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本編
4.オペラハウス
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「お嬢様、いいですか、今から締めますよ……!」
「どうぞ……!」
アンネの言葉に気合をいれてイルサは答えた。答えてすぐに腹回りを一気に絞られる。
「うぐ、ぐ」思わず声が漏れる。
「あと少しです!」
「うぐ」
アンネは目標の段階を越えたあたりで、「せいッ」と声を放ち、コルセットのひもをきっちり結ぶ。
そして、そのままの勢いでイルサにドレスをまとわせる。
「……これが最新の流行ですか」
その手並みを眺めつつ、イルサは小さな呼吸を繰り返した。
「苦しいのは淑女のたしなみですよ」
「……」
長年着飾らないイルサに仕え、他家のメイド仲間におしゃれの云々を聞かされ続けてきたというアンネはどうやら何かのストレスが溜まっていたようだった。
その笑顔にイルサは複雑な顔をした。
「ううーん、しかし、そうですね。これはもう少しこう……飾りが……スカーフとか、ブローチが足りないですね。たしか大奥様からいただいたやつがあったような……」
アンネは猛禽のような瞳でイルサの全身を眺める。
ドレス自体はだいぶ昔に作ったものだ。シンプルなそれをいかに新しく見えるよう飾り立てて独創的に美しく仕上げるか、ここがメイドの能力になる。らしい。
「お嬢様の出発はもう少し後ですよね?」
「はい、2時間後に迎えが来る予定ですが……」
「わたし、スカーフとブローチを探してきます。確か、棚の奥の方に締まってしまったと思うので……ちょっと時間がかかるかもしれませんがお待ちください」
「ええと、私も一緒に探しましょうか?」
「これは私の戦場ですお嬢様!!!」
鬼気迫った声が響くと同時にアンネは部屋を飛び出していった。
イルサはその背中を呆然と眺めながら、(もしや今まで私が放置していたからこんなことに……)と妙な責任感を感じていた。
ドアが閉まるばたんという音を聞いてから、イルサはやっと我に返り、鏡をみた。
(……アンネは満足していないようだけど、だいぶ見違えた気がする)
職場は制服だし、私生活でもいつも同じような服装しかしていないため、ドレスを着るだけでもだいぶ気分が変わる。
自分の顔も化粧をすると少しはっきりしたような。髪型や着こなしについてもいつもの地味な姿を考えると見違えるようだ。
それを見せるのが仕事上おつきあいしないといけない相手というのがなんともはやではあるが……。
アンネの楽しげな様子をみると、まぁいいか、とも思えるのだった。
イルサは鏡を見ながら、スカートを翻した。
いつもはこんなたっぷりとした布地のスカートをはくことはない。
仕事の際に見掛ける優雅に歩く王妃や王女の姿を思い出し、少し歩いてみる。
(……ちょっと勇ましい歩き方のような)
普段は着慣れていないせいだろうか。微妙な違和感に複雑な気持ちになりつつ、何度も鏡の前を往復する。
そうやっていったりきたりしたいると、不意にかたり、と音が聞こえ、イルサは肩をすくませた。
「……」ドアの方を見ると、そこにはレイが立っていた。
「……その」
イルサはつまんでいたスカートの裾を放した。
「……似合いますか?」
「似合います。とても」
レイの返答は早かった。
イルサは顔が赤くなるのを感じた。
レイの表情を見るのが怖い。視線をそらして、鏡に戻す。
「その、普段着ないので、照れますね」
素直な言葉を呟いた。
「イルサ様」
レイはイルサの後ろにいた。
思ったよりも近いところに立っている彼に、イルサは思わず身体を硬くする。
「ここに、糸くずが」
「は、はい」
イルサからは見えない後ろに糸くずがついていたらしい。
空気の動きでレイがそれをとって捨てたのがわかった。
「……イルサ様」
「なんでしょうか」
レイはイルサから離れずに、そこにいる。
「オペラではお気をつけください。大使といかれるのでしたら上の個室になるでしょう。そうなると、暗いですし、人目が見えない。たとえ、護衛がいようとも、彼らはカーテンの後ろまで下がってしまう」
「そんな」
「こんな風に触られるかもしれない」
レイは突然、イルサの手の甲に触れた。
するりと表面を滑るように触られ、イルサは息をのんだ。
(素手……!)
レイはいつも白い手袋をつけていたはずだ。しかし、今は手袋をつけておらず、ふしばった手がイルサの目に映った。
本来であればドレスに手袋を会わせるが、今はまだつけていない。お互いの手が直接触れ合う。
「……あの」
「イルサ様、男は勘違いしやすい生き物です。特に大使のように、自信にみちて、女性との華やかな噂が絶えない人は自分が相手に拒否されるとは思ってもみない」
今度はレイの手がイルサの腰に回される。
ドレスの上から、添えるように。しかし、紛れもなく触っていることがわかる。
「イルサ様」
耳元でささやかれて、イルサは身体を震わせた。
「嫌なら嫌と、示さねばなりません。どうやるかわかりますか?」
「わ、わかります。その、出来るだけ自然に、その離れるように」
「そうです。また」レイは後ろからイルサの両手をとった。
「オペラを見るときに、手を肘掛けに乗せてはいけません。膝の上で、重ねてください」
レイに捕まれたまま右手と左手が重ねられる。
レイの手は大きい。イルサの手と比べると歴然としている。
首筋にレイの吐息を感じる。背中全体が暖かい。まるで彼に抱きしめられているみたいだ。
(においが)
かすかに香る彼の汗の匂い。心臓の鼓動が早い。息が苦しい。
「――お嬢様、ありました!!」
家のどこかからアンネの声が聞こえた。
イルサがドアの方を振り向いた瞬間、レイは既に距離を空けていた。
「……あ、あの」
「お気をつけください」
イルサにはレイがどんな表情でそこにいるのかわからない。
彼は、何事もなかったようにあらわれたときと同様、ドアから消えた。
イルサが呆然としている間に、アンネが部屋に戻った。
「このスカーフをこう、まとめるとですね、薔薇みたいな感じに出来ます。そして、こう、ブローチで止めると良い感じに……」
スカーフとブローチで工夫していたアンネは、イルサの顔をみた。
「お嬢様、真っ赤ですが、大丈夫ですか!?」
「え、いえ!大丈夫です」
「そんな……確かにちょっと肌寒い、ですかね?羽織はいりますか?風邪引いてしまったら」
「いえいえいえ!大丈夫なので!」
再び部屋を出て行ってしまいそうなアンネをイルサは慌てて止めた。
「もう時間ないですし、その、だいじょうぶですから」
「本当ですか?つらくなったらすぐに帰ってきてくださいね」
「うん」
イルサはアンネをどうにか押しとどめ、ドレスの準備をすすめさせた。
(なんで、なんでレイはあんなこと)
他意はない、はずだ。
彼はリチャードの勧めでこの家に来て、護衛も兼ねている。
だから、どうみても男慣れしていないイルサに少しでも気を付けることができるよう気を配ってくれているのだ。
(そう。それだけ、それだけだから)
イルサは胸に手を当てて深呼吸する。
嫌だ嫌だ。
レイに胸が高鳴るとき、イルサの頭に浮かぶのはレイモンドだ。
レイモンドとレイが重なり、イルサはどうしていいかわからなくなる。
これはレイモンドにも、レイにも失礼なはなしだ。
――もし、もしものはなし。レイがイルサに想いを抱いていても、イルサは答えることはできない。
「――馬鹿ね」
イルサは嘆息した。勝手に考えすぎるのは悪い癖だ。
「お嬢様、お迎えが来ました」
「いきます」
アンネの声に、イルサはもう一度鏡をみて、髪の毛を触る。
アンネの手によってつややかに手入れされた金髪が優雅に結い合わされ、髪留めが絶妙な角度で止められている。
芸術的な作品だ。
イルサは鏡にうなずいてから、部屋をでる。
「大使とグレン様は玄関にいらっしゃいます」
アンネがイルサに声をかける。そして、イルサの全身をみて、満足げにうなずいた。
玄関の外には大使と、その後ろに護衛として付き添うグレンがいた。そして、その後ろにレイ。
「これはイルサ嬢!なんと美しい!」
「ありがとうございます」
大使は満足そうにイルサをみてうなずき、イルサの手をとった。
手に口づけられ、イルサは優雅に見えるよう気を付けながら微笑んだ。
大使に連れられて進む。レイは何事もなかったように、彼は腰をおった。そして、
「お気をつけて」
レイの言葉にイルサはうなずき、馬車に乗った。
話しかける大使に返答をしつつ、同乗するはずのグレンがまだ乗ってこないので、イルサが窓の外を見た。
レイがグレンに話しかけていた。
(知り合いだったのかしら)
イルサは首を傾げ、再び大使に話しかけられたため、視線を戻す。
グレンが馬車に乗り込んでから馬車は走り出した。
◇◇◇
「美しい劇場ですな」
「先日改装が終わったそうです」
イルサは大使とともに劇場にいた。劇場では人々でにぎわい、騒がしい。
今は第一部と第二部の間の休憩時間だった。素晴らしい演奏に歌声、人々が興奮冷めやらぬ表情で短い時間を語らいに費やしている。
大使も知り合いを見つけたといって、イルサから少し離れ、夫婦連れに話しかけている。
イルサが周囲を見渡すと、護衛のグレンは油断なく、イルサと大使の周囲を警戒していた。イルサはこの隙にと、グレンに話しかけた。
「グレン、貴方さきほどレイに話しかけていたけど、知り合いだったんですか?」
「あぁ、その、そうだ」
「そうなの」
視線をそらさず、グレンは言葉だけ返す。
イルサは首を傾げた。
「もしかして、レイはもともと軍の人なの?」
リチャードとグレンは戦争当時同じ隊だった。レイモンドも同じ隊だ。
3人、いや、4人は同じ隊にいたのではないか?そうであれば、レイがイルサを妙に気遣う理由がわかる。
戦友の知人といえば、優しくするのは当然だろう。
「それは」
グレンが何故か言いよどんだ瞬間。
「失礼」
グレンに一人の男が話しかけた。
茶色の髪に黄色の瞳。背格好はグレンと同じくらい。服装からして、劇場の従業員に見える。
グレンは慌てたしぐさで振り返った。
「――なんでここに」
「リチャード様の許可は得ています。――そろそろ席につくお時間ですとお伝えに。それと」
男は声を潜めてグレンの耳元でささやいた。
何かあったのだろうか。イルサは首を傾げ、大使の方をみる。すると、大使も自身のそばにいる護衛に何か話しかけられている。
グレンは男の話を聞き終わってすぐ、イルサに向き直った。
「――イルサ、なかなかいうタイミングがなくて悪い。しかし、一つ頼みたいことがある。」
「なんでしょう」
「実は、少し状況が変わって、大使は明日この国を立つことになった。政治的な問題が絡んでいるらしい。俺たちも気を付けるつもりだが……君も少し気をつけてくれ」
「わかりました」
イルサはうなずいた。
(政治的問題……)
帝国は強大だ。ゆえに不穏分子を無くしきることは難しい。
(この人はオペラハウスの人ではなくて、リチャードの部下なのね)
イルサはグレンに話しかけていた男を眺めた。
見知らぬ顔だ。彼はイルサの視線に気づき、目が合った。
(あれ……)
妙に既視感がある。なんでだろう、イルサが首を傾げた瞬間、大使がイルサのもとに戻ってきた。
「すまないね。話し込んでしまった」
「いえ、お気になさらず」
イルサは大使に微笑む。
彼も同じように報告を受けているはずだが、それを外にはみせない。
「――では、行こうか」
大使はイルサの腰に手を回した。
「はい」
うなずきながら、イルサは大使の香水の香りを吸い込んだ。
(レイ、とは違う)
嫌悪感。胸に浮かんだその言葉にイルサは深呼吸した。
そしてそのまま、大使の席に向かう。歩き出してすぐ、先ほどの男を探したが既にいなくなっていた。
イルサと大使の席は、いつもは王族が使っているボックス席だ。
まず、護衛がドアをあけた。その瞬間イルサはふと違和感を覚えた。
ボックス席内部のカーテンが揺れている。
イルサが目を細めた瞬間。
「……!なんだ!?」
突然、劇場全体の明かりが消えた。
反射的にイルサは大使にぶつかって押し倒す。その瞬間、
「ひっ」
「――あぶないッ」
「ッち!!」
金属が鳴り響く音。床に何かが落ちた音。舌打ち。
廊下の明かりが入り、状況がわかる。
何者かがロイヤルボックスのカーテンの陰に隠れ、電気が消えた瞬間斬りかかってきたのだ。
そのものは、イルサが大使を押し倒した瞬間、そのままの勢いで後ろの柱に切り込んだらしい。
「大丈夫ですか!?」
「ああ」
イルサは大使の腕をつかみ、声をかけると、大使からは存外、落ち着いた声で返答があった。
何があったかはわからないが、すくなくとも相手の奇襲は失敗したということだろう。
斬りかかったものはここにはもういないようだ。
「大使、イルサ!」
「グレン、私たちは無事」
イルサはグレンに声をかけた。
「どうぞ……!」
アンネの言葉に気合をいれてイルサは答えた。答えてすぐに腹回りを一気に絞られる。
「うぐ、ぐ」思わず声が漏れる。
「あと少しです!」
「うぐ」
アンネは目標の段階を越えたあたりで、「せいッ」と声を放ち、コルセットのひもをきっちり結ぶ。
そして、そのままの勢いでイルサにドレスをまとわせる。
「……これが最新の流行ですか」
その手並みを眺めつつ、イルサは小さな呼吸を繰り返した。
「苦しいのは淑女のたしなみですよ」
「……」
長年着飾らないイルサに仕え、他家のメイド仲間におしゃれの云々を聞かされ続けてきたというアンネはどうやら何かのストレスが溜まっていたようだった。
その笑顔にイルサは複雑な顔をした。
「ううーん、しかし、そうですね。これはもう少しこう……飾りが……スカーフとか、ブローチが足りないですね。たしか大奥様からいただいたやつがあったような……」
アンネは猛禽のような瞳でイルサの全身を眺める。
ドレス自体はだいぶ昔に作ったものだ。シンプルなそれをいかに新しく見えるよう飾り立てて独創的に美しく仕上げるか、ここがメイドの能力になる。らしい。
「お嬢様の出発はもう少し後ですよね?」
「はい、2時間後に迎えが来る予定ですが……」
「わたし、スカーフとブローチを探してきます。確か、棚の奥の方に締まってしまったと思うので……ちょっと時間がかかるかもしれませんがお待ちください」
「ええと、私も一緒に探しましょうか?」
「これは私の戦場ですお嬢様!!!」
鬼気迫った声が響くと同時にアンネは部屋を飛び出していった。
イルサはその背中を呆然と眺めながら、(もしや今まで私が放置していたからこんなことに……)と妙な責任感を感じていた。
ドアが閉まるばたんという音を聞いてから、イルサはやっと我に返り、鏡をみた。
(……アンネは満足していないようだけど、だいぶ見違えた気がする)
職場は制服だし、私生活でもいつも同じような服装しかしていないため、ドレスを着るだけでもだいぶ気分が変わる。
自分の顔も化粧をすると少しはっきりしたような。髪型や着こなしについてもいつもの地味な姿を考えると見違えるようだ。
それを見せるのが仕事上おつきあいしないといけない相手というのがなんともはやではあるが……。
アンネの楽しげな様子をみると、まぁいいか、とも思えるのだった。
イルサは鏡を見ながら、スカートを翻した。
いつもはこんなたっぷりとした布地のスカートをはくことはない。
仕事の際に見掛ける優雅に歩く王妃や王女の姿を思い出し、少し歩いてみる。
(……ちょっと勇ましい歩き方のような)
普段は着慣れていないせいだろうか。微妙な違和感に複雑な気持ちになりつつ、何度も鏡の前を往復する。
そうやっていったりきたりしたいると、不意にかたり、と音が聞こえ、イルサは肩をすくませた。
「……」ドアの方を見ると、そこにはレイが立っていた。
「……その」
イルサはつまんでいたスカートの裾を放した。
「……似合いますか?」
「似合います。とても」
レイの返答は早かった。
イルサは顔が赤くなるのを感じた。
レイの表情を見るのが怖い。視線をそらして、鏡に戻す。
「その、普段着ないので、照れますね」
素直な言葉を呟いた。
「イルサ様」
レイはイルサの後ろにいた。
思ったよりも近いところに立っている彼に、イルサは思わず身体を硬くする。
「ここに、糸くずが」
「は、はい」
イルサからは見えない後ろに糸くずがついていたらしい。
空気の動きでレイがそれをとって捨てたのがわかった。
「……イルサ様」
「なんでしょうか」
レイはイルサから離れずに、そこにいる。
「オペラではお気をつけください。大使といかれるのでしたら上の個室になるでしょう。そうなると、暗いですし、人目が見えない。たとえ、護衛がいようとも、彼らはカーテンの後ろまで下がってしまう」
「そんな」
「こんな風に触られるかもしれない」
レイは突然、イルサの手の甲に触れた。
するりと表面を滑るように触られ、イルサは息をのんだ。
(素手……!)
レイはいつも白い手袋をつけていたはずだ。しかし、今は手袋をつけておらず、ふしばった手がイルサの目に映った。
本来であればドレスに手袋を会わせるが、今はまだつけていない。お互いの手が直接触れ合う。
「……あの」
「イルサ様、男は勘違いしやすい生き物です。特に大使のように、自信にみちて、女性との華やかな噂が絶えない人は自分が相手に拒否されるとは思ってもみない」
今度はレイの手がイルサの腰に回される。
ドレスの上から、添えるように。しかし、紛れもなく触っていることがわかる。
「イルサ様」
耳元でささやかれて、イルサは身体を震わせた。
「嫌なら嫌と、示さねばなりません。どうやるかわかりますか?」
「わ、わかります。その、出来るだけ自然に、その離れるように」
「そうです。また」レイは後ろからイルサの両手をとった。
「オペラを見るときに、手を肘掛けに乗せてはいけません。膝の上で、重ねてください」
レイに捕まれたまま右手と左手が重ねられる。
レイの手は大きい。イルサの手と比べると歴然としている。
首筋にレイの吐息を感じる。背中全体が暖かい。まるで彼に抱きしめられているみたいだ。
(においが)
かすかに香る彼の汗の匂い。心臓の鼓動が早い。息が苦しい。
「――お嬢様、ありました!!」
家のどこかからアンネの声が聞こえた。
イルサがドアの方を振り向いた瞬間、レイは既に距離を空けていた。
「……あ、あの」
「お気をつけください」
イルサにはレイがどんな表情でそこにいるのかわからない。
彼は、何事もなかったようにあらわれたときと同様、ドアから消えた。
イルサが呆然としている間に、アンネが部屋に戻った。
「このスカーフをこう、まとめるとですね、薔薇みたいな感じに出来ます。そして、こう、ブローチで止めると良い感じに……」
スカーフとブローチで工夫していたアンネは、イルサの顔をみた。
「お嬢様、真っ赤ですが、大丈夫ですか!?」
「え、いえ!大丈夫です」
「そんな……確かにちょっと肌寒い、ですかね?羽織はいりますか?風邪引いてしまったら」
「いえいえいえ!大丈夫なので!」
再び部屋を出て行ってしまいそうなアンネをイルサは慌てて止めた。
「もう時間ないですし、その、だいじょうぶですから」
「本当ですか?つらくなったらすぐに帰ってきてくださいね」
「うん」
イルサはアンネをどうにか押しとどめ、ドレスの準備をすすめさせた。
(なんで、なんでレイはあんなこと)
他意はない、はずだ。
彼はリチャードの勧めでこの家に来て、護衛も兼ねている。
だから、どうみても男慣れしていないイルサに少しでも気を付けることができるよう気を配ってくれているのだ。
(そう。それだけ、それだけだから)
イルサは胸に手を当てて深呼吸する。
嫌だ嫌だ。
レイに胸が高鳴るとき、イルサの頭に浮かぶのはレイモンドだ。
レイモンドとレイが重なり、イルサはどうしていいかわからなくなる。
これはレイモンドにも、レイにも失礼なはなしだ。
――もし、もしものはなし。レイがイルサに想いを抱いていても、イルサは答えることはできない。
「――馬鹿ね」
イルサは嘆息した。勝手に考えすぎるのは悪い癖だ。
「お嬢様、お迎えが来ました」
「いきます」
アンネの声に、イルサはもう一度鏡をみて、髪の毛を触る。
アンネの手によってつややかに手入れされた金髪が優雅に結い合わされ、髪留めが絶妙な角度で止められている。
芸術的な作品だ。
イルサは鏡にうなずいてから、部屋をでる。
「大使とグレン様は玄関にいらっしゃいます」
アンネがイルサに声をかける。そして、イルサの全身をみて、満足げにうなずいた。
玄関の外には大使と、その後ろに護衛として付き添うグレンがいた。そして、その後ろにレイ。
「これはイルサ嬢!なんと美しい!」
「ありがとうございます」
大使は満足そうにイルサをみてうなずき、イルサの手をとった。
手に口づけられ、イルサは優雅に見えるよう気を付けながら微笑んだ。
大使に連れられて進む。レイは何事もなかったように、彼は腰をおった。そして、
「お気をつけて」
レイの言葉にイルサはうなずき、馬車に乗った。
話しかける大使に返答をしつつ、同乗するはずのグレンがまだ乗ってこないので、イルサが窓の外を見た。
レイがグレンに話しかけていた。
(知り合いだったのかしら)
イルサは首を傾げ、再び大使に話しかけられたため、視線を戻す。
グレンが馬車に乗り込んでから馬車は走り出した。
◇◇◇
「美しい劇場ですな」
「先日改装が終わったそうです」
イルサは大使とともに劇場にいた。劇場では人々でにぎわい、騒がしい。
今は第一部と第二部の間の休憩時間だった。素晴らしい演奏に歌声、人々が興奮冷めやらぬ表情で短い時間を語らいに費やしている。
大使も知り合いを見つけたといって、イルサから少し離れ、夫婦連れに話しかけている。
イルサが周囲を見渡すと、護衛のグレンは油断なく、イルサと大使の周囲を警戒していた。イルサはこの隙にと、グレンに話しかけた。
「グレン、貴方さきほどレイに話しかけていたけど、知り合いだったんですか?」
「あぁ、その、そうだ」
「そうなの」
視線をそらさず、グレンは言葉だけ返す。
イルサは首を傾げた。
「もしかして、レイはもともと軍の人なの?」
リチャードとグレンは戦争当時同じ隊だった。レイモンドも同じ隊だ。
3人、いや、4人は同じ隊にいたのではないか?そうであれば、レイがイルサを妙に気遣う理由がわかる。
戦友の知人といえば、優しくするのは当然だろう。
「それは」
グレンが何故か言いよどんだ瞬間。
「失礼」
グレンに一人の男が話しかけた。
茶色の髪に黄色の瞳。背格好はグレンと同じくらい。服装からして、劇場の従業員に見える。
グレンは慌てたしぐさで振り返った。
「――なんでここに」
「リチャード様の許可は得ています。――そろそろ席につくお時間ですとお伝えに。それと」
男は声を潜めてグレンの耳元でささやいた。
何かあったのだろうか。イルサは首を傾げ、大使の方をみる。すると、大使も自身のそばにいる護衛に何か話しかけられている。
グレンは男の話を聞き終わってすぐ、イルサに向き直った。
「――イルサ、なかなかいうタイミングがなくて悪い。しかし、一つ頼みたいことがある。」
「なんでしょう」
「実は、少し状況が変わって、大使は明日この国を立つことになった。政治的な問題が絡んでいるらしい。俺たちも気を付けるつもりだが……君も少し気をつけてくれ」
「わかりました」
イルサはうなずいた。
(政治的問題……)
帝国は強大だ。ゆえに不穏分子を無くしきることは難しい。
(この人はオペラハウスの人ではなくて、リチャードの部下なのね)
イルサはグレンに話しかけていた男を眺めた。
見知らぬ顔だ。彼はイルサの視線に気づき、目が合った。
(あれ……)
妙に既視感がある。なんでだろう、イルサが首を傾げた瞬間、大使がイルサのもとに戻ってきた。
「すまないね。話し込んでしまった」
「いえ、お気になさらず」
イルサは大使に微笑む。
彼も同じように報告を受けているはずだが、それを外にはみせない。
「――では、行こうか」
大使はイルサの腰に手を回した。
「はい」
うなずきながら、イルサは大使の香水の香りを吸い込んだ。
(レイ、とは違う)
嫌悪感。胸に浮かんだその言葉にイルサは深呼吸した。
そしてそのまま、大使の席に向かう。歩き出してすぐ、先ほどの男を探したが既にいなくなっていた。
イルサと大使の席は、いつもは王族が使っているボックス席だ。
まず、護衛がドアをあけた。その瞬間イルサはふと違和感を覚えた。
ボックス席内部のカーテンが揺れている。
イルサが目を細めた瞬間。
「……!なんだ!?」
突然、劇場全体の明かりが消えた。
反射的にイルサは大使にぶつかって押し倒す。その瞬間、
「ひっ」
「――あぶないッ」
「ッち!!」
金属が鳴り響く音。床に何かが落ちた音。舌打ち。
廊下の明かりが入り、状況がわかる。
何者かがロイヤルボックスのカーテンの陰に隠れ、電気が消えた瞬間斬りかかってきたのだ。
そのものは、イルサが大使を押し倒した瞬間、そのままの勢いで後ろの柱に切り込んだらしい。
「大丈夫ですか!?」
「ああ」
イルサは大使の腕をつかみ、声をかけると、大使からは存外、落ち着いた声で返答があった。
何があったかはわからないが、すくなくとも相手の奇襲は失敗したということだろう。
斬りかかったものはここにはもういないようだ。
「大使、イルサ!」
「グレン、私たちは無事」
イルサはグレンに声をかけた。
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