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化生の群編
走馬灯を見る間に
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悪路王が振るった腕は、結城の右肩を的確に捉えた。無論、素の結城が悪路王の力に抗せるわけもなく、玩具の人形のように軽々と弾き飛ばされてしまった。
「ぐぁ! ぎっ! あがっ!」
ゴムボールよろしく地面を跳ね続けた結城は、たまたま延長線上にあった岩にぶつかり、ようやく止まった。アテナ謹製の防護服がなければ、岩に激突した時点で背骨と内臓が潰れていたところだった。
「ぐぅ……うぅ……」
結城は立ち上がろうとするも、全身を異常な感覚に襲われ、指一本うごかすどころか呻くだけで精一杯だった。
体中の水分が煮立っている、あるいは筋肉を限界まで酷使した後の、肉体に圧し掛かる重量感。結城の身体はいま、精霊の仮面から流れ込んだ力の反動を受けていた。
アテナに多少は鍛えられているとしても、筋力を始めとした潜在能力の枷を無理やり外されてしまっては、肉体の耐久力が追いつかなくなるのは当然だった。
仮面を着けてからここまでのたった数分間で、結城は全身疲労の数段上の状態まで達してしまった。まともに動けるはずなどない。
悪路王は剥ぎ取った仮面を投げ捨てると、アテナたちに目もくれず、結城に向かって真っ直ぐ歩いてきた。ここで必ず殺しておくべきだと、改めて結城の存在を認識したらしい。
両の角を折られ、頭部からは血が滴り、脇腹を角が貫通していようとも、結城の頭蓋を握り潰すのは造作もない。
すぐに動けない結城にとって、この状況はまさに万事休すだった。
「喝!」
突然、気勢を発した何者かが、紙垂の付いた注連縄を宙に放り投げた。縄は意思があるかのように、悪路王の首、両腕、胴体、両脚に巻きつき、きつく締め上げた。
行く手を阻まれた悪路王は、首を反らせて拘束してきた者を睨んだ。
その先にいたのは、注連縄の端を左手に握り、右手の人差し指と中指を揃えて立て、縄に強く念を込める雛祈の姿だった。
祀凰寺家が得意とするのは直接戦闘と封印術。悪路王ほどの鬼神を雛祈一人で封印するのは適わないが、わずかな間だけ動きを止めることはできる。
打倒が不可能と思われた悪路王が、大きなダメージを負っている今こそが好機と捉え、雛祈は持てる最大の封印術を行使した。
「桜一郎!」
「承知!」
雛祈の呼びかけに応じ、桜一郎が鉞を脇構えにして前へ出る。
「おおっ!」
横薙ぎに振るわれた大鉞の刃が狙うのは、結城が突き刺した悪路王の角。
金槌で釘を打つ要領で、鉞で打たれた角はさらに深く、悪路王の腹部に食い込んだ。
「ガハッ!」
悪路王の口が大きく開かれ、掠れ声とともに血が吐き出された。さすがにダメージが大きくなりすぎたのか、悪路王の肩膝がぐらりと揺れた。
「もう一つ!」
桜一郎は再び鉞を脇に構えなおした。今度はもう片方の角を打つためだ。
だが、悪路王も黙ってはいない。これ以上ダメージが深くなることを避けるべく、全ての力を左腕に集中させた。
「ガアアアッ!」
「あぁ!」
左手の動きに合わせて封印の注連縄が引かれ、雛祈もろとも引っ張られそうになった。
悪路王の掌は、桜一郎の二撃目の鉞を真っ直ぐに受け止めた。
「うっ!」
危機を感じた桜一郎が鉞を引き戻そうとするも、すでに悪路王の手で掴まれ、動かすことはできなかった。
「ハッ!」
悪路王は左手一本で大鉞を上へと投げ飛ばした。しかし、ただ桜一郎から武器を取り上げるためにそうしたわけではない。
鉞は悪路王の後方へと落下していった。そこはちょうど雛祈が立っている位置だった。
「―――!」
直感的に雛祈は横に跳んだが、その回避運動によって封印術が緩んでしまった。
「お嬢―――っ!」
鉞が雛祈の身を掠め、それを案じた桜一郎の横顔に、悪路王の裏拳が見舞われる。高身長の桜一郎があっさりと飛ばされ、砲弾のように地面に叩きつけられた。
「桜一郎―――あぅ!」
雛祈は持っていた注連縄に急激に引っ張られ、前のめりに派手に転んでしまった。
顔を上げれば、そこには縄を引いた張本人、悪路王が上から見つめていた。雛祈の脊椎に冷たい感覚が奔った。
悪路王が腕を一振りすれば、雛祈は真っ赤な霧になって消えるだろう。
(ここまで……か)
至近距離の鬼神にうつ伏せの状態を晒しているとあっては、もう助かる見込みはない。
(我ながら馬鹿な賭けをしたけど、こんな鬼相手によく戦ったと思うわ)
雛祈は悪路王を敵に回して善戦できた自身を褒めてやりたくなった。言い間違えようのない絶体絶命な状況に置かれ、もはや冷静にさえなってくる。
(桜一郎と千冬には付き合わせて悪いことしたなぁ。あの世でたくさん謝らないと)
秒読みになった死を前に、雛祈の体感時間は恐ろしくゆったりと流れていた。悪路王はまだ雛祈を睨んだままでいる。
(これで祀凰寺家も終わりかなぁ。お父様とお母様がうまく世継ぎを作ってくれればいいんだけど、ちょっと私としては悲しいかも……)
雛祈は上げていた顔を土に着けた。もうすぐに屍にされるなら、顔を上げていても伏せていても同じだと思った。
(あ~あ、恨むわよ、蓮吏。あなたが私にこんな仕事持ってこなかったら……あっ、違うか。もともとあいつとの会食をすっぽかした私が悪かったのか。あ~、あの時の私に会えるなら今すぐ殴ってでも会食に行かせたい)
雛祈は目を閉じた。目蓋の裏はもちろん真っ暗だった。あとは悪路王に引き裂かれる瞬間を待つばかりである。
(そもそも何で会食をすっぽかしたんだっけ……あっ、そうだった。あの小林結城って男のことですごくイライラしてたんだった)
発端となった出来事がすんなり思い出されるあたり、人生の走馬灯は便利なものだと雛祈はしみじみ思った。
(もっとじっくり調べて、もう少し冷静に対処するべきだったなぁ。あんなとんでもない神霊たちを従えてるって知ってたら、あんな無謀な突貫しなかったのに。大恥かいちゃったわ)
雛祈はいつものようにベッドで眠りに就く心境になってきた。死を目前に感じたことは何度もあったが、本当の死が訪れた時は、人は驚くほど落ち着くのだと思った。
(関わらないようにしておけば良かったのかなぁ。最後の最後で私まで血迷ったことしちゃったし。祀凰寺雛祈の人生もここで終わりを迎える、か。いろいろ忙しかったけど、それなりに楽しいこともあったかな。あっ、最後にもう一回くらい温泉に入っておけば良かっ…た…………………………あれ?)
ここで雛祈は疑問を持った。いくら死を前にした人間の体感時間が狂うとしても、これだけ長々と考えていられる時間があるだろうか、と。
悪路王の一撃がどれほど強力だとしても、一瞬くらいは体に何か衝撃を感じてもいいはずだった。だが、雛祈は何も感じていない。土に倒れたまま、突っ伏しているだけに思えた。
悪路王がなぜ止めを刺してこないのか知りたくなった雛祈は、確かめるためにゆっくりと頭を上げた。
そこにはいまなお、雛祈の前に立つ悪路王がいる。脚には脇腹から垂れた血の筋ができており、顔は頭頂から流れた血が恐ろしさをより強調している。
かなりのダメージは負っていても、やはり眼前の巨大な鬼神からは、圧倒的な力の差が感じられた。
そして雛祈はもう一つ疑問を持った。
雛祈は悪路王に注連縄を引っ張られ、すぐ足元に倒れている。爪を使うまでもなく、踏み潰してしまえば事足りる距離だった。
そんな悪路王が雛祈にではなく、まったく違う方向に顔を向けていた。ひどく驚いたような表情で。
雛祈もこの強力無比な鬼神が何を見て驚いたのか気になり、同じ方向に目を遣った。
それを見て雛祈もまた驚いた。
悪路王の視線の先にいたのは、日本刀を右手に持った結城だった。
もはや立つこともできない状態だったにもかかわらず、しっかりと地面を踏みしめ、悪路王を見据えている。どんな暗闇も見通す梟と同じ、青い瞳で以って。
刀を両手持ちにして脇に構え、少し腰を落として斬りかかる体勢を取る。
刀身が黄金色に輝き始め、バチバチと火花が散りだした。
さながらそれは、雷神の神通力が込められた一振りのようだった。
「ぐぁ! ぎっ! あがっ!」
ゴムボールよろしく地面を跳ね続けた結城は、たまたま延長線上にあった岩にぶつかり、ようやく止まった。アテナ謹製の防護服がなければ、岩に激突した時点で背骨と内臓が潰れていたところだった。
「ぐぅ……うぅ……」
結城は立ち上がろうとするも、全身を異常な感覚に襲われ、指一本うごかすどころか呻くだけで精一杯だった。
体中の水分が煮立っている、あるいは筋肉を限界まで酷使した後の、肉体に圧し掛かる重量感。結城の身体はいま、精霊の仮面から流れ込んだ力の反動を受けていた。
アテナに多少は鍛えられているとしても、筋力を始めとした潜在能力の枷を無理やり外されてしまっては、肉体の耐久力が追いつかなくなるのは当然だった。
仮面を着けてからここまでのたった数分間で、結城は全身疲労の数段上の状態まで達してしまった。まともに動けるはずなどない。
悪路王は剥ぎ取った仮面を投げ捨てると、アテナたちに目もくれず、結城に向かって真っ直ぐ歩いてきた。ここで必ず殺しておくべきだと、改めて結城の存在を認識したらしい。
両の角を折られ、頭部からは血が滴り、脇腹を角が貫通していようとも、結城の頭蓋を握り潰すのは造作もない。
すぐに動けない結城にとって、この状況はまさに万事休すだった。
「喝!」
突然、気勢を発した何者かが、紙垂の付いた注連縄を宙に放り投げた。縄は意思があるかのように、悪路王の首、両腕、胴体、両脚に巻きつき、きつく締め上げた。
行く手を阻まれた悪路王は、首を反らせて拘束してきた者を睨んだ。
その先にいたのは、注連縄の端を左手に握り、右手の人差し指と中指を揃えて立て、縄に強く念を込める雛祈の姿だった。
祀凰寺家が得意とするのは直接戦闘と封印術。悪路王ほどの鬼神を雛祈一人で封印するのは適わないが、わずかな間だけ動きを止めることはできる。
打倒が不可能と思われた悪路王が、大きなダメージを負っている今こそが好機と捉え、雛祈は持てる最大の封印術を行使した。
「桜一郎!」
「承知!」
雛祈の呼びかけに応じ、桜一郎が鉞を脇構えにして前へ出る。
「おおっ!」
横薙ぎに振るわれた大鉞の刃が狙うのは、結城が突き刺した悪路王の角。
金槌で釘を打つ要領で、鉞で打たれた角はさらに深く、悪路王の腹部に食い込んだ。
「ガハッ!」
悪路王の口が大きく開かれ、掠れ声とともに血が吐き出された。さすがにダメージが大きくなりすぎたのか、悪路王の肩膝がぐらりと揺れた。
「もう一つ!」
桜一郎は再び鉞を脇に構えなおした。今度はもう片方の角を打つためだ。
だが、悪路王も黙ってはいない。これ以上ダメージが深くなることを避けるべく、全ての力を左腕に集中させた。
「ガアアアッ!」
「あぁ!」
左手の動きに合わせて封印の注連縄が引かれ、雛祈もろとも引っ張られそうになった。
悪路王の掌は、桜一郎の二撃目の鉞を真っ直ぐに受け止めた。
「うっ!」
危機を感じた桜一郎が鉞を引き戻そうとするも、すでに悪路王の手で掴まれ、動かすことはできなかった。
「ハッ!」
悪路王は左手一本で大鉞を上へと投げ飛ばした。しかし、ただ桜一郎から武器を取り上げるためにそうしたわけではない。
鉞は悪路王の後方へと落下していった。そこはちょうど雛祈が立っている位置だった。
「―――!」
直感的に雛祈は横に跳んだが、その回避運動によって封印術が緩んでしまった。
「お嬢―――っ!」
鉞が雛祈の身を掠め、それを案じた桜一郎の横顔に、悪路王の裏拳が見舞われる。高身長の桜一郎があっさりと飛ばされ、砲弾のように地面に叩きつけられた。
「桜一郎―――あぅ!」
雛祈は持っていた注連縄に急激に引っ張られ、前のめりに派手に転んでしまった。
顔を上げれば、そこには縄を引いた張本人、悪路王が上から見つめていた。雛祈の脊椎に冷たい感覚が奔った。
悪路王が腕を一振りすれば、雛祈は真っ赤な霧になって消えるだろう。
(ここまで……か)
至近距離の鬼神にうつ伏せの状態を晒しているとあっては、もう助かる見込みはない。
(我ながら馬鹿な賭けをしたけど、こんな鬼相手によく戦ったと思うわ)
雛祈は悪路王を敵に回して善戦できた自身を褒めてやりたくなった。言い間違えようのない絶体絶命な状況に置かれ、もはや冷静にさえなってくる。
(桜一郎と千冬には付き合わせて悪いことしたなぁ。あの世でたくさん謝らないと)
秒読みになった死を前に、雛祈の体感時間は恐ろしくゆったりと流れていた。悪路王はまだ雛祈を睨んだままでいる。
(これで祀凰寺家も終わりかなぁ。お父様とお母様がうまく世継ぎを作ってくれればいいんだけど、ちょっと私としては悲しいかも……)
雛祈は上げていた顔を土に着けた。もうすぐに屍にされるなら、顔を上げていても伏せていても同じだと思った。
(あ~あ、恨むわよ、蓮吏。あなたが私にこんな仕事持ってこなかったら……あっ、違うか。もともとあいつとの会食をすっぽかした私が悪かったのか。あ~、あの時の私に会えるなら今すぐ殴ってでも会食に行かせたい)
雛祈は目を閉じた。目蓋の裏はもちろん真っ暗だった。あとは悪路王に引き裂かれる瞬間を待つばかりである。
(そもそも何で会食をすっぽかしたんだっけ……あっ、そうだった。あの小林結城って男のことですごくイライラしてたんだった)
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(もっとじっくり調べて、もう少し冷静に対処するべきだったなぁ。あんなとんでもない神霊たちを従えてるって知ってたら、あんな無謀な突貫しなかったのに。大恥かいちゃったわ)
雛祈はいつものようにベッドで眠りに就く心境になってきた。死を目前に感じたことは何度もあったが、本当の死が訪れた時は、人は驚くほど落ち着くのだと思った。
(関わらないようにしておけば良かったのかなぁ。最後の最後で私まで血迷ったことしちゃったし。祀凰寺雛祈の人生もここで終わりを迎える、か。いろいろ忙しかったけど、それなりに楽しいこともあったかな。あっ、最後にもう一回くらい温泉に入っておけば良かっ…た…………………………あれ?)
ここで雛祈は疑問を持った。いくら死を前にした人間の体感時間が狂うとしても、これだけ長々と考えていられる時間があるだろうか、と。
悪路王の一撃がどれほど強力だとしても、一瞬くらいは体に何か衝撃を感じてもいいはずだった。だが、雛祈は何も感じていない。土に倒れたまま、突っ伏しているだけに思えた。
悪路王がなぜ止めを刺してこないのか知りたくなった雛祈は、確かめるためにゆっくりと頭を上げた。
そこにはいまなお、雛祈の前に立つ悪路王がいる。脚には脇腹から垂れた血の筋ができており、顔は頭頂から流れた血が恐ろしさをより強調している。
かなりのダメージは負っていても、やはり眼前の巨大な鬼神からは、圧倒的な力の差が感じられた。
そして雛祈はもう一つ疑問を持った。
雛祈は悪路王に注連縄を引っ張られ、すぐ足元に倒れている。爪を使うまでもなく、踏み潰してしまえば事足りる距離だった。
そんな悪路王が雛祈にではなく、まったく違う方向に顔を向けていた。ひどく驚いたような表情で。
雛祈もこの強力無比な鬼神が何を見て驚いたのか気になり、同じ方向に目を遣った。
それを見て雛祈もまた驚いた。
悪路王の視線の先にいたのは、日本刀を右手に持った結城だった。
もはや立つこともできない状態だったにもかかわらず、しっかりと地面を踏みしめ、悪路王を見据えている。どんな暗闇も見通す梟と同じ、青い瞳で以って。
刀を両手持ちにして脇に構え、少し腰を落として斬りかかる体勢を取る。
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