上 下
316 / 377
竜の恩讐編

凶撃……

しおりを挟む
「ゆうき! だいじょうぶ!?」
媛寿えんじゅ!」
 千春ちはる掛け矢ハンマーでの一撃を見舞った媛寿は、一旦地面を蹴ると、結城ゆうきの前に着地して構え直した。
 そして千春を警戒しつつ、後ろを振り返り、
「っ!」
 右腿を斬られ血を流している結城を見た媛寿は、怒り心頭となって千春をにらみつけた。
「よっくもゆうきを――――――!?」
 が、千春を正面から睨んだ媛寿は、何かに気付いて驚愕し、言葉を詰まらせた。
「……ゆうき、こいつはえんじゅにまかせて。はやくいって」
「媛寿?」
 結城も媛寿の様子が変わったことに気付いた。
 普段の媛寿なら、頭に血が上ればどんな相手であろうと、あらゆる手段を使って叩きのめしにかかるところ。
 しかし、媛寿は千春の姿を確認した途端、なぜか冷静になったようだった。
 より正確に言えば、とてつもない強敵を前に、怒りだけで向かって行ってはいけないと、自身を抑えたような感じだった。
「ゆうき! はやく!」
「わ、分かった。ラナンさん、こっちに!」
 右手で痛む脚を押さえつつ、結城は沈黙したままのラナンの手を取って歩き出す。
 まだ筋肉を完全に断ち切られてはいなかったので、何とか歩けるものの、とても走って逃げられる状態ではない。
 それでもよたよたと去っていく結城を見届けると、媛寿は千春に再び一撃を加えるべく、掛け矢を虫取り網のように構えた。
「久しぶりね。坂本龍馬と一緒にいた座敷童子ざしきわらし
 にやりと口元をゆがめて笑いかける千春。
「おまえ、しんせんぐみにいた……」
 歯噛はがみしながら目を鋭く細め、媛寿はより強く千春を睨みつけた。

「くっ……うぅ……」
 脚の痛みに耐えながら、結城は少しでもラナンを遠くに逃がそうと歩き続けた。
 出血が響いてきているのか、身体が重く、視界も少しかすんできている。
 それでも、媛寿をはじめ、皆が作ってくれた時間を精一杯使おうと、結城もまた必死の思いでラナンを手を引いて歩く。
(こ、このままじゃ捕まってしまうかもしれない……何とかラナンさんだけでも……)
 ラナンを安全な場所まで連れて行くことは不可能でも、この場を脱出させられる手段はないものかと、結城は動きながら周りを探る。
(え? ここは……)
 辺りを見回した結城は、その場所の意外さに一瞬痛みを忘れた。
 都会の喧騒の中にありながら、忘れ去られたように静かな土地。
 ビル郡の陰に入り、日中でも陽が届かず、薄暗い雰囲気。
 もはや誰も使わない資材やドラム缶が、古びたコンクリートの地面に置き去りにされている。
 そのさびしい空き地に、結城はほんの少し前に訪れたことがあった。
 その時に供えた花がまだ、空き地の真ん中で風に吹きさらされている。
(あっ、そうだ!)
「ラナンさん!」
「はい?」
「泳げる?」
 感傷にひたりそうだった結城は、その空き地が川べりにあったと思い出し、ある方法を思いついた。
「あの川を泳いで対岸に渡って! それで道路に出たら何でもいいから自動車くるまに乗せてもらって! それで目的地まで!」
「で、でも小林さんが―――」
「僕はこの脚じゃもう泳げないし、このまま一緒にいても捕まっちゃうだけだ。最後まで一緒にいられなくて申し訳ないけど、ここからはラナンさんだけで逃げて。もし相手が追ってきたら、僕がここで食い止めるから」
 結城は置き去りにされた資材に目をやった。古くなっているが、角材や通行止めのバーがあるので、いざとなればそれらを武器にできるだろう。
「ラナンさん、早く! さっきの人は絶対に危ない! もし追いつかれたら」
「は、はい!」
 結城にうながされ、ラナンは空き地の横を通る川へ走り出した。
 だが、その走り去る背中から、何か光る物が落ちるのを結城は見ていた。
(何だ?)
 目をらした結城は、それが銀色の小さなペンダントだとわかった。
「ラナンさん、コレ落とし――――――」
 落とした物が大切な物であってはいけないと、結城はラナンに声をかけ、そのペンダントを拾おうとした。
 しかし、地面に落ちた衝撃で開いたであろうペンダントのふた、その中身を見た結城の思考は止まってしまった。

蜻蛉とんぼの構えを取っておきながら、打ち込んでこないの?」
「……」
 掛け矢ハンマーを右側に構えた媛寿は、千春と向き合ったまま動こうとしなかった。
 結城たちはとっくに逃げおおせているが、媛寿は仕掛けることも、退くこともなく、その状態のままでいる。
「まっ、魂胆こんたんわかってるけどね。あたしとまともに闘っても勝てないし、ここで退いたらあたしは二人を追う。だから時間稼ぎするしかないって」
「……」
 全てお見通しとばかりに語る千春を、媛寿はできる限り反応せずに睨み続ける。
 千春の言ったことは寸分たがわず当たっており、媛寿にできるのは無言の虚勢を張って千春をこの場に留めておくことだけだった。
 まともに闘えば媛寿は負ける。それは百五十年以上前にすでに承知していた。
「そういうとこ、変わってないわね。坂本龍馬や桂小五郎を守ってた時から」
「ゆうきのことだって、えんじゅはぜったいにまもる!」
「守る? ぷっ……くく……くはっ―――あはははは!」
 ようやく媛寿の口から出た言葉を聞いた千春は、左手で腹を抱えて笑い出した。
「なにがおかしいんだ!」
 千春の態度が気にさわった媛寿は怒号を発する。
「はは、は―――これが笑わずにいられますか。随分と甘くなったのね。幕末の頃のあなたなら、こんな間抜けた失態なんかなかったはずなのに」
「?」
 千春がなぜ嘲笑わらったのか以上に、その後の言葉が媛寿には理解できなかった。この場で一番の脅威は、眼前にいる千春であるはずなのに。
「あの小林結城おとこを守るというなら、あたしにかかずらわっているのはとんだ見当違いよ」

 ペンダントの中に収められていた写真の女性、いや、少女に、結城は見覚えがあった。
 鮮やかな赤いドレスを着込み、細かな装飾が施された椅子にしとやかに座るプラチナブロンドの髪の少女。
 年齢こそ違うが、その姿を、結城は見間違えるはずはなかった。
「――――――――――ピオニーアさん」
「やっぱり、憶えてたのね」
 ペンダントを拾おうとかがんでいた結城の頭上から、氷よりも冷たい声が降ってきた。
 その声はラナンのものと判ったが、結城はラナンがもう川の方へ走っていったものとばかり思っていた。
 それがなぜ自分のすぐそばにいるのか。
 確かめようと立ち上がった時、結城の胸に鋭く硬い何かが入ってきた。
 痛みは感じない。むしろ、肉体が感じ取れる痛みを超えてしまったから、脳が痛みを遮断してしまったのだ。
 結城が視線を下に向けると、結城の胸に短剣が柄の部分まで入っていた。
 そして、その短剣を握っているのは、結城が必死で守ろうとしたラナン・キュラス本人だった。
 いつの間にかくもり始めていた空で、稲光いなびかりが雨の前兆をげていた。
しおりを挟む

処理中です...