古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第2章

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 「レオニダス」 

  力強い声が、自分を呼んでいる。 
  まばゆい水面に引き揚げられるように、レオニダスは目を覚ました。 

  まぶたを開くと、周囲はまだ暗かった。
  だが、木の葉越しに見える東の空に、かすかな夜明けの兆しが感じられた。
  冷え冷えとした空気が肌を噛み、レオニダスは身体を震わせた。 

 「レオニダス、起きろ」 

  波のうねりかと心地よく感じられた規則的な揺れは、大きな手がレオニダスの肩をつかみ、繰り返し揺すっていたためだった。 
  彼の手のひらは温かいが、ところどころが鉄のように硬くなっている。
  連日、訓練で槍と剣を握るうちに、すっかり胼胝たこに覆われてしまったのだ。 

  レオニダスは、目を見開いた。 

 「寝過ごした!?」 

  今まで横になっていたマントの上に飛び起きる。 
  その拍子に、周囲を覆っていた茂みの枝に思い切り頭をぶつけた。
  葉が擦れ、がさりと大きな音を立てる。 
  悲鳴を呑み込み、ぶつけた頭と揺れる枝をとっさに押さえたレオニダスの姿を見て、彼はしょうがない奴だというように小さく笑った。 

 「まだ大丈夫だ、慌てるんじゃねえ。……しかし、本当によく寝る奴だな」 

 「ごめん、アンテオン」 

 「いや、よく眠れるのは肝が据わってる証拠だ。臆病者なら一睡もできねえ。お前は、戦士に向いてるんだよ」 

  言ってレオニダスの腕を軽く叩き、彼は東の空をうかがった。 

 「行くぞ」 

  ついてこい、と指の合図ひとつ残して、大きな身体が蛇のようにすばやく、音も立てずに前方の茂みをかきわけて進んでゆく。 
  必死についていこうとしながらも、レオニダスは、アンテオンの後姿を惚れ惚れと見つめずにはいられなかった。
  一分の無駄もなく鍛え上げられた強靭な肉体は、まるで戦神アレスの化身のようだ。 

  姿だけではなく、彼は戦士としての優れた資質も持ち合わせており、同じ年頃のラケダイモンの少年たちから尊敬を集めていた。
  勇敢さ、誇り高さ、物事に動じぬ胆力、状況の判断力、痛みに無頓着なところさえも―― 

 そのアンテオンが年下の少年の一人をいたく気に入って、規律が許す限りどこへでも同道するようになったとき、教官たちも少年たちも、ひどく驚いたものだった。
  アンテオンは一匹狼的な性格で、それまでは、必要に迫られてでもなければ、誰かとつるむということがなかったからだ。 

 「アンテオン、二人きりでも、本当にやるんだね?」 

  アンテオンのお気に入り、レオニダス少年は、自分の頬や額にわざと泥を擦りつけながら真剣な表情で訊ねた。 
  彼らは、一本の道を真横に見下ろす、大人の背丈ほどの高さの崖の上で止まり、腹ばいになって身を伏せていた。 
  少年たちの忍びの技は堂に入ったもので、たとえ道のほうから注意深く観察したとしても、生い茂った草の中に伏せた少年二人の姿を見分けることは難しいだろう。 

 「俺たちだけで充分さ」 

  答えるアンテオンもまた、野生的に整った顔じゅうに泥を塗りたくっている。 

 「どうした、レオニダス。怖気づいたか?」 

  レオニダスはかぶりを振ったが、内心は、気後れせずにはいられなかった。 

  ラケダイモンの軍が少年たちを訓練するやり方は、非情とさえ言えるほど過酷なものだった。 
  今回の訓練では、少年たちはマント一枚を支給され、武器も、食糧も与えられずに兵舎から放り出された。  
  それだけだ。  
  飢え死にしたくなければ自分の力で食糧を集め、寒さをしのぎ、自分の才覚で命を繋げというわけだった。
  戦場に送られた際、生きるためならば略奪を厭わず、泥水をすすっても戦い、勝利をもぎ取ることができる男に鍛え上げるためだ。 

  この訓練には一定の期間が定められているはずだが、それは少年たちには教えられていなかった。
  いつとも知れぬ訓練終了の合図を待ちながら、彼らは徐々に目減りしてゆく気力と体力をできるかぎり温存し、あちこちの物陰に身を潜めていた。 

  わざわざ隠れるのは、ただその辺りをうろうろしていては教官たちに見つかってしまうからだ。
  教官たちは訓練中、いわば敵の役割を演じ、少年たちを見つけると情け容赦なく追い、手ひどく痛めつけるのだった。
  時には森の中や空き家など、少年たちが隠れていそうな場所を探しに来ることもあり、少年たちの神経は一時も休まらなかった。 

  期間が明けるまで耐えることができずに兵舎に戻った者には、という烙印が捺される。
  ラケダイモン人の誇りを叩き込まれた少年たちにとって、これは死ぬよりも辛かった。  

  レオニダスとアンテオンは訓練が始まってすぐに合流し、罠や投石で動物を狩ったり、食草を集めたりして空腹をしのぎながら、これまでの十日間、無事に教官たちをやり過ごしてきた。  
  だが、それも今日までだ。

  アンテオンは用意しておいた太い木の枝を握り、重さを量るように上下させた。
  レオニダスも同じように、間に合わせの武器を握り、ともすれば緊張から荒くなる息遣いを必死に平静に保とうとした。 
  そのまま、しばらくの時が流れる。  
  やがて、アンテオンが鋭く囁いた。 

 「来たぞ」 

  湧き上がってくる怯えを力任せに押し殺しながら、レオニダスは頷き、そちらを見た。  
  彼らの視線の先には、三人の男たちがいた。 
  教官たちだ。
  下の道を、こちらへ向かってくる。
  三人とも、武装している。 
  だが、それ以上に少年たちの視線を引き付けたのは、彼らが腰に下げている袋だった。
  食糧と酒だ。 

 「丸々太った、可愛い仔豚ちゃん……」  

  アンテオンは呟き、にやりと笑った。
  声に、獲物に襲い掛かる寸前の狼の唸りのような響きがあった。 

  教官たちは見回りに食糧を持ち歩き、野外で煮炊きをする。
  これは、兵舎に戻る時間を無駄にせぬための工夫というだけではなく、もっと意地の悪い戦略によるものだった。
  彼らは、あちこちに潜んでいるはずの少年たちにわざと飲み食いの様子を見せつけ、消耗から弱くなった心を揺らがせようとしているのだ。 

  アンテオンが、おっ、と小さく声を上げた。 
  アンテオンとレオニダスの傍らに、四人の少年たちが、音もなく這って現れたのだ。 
  彼らもまた、顔じゅうに泥を塗りたくり、人相を判らなくしている。 

 「おまえらか。もう来ねえと思ったぜ」 

 「すまん」  

  アンテオンのおどけた、だがどこか凄味のある口調に、四人のうちのリーダーらしき少年が押し殺した声音で釈明する。 

 「途中で、他の教官連中と鉢合わせしそうになってな。やり過ごすのに時間を食った……」 

 「まあいいさ。レオニダスと俺の分け前は減っちまったがな」  

  昨日、アンテオンはいくつかのグループと合流し、教官たちを襲って食糧を奪う計画を持ちかけた。 
  アンテオンは天性の戦略家だった。
  十日の間に、大まかな見回りの順路、時刻を調べ上げ、待ち伏せに適した時刻と場所を割り出していた。 

  彼の計画に、少年たちは一様に度肝を抜かれた。 
  農民や、通りすがりの猟師ならともかく、教官を襲撃するなど前代未聞だ。 

 「略奪を厭うな、そう言ったのはあいつらだぜ」  

  計画を聞き、尻込みする少年たちに、アンテオンは傲岸な笑みを浮かべてみせた。 

 「考えてもみろ。俺たちはここんとこ、生焼けの獣の肉か草しか喰ってねえ。
  それで毎日毎日、美味そうなもん喰ってるとこ見せびらかされてよ……
 惨めじゃねえか? 気にくわねえ。俺たちが組んでかかれば、教官の二人や三人、簡単に片付けられるぜ」 

 「まさか、殺すんじゃないよな?」 

 「当たり前だ。ぶん殴って、食糧と酒を奪うだけだ」 

 「後でひどい目に遭わされるんじゃ――」 

 「何言ってる? 我々を敵と思え、これもあいつらが言ったことだ。
  本物の戦なら、敵を襲って食料を奪うのは当たり前だろうが。
  むしろ、俺たちにしてやられたことを恥じてもらわなきゃ困るぜ」 

  ほとんどの者は臆して引き揚げたが、残った者たちもいた。 
  アンテオンは地面を小枝で引っかき、決行の場所を図に描いて、仲間たちに作戦を説明した。
  その姿にはすでに指揮官としての風格さえ漂っているようで、レオニダスは強い憧れを感じた。 

 「おい、アンテオン」 

  やや年嵩の少年の一人が顔をしかめて言った。 

 「おまえの作戦は分かった。だが、そのガキも一緒に連れてくのか?
  何しろ教官を相手にするんだ。足手まといは断じて困るぜ」 

  レオニダスはかっとしたが、口は挟まなかった。
  この場にいる中では、自分が最も年少で、経験も浅いと判っていたからだ。 

 「こいつなら、大丈夫だよ」 

  言って、アンテオンは思いがけず優しい顔つきを見せ、レオニダスに笑いかけた。 

 「な」 

  こいつなら、大丈夫―― 
 レオニダスは茂みの中に伏せて棍棒を握りしめながら、アンテオンのその言葉を繰り返し思い起こし、勇気を奮い立たせた。 

  もう、教官たちはすぐ近くまで来ている。
  歩きながら互いに何やら話し合い、少年たちの存在にはまるで気付いていない。 
  少年たちの間を、火花のように鋭い目配せが行き交った。 

  教官たちが目の前を通り、背を向けて遠ざかり始めた瞬間、アンテオンが小石を握り、高く放り投げた。 
  小石は、狙い澄ましたように教官たちの目の前に落ち、鈍い音を立てた。 
  教官たちの視線が瞬時に、その一点に吸い寄せられる。 
  その瞬間、少年たちは音もなく飛び出して獲物に襲い掛かった。 

 「なっ」 

  と口を開けたところに、アンテオンの棍棒がすくい上げるように一閃し、その教官は顎の真下に一発を喰らって昏倒した。 
  その頃、レオニダスは、別の教官の真ん前に飛び出していた。 
  訓練では何度も戦ったことがある。 
  だが、実戦は初めてだ。 

 「このっ、××××――」  

  教官が口汚く罵ったが、レオニダスには意味がよく分からなかった。
  それどころか、言われたことが耳に入ってすらいない。
  相手の凄まじい怒りに、レオニダスは圧倒されてしまったのだ。 

  出足が鈍った。
  周囲の空気が粘りつくようで、身体は鉛のように強張っている。 
  棍棒を握った手が、思うように動いてくれない。 
  足が震えた。 

  教官が剣を抜き、突き出してきた。  
  ただの脅して、本当に突く気ではなかったかもしれない。
  だが、その瞬間のレオニダスには、そんなことを斟酌する余裕など欠片もなかった。 

 (殺される――)

  その感覚が、少年の中の何かを、変えた。 

  出し抜けに足が軽くなり、レオニダスは切っ先を避けて跳んだ。 
  退くのではなく、剣の軌跡を避けてのだ。 
  同時、突き出した棍棒の先端が、正確に教官の喉もとを突いた。 

  ぐえっ、と潰れた声を上げて教官が白目を剥く。 
  どん、ともう一度その身体が揺れ、ゆっくりと崩れ落ちていった。
  その背後から、教官の首筋を打った棍棒を構えたままのアンテオンの姿が現れた。 
  レオニダスを見つめるその目が、驚きに丸くなっている。 

 「レオニダス、お前――」 

 「ずらかれ!」  

  切迫した声が響いた。 
  残る一人の教官は、サンダル履きの向こう脛を思い切り殴りつけられてうずくまっている。 
  少年たちは手際よく食糧と酒を奪い取り、次々と茂みの中に飛び込んだ。  
  アンテオンの熱い手が、半ば呆然としていたレオニダスの手を引っつかみ、二人は諸共に緑の壁の中に突っ込んだ。 

  六人の少年たちは、狩人に追われる鹿のように、走りに走った。
  相当に離れた森の中まで、一時も止まらずに走りこんで、ようやく立ち止まり、全員が力尽きたように苔の上に倒れ込んだ。 
  しばらく、誰も、物も言わなかった。  

  両手足を大きく開いて仰向けにぶっ倒れ、泥まみれの顔で荒い息をついていたアンテオンが、突然笑い出した。  
  その瞬間、張り詰めきっていた緊張の糸が切れ、全員が、発作でも起こしたかのように大声で笑い始めた。
  涙が流れ、腹筋が痛むほどに笑って、肺の空気を全部搾り出してしまっても足りずに、苦しさに身を折りながら笑い転げた。 

  その後、彼らは小川で泥を流し、略奪の上首尾を祝ってささやかな酒宴を開いた。 
  どんな王侯の晩餐にも劣らぬほど美味に感じられたその味わいを、彼らは、生涯忘れることはないだろう。 
  ただ空腹であったからというだけではない。 
  それは彼らにとって、初めて味わう勝利の味そのものだったのだ。 

 「レオニダス」  

  追っ手がかかった場合に備えて、少年たちは散っていった。
  元のように二人きりになったとき、アンテオンは、不意に真顔になって言った。 

 「お前、あれが初戦闘だったな」 

 「うん」 

  レオニダスは、頷きながら、さきほどの自分の動きを思い返していた。 
  時間にしてわずかに数呼吸ほどの間の出来事だったが、自分は、確かに教官に勝ったのだ。 

  あんな動きができるとは思わなかった。 
  いや、それよりも、あんな感覚は初めてだった。
  急に世界が音を失い、ただ、あらゆるものの動きだけがはっきりと見えるような―― 

「そうか……」 

 「どうして?」 

 「いや」 

  アンテオンは黙った。 
  あるいはその時、彼は、自分の目の前に座っている自分よりも年下の少年の上に書き記された運命の一端を読み取ったのかも知れない。  
  やがて、彼は笑った。 

 「お前、いつか、ラケダイモンの勇士って呼ばれるような男になるぜ」 

 「それは君のことだろ、アンテオン?」 

 「ああ。俺とおまえと、両方さ」 

  その夜、けたたましい喇叭の音とともに、少年たちの長かった十日間は終わった。 

  少年たちは続々と潜んでいた場所から姿を現し、広場に集合して整列した。 
  教官の長が訓練の終了を宣言し、その後、落伍した少年たちが見せしめとして引き出され、酷い罵倒を受けたが、ほとんどの少年たちはすでに自分自身立っているのが精一杯で、熱い黒スープをすすり、兵舎の硬いベッドに潜り込んで眠ることしか頭になかった。 

  レオニダスが横目で見ると、アンテオンが教官たちに向かって鋭い視線を配り、標的にした三人がいないかと探しているのが分かった。 

 「アンテオン」 

  解散してから、レオニダスはアンテオンに近寄り、目を合わせないまま囁いた。 

 「あの三人、いなかったね」 

 「ああ」 

  アンテオンは、まっすぐ前を見たままで答えた。
  傍目には、二人が言葉を交わしているようには見えない。 

 「まあ、あの有様じゃ、俺たちの前には出られねえだろう。
  だが、他の連中も気付いてるはずなのに、俺たちの襲撃の件が一言も話に出なかったってのが気になる。こうなると逆に不気味だ。
  連中、こっちの顔は分からなかったはずだが……油断できねえな」 

 「うん」 

  頷いて、レオニダスは不思議そうにアンテオンの顔を見上げた。 

 「アンテオン、何だか楽しそうだね」 

 「そうか?」 

  彼の口元には、ほとんどあるかなしかの淡い笑みが浮かんでいた。
  それは、もはや少年の表情ではなく、己の力と才覚とを試される困難な場面を喜んでいる男の顔だった。
  レオニダスには、その顔がとても眩しく思えた。 

 「何かあったら必ず俺に言えよ、レオニダス。
  俺は、どんなときでも、おまえの力になるぜ」 

  ああ、いつか、自分もこんな顔ができるようになるだろうか。 
  共に戦う戦士たちに信頼され、彼らが不安を感じるときには盾となり、心が揺らぐときには支えとなるような……
 そんな男に、なれるだろうか。 

 「ありがとう、アンテオン」 

  レオニダスは心から言った。 
  アンテオンは、心地良さそうに笑った。

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