古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第2章

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「整列!」

  時は紀元前四二七年、夜明けの平原に号令がとどろいた。

  戦争が始まって以来、既に何度目かになるプラタイア攻略戦だ。
  これまでにその城壁で幾度となく敵の攻撃を跳ね返してきた城市プラタイアも、名将ブラシダス率いるラケダイモン・テバイ連合軍の連日の猛攻にさらされ、包囲されて十日目を迎えた今日、その運命はついに窮まろうとしていた。

  ラケダイモンとテバイの連合軍はすでに完璧な隊列を組み、突撃の号令を待っている。
  刻一刻と緊張感が高まり、限界まで引かれた強弓のように、ぎりぎりと空気の軋む音さえも聞こえそうだ。

 《獅子隊》の面々もまた、盾と長槍とを携え、深紅のマントをまとって全軍の中央の後部に整列していた。
  彼らの前には、テバイ人の歩兵たちからなる破城槌部隊が陣取っている。
  テバイ人たちが城門を破り、《獅子隊》が先陣を切って突入するという二段構えの陣形だった。

  無言で佇む《獅子隊》の戦士たちの視線は、たびたび隊列の右端の最前列に向かった。
  彼らの心酔する指揮官、レオニダスがそこにいるのだ。

 「今から、腕が鳴るというものだ!」

  レオニダスのふたつ左隣に陣取ったフェイディアスが、興奮を抑えかねるといった調子で唸った。
  ラケダイモン軍において整列中の私語は禁止されているが、フェイディアスは整列中、だいたいいつでも喋っていた。
  それも、誰かに話しかけるというのではなく、自分だけであれこれ言うのだ。
  少なくとも、表向きは。

 「今、伝令が最後通牒を突き付けに行っているらしいが、ここまで来て穏やかに収まったんじゃ面白くない。
  いざ戦いとなれば、俺の前に出たが最後、一人も生かしておくものか。
  プラタイアの奴らを斬って斬って斬りまくり、まとめて戦神アレスへの捧げ物にしてやる!」

  周囲の仲間たちは何も言わず、彫像のように前を向いたまま、ただ、にやりと笑った。 



  あの朝、彼らが《獅子隊》として初めて神殿の丘に集結したときから、五年以上の月日が流れていた。

  戦士たちがくぐり抜けてきた激しい戦闘の記憶は、彼らの肉体に克明に刻み込まれている。
  フェイディアスは三年前の戦闘で危うく片目を失くすところだった。
  間一髪のところで失明は免れたが、額から頬の半ばまで、顔の右半分を切り裂かれた傷痕が残っている。
  ただでさえ目がぎょろついて怖いと言われていた顔に、傷のせいで一層の凄味が増してしまったわけだが、本人は一向に気にかけず、

 『《片目のフクロウ》というのも、なかなか格好がいいと思ったんだがな。敵の腕が悪かったな!』

  などと包帯も取れぬうちから軽口を叩いて、死ぬほど心配していたパイアキスに本気で殴られたものだった。

 「無茶だけは、しないで下さいよ」

  今日も、思わず左隣から囁いて、釘を刺さずにはいられないパイアキスである。

  レオニダスは、何の反応も見せなかった。
  部下たちのほうも、彼のこういう様子には慣れているので、特に気にもしなかった。
  フェイディアスもようやく黙って、城門を睨み据えた。
  それぞれに、心の中で神に祈り、家族の面影を描き、精神と肉体のエネルギーを極限まで高めようとする。

  レオニダスは無言のまま、わずかに頭を動かして左を見た。
  そこに立つ若者の姿を見たとき、レオニダスの口許に、誰の目にもほとんど気づかれぬほどの微笑がよぎった。

  五年余りの歳月は、かつて十六歳だった少年の肉体にも多大な影響を及ぼしていた。
  クレイトスの背丈は、いまやレオニダスに並ぶほどになり、連日の訓練と実戦に鍛え抜かれた肉体はいくぶん細身ながらも歴戦の兵士らしく逞しく、傷だらけの鎧兜に身を固めたその姿は、まさしく一人前のラケダイモンの男と呼ぶにふさわしい。

  また顔つきは、精悍な中にもどこか幼さを残したようで、ふとした瞬間に笑顔でも見せると、何とも言えず柔らかな印象を与えた。
  年若い兵士の中には、すっかりクレイトスに夢中になっている者もいる始末で、そのことを巡って密かにあれこれと悶着が起こっていたりもするのだが、当の本人はまったく知らぬふうである。

  どの戦闘でも、突撃の直前、レオニダスの視線はいつも我知らずクレイトスに向かった。

  なぜ? 何のために?

  この美しい若者を見ていると、彼をしつこく悩ませ続けるあの問い、答えの出ない疑問が、ふと和らぐのを感じるのだ。

  死なせるわけにはいかない。
  そう、強く思った。

  その瞬間、クレイトスがふと何かを感じたように顔を振り向け、こちらを見た。
  目が合って、ようやくレオニダスは自分がクレイトスを熱心に見つめていたことに気づいた。
  急に視線を逸らすこともできず、そのまま見返す。

  クレイトスはわずかに首を傾げた。
  薔薇の花、柘榴の実と崇拝者たちから讃えられる唇がふっとほころび、ほとんど聞き取れぬほどかすかな声を発した。

 「何でしょうか?」

 「いや……」

  燃え盛るような情熱ではなく、もっと静かで、鋼のように力強く潮の流れのように抑え難い感情があった。
  このような感情を自分が持つようになるとは、以前には想像もできなかった。

  五年ものあいだ、あらゆる日常の起居と戦いを共にしてきたことは、炎が鋼を鍛えるように、レオニダスのクレイトスに対する感情を揺るぎなく、余人には量りがたいほどに深いものとしていたのだ。

 「油断するな」

  口から出たのは、五年前と少しも変わらぬ、何の意味も持たぬことばの切れ端ばかりだったが。

 「はい」

  クレイトスは力強く頷き、兜に半ば隠された青い目でプラタイアの城門を射抜くように見据えた。

 「あなたのメイラクスの名に恥じぬ働きをお目にかけます」

  あなたの。
  この響きを耳にするたびに、レオニダスは軽い満足を覚える。
  これも、五年のあいだに変化したことのひとつだ。
  昔は、レオニダス様としか呼ばれたことがなかった。
  いつからだったろう。
 クレイトスが、あなたの、と言うようになったのは――


 不意に、一糸乱れぬ陣形の中からざわめきが上がり、《半神》の意識を現実に引き戻した。
  プラタイアの城壁の上に、数名の人影が現れたのだ。

 「あれは……」

  クレイトスが呻いた。
  人影のうちの二人は、テバイ人の伝令だった。
  プラタイアに無条件降伏を迫る最後通牒を携え、城市に送り込まれた男たちだ。

  遠く、か細い悲鳴が上がった。
  二人が城壁から蹴落とされたのだ。
  乾いた固い地面に激突する前に悲鳴は止まった。
  伝令たちの首には、処刑用の縄が巻かれていた。
  プラタイアの城門前に、死体がふたつ吊り下げられた。

 「あれが返答か!」

  自らも盾を携え、丘の頂上から様子を見ていた将軍ブラシダスが憤然として叫んだ。

 「よかろう! ならば我らも、その流儀で応えるまでだ。全軍、突撃に備えよ!」

  戦太鼓が一斉に打ち鳴らされた。

  戦士たちの戦闘本能をかき立てるようにどんどん早まってゆく太鼓の響きとは裏腹に、レオニダスの心は急速に平静になっていった。
  戦いの前には、いつもこうなるのだ。
  静まり返った世界に、自分自身の鼓動の音が引き延ばされて聞こえる。

  なぜ? 何のために?

  そう問いかける声も、今は聞こえなくなった。

  この戦いを生き延びる。
  クレイトスを、部下たちを、死なせはしない。
  リュクネ……

「突撃!」

  鬨の声が響き、平原が揺らいだ。
  地獄の饗宴の始まりを告げるかのように。
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