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竜の恩讐編

容体

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「これは……」
 金毛稲荷神宮こんもういなりじんぐうの客間に通されたカメーリアは、そこに寝かされている結城ゆうきの容体を見て目を見開いた。
「えぐっ……ひっぐ……」
 その後ろでは、まだ目に涙をいっぱいに浮かべているクロランが、しゃくり上げながらカメーリアの道具鞄どうぐかばんを抱えている。
 キュウからの電話を受けた後、カメーリアは結城が怪我をしたことだけをクロランに話した。
 結城を心配したクロランは大泣きしたが、それでもカメーリアが指示した必要な道具を用意し、鞄に詰めることはできた。
 カメーリアは緊急用に作っておいた空飛ぶほうき―――一度飛んで降りたらただの箒に戻る―――を使って雨天を飛び、金毛稲荷神宮まで最速でやって来た。
 取り乱す可能性もあったのでクロランを連れてくるか迷ったが、何も分からないままにしておくと余計に不安がると思ったので、助手として一緒に連れてくることにした。
 そのようなわけであるが、寝込む結城を目の当たりにしては、やはりクロランにとって衝撃は大きかった。まだ声を上げて泣かないだけ、結城に気をつかって抑えているようではある。
 しかし、ある意味ではクロラン以上に、カメーリアは結城の状態に戦慄していた。
 キュウの妖力によって、結城が刺された傷は完全にふさがっている。
 出血までは戻せなかったにしても、それだけで結城の容体はまだ安定している――――――――――はずだった。
 そう判断できなかったのは、結城が刺されたであろう部分からひろがっている、黒いあざがあったからだ。
(間違いありませんわ……壊死えししている……)
 結城の胸元から八方に拡がりを見せる黒い痣。それは魔法薬を作る上で基本的な医術もおさめているカメーリアの目をおして、細胞が局所的に死滅していた。
(けれど……それならなぜ!?)
 結城に現れている痣が壊死の症状と見立てたカメーリアだが、それならなおのこと、納得できないことがあった。
「……キュウ」
 カメーリアはささやく程度の声でキュウを呼んだ。
「小林くんは何をされましたの?」
「……分かりません」
 キュウもまた、囁く程度の声でカメーリアに答える。
「分からない?」
「傷を塞ぐまではできました。けれど……」
 キュウは沈鬱ちんうつな目を結城の体に向けた。
これは治せませんでした」
 キュウの表情と言葉には、少なくない悔しさがにじんでいた。
(呪いのたぐいでは……なかったのですね)
 カメーリアは改めて、結城の体の痣を見た。
 もしも細胞の死滅が呪いによってもたらされたなら、キュウが何もできなかったはずはなかった。
 キュウの妖力であれば、呪いそのものを解くことはできなくとも、別の呪いに置換、もしくは対消滅する呪いをかけて少しずつ緩和していく程度は簡単にできた。
 それができなかったということは、結城の身に起きているのは呪術的な原因ではなく、物理的、傷病的な原因があるという証左だった。
(しかし……)
 カメーリアが納得できなかったことは一つ、
(ならば小林くんは……生きているはずがない!)
 結城の状態は、とても生きていられるはずがないほどに悪化していた。
 通常であれば、とうに命を落としている。
 そのはずが、まだ生きている。
 その事実が、カメーリアを震えさせた。
(それでも、このままでは……)
「クロラン、道具をこちらに」
「ぐずっ……ふぁいはい……」
 まだ結城が生きているなら、何もしないわけにはいかない。
 クロランから道具鞄を受け取ったカメーリアは、最善を尽くすべく準備を始めた。

 金毛稲荷神宮の拝殿の前に、媛寿えんじゅ、マスクマン、シロガネはそれぞれ、少し距離を取って座っていた。
 カメーリアが診察している間、部屋を空けるよう言われ、誰が言うわけでもなくそこに来たが、三人の誰も言葉を発さない。
 聞こえてくるのは未だ降り続く雨音と、拝殿の屋根を伝い落ちるしずくの音だけだった。
 媛寿はなかば引きずられるように連れてこられると、拝殿の階段に座ったままうつむいている。
 マスクマンは拝殿の欄干らんかんに両腕を乗せて雨を見ているが、見ているというよりはにらむような雰囲気を持っていた。
 シロガネは拝殿の廊下で両手を前に組んでたたずんでいるが、無表情ではあっても暗く沈んだ気持ちが見て取れた。
 客間を出てから拝殿に行き着き、一体どれだけの時間がったかは分からない。が、
「…………EΔ(…………媛寿)」
 最初に口を開いたのはマスクマンだった。
「WΞ2→、SΦ1→(何があったのか、そろそろ話せ)」
 マスクマンは静かにそう言うが、そこにはわずかな怒気が含まれていた。
 そのことに気付いたシロガネは、目線だけをマスクマンに向けた。
「SΘ6→YK? Bξ9↓HT(結城があんなことになった理由を、お前は知ってるんじゃないのか? でなきゃお前はここにいないだろ)」
 マスクマンもシロガネも、媛寿の様子がおかしいことに気付いていた。
 結城が何者かに傷付けられたなら、媛寿は確実に怒り狂い、その相手に対して復讐を目論もくむはずだった。たとえ一時は落ち込んだとしても。
 しかし、媛寿からは怒りどころか覇気はきすら感じられない。感情を隠している様子もない。
 隠しているなら別の何かだった。
「YΩ2←? N£1↑TR?(聞こえてないわけじゃないよな? 何も言わないってのは図星なのか?)」
 そう問い詰めながら、マスクマンは媛寿の後ろに移動した。
 シロガネも動こうとしたが、踏み出そうとした足を止めて元に戻した。
「…………………………いえない」
 しばらく無言のまま重い空気が流れていたが、ようやく口を開いた媛寿はそれだけを言った。
「A‡……W⊿?(言えない……だと?)」
 それ以上、媛寿は答えず、再び雨音だけが響いていたが、空気はより張り詰めつつあった。
「KИ→―――(ふざけんじゃ―――)」
「マスクマン!」
 マスクマンが媛寿に掴みかかろうとし、シロガネがそれを止めに入ろうとしたその時、
 境内けいだいに雷が落ちてきた。
 轟音と強烈な光を受け、三人は動きを止め、落雷のあった場所に目を向けた。
 電熱によって起こった煙を上げる地面を、二人の人物が踏みしめた。
 一人は消炭色けしずみいろ狩衣かりぎぬに、装飾入りの太刀をいた、長身の偉丈夫。
 もう一人は、
「あてなさま?」
「A∟(アテナ!?)」
「アテナ、様!?」
 見慣れた戦装束いくさしょうぞくに身を包み、槍と神盾アイギスたずさえた女神アテナがそこにいた。
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