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豪宴客船編
幕間 来つ寝
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「ん~……んぐ……ん……あれ?」
ゆっくりと意識を覚醒させた結城は、上体を起こして周囲を見回してみた。
障子を透かして入ってくる月光に似た光は、旅館の和室に似た部屋を淡く照らし出している。
その真ん中で、結城は布団に入って眠っていたらしい。なぜか小綺麗な浴衣まで着せられて。
(どこ、ここ? 確か僕は船に乗って……)
結城はまだボンヤリとしている頭で、意識が途切れる前の記憶を手繰ろうとする。
豪華客船クイーン・アグリッピーナ号への乗船。その中での幾つもの死闘。果てにはクロランと戦わされるという残酷な舞台に上げられて――――
「あっ! クロラン!?」
「うぅ~……ん……」
クロランのことを思い出した結城が名前を口にすると、布団の中で何かがもぞもぞと動いた。
「?」
よく見れば布団が盛り上がっており、それに遅れて気付いた結城はそろりと布団を捲ってみた。
「あ……」
布団の中では、結城の脚を挟んで媛寿とクロランが寝息を立てていた。
そこでようやく結城は全てを思い出した。
キュウとカメーリアの協力で、クロランを解放することに成功し、媛寿とタッグを組んでのオスタケリオンとの決闘。さらには船を沈めようとした怪物クラーケンに、アテナたちとともに戦いを挑み、最後はアテナと融合してクラーケンを完全に葬った、と。
そして雷槍をクラーケンの頭上から落としたところで、結城の記憶は途切れていた。
(あれ? でもなんだか途中でも記憶が曖昧になってる。何があったんだっけ?)
ちょうど雷槍を放つ前のほんの少しの間だが、結城はその間に何があったかを思い出せずに首を傾げていた。
「ようやくお目覚めになりましたね~。待ちくたびれてしまいました~」
「!? この声は」
聞き覚えのある声に、結城は頭を上げて部屋中を見渡した。が、どこにも声の主の姿は確認できず、影すらない。
「キュウ様? あれ? どこに?」
「ここですよ~」
キュウの声は、結城が捲った布団のさらに奥から聞こえていた。
結城が不可解に思っていると、
「コンばんは~」
キュウは結城の脚の間を四つん這いで通ってきた。
「へ?」
キュウの姿を見た結城は目が点になり、見間違いかと目を擦ってみるが、やはり見間違いではない。
結城の布団の中から現れたのは、狐の耳と九本の尾を生やした、幼い少女だった。
「え? キュウ様? え!? 何で!?」
声はキュウのものであり、容姿はキュウをそのまま幼くしたような印象で、確かにキュウだと認識できた。
しかし、あまりに見た目が幼く、結城はキュウの娘かに何かではないかと疑いたくなるほどだった。
それでもなぜか目の前にいる少女がキュウだと理解できてしまうわけだが。
「んふふ~、結城さんは~、やっぱり幼女が好みではないかな~と思いまして~」
「違いますよ!」
眠っている媛寿とクロランを起こさないように、結城は静かに声を荒げた。
「冗談ですよ~、冗談。でもせっかくなら~」
結城をニヤニヤと見つめていたキュウは、見る見るうちに肉体が成長していき、
「もっと面白い反応をしてほしかったですね~」
いつもの結城が知る美女の姿に変身した。
が、なぜか浴衣の帯が緩んでおり、キュウは前を大きく肌蹴させていた。
「ほわっ――――――むぐぅ!」
叫びそうになったのと鼻血が噴出しそうになるのを、結城は寸でのところで口元を押さえて止めた。
「むふふ~、驚いてくれましたか~? で~も~」
浴衣を肌蹴させたキュウは、結城を押し倒して覆い被さってきた。
「これぐらいで驚いてもらっては困りますよ~」
結城を見つめるキュウの目は、獲物を前にした獣の目に変わっていた。
結城は精神的にも本能的にも、最大レベルの危機感を感じていた。
犯られる、と。
小林結城、二十五歳。童貞である。
「こ、ここで!? え、媛寿とクロランが寝てるのに!?」
「あの時約束したじゃありませんか~。私に一晩お付き合いしてくれるって~」
「!」
クラーケンと対峙した際に交わした約束を持ち出され、結城は完全に反論の余地を失った。
「そ、れ、に~」
キュウは結城の耳元に顔を寄せると、
「起きたら起きたで見せてあげればいいじゃないですか~」
そう妖しく囁いた。
「なっ!? それは――――――むひゅっ!」
結城が何か言う前に、尾の一本が結城の顔に押し当てられた。
「んふふ~、結城さ~ん。あんまり暴れると~、本当に二人とも起きちゃいますよ~?」
キュウにそう言われ、結城は抵抗したくてもできなくなってしまった。
そうなったところを、キュウは結城の胸板をさわさわと撫で擦ってくる。
「うぅ……うひゅ……」
「ん~、何だかノリが悪いですね~、結城さん。無理やり襲われちゃってる女の子みたいな反応ですよ~」
「いや、その……あの……」
キュウに指摘されて気恥ずかしくなったのか、結城は右往左往しながら言いよどんだ。
「お……」
「お?」
「お付き合いしてもいないような人とこういうことしちゃうのが、抵抗あるというか……畏れ多いというか……その……」
顔を赤くして話す結城の額に、キュウは自らの額をそっと合わせた。
「じゃあ付き合っちゃいますか~?」
「え!?」
「結城さんなら~、いいですよ~?」
「へ!?」
キュウからの唐突な提案に、結城はまたも目が点になった。
「人と正式にお付き合いするのって私も初めてかもしれませんね~。チュウオウさんはちょっと違いますし~、それ以降も……ええ、やっぱり私も初めてですね~」
「……」
「と、いうわけで~、どうですか~?」
「ど、どうですかって……僕とキュウ様がお付き合いする?」
「は~い」
キュウがあまりにもあっけらかんとしているせいで、結城は頭の中の整理がなかなか追いつかないでいた。
キュウが妖狐であることはとっくに知っており、それについて結城は特に気にするところはない。
耳と尻尾を消して道を行けば、誰もが振り返り、映画出演や雑誌の表紙を飾ってもおかしくないほどの美女。少しからかい癖があるものの、付き合いにくい性格ではない。
おそらく交際を申し込まれれば、大抵の男は二つ返事でOKするだろう。
結城もまた、その例外ではない――――――はずなのだが、
「あ……えっと……」
提案の内容を整理し終わり、キュウの魅力も充分に理解してなお、結城はまだ返事できないでいた。
「む~、正式にお付き合いするという条件でもまだ足りませんか~?」
「いや……その……」
「それともこの姿ではまだ魅力がありませんか~? どこの王侯貴族もこの姿でメロメロにできましたのに~」
「そ、そうじゃなくて……キュウ様は充分に……」
「そんなにアテナ様が良いですか~?」
「え……」
キュウの一言で、結城の顔に上っていた血がさっと引いて青くなった。
「ど、どうしてそのことを!?」
「見てれば分かりますよ~。人を見てきたのは千年二千年じゃないですよ~?」
真っ青になっていた結城の顔は、今度は別の気恥ずかしさで再び赤くなってきた。隠していたことを言い当てられてしまった時の焦りで。
「そうですね~……少々癪ですけど~、アテナ様の姿になってもいいですよ~?」
「なっ!?」
「それではさっそく――――――」
「ちょっ!」
思わず叫びそうになった結城は、間一髪で口を噤むことができた。
「ちょっと……待ってください。確かに僕はアテナ様には憧れを持ってますけど……それはちょっと勘弁してください」
「ん~? 結城さんはアテナ様とそういうことしたいんじゃないんですか~?」
「アテナ様は、その……そういうことは絶対にしないだろうし……それにそもそも僕じゃ釣り合いが取れなさすぎですよ。だから……そのへんはいいんです」
結城の告白を聞き、キュウは少し困ったような顔をした。
「それって神様に純潔を捧げるって意味ですか~? いまどき流行りませんよ~? 人の中にだって童貞や処女を早く捨てたいって方がいるじゃないですか~」
「僕もどうなんだろって思うことありますし、うまく説明できませんけど……いまはそれでいいんです」
「何かのきっかけでアテナ様が離れていってしまっても?」
キュウの目が鋭く細められた。その目には、キュウが時折見せる冷たさが宿っている。
「私ならそんなことはありませんよ? 結城さんが死ぬまでずっと一緒にいてあげます。それどころか何でも思いのままですよ? 極上の贅沢も、至上の快楽も、何でしたら恨みある相手の命さえ取ってきてあげましょう。どんなことも結城さんの望むまま。いかがですか?」
キュウの妖しく光る目が、その言葉の全ての実現を約束すると告げていた。人間の欲望を愛撫し、心の隙間に蟲のように入り込んでくる、誰もが魂を鷲掴まれ、虜にされるであろう誘い。
どれだけ高潔で頑なな精神の持ち主でも、その目に魅了されれば成す術なく骨抜きにされていた。
が、
「そ……それでも……ぼ、僕は……アテナ様に~……」
結城は必死の涙を流しながら言葉を搾り出した。
これまでの人生で、結城はこんなにも浅ましい欲望を擽られたことはない。
その衝動に打ち克つべく抵抗することも辛かったが、同じくらいキュウの誘いを断るのも苦しかった。
小林結城、二十五歳。正面から女性に交際を申し込まれたことは、一度たりともない。
「うぐ……ひぐ……」
声を押し殺して泣く結城の顔を、キュウはしばらく見つめていたが、
「ふぅ~……分かりました」
何かに納得したのか、結城に覆い被さっていたところから馬乗りの状態まで戻った。
「今回はここまでにしておきましょう。結城さんの唇を前払いでもらったことですし、お釣りはここまでです」
「唇……あっ!」
そう言われて結城は、記憶が曖昧になっている部分を思い出し、顔が茹で蛸よりも赤くなった。キュウに粘りつくようなキスをされたことを。
「でもですね~、こうなると私も本気で勝負したくなってきましたよ~」
いつの間にか、キュウの口調と雰囲気はいつもの感じに戻っていた。そして結城を悪戯っぽい目で見下ろした。
「アテナ様じゃなくて私に気が向くように~、これからどんどんアピールしていきますよ~」
「え!? え!?」
「その時になったら~、覚悟してくださいね、結城さ~ん」
舌をぺろりと出し、ウインクを決めるキュウ。まだ事態を呑み込みきれていない結城は、それを不思議そうな顔で見つめていた。
「あっ、それからですね~。アレのことは先延ばしにさせていただきますけど~」
「わっ!」
いきなりキュウに抱きつかれ、結城は驚きの声を上げた。
「今夜一晩はお付き合いしてもらいますよ~。こ、の、ま、ま~」
「むぐぅ……ふぐぅ……」
キュウの豊満な胸に顔が埋まり、結城は息苦しさから身体をばたつかせようとする。しかし、九本の尾も結城に巻きつき、ほとんど身動きが取れなくなってしまった。
「ではおやすみなさ~い」
目を閉じたキュウからは、すぐに幸せそうな寝息が聞こえてきた。
結城は結城で、苦しいような、恥ずかしいような、それらがない交ぜになった複雑な気持ちのまま、その夜は更けていった。
ゆっくりと意識を覚醒させた結城は、上体を起こして周囲を見回してみた。
障子を透かして入ってくる月光に似た光は、旅館の和室に似た部屋を淡く照らし出している。
その真ん中で、結城は布団に入って眠っていたらしい。なぜか小綺麗な浴衣まで着せられて。
(どこ、ここ? 確か僕は船に乗って……)
結城はまだボンヤリとしている頭で、意識が途切れる前の記憶を手繰ろうとする。
豪華客船クイーン・アグリッピーナ号への乗船。その中での幾つもの死闘。果てにはクロランと戦わされるという残酷な舞台に上げられて――――
「あっ! クロラン!?」
「うぅ~……ん……」
クロランのことを思い出した結城が名前を口にすると、布団の中で何かがもぞもぞと動いた。
「?」
よく見れば布団が盛り上がっており、それに遅れて気付いた結城はそろりと布団を捲ってみた。
「あ……」
布団の中では、結城の脚を挟んで媛寿とクロランが寝息を立てていた。
そこでようやく結城は全てを思い出した。
キュウとカメーリアの協力で、クロランを解放することに成功し、媛寿とタッグを組んでのオスタケリオンとの決闘。さらには船を沈めようとした怪物クラーケンに、アテナたちとともに戦いを挑み、最後はアテナと融合してクラーケンを完全に葬った、と。
そして雷槍をクラーケンの頭上から落としたところで、結城の記憶は途切れていた。
(あれ? でもなんだか途中でも記憶が曖昧になってる。何があったんだっけ?)
ちょうど雷槍を放つ前のほんの少しの間だが、結城はその間に何があったかを思い出せずに首を傾げていた。
「ようやくお目覚めになりましたね~。待ちくたびれてしまいました~」
「!? この声は」
聞き覚えのある声に、結城は頭を上げて部屋中を見渡した。が、どこにも声の主の姿は確認できず、影すらない。
「キュウ様? あれ? どこに?」
「ここですよ~」
キュウの声は、結城が捲った布団のさらに奥から聞こえていた。
結城が不可解に思っていると、
「コンばんは~」
キュウは結城の脚の間を四つん這いで通ってきた。
「へ?」
キュウの姿を見た結城は目が点になり、見間違いかと目を擦ってみるが、やはり見間違いではない。
結城の布団の中から現れたのは、狐の耳と九本の尾を生やした、幼い少女だった。
「え? キュウ様? え!? 何で!?」
声はキュウのものであり、容姿はキュウをそのまま幼くしたような印象で、確かにキュウだと認識できた。
しかし、あまりに見た目が幼く、結城はキュウの娘かに何かではないかと疑いたくなるほどだった。
それでもなぜか目の前にいる少女がキュウだと理解できてしまうわけだが。
「んふふ~、結城さんは~、やっぱり幼女が好みではないかな~と思いまして~」
「違いますよ!」
眠っている媛寿とクロランを起こさないように、結城は静かに声を荒げた。
「冗談ですよ~、冗談。でもせっかくなら~」
結城をニヤニヤと見つめていたキュウは、見る見るうちに肉体が成長していき、
「もっと面白い反応をしてほしかったですね~」
いつもの結城が知る美女の姿に変身した。
が、なぜか浴衣の帯が緩んでおり、キュウは前を大きく肌蹴させていた。
「ほわっ――――――むぐぅ!」
叫びそうになったのと鼻血が噴出しそうになるのを、結城は寸でのところで口元を押さえて止めた。
「むふふ~、驚いてくれましたか~? で~も~」
浴衣を肌蹴させたキュウは、結城を押し倒して覆い被さってきた。
「これぐらいで驚いてもらっては困りますよ~」
結城を見つめるキュウの目は、獲物を前にした獣の目に変わっていた。
結城は精神的にも本能的にも、最大レベルの危機感を感じていた。
犯られる、と。
小林結城、二十五歳。童貞である。
「こ、ここで!? え、媛寿とクロランが寝てるのに!?」
「あの時約束したじゃありませんか~。私に一晩お付き合いしてくれるって~」
「!」
クラーケンと対峙した際に交わした約束を持ち出され、結城は完全に反論の余地を失った。
「そ、れ、に~」
キュウは結城の耳元に顔を寄せると、
「起きたら起きたで見せてあげればいいじゃないですか~」
そう妖しく囁いた。
「なっ!? それは――――――むひゅっ!」
結城が何か言う前に、尾の一本が結城の顔に押し当てられた。
「んふふ~、結城さ~ん。あんまり暴れると~、本当に二人とも起きちゃいますよ~?」
キュウにそう言われ、結城は抵抗したくてもできなくなってしまった。
そうなったところを、キュウは結城の胸板をさわさわと撫で擦ってくる。
「うぅ……うひゅ……」
「ん~、何だかノリが悪いですね~、結城さん。無理やり襲われちゃってる女の子みたいな反応ですよ~」
「いや、その……あの……」
キュウに指摘されて気恥ずかしくなったのか、結城は右往左往しながら言いよどんだ。
「お……」
「お?」
「お付き合いしてもいないような人とこういうことしちゃうのが、抵抗あるというか……畏れ多いというか……その……」
顔を赤くして話す結城の額に、キュウは自らの額をそっと合わせた。
「じゃあ付き合っちゃいますか~?」
「え!?」
「結城さんなら~、いいですよ~?」
「へ!?」
キュウからの唐突な提案に、結城はまたも目が点になった。
「人と正式にお付き合いするのって私も初めてかもしれませんね~。チュウオウさんはちょっと違いますし~、それ以降も……ええ、やっぱり私も初めてですね~」
「……」
「と、いうわけで~、どうですか~?」
「ど、どうですかって……僕とキュウ様がお付き合いする?」
「は~い」
キュウがあまりにもあっけらかんとしているせいで、結城は頭の中の整理がなかなか追いつかないでいた。
キュウが妖狐であることはとっくに知っており、それについて結城は特に気にするところはない。
耳と尻尾を消して道を行けば、誰もが振り返り、映画出演や雑誌の表紙を飾ってもおかしくないほどの美女。少しからかい癖があるものの、付き合いにくい性格ではない。
おそらく交際を申し込まれれば、大抵の男は二つ返事でOKするだろう。
結城もまた、その例外ではない――――――はずなのだが、
「あ……えっと……」
提案の内容を整理し終わり、キュウの魅力も充分に理解してなお、結城はまだ返事できないでいた。
「む~、正式にお付き合いするという条件でもまだ足りませんか~?」
「いや……その……」
「それともこの姿ではまだ魅力がありませんか~? どこの王侯貴族もこの姿でメロメロにできましたのに~」
「そ、そうじゃなくて……キュウ様は充分に……」
「そんなにアテナ様が良いですか~?」
「え……」
キュウの一言で、結城の顔に上っていた血がさっと引いて青くなった。
「ど、どうしてそのことを!?」
「見てれば分かりますよ~。人を見てきたのは千年二千年じゃないですよ~?」
真っ青になっていた結城の顔は、今度は別の気恥ずかしさで再び赤くなってきた。隠していたことを言い当てられてしまった時の焦りで。
「そうですね~……少々癪ですけど~、アテナ様の姿になってもいいですよ~?」
「なっ!?」
「それではさっそく――――――」
「ちょっ!」
思わず叫びそうになった結城は、間一髪で口を噤むことができた。
「ちょっと……待ってください。確かに僕はアテナ様には憧れを持ってますけど……それはちょっと勘弁してください」
「ん~? 結城さんはアテナ様とそういうことしたいんじゃないんですか~?」
「アテナ様は、その……そういうことは絶対にしないだろうし……それにそもそも僕じゃ釣り合いが取れなさすぎですよ。だから……そのへんはいいんです」
結城の告白を聞き、キュウは少し困ったような顔をした。
「それって神様に純潔を捧げるって意味ですか~? いまどき流行りませんよ~? 人の中にだって童貞や処女を早く捨てたいって方がいるじゃないですか~」
「僕もどうなんだろって思うことありますし、うまく説明できませんけど……いまはそれでいいんです」
「何かのきっかけでアテナ様が離れていってしまっても?」
キュウの目が鋭く細められた。その目には、キュウが時折見せる冷たさが宿っている。
「私ならそんなことはありませんよ? 結城さんが死ぬまでずっと一緒にいてあげます。それどころか何でも思いのままですよ? 極上の贅沢も、至上の快楽も、何でしたら恨みある相手の命さえ取ってきてあげましょう。どんなことも結城さんの望むまま。いかがですか?」
キュウの妖しく光る目が、その言葉の全ての実現を約束すると告げていた。人間の欲望を愛撫し、心の隙間に蟲のように入り込んでくる、誰もが魂を鷲掴まれ、虜にされるであろう誘い。
どれだけ高潔で頑なな精神の持ち主でも、その目に魅了されれば成す術なく骨抜きにされていた。
が、
「そ……それでも……ぼ、僕は……アテナ様に~……」
結城は必死の涙を流しながら言葉を搾り出した。
これまでの人生で、結城はこんなにも浅ましい欲望を擽られたことはない。
その衝動に打ち克つべく抵抗することも辛かったが、同じくらいキュウの誘いを断るのも苦しかった。
小林結城、二十五歳。正面から女性に交際を申し込まれたことは、一度たりともない。
「うぐ……ひぐ……」
声を押し殺して泣く結城の顔を、キュウはしばらく見つめていたが、
「ふぅ~……分かりました」
何かに納得したのか、結城に覆い被さっていたところから馬乗りの状態まで戻った。
「今回はここまでにしておきましょう。結城さんの唇を前払いでもらったことですし、お釣りはここまでです」
「唇……あっ!」
そう言われて結城は、記憶が曖昧になっている部分を思い出し、顔が茹で蛸よりも赤くなった。キュウに粘りつくようなキスをされたことを。
「でもですね~、こうなると私も本気で勝負したくなってきましたよ~」
いつの間にか、キュウの口調と雰囲気はいつもの感じに戻っていた。そして結城を悪戯っぽい目で見下ろした。
「アテナ様じゃなくて私に気が向くように~、これからどんどんアピールしていきますよ~」
「え!? え!?」
「その時になったら~、覚悟してくださいね、結城さ~ん」
舌をぺろりと出し、ウインクを決めるキュウ。まだ事態を呑み込みきれていない結城は、それを不思議そうな顔で見つめていた。
「あっ、それからですね~。アレのことは先延ばしにさせていただきますけど~」
「わっ!」
いきなりキュウに抱きつかれ、結城は驚きの声を上げた。
「今夜一晩はお付き合いしてもらいますよ~。こ、の、ま、ま~」
「むぐぅ……ふぐぅ……」
キュウの豊満な胸に顔が埋まり、結城は息苦しさから身体をばたつかせようとする。しかし、九本の尾も結城に巻きつき、ほとんど身動きが取れなくなってしまった。
「ではおやすみなさ~い」
目を閉じたキュウからは、すぐに幸せそうな寝息が聞こえてきた。
結城は結城で、苦しいような、恥ずかしいような、それらがない交ぜになった複雑な気持ちのまま、その夜は更けていった。
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