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章1
幕間 【どこかの世界の誰かの話:転輪】 (2)※★
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日本、か。
今更俺一人で行って何になる。
一番故郷に帰してやりたかった子供を見殺しにしておいて、自分ひとりそれこそほとんど観光目的でここまで来てしまった。
この街にたどり着いてから、積極的にヤクモの故郷を探そうとしていなかったのも、そういう迷いのようなものがあったからだ。
自分が行こうが行くまいが、とうにいなくなってしまったヤクモには関係のないことだと分かっているのに。
喫煙所までの道すがら、すれ違う人の波の中ふいに振り返る。
それは、懐かしい香りだった。
「――!」
通り過ぎる人の群れをかき分け、”その男”の手を掴む。
彼と同じにおい。
黒髪に、見慣れた背中。
ヤクモ、と咄嗟に呼びそうになって、言葉は音にならずに消えた。
「うおっと! な、なんですか?」
急に腕を掴まれて、彼が振り向いた。
違う顔だった。
外見もがきんちょと呼べる歳の頃ではなく、もう二十代だろう。
けれど、分かってしまった。
自分が、人ではない存在になったからこそ。
この男が――ヤクモと同じ魂を持っていることを。
彼は既に、故郷の――この世界の、日本という国に転生していたのだ。
自分が気を揉まなくとも、彼はふるさとに魂だけ帰り着いて、ふたたび生を受けていた。
それはただ、喜ばしいことだった。
なのに、最後の希望の灯が消えたような心地になる。
「……悪い。人違い、だった」
じゃあやっぱり、俺の知っている”ヤクモ”はもう死んだんだな。
あのあと、いつものミラクルで危機を脱してたりするんじゃないかとか、どこかで生きていてひょっこり帰ってくるんじゃ、なんて、淡い期待を抱いたこともあった。
今日ここで彼に出会うまで、心のどこかで、ずっと。
掴んだままの腕を放す。
あの時とは違い、今度は俺の方から。
「俺、昔の恋人にでも似てました?」
「……そうだと言ったら、あんた相手してくれんのか?」
自嘲気味に言い放つ。
男はきょとんと目を瞬かせて、それから笑った。
「一応俺、まだ学生なんで。高いお金は払えないけど……俺でよければ」
顔も背格好もまるで違う。
年齢だってあの日のあいつとは違う。
なのに。
なんでそういう仕草だけ、似てんだよ。
-----
よくわからないまま転がり込んだホテルは、どうやら彼がいま宿泊している部屋らしかった。
彼のにおいのするシーツの上に沈んで、乗り上げてくる男を見上げる。
「名前は?」
「……そういうの、いいだろ」
「じゃあ、君の昔の恋人の名前は?」
実際は恋人にすらなってやれなかったが。
それを訊いてどうする気だ。
「……スドウ、ヤクモ」
「日本人かあ。よし、ベッドではヤクモって呼んでくれ。俺は君のこと、なんて呼べばいいかな?」
「……なんでもいい」
ここで昔の名を呼びあったって、虚しいだけだ。
こちらの態度に苦笑して、男がまあいっか、と服を脱がしにかかる。
「おまえ、男抱けんのか?」
「いや、初めてだよ」
「……女は?」
「実は抱いたことない」
男相手ってどうすんの、と言わんばかりに首を傾げたその様子が、そのままあの日の子供に重なった。
喉の奥が熱く締め付けられる。
泣きたくなるのを深い溜息で誤魔化して、彼を睨みつけた。
「それでよくあんな陳腐な誘いに乗ったな」
「ええ、あれ嘘なの? すごい演技派。てっきり俺、アジア系の恋人が紛争か何かで死んじゃったばっかり……とかかなって思ったんだけど」
もたもたと服を剥ぎ取ろうとしていた男の手が止まった。
なし崩し的にここまでついてきてしまったが、やめるなら今だ。
「このあたりは日本人観光客狙って引っかける連中しかいねえよ。気いつけろ。……知らなかったんなら、やめとくか」
頷け。
やめにしようと笑って、俺をここから追い出してくれ。
おまえの新しい人生にまで、干渉する気はなかったんだ。
きっと俺はいつかまた、おまえを不幸にするはずだから。
「俺は……君と一緒にいたくて誘いに乗ったんだけど。やっぱそういうの好きな人たちって、童貞はイヤなもん?」
さらっとした口説き文句に、思わず言葉が詰まる。
嫌じゃない。嫌なもんか。
おまえならなんでも構わない。
今度こそ、なんて馬鹿なことを考えてしまうくらいには。
おまえが好きだった。ずっと。
もうずっと、遠ざかってしまったあの日から。
「え、なんで黙り込むの。あれ? おーい、聞こえてる?」
「……俺で、いいのかよ」
「ああ、うん。ていうかね、君がいいんだよ」
なんでかわかんないけど。
そう言って彼が照れくさそうに頬を掻く。
彼は今でも、直感で行動する性質らしい。
名前も訊かなかった。
ただ一晩をともに過ごして、それ以上語ることなく、彼とはそこで別れた。
俺は、日本への渡航を決めた。
日本はどうやら色々と面倒な国なのだそうで、身分証のひとつも持っていないとほとんど何もできないのだという。
なんの準備もなく転移で向かってもよかったが、それでお咎めを受けて行動が制限されては厄介だ。
もともとこの世界の住人ではない自分には、身分証などありはしない。
俺はねぐらを同じくしていた人間からとある犯罪組織を紹介してもらい、そこからアジア、中国人関係者、日本のマフィア――指定暴力団、日本に滞在しているネパール人関係者、と細い伝手を渡って身分証をこしらえた。
暗殺と諜報活動は俺の本職だ。
今は転移能力に不老不死、実体化を解けば不可視のうえ物理ダメージも通らないときた。
ある程度”活躍”して、日本行きを伴う仕事を得るまで……そう難しい道のりではなかった。
今更俺一人で行って何になる。
一番故郷に帰してやりたかった子供を見殺しにしておいて、自分ひとりそれこそほとんど観光目的でここまで来てしまった。
この街にたどり着いてから、積極的にヤクモの故郷を探そうとしていなかったのも、そういう迷いのようなものがあったからだ。
自分が行こうが行くまいが、とうにいなくなってしまったヤクモには関係のないことだと分かっているのに。
喫煙所までの道すがら、すれ違う人の波の中ふいに振り返る。
それは、懐かしい香りだった。
「――!」
通り過ぎる人の群れをかき分け、”その男”の手を掴む。
彼と同じにおい。
黒髪に、見慣れた背中。
ヤクモ、と咄嗟に呼びそうになって、言葉は音にならずに消えた。
「うおっと! な、なんですか?」
急に腕を掴まれて、彼が振り向いた。
違う顔だった。
外見もがきんちょと呼べる歳の頃ではなく、もう二十代だろう。
けれど、分かってしまった。
自分が、人ではない存在になったからこそ。
この男が――ヤクモと同じ魂を持っていることを。
彼は既に、故郷の――この世界の、日本という国に転生していたのだ。
自分が気を揉まなくとも、彼はふるさとに魂だけ帰り着いて、ふたたび生を受けていた。
それはただ、喜ばしいことだった。
なのに、最後の希望の灯が消えたような心地になる。
「……悪い。人違い、だった」
じゃあやっぱり、俺の知っている”ヤクモ”はもう死んだんだな。
あのあと、いつものミラクルで危機を脱してたりするんじゃないかとか、どこかで生きていてひょっこり帰ってくるんじゃ、なんて、淡い期待を抱いたこともあった。
今日ここで彼に出会うまで、心のどこかで、ずっと。
掴んだままの腕を放す。
あの時とは違い、今度は俺の方から。
「俺、昔の恋人にでも似てました?」
「……そうだと言ったら、あんた相手してくれんのか?」
自嘲気味に言い放つ。
男はきょとんと目を瞬かせて、それから笑った。
「一応俺、まだ学生なんで。高いお金は払えないけど……俺でよければ」
顔も背格好もまるで違う。
年齢だってあの日のあいつとは違う。
なのに。
なんでそういう仕草だけ、似てんだよ。
-----
よくわからないまま転がり込んだホテルは、どうやら彼がいま宿泊している部屋らしかった。
彼のにおいのするシーツの上に沈んで、乗り上げてくる男を見上げる。
「名前は?」
「……そういうの、いいだろ」
「じゃあ、君の昔の恋人の名前は?」
実際は恋人にすらなってやれなかったが。
それを訊いてどうする気だ。
「……スドウ、ヤクモ」
「日本人かあ。よし、ベッドではヤクモって呼んでくれ。俺は君のこと、なんて呼べばいいかな?」
「……なんでもいい」
ここで昔の名を呼びあったって、虚しいだけだ。
こちらの態度に苦笑して、男がまあいっか、と服を脱がしにかかる。
「おまえ、男抱けんのか?」
「いや、初めてだよ」
「……女は?」
「実は抱いたことない」
男相手ってどうすんの、と言わんばかりに首を傾げたその様子が、そのままあの日の子供に重なった。
喉の奥が熱く締め付けられる。
泣きたくなるのを深い溜息で誤魔化して、彼を睨みつけた。
「それでよくあんな陳腐な誘いに乗ったな」
「ええ、あれ嘘なの? すごい演技派。てっきり俺、アジア系の恋人が紛争か何かで死んじゃったばっかり……とかかなって思ったんだけど」
もたもたと服を剥ぎ取ろうとしていた男の手が止まった。
なし崩し的にここまでついてきてしまったが、やめるなら今だ。
「このあたりは日本人観光客狙って引っかける連中しかいねえよ。気いつけろ。……知らなかったんなら、やめとくか」
頷け。
やめにしようと笑って、俺をここから追い出してくれ。
おまえの新しい人生にまで、干渉する気はなかったんだ。
きっと俺はいつかまた、おまえを不幸にするはずだから。
「俺は……君と一緒にいたくて誘いに乗ったんだけど。やっぱそういうの好きな人たちって、童貞はイヤなもん?」
さらっとした口説き文句に、思わず言葉が詰まる。
嫌じゃない。嫌なもんか。
おまえならなんでも構わない。
今度こそ、なんて馬鹿なことを考えてしまうくらいには。
おまえが好きだった。ずっと。
もうずっと、遠ざかってしまったあの日から。
「え、なんで黙り込むの。あれ? おーい、聞こえてる?」
「……俺で、いいのかよ」
「ああ、うん。ていうかね、君がいいんだよ」
なんでかわかんないけど。
そう言って彼が照れくさそうに頬を掻く。
彼は今でも、直感で行動する性質らしい。
名前も訊かなかった。
ただ一晩をともに過ごして、それ以上語ることなく、彼とはそこで別れた。
俺は、日本への渡航を決めた。
日本はどうやら色々と面倒な国なのだそうで、身分証のひとつも持っていないとほとんど何もできないのだという。
なんの準備もなく転移で向かってもよかったが、それでお咎めを受けて行動が制限されては厄介だ。
もともとこの世界の住人ではない自分には、身分証などありはしない。
俺はねぐらを同じくしていた人間からとある犯罪組織を紹介してもらい、そこからアジア、中国人関係者、日本のマフィア――指定暴力団、日本に滞在しているネパール人関係者、と細い伝手を渡って身分証をこしらえた。
暗殺と諜報活動は俺の本職だ。
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