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第一部

第十八話 予言(9)いちゃこらタイム

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 馬車は轣轆《れきろく》と進む。

 荒れた道だったので、ズデンカは車輪が小石を飛ばし、ルナへ当たらないか細心の注意を払っていた。

 そんな気遣いにも我関せずで、ルナはウイスキーですっかり酔っ払っているようだった。

「うぃー!」

「酔っ払いの典型みたいな声をあげんなよ」

 ズデンカは笑った。

「呑みたい気分なのさ」

 ルナは言葉短かに答えた。

「どうした、なんかあったのか?」

 ズデンカは即座に察した。ルナの機嫌は決して良くないのだ。

「なんにも」

「まあ、中てられるけどな」

 ズデンカは半笑いで答えた。

「予言みたいに?」

「予言じゃねえさ。お前が今思ってることだ」

「中ててごらん」

 ルナの声は少し上擦っていた。

「見殺しにしちまったことを悔やんでるんだろう。ジェルソミーナを」

「……」

 ルナは答えなかった。

「お前の手の内なんてわかりきってんだよ」

「……」

「仕方ねえだろ。あいつは自分からあの本を手にとって、山羊に変わったんだ。誰にも止めることは出来なかった」

「……でも」

「でももへちまもあるかよ」

「わたしには特別な力があるのに」

 ほろ酔いのルナの声は囁くかのようだった。

「さっき、何でも出来る訳じゃないってお前は繰り返してたじゃねえか」

 ズデンカは必死になっていた。

 しかし、飽くまで後ろは振り返らないことにした。ルナの泣き顔を見ると、心が掻き乱されるからだ。その間に襲撃などあったら、かえって守り切れないかもしれない。旅はとても長いのだ。

 ズデンカは鬼になることに決めた。

「わたしは、何かするべきだったんだろうか?」

「……」

「ねえ」

「……」

「ねえったら、ねえ!」

「……」

「話してくれないの?」

 しばらく黙っていると、ルナが縋り付くようにしつこく訊いてくる。不安そうだった。

「うるせえな。そんなことは自分で考えろよ」

「ひっく」

 酒のせいか、涙を啜り上げているのか、どちらとも判別が付かなかった。

「過ぎたことはくよくよしても仕方ねえだろうがよ。予言は実現してしまった」

 実際帰るときに確認したのだが、マラリアの患者はなお病院に運び込まれ続けていたし、大地のひび割れはそのままだった。ルナとズデンカを街の人々が忘れたとして、黒い山羊の化け物の遺骸は道具屋の客間に残り続けるだろう。

 起こったことは戻せない。

 長い年月の中を過ごしたズデンカには痛いほどそれがわかっていた。

「予言なんてしなければよかったんだ。あのベンヴェヌートさんが」

 ルナはぶつぶつ言った。

「ああ言うやつはいつの時代でも少なからず出てくるさ。『鐘楼の悪魔』すらなかったら、誰も死なずに済んだ。悪いのは全部、ハウザーのやつだ」

 これほど妥当性のある責任転嫁は、他にないように思われた。

「……うん」

 ルナも何となく納得したようだった。ごくごくウイスキーを飲み干す音が聞こえた。きっと、ラッパ飲みしているのだろう。

「ほどほどにしとけよ」

「……うん」

 ルナはアルコール中毒なのだ。いつか止めさせないと死を早めるとズデンカは考えた。

 だが。

 酒など飲まないし、体質上飲めもしないが、憂さを晴らしたいという気持ちだけは少し分かる気がした。

 それほど、この世の中には悲しいことが多すぎるのだから。
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