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豪宴客船編

人の世

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「ゲホッ! ゲホゲッ! ゴホッ!」
 結城ゆうきが目覚めた時、オークションは最後の『商品』が落札され、閉幕しようとしていた。
 だが、結城は意識が途絶える前のことを思い出し、その際に感じていた嫌悪や不快も蘇ってきたため、シアターホールを出てすぐのトイレに駆け込んだ。
 そして、洗面台に向けて激しく咳き込み、胸に込み上げてきた拒絶感を全て吐き出そうとしていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
「ユウキ……」
 洗面台の前でうずくまる結城の背に、アテナはそっと手を置いた。
 何か言葉をかけてやりたいが、今の結城の状態では、何を言っても効果はないだろうと、アテナは悲しげな表情で背を擦ってやることしかできなかった。
「これがこの船の実態ですよ、小林くん」
 結城の後を追ってトイレに来た黄金男爵ゴールドバロンは、洗面台の反対側の壁に背を預けて言った。
 そんな余裕の態度で佇む黄金男爵を、アテナは鋭い目で睨みつける。
 結城が意識を失っている間も、男爵は積極的に競売に参加していた。
 本体の植物もろともに攫われてきた木精霊こだま。大事なアザラシの毛皮を取られて脅されるアザラシ妖精ローン。人間の世界に強引に連れてこられ怯える幼いエルフ。呪符を貼られた虫篭に閉じ込められた神妖精ディーナ・シー
 競売にかけられたそれらの『商品』の六割を、黄金男爵は莫大な財力をもって落札した。
 男爵の意図や正体は未だに不明だが、少なくとも他のオークション参加者とは違い、まだまともな価値観の持ち主であることはアテナも察していた。
 だが、そうだといても、黄金男爵は結城が傷付くことを容認した上で、オークションに誘ったことは変わらない。
 それは男爵の人格いかんに関わらず、アテナにとって許しがたい所業だった。
「あなたは―――」
「待った」
 殺気に近い憤怒を発しながら男爵に詰め寄ろうとしたアテナは、動く前に男爵の一言で制止した。
 別段男爵が何かしたわけではない。先と同様に、男爵はアテナからの制裁も覚悟の上で相対していると分かったからだ。
「ボクの話が全て終わった後でなら、ボクを如何様いかようにしてくれても結構です。たとえ心臓を抜き取られても構いませんよ。でもその前に―――小林くん、君に言っておきたいことがある」
 これまでの少しおどけた口調とは打って変わり、黄金男爵は低く重い声で結城に話しかけた。
「さっきも言ったが、これがこのクイーン・アグリッピーナ号の本性だ。ただね、いまボクが指摘したいのは君のその反応の方さ。君……ちょっとこの船について甘く考えていたんじゃないかな?」
 そう言ってくる黄金男爵の声音には、哀れみとも怒りともつかない感情が滲んでいた。
「君がこの船に乗り込んだ理由についてはともかく、君はこの船と乗客について甘く考えすぎているんじゃないかな、と思ったんだ。その辺りをちょっと勉強してもらいたくてね、このオークションに誘ったんだ。結果は案の定だったよ」
 まるで溜め息を吐くように語られる黄金男爵の言葉には、結城に対する落胆に似たものが混ざっていた。オークションの残虐性を前に、無様に咳き込む結城への評価だった。
「けれど、これでもまだ認識が甘いんだ。ここで売りに出されていたのは、『人ならざる者』ばかりだ。世の中には、『人』が『人』を金銭で売り捌くという事実が、確かに存在しているんだよ。それがどんなものか、想像できるかい?」
 憔悴しきった結城ではあったが、男爵の言葉は確実に耳に届いていた。
 オークションを見る前ならば、想像できなかったかもしれない。結城はあのオークションを見てしまった。
 取引されているのが、本当の『人』だったら―――
「っ!」
 シアターホールで味わった拒絶感をさらに倍加させたものが、結城の内臓から込み上げてきた。
「――――――」
 とっさに洗面台に顔を向けた結城は、内臓から逆流してきたものを全て吐き出した。
 それでも胸にわだかまった不快感は取れず、何度もえずき、何度も咳き込む。
「言っておくけど、そういうのは今に始まったことじゃない。もっと昔から人間社会では行われていたことだ。ねぇ、女神様?」
 男爵は結城に向けていた視線をアテナに移した。
 アテナは一瞬だけ男爵を睨んだが、すぐに結城から向けられている視線に気付き、結城の顔を見た。
 呼吸も絶え絶えに、力なく首を巡らせてアテナを見つめる結城の目は、あまりにも悲しく訴えていた。『本当のことですか?』、と。
「……ユウキ」
 泣きすがるような視線に折れて、アテナは結城の声なき問いに答えることにした。
「ユウキ、私は古代ギリシャでも、ローマ帝国でも、神として崇められていました。そしてその時代の中でも、奴隷制は確かにありました」
 そう告げられ、結城の目の奥にあった悲しみは、より一層濃くなった。
「……ユウキ、神は時として人に啓示を与え、導くこともします。しかし、全てを思い通りにできるわけでも、まして、思い通りにしていいわけでもありません。それこそ、神が人を奴隷や家畜のように扱うのと同義になってしまうからです。私とて、奴隷制を良く思ってはいませんでした。けれど、それもまた人の世の流れとうねり。時代を生きる人々に委ねるしかなかったのです。それは現世いまも同じ。世界を勝手に変えてしまうことは、神でも許されていません」
 結城の心の痛みを感じ取ったのか、アテナもまた悲痛な表情で思いを語っていた。
 アテナの述懐を聞いた結城の心は激しく揺れた。
 結城自身、人の悪意を受け、傷付くことは何度となくあった。理不尽に対し怒りを覚えることもあった。
 だが、それでも過ぎ去ってみれば何のことはなく、恨みも憎しみも残さずに生きてこれた。
 世の中には悪人もいれば善人もいる。たまたま相性の悪かった人もいただけだ、と思うようにしていた。
 それが果たして正しかったのか、今の結城は自信を持って答えられないでいる。
 人の世の裏面を、歴史の中で続いてきた醜い部分を、心身で嫌というほど感じ取った今となっては。
「うぅ……ぐうぅ……」
 洗面台にもたれかかりながら、結城は顔を伏せてむせび泣いた。
 悲しみに心が混濁する結城に対して、アテナは何も言えず、背に手を置いてやるしかできなかった。
 そんな結城の姿を、黄金男爵はしばらく冷めた目で見つめていた。期待はずれだ、とでも言わんばかりに。
「……小林くん、これはボクからのちょっとしたアドバイスなんだが」
「っ! このうえ何を―――」
 アテナの怒声も構わず、男爵は結城の背に歩み寄る。
「君、けっこう面白い神霊カミサマたちと知り合いだよね?」
 結城の背を見下ろしながら、男爵は恐ろしく冷たい声で続ける。
「その神霊カミサマたちにちょっとお願いしたら、できるんじゃないかな? この船を今から沈めることも」
 それを聞いて、結城の声は止まった。
 その変化を見て取ったアテナは、いよいよ男爵への怒りが頂点に達しようとしていた。
「あなたはっ!」
「いまはカミサマの出る幕じゃないですよ!」
 男爵の襟首を掴み、拳を放とうとしたアテナは、その一言で振り上げた拳を止めざるを得なかった。多大な怒りは覚えても、男爵は実質的に制裁を受けることはしていないと、アテナの知性は理解していたからだ。
「これはボクと小林くんのり取りなんでね。で? 小林くん、君はどうしたい? この船を海の藻屑にしたいっていうなら、君はできるんだよ? 君の意思一つで」
 男爵からの提案は、まさに悪魔の誘いだった。
 結城が心の底から決意し、本気で望むというなら、神霊たちはそれを後押しするために動くかもしれない。クイーン・アグリッピーナ号を完膚なきまでに破壊し、海に沈められるかもしれない。
 これまでの依頼の中で、結城は神霊たちの持っている力を目の当たりにしてきた。男爵の言っていることも、おそらく可能だろう。
 結城の中にある感情の泥から、何かが這い出してきて囁きかけた。
 この船もろとも、人の皮を被った化け物どもを沈めてしまえ、と。
「ユウキ!」
 囁きに呑まれそうになった結城の顔を、アテナは強引に振り向かせた。両肩をがっしりと掴み、目と目を一直線に合わせる。
「ユウキ、あなたが本当に望むなら、この船をすぐにでも沈めてさしあげましょう。反対はしません。私も、エンジュも、マスクマンも、シロガネも。ただ、その前に私の言葉を聞いてから決断なさい。その後は、あなたの願いを全力で支えましょう。船を沈めるでも、また別の方法でも」
 アテナが結城に向けた目は、わずかな間だけ結城に絶望や怒りを忘れさせた。それはいつも自信に満ち、凛とした佇まいを崩さないアテナらしくないほどに、悲しい目だったからだ。結城はその目に宿る悲しみが、自分の抱えているものに比べると、より大きくて辛いものに思えた。
「ユウキ、世界も人も、神が思い通りにできるわけでも、思い通りにして良いわけでもありません。たとえあまねく世界の全てを認識し、自在に植え替え、自在に間引くことができるとしても、それは許されざる傲慢なのです。また、実際にやってのけたとしても、思い通りになるわけではありません。それは神の一柱である私自身も味わったことのある経験です。全知全能の力をもってしても、世界も人も、思い通りにはならなかったのです」
 混乱した結城の頭でも、不思議なほどにアテナの言葉はすんなりと染み込んできた。
 だがその一方で、別の混乱も生じていた。混乱というよりは、素朴な疑問に近いかもしれない。
 結城はあまり神話などに詳しくなく、神という存在に対しても漠然とした理解しかなかった。それでも、とてつもなく大きな存在とは分かっていた。それこそ世界さえも思うままにできるのだろう、と。
 そんな神の一柱であるアテナが、『神でも世界は好き勝手できない』と言っているのは、少し妙な気がしていた。
「だからこそ……だからこそ、こう言えるのです、ユウキ」
 それまで沈むような悲しみをたたえていたアテナの目に、今度は一転して強い光が宿った。それこそは、結城が知るいつものアテナの目だった。
「人の世は、人の手によって変えてゆかねばならないと。人の心が、人の意思が、人の行動が、世の流れもうねりも良き方向へと変えてゆけるのだと」
 結城を見るアテナの目は、いや、結城のさらに先にある希望を見るアテナの目は、今まで以上に力強く輝いて見えた。アテナが結城に見ているものと同様に、結城もまた、目の前にいる戦女神の存在が眩しく映っていた。
「すぐに叶えられることではないでしょう。これまでも、これからも、何百年、何千年、あるいは何万年かかってしまうかもしれません。人の世は、それほどにまだ未成熟です。それでも、私は人の世の未来を信じたいのです。人が人の手によって光を集め、闇を祓い、いつかわたしたちを必要としなくなる、その日まで」
 アテナは結城の肩から手を離し、結城の右手を取って胸に抱いた。まるで尊いものを扱うように。
「ユウキ、あなたがこの船を破壊するというなら、それもまた人の世で起こる一つの事象です。否定はしません。あなたの守護神として、私も力を貸し与えましょう。ただ、軽はずみにはしてほしくありません。あなたの全てを合わせた上で、しかと決断してください。でなければ、あなたの魂と記憶に、暗く大きな穴を穿うがつことになってしまいます。さぁ―――」
 アテナの言葉を聞き終わった結城は、澄んだ水を浴びて、付いた汚れを落とした気分になっていた。それはアテナに心の内を明かされただけでなく、妙に納得できる部分があったからでもある。
 考えてみれば、単純な話だった。
 何もかも神様任せでいいなら、人は何もする必要がない。何もする必要がなくなってしまう。
 それは、あまりにもつまらないことだ。
 神様にお願いしていれば、何でも叶うわけではないのだ。
 世の中は神様に全部任せて何とかなるわけでもなく、神様も全部何とかできるわけでもない。
 結局、悪いところがあるなら、人が何とかしていかなければならないということだ。
 そう思った時、結城は腹の底から笑いたくなってきた。さっき起こしかかった気まぐれが、あまりにも小さく、ばかばかしく思えて笑ってしまいそうだった。
「アテナ様、僕は―――」
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