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26 他人の恋路②

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遅刻したからと積み増された仕事をこなしていると、律儀にも日下が訪ねてきたのは昼休みのことだった。
例のごとく昼食をくいっぱぐれていた羊子に差し入れまでもってきてくれたので、仕方なく隣の席をすすめると、中谷副部長の代わりの下見に付き合ってほしいとお願いされてしまった。

ただでさえ食費を切り詰めている身としては、「経費で豪華なホテルディナー」という誘惑には白旗をふるしかない。
そうして、羊子は都内の高級ホテルのラウンジで、日下とテーブルをともにしている。

「なかなかいいねー。夜のお茶会も」

アッサムティーの香りを楽しみながら、日下が上機嫌にのたまう。
羊子はズラッと並んだサンドイッチやケーキの載った3段重ねのスタンドを愛でつつ、温かいスープを口に入れてほうっとため息をついた。

「おいしそうに食べるねー。それだけでも、連れてきた甲斐があるけど、一応、うちの中谷の代わりにしっかり分析も頼むよ」
「中谷副部長と来なくて本当によかったんですか?」

おそるおそる聞くと、どう猛な野獣を思わせるように目を細めた。

「ちょっとお仕置きが必要だったからねー。それより、どう? このホテルのアフターヌーンティーは土日は予約するのも難しいみたいだけど、女性から見てやはり魅力的なのかな?」

触らぬ神にたたりなしという言葉が頭に浮かんだ。
不穏すぎる「お仕置き」という言葉は聞かなかったことにしよう。そうしよう。

羊子は引きつった顔で、相槌を打った。

「執事がいるお家がコンセプトってHPに書いてありましたけど、まさにって感じで憧れるのわかります。高いからなかなか来れないけど、その価値はありますね」
「執事かぁ。かしずかれたいってこと?」
「本物のお嬢様とかお姫様になった気分になれるなんてなかなかない非日常感ですから、それにお金を払うのはわかる気がします。ホストクラブにはまる女性の心理に近いというか」
「なるほどねー。それにしても、都内のホテルだけでも、夜のハイティーで20以上の競合がいるのは意外だったなぁ。何か特別感を出さないと、真っ暗にするテーマだけじゃ差別化は出来なさそうだねー。うさぎちゃんは何か気づいたことある?」
「うーん。遅い時間で帰るだけだからと思ってましたけど、意外にフルでおしゃれしてる女性が多いなあとは感じました」
「確かに。薄暗いけど、みんな化粧も服もバッチリだよねー。女性の社交場って感じで、男が交じるには敷居が高いな~」
「ホテルっていう場所柄もあるんでしょうけど、やっぱりハイティーっていうお姫様とかお嬢様感がそうさせるんですかね」
「お姫様やお嬢様かあ。演出としてはありだけど、暗闇の中では難しいなー」

日下はお手上げポーズをする。
しかし、羊子はだんだん考えるのが楽しくなってきて、次々とアイデアを出していく。

「闇鍋的な要素を入れるとか?」
「そんな大学生的なノリは需要ないんじゃないかなー」
「じゃあ、専用執事を用意して、すべて食べさせてもらうとか?」
「介護でしょ、それ。執事にイケメンを用意しても見えないから特典にはならないかなぁ」
「じゃあ、じゃあ、いっそ泊まりを前提にパジャマパーティにするとか?」
「……コンセプトはあるの?」
「それこそ、お姫さまたちのパジャマパーティじゃないですか」

かわいい寝巻きは贅沢なシルクで着ているだけで気持ち良く、クッションも肌触りのいい高級品を敷き詰め、執事にサーブされる夢のようなひととき。
思いつくままにコンセプトの枝葉を広げると、日下から「報告書にして提出してね」と言われてしまった。

「私、財務部の子なんですけど」
「大丈夫。次の異動の時期に、必ず君を引っこ抜いてあげるからさ」
「ありがた迷惑です。今の部署が気に入ってるんです」

主に定時に上がれてダブルワークできる点が。
はっきり拒絶する羊子を面白そうに見てから、日下は思い出したような顔をして話を変えた。

「そういえば、この前のプールのイベントでは悪かったね」

日下の気軽な調子に、羊子も「本当ですよ」と応じようとして、ーー止まる。

(いま、なんて?)

錆びついた機械のようにぎこちない動作で、日下を見上げた。

メイプルとして参加した昨夜のことを言ったのだろうか。
おさげでメガネをした、借りの姿をした羊子に。

何を考えているのかわからない、いつも通りの笑顔がそこにあった。
しかし、目は笑っておらず、羊子はつばを飲みこんだ。

「……なんのことですか?」
「服務規程には違反するけど、そんな警戒しなくてもいいんだよー。ただ、うちの事業部の不始末で溺れかけさせたことを謝りたくてさ」
「おっしゃられてるいみがわかりません」
「……君、自分のうなじにほくろが3連であるの知らないんでしょう?」

咄嗟に、両手で首の後ろを隠す。
語るに落ちるとはこのことだと気づいた時には、ニンマリした日下の顔があった。

「うさぎちゃんは素直で可愛いよね~。中谷の次に好みだよ」
「のろけをぶっこまないでくださいよ。ただでさえ混乱中なのに」
「秘密のある同士、仲良くしようね」

言いたかったことはこれかと脱力する。
つまり、中谷副部長との仲は黙っておくようにと言いたかったのだ。
他人の恋路など興味がないので、おとなしくうなずいておいた。

残りのお茶はとてもじゃないが味が感じられなかった。
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