巫啼館

秦江湖

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六月の蜃気楼

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「――というわけなんです、久我(くが)先生」


 六月の湿った風が吹き抜ける大学の研究室。積み上げられた古書の山に囲まれて、私は母の遺品から見つけた一通の手紙をデスクに置いた。 

 久我教授は、私の恩師だ。いつも難しい顔をして眼鏡を弄っているが、母の古い知り合いで、子供のころから慣れ親しんだ間柄でもあった。父親不在の私にとっては父親代わりのような、唯一の頼れる存在でもある。


「御影(みかげ)村、ですか。西伊豆の最果てにある小さな村だそうです。母が誰にも見せず、宛名だけ書いて隠し持っていたんですよ。『御影 宗厳 様』。なんだか仰々しい名前ですよね」


 私は努めて明るい声で言った。一ヶ月前に母・小夜子(さよこ)を亡くし、葬儀や片付けに追われていたが、じっとしているのは性に合わない。


「父は私が物心つく前に亡くなり、今度は母も逝ってしまった。先生、私、ついに天涯孤独になっちゃいました。だから、せめて母が最後に気にしていたこの村へ行って、自分のルーツでも探してみようかなって。ライターの仕事のネタにもなりそうですしね」


 笑ってみせた私に対し、教授はすぐには答えなかった。彼は手紙をじっと見つめたまま、一瞬、呼吸を止めたように見えた。

「……御影、か。誠君、その村は……」 

「先生? 何か知ってるんですか?」

 「いや……」

 教授は視線を泳がせ、歯切れの悪そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。


「……少し、古臭い因習の残る村だと聞いたことがあるだけだ。小夜子さんがその村の出身だとは知らなかった。……あまり、深入りはしなさんな。用が済んだら、すぐに戻ってきなさい」


「因習と言うと、この村には巫女伝説があるそうですね。調べたんですが、なんでも昔に飢饉と不漁が重なって、巫女が海神の嫁―― つまり生贄として崖から身を投げたとか」

「はは……。そんな伝説があるんだね」


 いつになく曖昧な教授の言葉に首を傾げながらも、私は「大丈夫ですよ!」と元気よく右手を挙げ、研究室を後にした。







それから数日後。 特急踊り子号を下りた下田駅は、初夏の強烈な日差しと、海水浴を待ちきれない観光客の活気に満ち溢れていた。からっとした「南伊豆」の明るい風に吹かれながら、私は西伊豆方面へ向かう路線バスに乗り込んだ。


 だが、バスが半島の西側へと進むにつれ、車窓の景色は表情を変えていく。  トンネルを抜けるたびに、海の色はコバルトブルーから深い藍色へと沈み、切り立った断崖が威圧的に迫ってくる。松崎を過ぎ、さらに南下して雲見の辺りまで来ると、空気は肌にまとわりつくような重い湿度を帯び始めた。


 南伊豆が光の当たる「表」だとしたら、ここは影の濃い「裏」だ。そんな直感が脳裏をよぎる。

 バスの終点で降り立った私を迎えたのは、鄙びた小さな漁村だった。 

 道ゆく住人たちは、どこにでもある田舎の風景そのものだ。道端で網を繕う老人に「こんにちは」と声をかければ、「東京からかね、暑い中ご苦労さん」と、気さくな返事が返ってくる。祟りだの呪いだのといった陰鬱な気配は、そこには微塵もなかった。


「……さて、母さんの手紙の場所は、あの上か」


 潮の匂いが混じる潮風に吹かれながら、私は海沿いの道を歩き出した。視線を上げると、崖の突端に、村を見下ろすようにそびえ立つ黒ずんだ巨大な木造建築が見えた。あれが、地図に記されていた「巫啼館(かなぎかん)」だろう。


 波止場へ続く道を、波音を聞きながら歩いていた、その時だった。

 ふと、視線の先に「異質なもの」が映った。

 波止場の先端。初夏の強烈な光を跳ね返すような真っ白な着物を纏い、優雅に日傘を差した女性が一人、海を見つめて佇んでいた。


 距離はあった。顔立ちまでははっきりとは見えない。  だが、その立ち姿の完璧さと、村の景色からそこだけが切り取られたような神々しさに、私は足を止めて見惚れてしまった。蜃気楼のように儚げで、けれど触れたら指が凍りつくような冷たさを予感させる美しさ。


 その瞬間、私のうなじにある、逆さの指のような痣が、熱い針を刺されたように鋭く疼いた。


「……っ」


 思わず首筋を押さえる。  彼女がゆっくりと、こちらを振り返ったような気がした。  

  そのまぶしすぎる美しさの側へ行きたい。  

 私の心は、その時、自分でも気づかぬうちに、取り返しのつかない深淵へと滑り落ちていた。
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