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1章 逃亡篇
1 凍える指さき
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(ああ、やっちゃった。どうしよう……)
凍ってしまったドアの取っ手から、白井ゆきは慌てて手を離した。
その拍子に砕けた氷づけのドアノブは、形を保てず、砂のように落ちていく。
足もとの氷の砂を見ながら、ゆきは冷たい指をギュッと握りこむ。
これ以上、冷気が漏れないよう、強く強く、赤くなってもさらに。
(いいこ。そうよ、いいこね)
子猫にでも言い聞かせるよう、氷の力で疼く指に念じていると、手に温度が戻ってきた。
手のひらをグーパーグーパーして、何度も確かめる。
雪の結晶はもう出てこない。
ようやく息を吐いた。
(もう大丈夫、かな。……びっくりした)
いつもは動かない表情筋が、それでも、ひきつっているのを感じる。
それぐらい、学校で力を使ってしまった自分が信じられなかった。
ずっと気をつけていたのにな、と独りごちる。
早く家に帰り、湯たんぽを入れた布団にくるまってしまいたかった。
そうすれば、眉や口くらいは動くようになるのだ。
母だって、「お湯でほぐれると、けっこう喜怒哀楽わかるのにねえ」と言ってくれる。
(でも、これ、どうしよう。放置しちゃいたいけど)
目の前の扉は凍ったままだ。
いくら廊下がヒーターで暖かいとはいえ、溶けるまでには数時間かかってしまうだろう。
そして、ゆきには氷を出せる不思議な力はあるが、それを解く力はなかった。
(はあ。さすがに、溶ける前に気づいちゃうよね。そしたら騒ぎになるだろうし、それは困る。でも閉じこめちゃうのはなあ。だからって優くんと顔合わせて、またわけのわからない嫌味言われるのは……。うん、もう、うんざりだよ)
教室の中には、会いたくなかった幼なじみの松下優がいる。
扉を凍らせる直前に「役立たず」と聞こえたから確かだった。動揺した理由もその声がしたからだった。
ゆきが聞き間違うことはなく、耳は人よりも数倍良い。そういう「性質」なのだ。
(……だってわたし、化け物だしね)
役立たずで、化け物。だから、幼なじみの優にもいつも嫌味を言われ、諭される。
態度を決めかねて、扉の向こうに意識を向けた。
教室からは、閉じ込められているとは気づいていない会話が聞こえる。
時おりギャハハといった笑い声もまじる。
ーーあんなに女子からイビられて、ゆきがなんで学校に来られるのか、心底わからないよね。まあ、ゆきはもともと暗くて友だちは1人もいなかったし、鈍感だからそういうのも感じないのかもしれないけど。
ーーうわ、鬼だよ、こいつ。お前が構うから、女子はみんな白井を無視できなくて、徹底的にいじめてたんだろ?
ーーまあ、結果的にはそうかもしれないけど。俺と一緒にいるって決めたのもゆきだし、犬みたいに喜んで「待て」してたんだから、俺はぜ~んぜん悪くないでしょ。
幼なじみの言葉にはため息しか出なかった。
役立たずな幼なじみを躾けているのだと平然と言う。
ーーでもさあ、白井とは高校別なんだろ?
ーーそうなんだよ。所詮、ゆきは犬は犬でも駄犬だからさ。とにかく金がないから、同じ学校は受けられないんだって。あんなに受けろって言い聞かせてたのに、やっぱり無理って、受験日当日に現れなかったのはありえなかったよね。ゆきが貧乏なのは知ってるけど、奨学金でも入れるわけだし、ご主人様に楯突くなんていい度胸でしょ。
ーーおいおい、主人て! それ、もう犬じゃなくて奴隷じゃん!
(そこまで言うの……)
戸と壁の隙間を埋めるように氷が張り巡らされているため、簡単ではないだろうが、力任せに動かせば開きそうに見える。
(わたしがしなくても、誰かが助けてくれるよね)
むりやり納得して離れようとした。
その時、誰かの大きなくしゃみが、廊下まで届いた。
ーーあれ、なんか寒くないか。
ーーたしかに。廊下の窓でも開いてるんじゃないかな。
誰かが扉に近づいてくる気配がした。
(まずい、逃げなきゃ)
人影がすりガラスに映る前に、私は身体を反転させ、走りだした。
ーーあれ、なんだ? 開かないぞ!
ドアを無理やり動かそうとする音が響く。
もしかしたら蹴った音だったのかもしれない。
誰何する声も聞こえた気がした。
でも、それ以上、追ってくる者はいなかった。
校舎から出て、そのまま裏門に向かう。もう下校時間を過ぎているので、幸い人はまばらだった。
誰もゆきを見ていなかった。
凍ってしまったドアの取っ手から、白井ゆきは慌てて手を離した。
その拍子に砕けた氷づけのドアノブは、形を保てず、砂のように落ちていく。
足もとの氷の砂を見ながら、ゆきは冷たい指をギュッと握りこむ。
これ以上、冷気が漏れないよう、強く強く、赤くなってもさらに。
(いいこ。そうよ、いいこね)
子猫にでも言い聞かせるよう、氷の力で疼く指に念じていると、手に温度が戻ってきた。
手のひらをグーパーグーパーして、何度も確かめる。
雪の結晶はもう出てこない。
ようやく息を吐いた。
(もう大丈夫、かな。……びっくりした)
いつもは動かない表情筋が、それでも、ひきつっているのを感じる。
それぐらい、学校で力を使ってしまった自分が信じられなかった。
ずっと気をつけていたのにな、と独りごちる。
早く家に帰り、湯たんぽを入れた布団にくるまってしまいたかった。
そうすれば、眉や口くらいは動くようになるのだ。
母だって、「お湯でほぐれると、けっこう喜怒哀楽わかるのにねえ」と言ってくれる。
(でも、これ、どうしよう。放置しちゃいたいけど)
目の前の扉は凍ったままだ。
いくら廊下がヒーターで暖かいとはいえ、溶けるまでには数時間かかってしまうだろう。
そして、ゆきには氷を出せる不思議な力はあるが、それを解く力はなかった。
(はあ。さすがに、溶ける前に気づいちゃうよね。そしたら騒ぎになるだろうし、それは困る。でも閉じこめちゃうのはなあ。だからって優くんと顔合わせて、またわけのわからない嫌味言われるのは……。うん、もう、うんざりだよ)
教室の中には、会いたくなかった幼なじみの松下優がいる。
扉を凍らせる直前に「役立たず」と聞こえたから確かだった。動揺した理由もその声がしたからだった。
ゆきが聞き間違うことはなく、耳は人よりも数倍良い。そういう「性質」なのだ。
(……だってわたし、化け物だしね)
役立たずで、化け物。だから、幼なじみの優にもいつも嫌味を言われ、諭される。
態度を決めかねて、扉の向こうに意識を向けた。
教室からは、閉じ込められているとは気づいていない会話が聞こえる。
時おりギャハハといった笑い声もまじる。
ーーあんなに女子からイビられて、ゆきがなんで学校に来られるのか、心底わからないよね。まあ、ゆきはもともと暗くて友だちは1人もいなかったし、鈍感だからそういうのも感じないのかもしれないけど。
ーーうわ、鬼だよ、こいつ。お前が構うから、女子はみんな白井を無視できなくて、徹底的にいじめてたんだろ?
ーーまあ、結果的にはそうかもしれないけど。俺と一緒にいるって決めたのもゆきだし、犬みたいに喜んで「待て」してたんだから、俺はぜ~んぜん悪くないでしょ。
幼なじみの言葉にはため息しか出なかった。
役立たずな幼なじみを躾けているのだと平然と言う。
ーーでもさあ、白井とは高校別なんだろ?
ーーそうなんだよ。所詮、ゆきは犬は犬でも駄犬だからさ。とにかく金がないから、同じ学校は受けられないんだって。あんなに受けろって言い聞かせてたのに、やっぱり無理って、受験日当日に現れなかったのはありえなかったよね。ゆきが貧乏なのは知ってるけど、奨学金でも入れるわけだし、ご主人様に楯突くなんていい度胸でしょ。
ーーおいおい、主人て! それ、もう犬じゃなくて奴隷じゃん!
(そこまで言うの……)
戸と壁の隙間を埋めるように氷が張り巡らされているため、簡単ではないだろうが、力任せに動かせば開きそうに見える。
(わたしがしなくても、誰かが助けてくれるよね)
むりやり納得して離れようとした。
その時、誰かの大きなくしゃみが、廊下まで届いた。
ーーあれ、なんか寒くないか。
ーーたしかに。廊下の窓でも開いてるんじゃないかな。
誰かが扉に近づいてくる気配がした。
(まずい、逃げなきゃ)
人影がすりガラスに映る前に、私は身体を反転させ、走りだした。
ーーあれ、なんだ? 開かないぞ!
ドアを無理やり動かそうとする音が響く。
もしかしたら蹴った音だったのかもしれない。
誰何する声も聞こえた気がした。
でも、それ以上、追ってくる者はいなかった。
校舎から出て、そのまま裏門に向かう。もう下校時間を過ぎているので、幸い人はまばらだった。
誰もゆきを見ていなかった。
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