小さく見える集落の屋根の一部が日差しに反射してきらりと光った。
 男はまたビールを流し込んだ。
 缶を右手の地べたに置いてその脇をふっと見ると、今腰をかけているせり出した岩に、身体を寄せるようにして咲いている一輪の首のひょろっと長い、白い花弁の花が目にとまった。
 摘んで匂いを嗅ごうかと手を伸ばしたが、思い直して鼻を近づけることにした。他愛もないセンチメンタルが自分でもおかしくてついつい顔がほころんでしまう。そして、センチメンタルという今時あまり耳にしなくなった言葉を思いついたことにまた苦笑してしまった。
 男が顔を上げるのとほぼ同時に、どこからか一匹の小さな蜂が飛んできて、二三度その花のまわりをくるくると回っていたが、またどこかへ飛んでいってしまった。
 見えなくなった蜂から視線を戻すと、男はデイパックから一枚の地図を取り出した。
 それは、破れかけた折り目をセロハンテープで補強してあるような、その紙の色も色あせてセピア色にまだらになった、見るからに古ぼけた粗末な地図だった。
 丁寧に、こわれものを扱うようにして膝の上に広げると、一本の海老茶色の線が、とある道をなぞって引かれていた。
 この地図に引かれた線も、元は赤い色のサインペンで書かれたものだろうが、退色して滲んだようにぼやけたものになっていた。
 まるで、お伽話に出てくる宝の在処ありかを記された地図のようであった。
 男は、その線でなぞられた道を目で追いながら思い出していた。


(続く)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...