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豪宴客船編

解放

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 結城ゆうきはクロランの額に狙いを定めた。そこに右手の中にあるものを打ち込めば、クロランを救うことができる。
 カメーリアが試験管を取り出した際、その裏でもう一つ、結城にだけ見えるように取り出されていたものがあった。
 『動きを止めたら、これをあのに』
 カメーリアは結城にそう告げた。
 それがいったい何なのかは結城には分からなかった。それが果たしてどんな効果を現すのかも。
 しかし、結城はカメーリアを信じた。
 この場で他に頼る者がいない、という理由もあるにはあったが、それよりも結城はカメーリアが当代一の魔法使いであり、その魔法を何度も人のために役立てていることを知っている。
 趣味嗜好やそれに基づく行動に時々驚かされることはあっても、その人格や信念は、カメーリアの魔法使いとしての在り方から見て知っている。
 なら、授けられた秘策は、必ずクロランを助けられるのだと、結城は確信していた。
 伸ばされた結城の右手が、クロランの額に触れた。
 手が離れた時、クロランの額には、一枚のふだが貼られていた。
 その札に書かれた文字や紋様にどんな意味があるのか、結城には全く理解できなかったが、それがクロランを助ける鍵になることだけは解っていた。
 札にクリップで挟んであった小さなメモ。『おでこに貼ってくださいね~』とという伝言と、キュウのデフォルメされたイラストが描かれてあったからだ。
「ッ!?」
 札が貼られた瞬間、クロランは動きを止めた。
 ただ止まっただけではなく、刺すような殺気が消え失せ、目も獣のものではなく、結城が知るクロランの目に戻っていた。
「どうした、F‐06。その男を殺せ」
 オスタケリオンが端末を通して命令するが、もはやクロランは指の一本さえ従う素振りを見せない。
 ディスプレイを確認しても、システムは正常に起動している。その事実に、オスタケリオンは初めて不可解さに顔をゆがめた。
 結城とクロランは互いに目線を交し合っている。
 だが、二人に戦うような険しさはなく、結城にいたっては非常に安堵した表情を見せていた。
「……戻っておいで、クロラン」
 結城が穏やかに呟くと、
「……ゆう……き……」
 クロランの口から、ほんのかすかな声で、結城の名が呼ばれた。
 途端、クロランの額の札が淡い光を帯びた。
 それは少しずつ少しずつ、クロランの身体を包んでいき、やがて全身が光に覆われた。
 光を発していた札がちりのように宙に霧散すると、光をまとったクロランの身体が徐々にひび割れはじめた。
 札が貼られていた額から、首へ、肩へ、指先へ、胴体へ、脚へ、足先へ、皹は伸びていき、全身に回りきった。
「っ!」
 クロランが小さく息を吸い込むと、それが合図であったかのように、罅割れた狼人間の表面が砕け、中から元の姿をしたクロランが現れた。
「っと!」
 倒れかかったクロランを、結城が寸でのところで抱きとめた。
「クロラン?」
 結城の腕の中に収まったクロランは、憑き物が落ちた穏やかな表情で寝息を立てていた。
(よかった……)
 クロランの無事を確かめた結城は、静かに胸を撫で下ろした。
「あっ! そうだ! 媛寿えんじゅは!?」
 クロランを救い出した結城は、捕らわれた媛寿のことも思い出し慌てそうになったが、
「大丈夫ですよ~」
 小気味良いヒールの足音を立て、緩い口調で結城に応える者が一人。
「媛寿ちゃんも~、このとおり無事ですよ~」
「キュウ様!? あっ! 媛寿!」
 唐突なキュウの出現に結城は驚くが、それよりもキュウの腕ですやすやと眠る媛寿の方に目が行った。
「キュウ様が媛寿を助けてくれたんですか?」
「もちろんですよ~。媛寿ちゃんも可愛いですから~、変なやからには渡せませ~ん」
 一体どのようにして媛寿を救出したのか、媛寿を捕らえていた覚獲かくえをどうしたのか、どのタイミングから事態を把握していたのか。普通であればそういった諸々の事情を問うところではあったが、媛寿とクロランを人質に取られた極限状態から解放された結城は、
「あ、ありがとうごじゃいます~……」
 クロランを抱きしめたまま、ヘナヘナと座り込んでしまった。
「あらあら~、結城さんこそ大丈夫ですか~?」
「大丈夫なわけありませんわ、キュウ。止血したとはいえ相応に出血しているんですから」
 結城を囲って魔女と大妖狐が話している奇妙な光景を、オスタケリオンはこれまでで最も冷たい目で見つめていた。手に持った端末のディスプレイには、大きく『LOST』の文字が浮かび点滅している。
「……何をした」
 オスタケリオンはキュウとカメーリアに問いただした。結城は最初から対象になっていない。おそらく真相を知っているのは途中から現れたカメーリア、もしくはキュウのどちらかだと当たりをつけたからだ。
 フェンリルの力を移植した獣人兵器が、あっさりと無効化されてしまった事実。
 それがどのようにして成されたのかを、怒りもなく、悔しさもなく、ただ単純に確認するために、オスタケリオンは問い質した。
「いったい何をした?」
 オスタケリオンからの質問に、キュウは微妙に不機嫌そうな顔をしながら振り返った。
「何をしたと言われれば、単に『おはらい』しただけです」
「『お祓い』、だと?」
「そうです」
 キュウはどこからかふちにファーの付いた扇を取り出すと、軽く宙に投げ放った。扇は意思を与えられたかのようにひとりでに開くと、キュウと、その腕の中にいる媛寿を緩やかな調子であおぎ始めた。
「フェンリル狼がどれだけ強大であっても、すでに死んだ神です。現役の、それも多くの人間に認知され、あがめられている神と比べれば、その力の切れ端程度ではかなうはずもありません」
 獣の眼となったキュウがオスタケリオンを見据える。その眼の奥には静かな敵意が宿り、普段の間延びした口調が消えていることからも、仮借かしゃくなさがうかがえる。
「稲荷神『宇迦之御魂神ウカノミタマノカミ』が特別に設しつらえた護符ごふです。死した神の毛先など、たちどころに祓ってつゆと化しましょう」
 キュウがフランチャイズ神社として経営している金毛稲荷神宮こんもういなりじんぐう。その売り上げの納付先はもちろん、稲荷神として日本で最も知られ、多くの人々に親しまれている宇迦之御魂神である。
 結城がクロランのことでキュウの元を訪れたそのすぐ後、キュウは宇迦之御魂神に謁見えっけんを申し出ていた。
 最高級の護符をしたためてもらえるよう、じかに願いたてまつるためだった。
 結果として、最大限の神通力を吹き込んだ護符が与えられた。キュウがそれだけうやうやしく願い出ることも珍しく、宇迦之御魂神も余程の事情があるのだと察してのことだった。
 その護符が、クロランに憑いていたフェンリルの因子のみを排除し、クロラン本来の健常な部分のみを護ったのだった。
「……そんな物で無効化されるとはな。どうやら獣人兵器ソレは最初から欠陥を抱えた失敗作だったらしい」
 オスタケリオンが吐き捨てた言葉に、結城の肩がぴくりと反応した。
「だが、それなりに実験データは得られた。かかったコスト・・・についても取るに足らない程度だ。何ら損失にはなっていない」
 オスタケリオンは実験結果について考察を一人ごちているが、そんな中、キュウは周りの空気が少し変わるのを感じた。
 その気配は結城から放たれていた。オスタケリオンの言葉を聞いている結城は、無表情で、口を半開きにした、締まらない顔をしている。だが、明らかに結城のまとう空気に熱が帯びてきていた。
「その失敗作は君に差し上げよう、 林結之丞はやしゆいのじょうくん。我々としても処分に困るガラクタだ。君が好きに愛玩するといい」
「っ!」
 結城が小さく息を吸うと、周りに放たれていた熱は一気に冷え込んだ。
 普段の結城からは見られない異様さを感じ、キュウはこの後の展開を興味深く見守っていた。
「カメーリアさん。クロランのことをお願いします」
「え? ええ」
 結城は立ち上がると、腕の中にいたクロランをカメーリアに託した。
 カメーリアも結城の落ち着きようを不可思議に思いながら、クロランを代わって抱きかかえた。
 無事にクロランがカメーリアの腕に渡ったことを確認すると、
「よし―――――――――っ!」
 結城は急速に振り返り、オスタケリオン目がけて思いきり突進した。
「てええぇやあああぁ!」
 固めた右拳を振りかぶり、突進の勢いを乗せてオスタケリオンの顔面に叩き込もうとする。
 しかし、拳が当たる一寸前で、オスタケリオンは結城の拳を掴んで止めた。
「何の真似かな、これは?」
「いろいろ考えたけど、やっぱりこうしておいた方がいいって思いました」
 拳の先にあるオスタケリオンの酷薄な眼を、結城は怒りに燃える眼で見返した。
「あなたの顔、一発殴っておいた方がいいって!」
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