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第一部
第三十二話 母斑(1)
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――ネルダ共和国中部都市クンデラ駅構内
切符を買って改札を通る前から、無数の人波に押し流されそうになっていた。
駅の建物の前に設けられた赤い煉瓦のアーチを潜ると、構内は思いの外の殷賑《にぎわい》だった。
「やれやれ、さすが大都市だけあるね」
綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは小さなトランク一つを振り回しながら軽々と進んだ。
「何がさすがだ」
重い荷物を持つのはいつもメイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカだ。その後ろにはナイフ投げのカミーユ・ボレルが従う。
トランク五つ程度、吸血鬼の体力からしたらさしたることはない重さだが、ズデンカは皮肉の一つでも言いたくなった。
――こんなに持っていくものがあるとか聞いてねえぞ。
ほとんどクンデラでルナが買い物をしたものだった。狭い馬車で旅をしていた二人には、持ち物などほとんどなかったのだから。
「ズデンカさん、私が代わりに」
カミーユはそう言ってくれるが、
「いやいい」
とぴしゃりと撥ね付けた。
「でも、私だけ何も手伝えないなんて……」
カミーユは不安そうにした。
「お前はいざとなったら逃げられる方がいい。ルナもあたしも身を守る力はあるが、お前はあるとしても薄い。こちらも守り切れない場合があるからだ」
いつも心の中で思っていたことを口に出してしまった。
「でも、私は私のやれることをしたいです」
カミーユの手は震えていた。まだ臆病さを克服できていないらしい。
「お前は腕前はあるんだよ。でも、もっと成長が必要だ。あたしはダイヤの原石をむざむざ毀したくない」
詩を趣味とするズデンカは安っぽい暗喩をやってしまったことに悔いながらもカミーユの手を握った。
不死者の体温は生者より低い。カミーユは一瞬ビクリと背筋を反らせた。
ズデンカは済まないと思った。
だが、カミーユはじきに目を輝かせ始めた。
「私なんかに、そんなことを言ってくれるなんて!」
卑屈なところを隠し切れていなかったが、同時にズデンカに向けるある種の感情が仄見えた。
ズデンカは決まりが悪くなった。
「はいはい。盛り上がってるところ悪いけど、わたしは迷子になりそうだよ!」
ルナがわざとらしく大声を張り上げていた。確かに通行人の間で右往左往している。
どの乗車口に行けばいいのかわからないようだ。
「はぁ」
ズデンカは駈け出してその腕をひったくる。
「ふう。君の冷たい手もいいものだ」
ルナはまったりと答えた。
普段と表情は変わらないが、ズデンカはそこに言外の嫉妬を感じ取った。
――わざとかよ、おい。
そう言って問い詰めたい。
「ルナさーん!」
急いでカミーユが走ってきた。
「大丈夫だよ、うちのメイドのお陰で」
ルナは微笑んだ。
「七番乗り場だぞ。切符は落としてないよな」
ズデンカはルナを引きずっていった。
「君はわたしのお母さんか」
ルナは決まり文句を謳うように言う。
ズデンカは無視して歩いた。
階段を登ると、広い天蓋が設けられたプラットホームが見えた。階下ほどではなかったが、疎らにも固まって人が並んでいる。
列車はまだ入ってこないようだった。
と、こちらに向かって歩いてくる人影があった。
ズデンカは警戒しながら確認する。
白い帽子にドレス、高い背丈、栗色の巻毛。
見事な美人に見えたが、一つだけ違和感があった。
その額の右側から眦《まなじり》に掛けて、大きな紫の母斑《あざ》があったのだ。
切符を買って改札を通る前から、無数の人波に押し流されそうになっていた。
駅の建物の前に設けられた赤い煉瓦のアーチを潜ると、構内は思いの外の殷賑《にぎわい》だった。
「やれやれ、さすが大都市だけあるね」
綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは小さなトランク一つを振り回しながら軽々と進んだ。
「何がさすがだ」
重い荷物を持つのはいつもメイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカだ。その後ろにはナイフ投げのカミーユ・ボレルが従う。
トランク五つ程度、吸血鬼の体力からしたらさしたることはない重さだが、ズデンカは皮肉の一つでも言いたくなった。
――こんなに持っていくものがあるとか聞いてねえぞ。
ほとんどクンデラでルナが買い物をしたものだった。狭い馬車で旅をしていた二人には、持ち物などほとんどなかったのだから。
「ズデンカさん、私が代わりに」
カミーユはそう言ってくれるが、
「いやいい」
とぴしゃりと撥ね付けた。
「でも、私だけ何も手伝えないなんて……」
カミーユは不安そうにした。
「お前はいざとなったら逃げられる方がいい。ルナもあたしも身を守る力はあるが、お前はあるとしても薄い。こちらも守り切れない場合があるからだ」
いつも心の中で思っていたことを口に出してしまった。
「でも、私は私のやれることをしたいです」
カミーユの手は震えていた。まだ臆病さを克服できていないらしい。
「お前は腕前はあるんだよ。でも、もっと成長が必要だ。あたしはダイヤの原石をむざむざ毀したくない」
詩を趣味とするズデンカは安っぽい暗喩をやってしまったことに悔いながらもカミーユの手を握った。
不死者の体温は生者より低い。カミーユは一瞬ビクリと背筋を反らせた。
ズデンカは済まないと思った。
だが、カミーユはじきに目を輝かせ始めた。
「私なんかに、そんなことを言ってくれるなんて!」
卑屈なところを隠し切れていなかったが、同時にズデンカに向けるある種の感情が仄見えた。
ズデンカは決まりが悪くなった。
「はいはい。盛り上がってるところ悪いけど、わたしは迷子になりそうだよ!」
ルナがわざとらしく大声を張り上げていた。確かに通行人の間で右往左往している。
どの乗車口に行けばいいのかわからないようだ。
「はぁ」
ズデンカは駈け出してその腕をひったくる。
「ふう。君の冷たい手もいいものだ」
ルナはまったりと答えた。
普段と表情は変わらないが、ズデンカはそこに言外の嫉妬を感じ取った。
――わざとかよ、おい。
そう言って問い詰めたい。
「ルナさーん!」
急いでカミーユが走ってきた。
「大丈夫だよ、うちのメイドのお陰で」
ルナは微笑んだ。
「七番乗り場だぞ。切符は落としてないよな」
ズデンカはルナを引きずっていった。
「君はわたしのお母さんか」
ルナは決まり文句を謳うように言う。
ズデンカは無視して歩いた。
階段を登ると、広い天蓋が設けられたプラットホームが見えた。階下ほどではなかったが、疎らにも固まって人が並んでいる。
列車はまだ入ってこないようだった。
と、こちらに向かって歩いてくる人影があった。
ズデンカは警戒しながら確認する。
白い帽子にドレス、高い背丈、栗色の巻毛。
見事な美人に見えたが、一つだけ違和感があった。
その額の右側から眦《まなじり》に掛けて、大きな紫の母斑《あざ》があったのだ。
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