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三者三様のコンプレックス

課長との待ち合わせ

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 経理部に交通費の申請書を持っていくと、既に課長は謝罪と説明済みだったようで、特に咎められることもなく受け取ってもらえた。
 むしろ、災難だったと同情されてしまって、課長がどんなふうに説明したのか不思議になってしまう。
 経理部の主任は、ふわふわのくせ毛がトレードマークの癒し系好青年なので、気構えることなく話せる。
 ただ彼も独身で人気のある人なので、あまり親しくなり過ぎないようにしていた。

 杉野は珍しく社内にずっといたけれど、朝に挨拶を交わしたっきり、会話どころかこちらを見ようともしなかった。
 何があったのか問いただしたい気持ちと、それが杉野の答えなら仕方がないと受け入れる気持ちとが入り混じって複雑なまま、一日はあっという間に過ぎていく。
 終業時間後も切りのいいところまで仕事を片づけて、更衣室に向かう。
 バレッタで一つにまとめていた髪を下ろして、ブラシで髪を梳かしてから靴を履き替えた。
 特に伸ばそうと思ったわけでもないけど、いつの間にか腰のあたりまで髪が伸びていた。
 思い切って短くするのもいいかもしれない、そう思ったけれど、髪を切ったことでまた変な憶測が飛び交うだろうと予測出来て、切るのを諦めた。
 失恋して髪を切ったなんて思われるのは、さすがに腹が立つ。





「優美花ちゃん、いらっしゃい。先週ぶりだね、優美花ちゃんなら、毎日来てくれてもいいんだよ? 週末だって、お店開けちゃうよ?」


 最初の執事風の紳士っぷりはどこにいったのか、カウンター席に座った途端に奏楽さんがじゃれにくる。
 既にトレイを構えている真白君に気づいて、くすくすと笑ってしまいながら、オリジナルブレンドティーを注文した。
 この後食事に行くはずだから、とりあえず今日は紅茶のみだ。


「ナンパしてないで、さっさと仕事に戻ってください」


 トレイを構えながら脅されて、奏楽さんは「はいはい」と返事をしながら厨房へ向かった。
 これではどっちが店主なのかわかったものではない。
 一礼して去っていく真白君を見送って、通勤用のバッグから文庫本を取り出す。
 本は、かさばってもハードカバーの方が好きだけど、お気に入りの本は文庫も揃えるようにしている。
 淡いグリーンの布製のブックカバーは手作りで、表紙の折り返しの目立たない部分に、桜の刺繍を入れていた。
 長時間待つことも覚悟していたのだけど、お茶を飲みながら本を読んでいると、割とすぐに課長がやってきた。
 まだ、一杯目の紅茶を飲み終える前だから、本当に早い。


「お待たせ。本を読んでいたの? そのブックカバー、素敵だね」


 隣に座った課長が、栞を挟んでカウンターに置いた本に手を伸ばす。
「見てもいい?」と、確認されたので、本のことだろうと思い頷いた。
 今読んでいたのは、有名なベストセラー作家の推理小説で、シリーズになっているものだった。
 主人公のキャラクターが好きで、何度も繰り返し読んでしまう。


「このシリーズは、僕も全部持っているよ。この作家さんの話は好きだから、もしかしたら全部揃っているかもしれない。本は、どうしても場所を取るから、実家に置いているものも多くて、はっきりとしたことは言えないけど」


 課長はかなりの読書家のようだ。
 あれだけ忙しく働いていて、どこに本を読む余裕があるのか、不思議になってしまう。


「本棚がいっぱいになって、床に積んでしまうようなタイプですか? 私の義兄が本好きで、その影響で読むようになったんですけど、義兄の書斎は本だらけで凄いことになってます」


 下の義兄の柊がかなりの読書家なので、欲しい本は買わなくてもたいてい家にあった。
 別に暮らすようになってから、自分で買うようになったけれど、そんなに頻繁に買わなくても、意外に本というのは増えていって場所を取るものだなと思う。
 俳優という仕事柄か、父も読書家で、父のおすすめの本を読むこともあった。


「できれば床に積みたくないけど、段々本棚に入りきらなくなっていくんだ」


 部屋の現状を思い出したのか、課長が遠くを見る。
 やはり本棚から本が溢れているらしい。


「ケイの引っ越しの荷物の三分の二が本だっただろ。最初からあんなに運んでたら、そりゃ、本棚もすぐにいっぱいになるさ」


 注文を聞くこともなく紅茶のポットを運んできた奏楽さんが、話に入ってくる。
 課長と私を見比べて、からかうような笑みを浮かべるので、ちょっと気まずくなった。


「まさか、ケイのデートの待ち合わせに、この店が使われる日が来ようとは!」


 奏楽さんは感動した面持ちだけど、課長は困ったような様子だ。
 部下をねぎらうだけのつもりだから、誤解されると困ってしまうのだろう。


「奏楽さん、デートじゃないですから。あまり、課長を困らせないでください」


 課長のためにもと弁解すると、奏楽さんが課長の頭を叩く。
 親し気だけど、とても客に対する態度じゃない。


「ケイ、腹括ったんじゃないのか? しっかり覚悟決めないと、後悔するぞ。チャンスは一瞬だからな」


 叩いたところをガシガシと撫でながら、奏楽さんが課長を激励?する。
 苦笑しながらされるがままになっていた課長は、伝票を手に席を立った。


「ここじゃ、奏楽にからかわれるだけだから、行こうか」


 課長に手を差し出されて頷くと、奏楽さんが課長の手の伝票を取り上げる。


「今日のお代はいらないから、早く行けよ。……優美花ちゃん、一人でいいからまた来てね。サービスするから」


 ウィンクしながら冗談めかす奏楽さんが可笑しくて笑ってしまいながら、「御馳走さま」とお礼を伝えた。
 課長と一緒に外に出ると、空は曇り空で、雨が降り出しそうな気配だった。
 湿った空気や雨の気配は嫌いじゃないけど、家の中でそれを感じるのが一番好きだ。
 折り畳みの傘は、季節柄持ち歩いているけれど、小さいから風が強いと濡れてしまう。


「奏楽の奴、気安過ぎるだろう」


 苦笑しつつ歩き出す課長の半歩くらい後ろを歩くと、歩調を緩めて待たれた。
 隣に並ぶと、どこか満足そうに課長が頷く。


「奏楽さん、楽しい人ですね。初めてお店に行ったときに、課長のこと、聞かせてくださいました」


 あの時、奏楽さんと話をしたおかげで、会社で見るのとは違う課長のことを少し知ることができた。


「奏楽は昔から、誰とでもすぐに仲良くなるんだ。好き嫌いも激しいけど、瀬永さんのことは気に入ると思っていたよ」


 好き嫌いが激しいと聞いても、最初からフレンドリーな奏楽さんしか知らないから、不思議な感じがする。
 でも多分、奏楽さんが私に優しいのは、課長の部下だからだと思う。

 大通りに出たところで、課長はタクシーを止めた。
 目的地はこの辺りではないらしい。
 課長と並んで座りながら、こうして課長と外で二人きりというのは初めてだなと思う。
 他の社員の取引先についていくことはあっても、課長と一緒に外出したことはなかった。
 

「なんとなく、不思議な感じです」


 思わず呟くと、課長も似たようなことを考えていたのか、微笑みながら頷いた。



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