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竜の恩讐編

頼るもの その2

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 結城ゆうき金毛稲荷神宮こんもういなりじんぐうの客間に運び込まれ、かれた布団の上に仰向けに寝かされていた。
 肌蹴はだけられた胸元、ラナン・キュラスに刺された傷に、キュウが神妙な面持ちで右掌をかざしていた。
 手は淡い光を発し、その下にある結城の傷は、わずかではあるがふさがっていっている。
(もう少し……もう少し……)
 マスクマン、シロガネ、千夏ちなつ、そして抜けがらのようになった媛寿えんじゅが見守る中、結城の治療は続けられる。
 しかし、キュウの妖力は本来、傷を開いたり悪化させたりすることが得意な反面、治癒させるという方面には向いていない。
 以前、カメーリアが作った回復薬は、真逆の性質にあるキュウの妖力を、カメーリアの持つ魔法技術で完全反転させることでかなった代物だった。
 ゆえに、キュウは直接妖力を使っての回復よりも、結城自身の治癒力を高める間接的な処置を行っていた。
 人間の認識を偏向する妖力、端的に言えば、『人をかす力』を全開にし、結城の細胞に干渉して肉体の自己治癒力を高水準に引き上げる。
 言うなれば、細胞を勘違いさせて治癒力を高める、強力な思い込みプラシーボ効果を与えていた。
 その甲斐かいあって、結城の傷は表皮、筋肉、内臓、血管、神経に至るまで、同時並行で元の状態へ戻ろうとしていた。
(出血自体はそれほど多くない……いえ、むしろ少なすぎる!? わざと急所にならないところを狙った!?)
 治療しながら、キュウは傷の違和感に気付き始めていた。
 胸を刺すという凶行に及んでいながら、相手は結城が致命傷を負わないよう、的確に急所を避けていた。
 そもそも本当に命を奪うつもりで一突きにしたならば、金毛稲荷神宮ここに運ばれてきて、治療が間に合うことがそもそもおかしいのだ。
 まだ媛寿たちから事情は聞けていない―――媛寿自身は話ができる状態ではない―――が、キュウは結城たちが、いや、結城が恐ろしいものに狙われていることを予見していた。
 そして、こういう場合、からんでくるものの正体も、キュウはそれとなく感じていた。
 人外の存在など及びもつかないほど厄介で禍々まがまがしい、人間の心の裏側に潜む負の感情だと。

「雨がみませんわね」
 『喫茶・砂の魔女』の店内から窓の外を見つめ、店主カメーリアはぽつりとつぶやいた。
 天気予報ではこれだけの雨が降るとは言われておらず、予報計―――カメーリアが百年ほど前に作った五割の確率で天気を当てる魔法具―――でも降るとは出ていなかった。
 その日は喫茶店への客も多くなく、裏稼業のアポイントも特に入っていないので、
(この雨では客足も遠のきそうですし、早めにお店を閉めてしまいましょうか)
 カメーリアは退屈さからそんなことを考える始末だった。
「カメーリアさん、洗濯物の片付け終わった」
 雨音以外は何も聞こえない店内に、店の奥から出てきたクロランがそうしらせてきた。
「ご苦労様です、クロラン。けれど雨が降ったとはいえ、そんなに慌てなくとも、わたくしも手伝いましたのに」
 カメーリアの申し出に、クロランは一瞬肩を強張こわばらせた。
「ク、クロランお洗濯するのも片付けするのも好きだし! カ、カメーリアさんのトコでお世話になってるし! これぐらい当然!」
「そうですか? 大丈夫ですか?」
「だいじょーぶ! あっ、そうだ! 切れてたブルーマウンテンの袋持ってこよ~!」
 早めに話題を切り上げて、クロランは店の奥の商品倉庫に小走りで向かっていった。
 クロランが引っ込んでいった通路を、カメーリアはカウンターに頬杖をついてぼんやりと見つめる。
 カメーリアは知っていた。
 クロランが最近、率先して洗濯物をしているのは、自室のベッドシーツをまぎれ込ませて洗っていることを。そして最近は、以前にも増して夜遅くまで、結城ゆうき媛寿えんじゅの名前を呼びながらのあえぎ声が聞こえていることを。
 獣人兵器としての呪縛をくために使用した、カメーリア謹製の媚薬が抜け切るまでは、結城たちの元へ帰すのはある意味で危険と考えていたカメーリアだが、
(もう媚薬びやくの効果は抜けてきてもよいはずなのですが……獣人では効果の持続時間が違っていたのでしょうか)
 クロランの様子を見ていると、それはまだまだ先の話になりそうだった。
 備品を確認したら、いよいよ早めの店閉まいをしようかと立ち上がったカメーリアの耳に、黒電話のけたたましいベルが届いた。
 電源さえつないでおけば電話線を必要としない―――逆に言えばそれ以上は何もない魔法具―――黒電話の受話器を取り、カメーリアは顔の横に持っていった。
「お待たせしました。『喫茶・砂の魔女』ですわ」
『カメーリア、すぐにこちらに来れますか?』
 受話器からすぐに聞こえてきたのは、日本に来てから旧知の仲である大妖狐、キュウの声だった。
「キュウ? いかがしました?」
 カメーリアとキュウはそれなりにやり取りする間柄ではあったが、普通に電話で連絡を入れてくるのは非常に珍しく、カメーリアは少し違和感を感じた。いつもはもっとった演出をしてくるはずだった。
「単刀直入に伝えます。結城さんが――――――」
 受話器の向こうのキュウから伝えられたことに対し、カメーリアはしばらく返事をすることができなかった。
「……何かの冗談ですの?」
「こちらも逼迫ひっぱくしています。そんな余裕はありません」
 よく聞けば、キュウはいつもの間延びした口調をしていない。カメーリアはそれでキュウが、もとい結城が本当に緊迫した状況にあるとわかったが、
「そうだとしても、ただの傷であるならあなただけでも事足ことたりるのでは?」
「ただの傷ではありませんでした。ですからあなたにてもらいたいんです」
 キュウの妖力が治癒に向かないとしても、多少の傷病なら問題ないことを、カメーリアも知っている。
 そのキュウがこうして頼ってきたというなら、大妖狐をおしても手に負えない何かがあったということだ。
「分かりましたわ。すぐに……」
「? どうしました?」
「いえ、すぐに向かいますわ」
 あまり時間がない中、受話器を置いたカメーリアは悩むように眉根まゆねを寄せた。
「カメーリアさん、ブルーマウンテンの袋持って来たよ」
 ちょうどその時、コーヒー豆の袋を抱えたクロランが戻ってきた。
 クロランの声を聞き、カメーリアの表情はわずかに険しくなった。
 今しがたキュウから伝え聞いたことを、クロランに話してしまうべきか。
 カメーリアはその決断を迫られていた。
「カメーリアさん? どうしたの?」
 沈黙しているカメーリアの顔を、クロランが横からのぞき込んでくる。
 その無垢むくな獣人の少女が視界に入ると、カメーリアはさらに胸をめ付けられた気がした。
 結城が何者かに刺された事実を、クロランに伝えてしまってよいものか。
 あるいは伝えなかった場合、後でどうなってしまうのか。
 一刻を争う状況において、思考を巡らせたカメーリアは、少し震える唇を開いた。
「クロラン、実は――――――」
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