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豪宴客船編

火と雷

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「ん~、焼き加減はどうしましょうか~。ウェルダン、ミディアム、レア。結城ゆうきさんはどれがお好みですか~?」
「か……くほ……」
 キュウは腕の中でぐったりしている結城に聞くも、当の結城は精気を限界まで吸われてしまっているので、まともな返事どころか意識すら混濁している。
「これはちょ~っと吸いすぎましたね~。ついついたのしんじゃいました~」
「窮地を救われたことは感謝します、が」
 キュウの横に並んだアテナは、少し恨みがましい目でキュウを見た。
「先程のアレはどういう了見ですか?」
「アレってどれのことですか~?」
たわけたことを! ユウキに接吻せっぷんしたことについてです!」
 アテナは眉を吊り上げ、キュウに怒りをあらわにした。
「あぁ~、ソレのことですか~。この船にいるほぼ全員の精気では~、少~し足りなかったので~、協力してもらっただけですよ~」
 キュウはまだ白目をいている結城を抱き寄せると、真っ青になった横顔にほおずりをした。
「それは偽りではありませんね? まだたばかっているのでは?」
「本当ですよ~。おかげで予定通りの精気が集められました~」
 疑惑の目を向けてくるアテナを、キュウはいつも通りの飄々ひょうひょうとした態度でけむに巻く。
(なぜか魔除けの護符を持っている方が何人もいたんですよね。その方々からもいただければ良かったのですが、おかげで役得にありつけました)
 キュウは再び唇を軽く舐めると、護符を所持していた何者かに密かに感謝した。
「ではでは~……約束の料理ショーを始めましょうか」
 右手の指をパチリと鳴らすと、それが着火の合図であったかのように、キュウの周りに九つの狐火が出現した。
 キュウがどこからか取り出した扇で軽くあおぐ動きをすると、揺らめくだいだい色の火は音もなく上昇していった。遠目で見れば、ゆったりと飛翔する蛍の群れに見えなくもない。
 結界に阻まれ歯噛はがみするクラーケンを囲んだ九つの狐火は、それぞれが違う角度でクラーケンの巨躯きょくを周回し始めた。
 最初はゆっくりと回っていた狐火は、徐々にスピードを加速させていく。
 目で追えるスピードをとうに超えた狐火は、九つの炎の帯となってクラーケンを囲ってしまった。
「グッ!? ガッ!?」
 加速し続ける炎の帯によって、クラーケンは動きを封じられてしまった。
「ここからが本番」
 キュウは右手に持った扇を優美にひるがえす。それと同時に炎はより加速し、橙色の帯は鬼火のようなあおに変わった。
「グガッ!? ギャアアアア!」
 クラーケンの巨躯から急激に水蒸気が立ち昇り、その苦しみを表現するように咆哮ほうこうが上がる。すでに炎の帯が近い部分の肉は焦げ始めている。
「海産物は少し焦げている方が美味しいですよね~」
 焦熱しょうねつに苦悶するクラーケンを、さも愉快そうに眺めるキュウ。その様子は羽虫が燃えるのを楽しむ子どものように、無邪気だがそれ故の残酷さが垣間見える。
「さて、仕上げです」
 キュウは開いた扇を水平に構えると、静かに目を閉じた。
九焦炎ナインプロミネンス――――――龍環トルネード
 かっと目を見開いたキュウが、扇を勢いよく閉じる。
 クラーケンを取り囲んでいた炎の帯は、一気に輪を縮め――――――――――大海の魔物を蒼い炎で包み込んだ。
「ギャアアアアアア!」
 先程とは比較にならない断末魔が海にこだました。
 キュウが作り出した超高熱の狐火は、クラーケンを焼いた端から消し炭に変えて海へと還していく。
「ゴォ……オオォ……」
 ついには悲鳴すら上がらなくなり、その最中も炎に包まれたクラーケンのシルエットは細く削られていった。
「……ここまで、ですね」
 キュウはタイミングを見計らうと、閉じた扇を真一文字に振るった。
 すると猛威を振るっていた炎は、最初から幻だったかのように、あっさりと霧散した。
 後に残ったのは、黒煙を上げながら海面に屹立きつりつする、魚の骨同然となったクラーケンの残骸だけだった。
「ん~、あまり美味しそうじゃありませんね~。これはお魚さんにあげちゃいましょう。結城さんには~、皇帝たちも舌鼓したづつみを打った宮廷料理の数々をご馳走しちゃいますね~」
 キュウは茶目っ気たっぷりにそう言うが、まだ腕の中の結城は半死半生になっている。
「すっごーい! きゅうさまのきゃんぷふぁいやー」
「ふっふっふ~、すごいでしょ~。これで三千年くらい前に宮殿一つ燃やしちゃったこともあるんですよ~」
 特大の狐火に興奮する媛寿えんじゅに、どこまでが冗談か不穏な発言をするキュウ。
 そこへ少し不機嫌そうにしたアテナがやって来て横に並んだ。
「アテナ様もどうでしたか~? ちょ~っと現代風の技名にしてみました~」
「それについては特に述べ立てることはありません。ただ……」
 アテナはキュウに顔を向けず、視線だけをった。まだ不機嫌であることは変わりないが、その目には剣呑さは宿っていない。
「あなたほどの者ならば、あの魔物をもっと早くに始末できたのではありませんか?」
「そ~んなことないですよ~。結城さんにも協力してもらって~、ギリギリいっぱいいっぱいでしたから~」
「……本当に?」
 アテナが静かにそう問うと、キュウの笑みが変化した。それまでのゆるい雰囲気ではなく、氷のような冷気を発する微笑に。
「本当のことを言えば、こんな似非えせクラーケンに手こずったりはしませんでした。この船に乗る人間全員の精気いのちを吸い尽くせば、もっと簡単に」
「ですが、あなたはしなかった。あなたから見れば人間の命など、道を横切るアリほどにも満たないというのに」
「それは心外ですね。瓢虫テントウムシくらいには可愛く思ってますよ」
 口角を吊り上げたキュウの顔は、獲物に対して何の呵責も見せない獣のそれだった。
「それでも、躊躇ためらいはなかったはず。ユウキの身の安全を取るならば、あなたは乗客全員の命を秤にかけるなど、寸毫すんごうも気に病まない」
「買いかぶりですね。私だって稲荷神から神社を一つあずかってる身なんですから、そんな無茶なことするわけ――――」
「選択肢はあったはず。私が到着する前に始末してしまうことも。なぜしなかったのです?」
「……」
 キュウは真顔に戻ると、しばらく宙を見つめ、やがて考えがまとまったのか口を開いた。
「結城さんが言ってたんですよ。『船の乗客を見捨ててしまったら、明日の自分に顔向けできない』って」
「ユウキが?」
「アテナ様の言う通り、私は乗客全員が溺れ死んでも、結城さんだけ連れ帰れたら良いと思っていました。でも結城さんは真逆でしたね。乗客たちを助けるために、あんなクラーケンばけものに挑もうとするなんて。そのために九尾の狐わたしに力を貸してほしいと頼んでくるんですから」
「ユウキらしい。たとえ人の暗部を見ても、ユウキは人を見捨てられなかった」
「くすくすくす。本当に面白い人間ですよね、結城さんは」
 キュウは脱力している結城の頬をいとおしそうに撫でた。
「いつか結城さんの魂に触れて、くすぐって、ちょっと痛くして、小動物のようにいじくり回してあげるのが楽しみです。そのための先行投資ですよ」
「私が付いている間に、そんなことが叶うとでも?」
 アテナの視線がわずかに険しさを帯びる。しかし、キュウはそんなことはどこ吹く風で、
「くすくす。それはそれで楽しみですね。こういうことは簡単にではなく、障害がある方が面白いですから」
 戦女神の威圧を軽く受け流し、心底嬉しそうに含み笑いをするキュウ。
「ゴ……アァ……」
 静まり返っていた大海原で、聞こえてきた低いうめき声に、アテナとキュウはそろって顔を上げた。
 もはや触手は失われ、肉も焦げ落ち、細りきった身体に巨大な魚の頭骨が乗っているだけと成り果てた変異クラーケン。
 キュウの狐火に焼かれ、そんな姿になってなお、驚くべきことに絶命していなかった。
「ア……アアァ……」
 焼けただれたピラニアの頭部の上には、黒髑髏どくろとなったオスタケリオンがまだ残っていた。
 いまにも焼け落ちそうな右手を伸ばし、なおも結城の命を諦めていない姿は、文字通り妄執の形骸しか残っていない、あわれな亡者でしかなかった。
「あの技を受けてまだ息絶えていないとは」
「まがい物とはいえ、伝説の魔物であるのはいなめませんね」
 クラーケンの生命力なのか、またはオスタケリオンの妄執の強さなのか、燃え残りとなってもまだ動く魔物に、アテナとキュウは呆れたように感嘆した。
「WΛ9↑。LΣ4↓SB(どうすんだよ。まだ最後の一発くらいなら船にかましてきそうだぞ)」
「真っ二つにするの、ちょっと、キツい」
 マスクマンではとどめに力が足りず、シロガネも頼鉄らいてつとの戦いのダメージから限界が近い。
 アテナも右手を見るが、雷槍ケラウノスを呼ぶにはさすがに疲弊しすぎた。
(こーなったらしゅりゅうだんたばねて……)
 媛寿が手榴弾と針金を取り出そうと、左袖に手を入れようとした時だった。
「仕方がありません。美味しいところは譲りましょう」
 キュウはまだぐったりしていた結城を抱き寄せると、再び唇を重ねた。今度は一瞬触れる程度に軽く。
「キュウ! またあなたは!」
「はっ! ぼ、僕はどうしてたんだ!? さっきまで真っ赤な池に浮いてたはずなのに!?」
 アテナがキュウに怒りを向けようとした途端、それまで白目を剥いていた結城がいきなり意識を取り戻した。
「ゆうきおきたー!」
「あっ、媛寿、おはよう。よかったー。『次は針の山だ』って声が聞こえてきて怖かったんだよー」
「お目覚めですね~、結城さ~ん」
 意識が戻った結城に、キュウはいつもの間延びした口調で笑いかける。
「あっ、キュウ様。おはようございま――――あっ!」
 キュウの顔を見て気を失う寸前のことを思い出したのか、結城は頬を赤くして口元を押さえた。
「キュウ様、あの、その……」
接吻あれの感想は後にしまして~、立てますか~?」
「あっ、はい。大丈夫です……」
 キュウにうながされ、結城はいそいそと自分の足で立ち上がる。
「ではアテナ様~。最後の仕上げをお願いしますね~」
「っ!」
 結城を立たせた次に、キュウはアテナの肩に軽く手を乗せた。
 その際、アテナは自身に起こった変化に、わずかに面食らった。
「……何をしましたか、キュウ?」
「集めた精気の一部を~、アテナ様が扱える力に変換えて差し上げました~」
 キュウは相変わらず軽い調子で話すが、その内容は聞く者によっては飛び上がって驚くほどの重大なことだった。
「こ、れ、で~、使えますよね~?」
「……」
 あえて全てを言わずに促してくるキュウの態度に、アテナは複雑そうに顔を歪めた。
「感謝はしますが、これで清算が終わったとは考えないことです」
「うっふっふ~。ご随意ずいいに~」
 キュウに背を向けたアテナは、真っ直ぐ結城の元に歩いて行き、
「ユウキ」
 右手をすっと差し出した。
「あの者を海に還しましょう」
「ええ、そうですね。お願いします」
 差し出された右手を、結城はしっかりと握り返す。
 そして二人はタイミングを図る必要もなく、同時にその言葉を口にする。
「ラスティ・ヒュージョン!」
 アテナの身体が金色こんじきの粒子へと変わり、右手を介して結城の全身へと吸い込まれていった。
雷槍ケラウノスを打ち込んで、今度こそ完全に消滅させます。良いですね、ユウキ?』
「分かりました!」
 アテナと融合した結城は、右掌を前に突き出した。
 何もない宙空から、小さく弾ける音を立て、雷の力が徐々に顕現けんげんする。
 神々の王ゼウス以外で、唯一アテナだけがその使用を認められた、全てを破壊する天よりの裁き。
 まばゆい稲妻をきらめかせ、雷槍ケラウノスの力がいま、結城の右手に降臨した。
「これも特別サービスですよ~」
 キュウは左手に持った何枚もの枇杷びわの葉をばらき、それらを扇でひとあおぎした。
 すると葉は意思を吹き込まれたように、一定の間隔で宙に並んでいった。
 クラーケンの頭の上まで続く、枇杷の葉の階段が出来上がった。
「ありがとうございます、キュウ様」
「いってらっしゃ~い」
 キュウに礼を言い、結城は葉の階段を駆け上がる。
 アテナと融合することで強化された結城の脚力は、数秒でクラーケンの頭部より上に到達せしめた。
「……さよなら、オスタケリオンさん」
 最上部の葉を蹴り、空中へとおどり出る結城。
 骨兵スパルトイの名の通り、完全な骨と化したオスタケリオンの姿をとらえると、結城は右手を天高く伸ばした。
 大海の空に、雷光と雷音が轟く。その光は、すぐに槍の形となって結城の手に収まった。
雷槍ケラウノス!」
 結城とアテナの声が重なり、破壊の槍が振り下ろされる。
 ドラゴン・トライアングルの中心で、巨大な落雷が閃いた。
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