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1章 逃亡篇
2 先祖返り
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家に帰りつくと、母が洗面所で倒れていた。
「おかあさんっ!」
駆け寄ると、母は床に顔をつけたまま、にへらと笑う。
「もう帰ったのねえ。少しのぼせちゃったからモヤモヤしてただけよぉ」
「……だれかに見られたらどうするの」
「大丈夫よお。誰も来ないしぃ。お風呂のあとの床はひんやりして気持ちいいわあ」
暖房のない部屋の温度は外気と変わらない。
母は、うんしょ、とようやく身体を起こし、ゆきを見上げた。
自分の母ながら、彼女はとても美しい人だった。
墨汁のように濃い黒髪や目は、娘のゆきでさえ息をのみたくなる。
精気のない白い肌はきめ細かく、顔にはしわひとつない。
化粧もしていないのに唇は赤く、上がった口角はきれいな三日月のようだった。
雪女の特徴そのままの美貌の母。
見た目はよく似た親子と言われるが、ゆきは表情のない市松人形みたいと言われがちだった。
一方は母は表情豊かで、憎めない。
ゆきは小さくため息をついた。
「引っ越すまで、お風呂入るの禁止って言ったでしょ」
「あらぁ、でもぉ、さっきようやくお仕事終わったのよぉ。シャワーだけじゃこの疲れは癒せないわぁ」
間延びした語尾で、おっとりと母が言う。
危機感のなさに脱力した。
「モヤモヤしてたの怒ってるのかしらぁ。ごめんなさいねぇ、ゆきちゃん」
「モヤモヤしてたんだ……。おかあさんはもうちょっと危機意識をもったほうがいいよ。ばれたら引っ越しどころじゃないんだからね」
「そんなへまはしないわよぉ。何年雪女をやってると思ってるのぉ?」
自信たっぷりの母に、ゆきは胡乱な目を向ける。
モヤモヤとは、人型ではなく、身体を霧状にできることを言う。
各地に残された伝承にもあるが、霧状に姿を変えることで人の前から忽然と姿を消すことができるのだ。
自在に操れる能力ではあるが、熱すぎるものにふれると人型を保つのが難しいというデメリットもあった。
「疲れてるところにお風呂に入ったら、そりゃモヤモヤするだろうから、お風呂禁止にしてたんだよ」
「でもぉ。どうしてもぉ。入りたかったのよねぇ」
母は欲望に忠実で、あまりゆきの言うことを聞いてくれない。
それよりも、と母は話題を変える。
楽しいことを思い出したと目をキラキラさせた。
「そういえば、言えたのぉ? 優君に引っ越しのこと」
言葉に詰まった。
すぐに察した母が、ゆきをじっと見てくる。
「言えなかったのぉ? あらあらぁ、もう一週間しかないのにぃ。先延ばしにすると優君切れちゃいそうねぇ」
「……引っ越しの件は黙ってることにしたの」
「あらぁ、付き合っているのに、薄情ねぇ」
「付き合ってないよ!」
なぜ母までが誤解しているのか。
母はゆきの否定をとりあわずに、おもしろそうにわらっている。
「別れの言葉くらい言ってあげないとぉ、男は引きずるものよぉ」
含蓄のある言葉だが、ゆきには響かなかった。
ーーーーー
ゆきの母は先祖返りの雪女だ。
口と手からは雪と氷を出し、身体を自在に霧に変えられる。
霧状になれば、どこにでも飛んでいけるし、入れない場所はない。
熱には弱いが、短時間なら意思の力で人型を保つこともできるので、日常生活で雪女とバレることは稀だといえる。
ゆきがいることからもわかるように、子を残すこともできる。
母が雪女だとは知らずに父は早逝したらしい。
「手の冷たさにびっくりするくらいで、まったく疑っていなかったのぉ」と父のことをおかしそうに母は語る。
初潮を迎えると、力が発現したらしい。
子どものころは年齢通りの見た目だったが、生理になった中学三年生のあいだに急激に今の容姿に変わったそうだ。
今もゆきの年の離れた20代の姉にしか見えない。
母はゆきには力は継承しないだろうと楽観的だったらしい。
母の親戚に雪女がいないことが、根拠だった。
しかし、中学3年生でゆきが初潮を迎えた日に、母はその考えが甘かったことを知る。
身体の奥の痛みにゆきが身をよじった時、氷の結晶が口から息とともに漏れ出たのだ。
ゆきにも母のように雪女の力があった。
それは別にいい。
残念だったのは、力は感情に揺すぶられてコントロールが利かないことだった。
一方で、母ほどの強さはなく、霧状になることもできないのは幸いだった。
ゆきには人を凍らせるほどの力はなく、数センチの薄氷を生むことが精々。
それでも、力をコントロールできないのは脅威であり、都会に住むのは難しいと、早々にゆきと母は諦めた。
中学を卒業するとともに、雪の多い場所に引っ越すことを決めた。
母はもともと家でフリーランスでデザインの仕事をしていたから、どこにいても問題ないという。
お金がないので父の墓などもなく、骨壺を田舎に持っていけるから、身軽だった。
貧乏なせいで家にだれかを呼ぶこともできず、ゆきには優以外に親しい人もいない。
優に構われるから、女子からはずっと嫌われていた。
特に生理が来てからは、表情がより乏しくなり、怖いと陰口を言われた。
いじめられ表情が抜け落ちていったことも、さらに、人を遠ざけた。
引っ越してしまえば、だれもゆきを思い出すことはないだろう。
優でさえ、すぐに、表情さえとぼしい幼馴染のことなどすぐに忘れる。
ゆきはそう思っていた。
「おかあさんっ!」
駆け寄ると、母は床に顔をつけたまま、にへらと笑う。
「もう帰ったのねえ。少しのぼせちゃったからモヤモヤしてただけよぉ」
「……だれかに見られたらどうするの」
「大丈夫よお。誰も来ないしぃ。お風呂のあとの床はひんやりして気持ちいいわあ」
暖房のない部屋の温度は外気と変わらない。
母は、うんしょ、とようやく身体を起こし、ゆきを見上げた。
自分の母ながら、彼女はとても美しい人だった。
墨汁のように濃い黒髪や目は、娘のゆきでさえ息をのみたくなる。
精気のない白い肌はきめ細かく、顔にはしわひとつない。
化粧もしていないのに唇は赤く、上がった口角はきれいな三日月のようだった。
雪女の特徴そのままの美貌の母。
見た目はよく似た親子と言われるが、ゆきは表情のない市松人形みたいと言われがちだった。
一方は母は表情豊かで、憎めない。
ゆきは小さくため息をついた。
「引っ越すまで、お風呂入るの禁止って言ったでしょ」
「あらぁ、でもぉ、さっきようやくお仕事終わったのよぉ。シャワーだけじゃこの疲れは癒せないわぁ」
間延びした語尾で、おっとりと母が言う。
危機感のなさに脱力した。
「モヤモヤしてたの怒ってるのかしらぁ。ごめんなさいねぇ、ゆきちゃん」
「モヤモヤしてたんだ……。おかあさんはもうちょっと危機意識をもったほうがいいよ。ばれたら引っ越しどころじゃないんだからね」
「そんなへまはしないわよぉ。何年雪女をやってると思ってるのぉ?」
自信たっぷりの母に、ゆきは胡乱な目を向ける。
モヤモヤとは、人型ではなく、身体を霧状にできることを言う。
各地に残された伝承にもあるが、霧状に姿を変えることで人の前から忽然と姿を消すことができるのだ。
自在に操れる能力ではあるが、熱すぎるものにふれると人型を保つのが難しいというデメリットもあった。
「疲れてるところにお風呂に入ったら、そりゃモヤモヤするだろうから、お風呂禁止にしてたんだよ」
「でもぉ。どうしてもぉ。入りたかったのよねぇ」
母は欲望に忠実で、あまりゆきの言うことを聞いてくれない。
それよりも、と母は話題を変える。
楽しいことを思い出したと目をキラキラさせた。
「そういえば、言えたのぉ? 優君に引っ越しのこと」
言葉に詰まった。
すぐに察した母が、ゆきをじっと見てくる。
「言えなかったのぉ? あらあらぁ、もう一週間しかないのにぃ。先延ばしにすると優君切れちゃいそうねぇ」
「……引っ越しの件は黙ってることにしたの」
「あらぁ、付き合っているのに、薄情ねぇ」
「付き合ってないよ!」
なぜ母までが誤解しているのか。
母はゆきの否定をとりあわずに、おもしろそうにわらっている。
「別れの言葉くらい言ってあげないとぉ、男は引きずるものよぉ」
含蓄のある言葉だが、ゆきには響かなかった。
ーーーーー
ゆきの母は先祖返りの雪女だ。
口と手からは雪と氷を出し、身体を自在に霧に変えられる。
霧状になれば、どこにでも飛んでいけるし、入れない場所はない。
熱には弱いが、短時間なら意思の力で人型を保つこともできるので、日常生活で雪女とバレることは稀だといえる。
ゆきがいることからもわかるように、子を残すこともできる。
母が雪女だとは知らずに父は早逝したらしい。
「手の冷たさにびっくりするくらいで、まったく疑っていなかったのぉ」と父のことをおかしそうに母は語る。
初潮を迎えると、力が発現したらしい。
子どものころは年齢通りの見た目だったが、生理になった中学三年生のあいだに急激に今の容姿に変わったそうだ。
今もゆきの年の離れた20代の姉にしか見えない。
母はゆきには力は継承しないだろうと楽観的だったらしい。
母の親戚に雪女がいないことが、根拠だった。
しかし、中学3年生でゆきが初潮を迎えた日に、母はその考えが甘かったことを知る。
身体の奥の痛みにゆきが身をよじった時、氷の結晶が口から息とともに漏れ出たのだ。
ゆきにも母のように雪女の力があった。
それは別にいい。
残念だったのは、力は感情に揺すぶられてコントロールが利かないことだった。
一方で、母ほどの強さはなく、霧状になることもできないのは幸いだった。
ゆきには人を凍らせるほどの力はなく、数センチの薄氷を生むことが精々。
それでも、力をコントロールできないのは脅威であり、都会に住むのは難しいと、早々にゆきと母は諦めた。
中学を卒業するとともに、雪の多い場所に引っ越すことを決めた。
母はもともと家でフリーランスでデザインの仕事をしていたから、どこにいても問題ないという。
お金がないので父の墓などもなく、骨壺を田舎に持っていけるから、身軽だった。
貧乏なせいで家にだれかを呼ぶこともできず、ゆきには優以外に親しい人もいない。
優に構われるから、女子からはずっと嫌われていた。
特に生理が来てからは、表情がより乏しくなり、怖いと陰口を言われた。
いじめられ表情が抜け落ちていったことも、さらに、人を遠ざけた。
引っ越してしまえば、だれもゆきを思い出すことはないだろう。
優でさえ、すぐに、表情さえとぼしい幼馴染のことなどすぐに忘れる。
ゆきはそう思っていた。
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