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章1
幕間 【ひとりぼっちの誰かの話:呪縛】 (2)
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高速を飛ばす車の後部座席で、運転席に座るトージへ話を振る。
「なあ」
「なにー?」
「おまえ、矢渡って」
「あ、うん。いまちょっと実家で揉めててさ。それが済んだら姫野になるよ」
ということは、嫁さんの名前は姫野由季、か。
「姫。単語帳のNo22。princess、heroineという意味を持つ、か弱くも高潔な日本の女性に使われていた漢字……」
「あはは、由季はお姫様ってたまじゃないけど。まあ、俺にとってはヒロインみたいなものだよね」
由季もちょっと前まではレディースで連合相手に単身飛び込むような女の子だったんだよ、と、嫁さんとの思い出話が始まった。
コーヒーをごちそうしたら、こんな泥水飲ませるなって顔面にコーヒーぶっかけられたとか。
やはりこの世界の第三者から見ても、こいつのコーヒーは泥水の味だったようである。
文化の違いでもなんでもなかった。
「そういえば、俺の名前漢字で書ける?」
「……スドウヤクモ、ってどう書くんだ」
「えー? それ昔の恋人の名前でしょ。俺の漢字は聞かないの」
矢渡の漢字はもう書ける。
仕事で目を通した書類に、彼の名前が記載されていたからだ。
それを知らない彼は、落胆した様子でこちらの問いに答えた。
「うーん。スドウはたぶん必須の須に、藤って書く一般的なやつじゃないかな。あー、東かも。漢字は同じ読みで違う書き方、違う意味のもの多いから」
「そうか」
この国の言葉では、アイという音には愛や哀があって、いとしいと思う感情と哀しみと、極端に意味の異なる漢字が同じ読みをする。
あのころは、日本語に三種類の文字種が存在するということも分かっていなかった。
日本語ができるようになれば、自然とヤクモの名前も書けるようになるのだとばかり思っていたが、そう簡単なものではなかったらしい。
名前の読みだけでヤクモの実家や血縁者を今になって探すのは、難しそうだ。
「ヤクモってのはたぶん八つの雲なんじゃない? 安いに曇とか耶馬台国の耶とかも聞いたことはあるけど、人名でヤクモとして使ってるの俺見たことないな」
青い月が、後方へ流れていく景色の中でひとつだけ動かずに車窓を覗き続けている。
「……恋人さん、日本人だったんでしょ。言われたことない?」
「なにを」
「月がきれいですねって」
月か。考えてみれば、一緒に夜空を見るなんて情緒感あふれる“デート”はしたことがなかったはずだ。
「日本ではね、愛してるって意味になるんだよ、それ」
「今のフレーズのどこにLOVEの要素があるんだ?」
「昔の日本人男性は、アイラブユーを訳すことができなかったんだって。それで、そういう日本語訳になっちゃったって聞くよ。俺もよく知らないけど、このフレーズ自体はわりと有名だからね」
昔って、どれくらい前の話になるんだろう。
ヤクモの生きた時代が、この世界で何年前のことなのかも分からない。
黙りこくった俺に、トージが別の話を始める。
「八雲さんて、いくつくらいの人?」
「十二から十六くらいまで、一緒に居た」
「うひゃあ犯罪」
「抱かれたのは俺の方だけどな」
あちらの世界では、十五にもなれば成人扱いだった。
だから仕事を割り当てられた時にすんなり関係を持てたのだが、こちらでは十八までは保護対象、二十からが成人扱いだという。
それを考えると、あの時のヤクモには悪いことをした。
スドウヤクモ。須藤、八雲。
その名前で本当に合っているのか定かでない、いつの時代の人間なのかもわからない。
騙されていると知りながら、悪魔に気持ちを傾けてしまった哀れな子供。
「藤は、おまえの名前でもあるな」
「そうだね。あれ、分かるの」
「藤次」
過去に戻れるなら、やり直したいことがたくさんある。伝えたいこともたくさんある。
だというのに、いま自分が何をすべきか、どうすべきかが分からない。
きっと選択を誤れば、今のこの穏やかなひとときでさえ変えたい過去になってしまうかもしれないと分かっていても。
「ん」
「たとえば……だ。おまえと、嫁さんと、子供と、その三人のうちだれか一人だけしか生き延びることができないなら、どうする」
「子供を取るよ。当たり前じゃない」
即答だった。
……彼は、全員助かる道を探す、とは、もう言わないのだ。
こいつがヤクモだったら、きっとそう言ってのけて、本当にその通りにしてしまうのだろう。
その助かる「全員」の範疇から、自分自身がすり抜けてしまいかねないことなんて気にも留めないで。
「なに、心理テストかなにか? ウィリーそういう仕事してるんだったっけ」
「いや」
子供はいつか大人になる。
そのまま、無邪気に大団円を信じる子供のままでいてほしいと願った結果が、ヤクモの最期だった。
彼は大人になりきることなく、笑って命を手放した。
だから躊躇いなく我が子の命だけを優先すると言い切った「大人」の彼を、その選択を、否定できるわけがなかった。
空港で嫁さんを乗せて、トランクへ土産やスーツケースを入れるのを手伝ってやった。
毎週金曜日の飲み友達として軽く自己紹介をして、引き続き藤次の車は海岸沿いを走り抜けていく。
藤次の嫁さん、由季は、彼が語っていた通り気の強くて喧嘩っ早そうな女だった。
そういう関係の一族の息子であった藤次とは、出会うべくして、だったのかもしれない。
確かにこいつなら、不味いコーヒーをぶちまけるくらいはやっていそうだ。
「ていうか駄目だわ。捕まんない。角南の連中――あ」
由季が旦那へ話しかけようとして、こちらを見て慌てて口を閉ざす。
なんとなく察しがついたので、こちらから切り出してやる。
「藤次、ちょっと一服したいんだがそのへんで止まってもらっていいか」
転移能力を使っているところを藤次には見られているが、少なくとも由季は、自分のことを一般人……カタギだと思っている。
席を外してやったほうが話しやすいものもあるだろう。
「あれ、ウィリー煙草なんて吸うっけ」
「うるせえ、嫁の話くらい聞いてやれ」
仕方なしに海岸沿いの貸倉庫前で、車が止まる。
渡されていた書類からして、角南ならびに空地会との抗争まではあと数日ほど時間があるはずだ。
車から降りて、彼らが話しやすいだろう距離まで遠ざかる。
車窓から俺の姿が確認できて、なおかつ話し声が聞き取れず読唇もできない距離。
加えて背を向けていれば問題なかろう。
「なあ」
「なにー?」
「おまえ、矢渡って」
「あ、うん。いまちょっと実家で揉めててさ。それが済んだら姫野になるよ」
ということは、嫁さんの名前は姫野由季、か。
「姫。単語帳のNo22。princess、heroineという意味を持つ、か弱くも高潔な日本の女性に使われていた漢字……」
「あはは、由季はお姫様ってたまじゃないけど。まあ、俺にとってはヒロインみたいなものだよね」
由季もちょっと前まではレディースで連合相手に単身飛び込むような女の子だったんだよ、と、嫁さんとの思い出話が始まった。
コーヒーをごちそうしたら、こんな泥水飲ませるなって顔面にコーヒーぶっかけられたとか。
やはりこの世界の第三者から見ても、こいつのコーヒーは泥水の味だったようである。
文化の違いでもなんでもなかった。
「そういえば、俺の名前漢字で書ける?」
「……スドウヤクモ、ってどう書くんだ」
「えー? それ昔の恋人の名前でしょ。俺の漢字は聞かないの」
矢渡の漢字はもう書ける。
仕事で目を通した書類に、彼の名前が記載されていたからだ。
それを知らない彼は、落胆した様子でこちらの問いに答えた。
「うーん。スドウはたぶん必須の須に、藤って書く一般的なやつじゃないかな。あー、東かも。漢字は同じ読みで違う書き方、違う意味のもの多いから」
「そうか」
この国の言葉では、アイという音には愛や哀があって、いとしいと思う感情と哀しみと、極端に意味の異なる漢字が同じ読みをする。
あのころは、日本語に三種類の文字種が存在するということも分かっていなかった。
日本語ができるようになれば、自然とヤクモの名前も書けるようになるのだとばかり思っていたが、そう簡単なものではなかったらしい。
名前の読みだけでヤクモの実家や血縁者を今になって探すのは、難しそうだ。
「ヤクモってのはたぶん八つの雲なんじゃない? 安いに曇とか耶馬台国の耶とかも聞いたことはあるけど、人名でヤクモとして使ってるの俺見たことないな」
青い月が、後方へ流れていく景色の中でひとつだけ動かずに車窓を覗き続けている。
「……恋人さん、日本人だったんでしょ。言われたことない?」
「なにを」
「月がきれいですねって」
月か。考えてみれば、一緒に夜空を見るなんて情緒感あふれる“デート”はしたことがなかったはずだ。
「日本ではね、愛してるって意味になるんだよ、それ」
「今のフレーズのどこにLOVEの要素があるんだ?」
「昔の日本人男性は、アイラブユーを訳すことができなかったんだって。それで、そういう日本語訳になっちゃったって聞くよ。俺もよく知らないけど、このフレーズ自体はわりと有名だからね」
昔って、どれくらい前の話になるんだろう。
ヤクモの生きた時代が、この世界で何年前のことなのかも分からない。
黙りこくった俺に、トージが別の話を始める。
「八雲さんて、いくつくらいの人?」
「十二から十六くらいまで、一緒に居た」
「うひゃあ犯罪」
「抱かれたのは俺の方だけどな」
あちらの世界では、十五にもなれば成人扱いだった。
だから仕事を割り当てられた時にすんなり関係を持てたのだが、こちらでは十八までは保護対象、二十からが成人扱いだという。
それを考えると、あの時のヤクモには悪いことをした。
スドウヤクモ。須藤、八雲。
その名前で本当に合っているのか定かでない、いつの時代の人間なのかもわからない。
騙されていると知りながら、悪魔に気持ちを傾けてしまった哀れな子供。
「藤は、おまえの名前でもあるな」
「そうだね。あれ、分かるの」
「藤次」
過去に戻れるなら、やり直したいことがたくさんある。伝えたいこともたくさんある。
だというのに、いま自分が何をすべきか、どうすべきかが分からない。
きっと選択を誤れば、今のこの穏やかなひとときでさえ変えたい過去になってしまうかもしれないと分かっていても。
「ん」
「たとえば……だ。おまえと、嫁さんと、子供と、その三人のうちだれか一人だけしか生き延びることができないなら、どうする」
「子供を取るよ。当たり前じゃない」
即答だった。
……彼は、全員助かる道を探す、とは、もう言わないのだ。
こいつがヤクモだったら、きっとそう言ってのけて、本当にその通りにしてしまうのだろう。
その助かる「全員」の範疇から、自分自身がすり抜けてしまいかねないことなんて気にも留めないで。
「なに、心理テストかなにか? ウィリーそういう仕事してるんだったっけ」
「いや」
子供はいつか大人になる。
そのまま、無邪気に大団円を信じる子供のままでいてほしいと願った結果が、ヤクモの最期だった。
彼は大人になりきることなく、笑って命を手放した。
だから躊躇いなく我が子の命だけを優先すると言い切った「大人」の彼を、その選択を、否定できるわけがなかった。
空港で嫁さんを乗せて、トランクへ土産やスーツケースを入れるのを手伝ってやった。
毎週金曜日の飲み友達として軽く自己紹介をして、引き続き藤次の車は海岸沿いを走り抜けていく。
藤次の嫁さん、由季は、彼が語っていた通り気の強くて喧嘩っ早そうな女だった。
そういう関係の一族の息子であった藤次とは、出会うべくして、だったのかもしれない。
確かにこいつなら、不味いコーヒーをぶちまけるくらいはやっていそうだ。
「ていうか駄目だわ。捕まんない。角南の連中――あ」
由季が旦那へ話しかけようとして、こちらを見て慌てて口を閉ざす。
なんとなく察しがついたので、こちらから切り出してやる。
「藤次、ちょっと一服したいんだがそのへんで止まってもらっていいか」
転移能力を使っているところを藤次には見られているが、少なくとも由季は、自分のことを一般人……カタギだと思っている。
席を外してやったほうが話しやすいものもあるだろう。
「あれ、ウィリー煙草なんて吸うっけ」
「うるせえ、嫁の話くらい聞いてやれ」
仕方なしに海岸沿いの貸倉庫前で、車が止まる。
渡されていた書類からして、角南ならびに空地会との抗争まではあと数日ほど時間があるはずだ。
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