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第3章
デモステネス
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「さあーて、いよいよ、始まるでえー!」
潮風が絶え間なく吹きつけるピュロス湾の北の岬――
アテナイの砦の西側、即ち外洋に面した海岸に立ち、景気良く叫んだのは、いまやラケダイモン軍の唯一の攻撃目標と定められたこの砦の指揮官たるアテナイのデモステネスである。
今、海岸には、絶え間なく寄せては返す波の音をも圧倒する音量で、戦太鼓と笛の音が鳴り響いていた。
アテナイ勢のものではない。
彼らを皆殺しにすべくこの砦の西の海を包囲しているペロポネソス艦隊、そして東側を包囲するラケダイモン陸軍のものだ。
だが、それらの不吉な物音など一切耳に入っていないかのように、デモステネスの表情から笑みが消えることはなかった。
「お天気は上々、しかし、波はちょい高め! 絶好のお日和やなぁ、諸君!」
ひょろりとすら形容できそうな長躯を鎧に包み、彼はおどけるように微笑みながら、居並ぶ部下たちに頷きかける。
歳の頃は、三十の半ば、いや、四十の手前というところだろうか。
もっと若く見えるが、それは表情が与える印象のためで、日焼けした顔には細かい皺が多く、こめかみ辺りの髪には白いものが混じりはじめている。
全体として、穏やかそうで理知的で、「会計係です」と自己紹介されたら、そうかと思うような風貌だ。
だが、そんなデモステネスを見詰める彼の部下たちの視線は、真剣そのものだった。
恐怖や不安に浮ついたようなところは微塵もない。
天下に名だたるラケダイモン軍の攻撃を、わずかな兵力で、補給すらも乏しい状況で、海陸の両面から受け止める。
この、常人ならば戦うより先に神経の方が参ってしまうであろう凄まじい心理的重圧の中で、これだけの規律を保ち、反乱のひとつも起こさせずに今日という日を迎えたこと自体が、デモステネスという指揮官の何たるかを語っていた。
ラケダイモン軍が、海陸の両面からピュロスの砦を挟撃すべく軍勢を移動させているあいだ、デモステネスは、決してぼやぼやしてはいなかった。
無論、震え上がって逃げ出す算段をしたりもしていなかった。
この急ごしらえの砦に立て籠もった瞬間から今日まで、彼は着々とラケダイモン軍を迎え撃つための準備を進めてきたのだ。
「えー、はい! あの通り、ペロポネソス艦隊の皆さんも、やる気満々で浮かんではるというわけで! ここはひとつ、僕らも気張っていこうというわけで」
長い腕を、背後の海面を一撫でにするように振って、やはりにこにこと、デモステネス。
海上では、既にペロポネソス艦隊が舳先をこちらに向けて並び、いつ動き出してもおかしくない陣形を見せていた。
それでも、デモステネスの笑みは崩れない。
「とにかく、二日ね! 二日もてば、ザキュントス島の皆さんが援軍に来てくれる! とりあえず二日間、死力を尽くしてがんばろう!」
デモステネスは一同の前を行ったり来たりしながら、長い両腕を開いて語り続けた。
一同――といっても、こちら、砦の西側を守備する全兵力は、今、デモステネスの前にいる六十名の重装歩兵と、その半数ほどの弓兵、合わせて百名そこそこである。
資材と人員の絶対数が足りない中で陸海両面の敵を防ぐことを求められたデモステネスは、冷静に優先順位をつけ、それに従って各方面に振り分ける人と物の量を調整していた。
彼の決断は、砦の東の防壁、すなわち本土方面の守りのほうを徹底的に手厚くするというものだった。
仮にも世界最強を謳われるラケダイモンの陸戦部隊を食い止めようというのである。
それくらいしておかなければ、物理的にも、守備側の精神的にも、とても持ち堪えられるものではない。
まず防壁の工事の段階から、海側とは比較にならぬほど力を入れさせた。
基礎を築いたのは確かに六日間という突貫工事であったが、その後、繰り返し補強のための工事を施させ、防壁としてはそれなりに信頼のおけるものが出来上がっている。
その防壁を守るために、デモステネスは手持ちの兵力の大半を結集させ、最も信頼する副官に様々な策を授けて、あとの指揮は一任してあった。
残った兵力は百名程度。
その、たった百名を、本土方面と比べればいささか、いや、大分、いや、非常に心もとない程度の堅固さしか持ち合わせない海岸方面の防壁を守るために配備することとしたのだが、ここから先が、デモステネスという男の非凡さであった。
いよいよ決戦のときを迎えたこの日、彼は、その百名の男たちと共に、自ら武装し、砦を出て海岸へと進み出たのである。
海岸を守備する百名の男たちに対する寄せ手、ペロポネソス艦隊の攻撃部隊は、物見の報告を正確とするならば四十三隻分の三段櫂船に兵力を満載していた。
この、とても正気とは思えぬ防衛戦の開始を前にして、しかし、デモステネスは自身の弾き出した計算を信じ、落ち着いていた。
その計算のかなめが、地形だ。
デモステネスはこの場所に砦を築くにあたり、周辺の地形を詳細に調査させていた。
まず、海岸近くで砕ける白い波の真下は、危険極まりない岩礁地帯となっている。
満潮時でも水面下すぐに潜む峻嶮な岩の峰は、うかつに突撃してきた三段櫂船の船底を容赦なく突き破るであろう。
寄せ手の操舵手がよほどの腕前であったとしても、まず、接岸そのものが困難なはずだ。
上陸に失敗し座礁した船は、新たな障害物となり、続く船の接岸をますます困難なものとするであろう。
また、波打ち際付近には、デモステネスの発案で、風変わりな障害物が設置されていた。
船だ。
アテナイ側の三段櫂船である。
それが、三隻。
彼らには、もともと手持ちの戦艦が五隻しかなかった上、そのうちの二隻は、ザキュントス島に駐留するアテナイ艦隊の来援を乞うために派遣してしまっていた。
「たったの三隻ぽっち、戦艦としては、あっても無くても変わらへん。かといって、ただ泊めといて敵に拿捕されるなんちゅうアホな話はあらへん。有効に使おうや、有効にな!」
そんなデモステネスの指示で、三隻の三段櫂船はすべて陸上に引き上げられ、その側面に柵を建て巡らせ、いまや船としてではなく、防禦用の障害物として存在している。
そして――
それらの障害を乗り越え、上陸を果たした敵が砦に至るまでの距離が、およそ二百歩。
そう、平地であれば、たった二百歩の歩みで辿り着ける距離だ。
デモステネスは敵の艦隊が浮かぶ海に背を向け、自分たちの陣地である砦を見上げて、にっこりと笑った。
砦までの二百歩分は、初めは緩やかで、徐々に急勾配になる坂となっており、さらにその全てが、ごつごつした岩場に覆われている。
ラケダイモン陸軍の御家芸といわれる密集戦列ファランクスの威力も、ここでは半減、いや、それ以下とならざるを得まい――
「デモステネス将軍!」
物見の兵の鋭い叫びが響き渡った。
「ペロポネソス同盟の艦隊が、動き出しました! 突撃してきます!」
「よろしい! ……さあーて、ラケダイモンの皆さんの上陸戦のお手並み、ひとつ拝見といこうやないの」
深々と兜をかぶり直し、そのまびさしの下でデモステネスは呟いた。
その眼差しはあくまでも落ち着き払って前方を見据え、海面上を刻々と迫ってくる敵艦隊の動きを見詰めている。
民主主義を標榜する国家アテナイ、そのもうひとつの顔は、海洋国家アテナイだ。
アテナイ市民には兵役に就く義務があり、それはつまり三段櫂船の乗組員となって各地の海へと派遣され、幾多の海戦の経験を積むということだった。
デモステネスと百名の男たちの奇妙な落ち着きの理由は、地形への信頼と共に、彼らのほうが海での戦いを知っている、ラケダイモンの戦士たちなど及びもつかぬほどに良く知っているというところにあったのだ。
「おう、おう、よう見えよるなぁ」
ここまで彼我の距離が詰まってくると、迫りくる艦隊の一隻一隻に、ラケダイモンの戦士たちが満載されているのがはっきりと見える。
デモステネスは再び、あの莞爾とした笑みを浮かべた。
船上のラケダイモンの戦士たちは、槍を携え、彼ら自身の家や国家をあらわす絵や文字を描いた大きな円形の盾を壁のように押し立てていた。
彼らがその盾を命のように大切にし、戦士の名誉のあらわれであると考えていることをデモステネスはよく知っていた。
「やっぱりねぇ。律儀なもんや。このガッタガタの土地に、あんなクソ重たいモン持って上陸しようなんて狂気の沙汰やのに、アホらしい――
そうら、来たでえっ!」
凄まじい物音が起こった。
衝角を立てて突撃してきたペロポネソス艦隊の最初の一隻が、岩礁の餌食となり、波打ち際に辿り着く前に大きく傾いて止まったのである。
アテナイ勢の位置からは、衝撃によって幾人もの戦士たちが船端から転げ落ち、海面に叩きつけられるのが見えた。
船底が引き裂かれるばりばりという音がまるで雷鳴のように響き、ペロポネソス艦隊の男たちの怒号と悲鳴、アテナイの男たちの歓声といりまじる。
「はっはぁ! ドアホが、かかりよった!」
子供のように手を叩き、踊るような身振りをしてデモステネスは叫んだ。
彼らの目の前で、座礁した三段櫂船の尻にもう一隻が突っ込み、大勢の戦士たちを巻き添えにして大破する。
だが、初手から被害を出しつつも、ペロポネソス艦隊の前進は止まらない。
勢いのついた三段櫂船というものは、止めようとして止まるものではないのだ。
岩礁をすり抜け、今や次なる障害物となった仲間たちの船をもすり抜けて、なおも接岸を試みようとする。
ようやく、数名の戦士たちが転げるようにして波打ち際に降り立ったが、その動作はいかにも鈍重で、上陸急襲戦にまったく不慣れであることを露呈していた。
「ありゃりゃ、初々しい。可愛いねえ……
よおーっしゃあ! ええかあーっ、諸君!」
自分自身の槍を高々と突き上げ、デモステネスは声を張り上げた。
「地の利は、我らにあり! 相手の数になんか、びびることはない!
この、接岸がクソ難しい場所で、あの全員がいっぺんに上陸なんか、できるわけないやろが!?
敵はちょっとずつバラバラ上がってきよる。つまり、実際にぶつかるときの条件は五分と五分! 全兵力の差なんてもんは、問題にならん!
諸君! 君らは海戦での武勇をもって鳴らしたアテナイの男、当然、皆、敵前上陸の経験はあるやろう!
その経験からも分かるやろうが、陸上で頑強に踏み止まって抵抗する勢力があれば、船からの敵前上陸なんちゅうのは、そないに強行できるもんやあらへんでぇ!
今こそ、僕らが、その『陸上の抵抗勢力』になるときやーっ!
ええかァー! どこまでも徹底的に、この波打ち際で、敵を押し返せーっ!
それが、諸君らも生き残り、砦も守り抜くことができる、たったひとつの道や――!」
それは、あまりにも奇妙な光景であった。
海洋国家アテナイの男たちが、敵国ラケダイモンの大地に陣取ってそれを死守しようとし、陸戦において最強と謳われるラケダイモンの戦士たちが、海上から攻めかかってそれを奪取しようとしているのだ。
アララララーイ!
百人のアテナイ兵の叫びと共に、前代未聞の防衛戦の幕が上がった――
続く一両日のあいだ、海から押し寄せて上陸を強行しようとするラケダイモン軍と、陸上からそれを阻止しようとするアテナイ軍とのあいだに、激烈な戦闘が繰り広げられた。
上陸戦に不慣れなラケダイモン軍は、当初は無謀な接岸によって――つまりそこが危険な岩礁地帯であるにもかかわらず、多数の艦で一斉に岸辺に漕ぎ寄せるという挙に出たために――多くの三段櫂船を失ったが、やがてその戦法の愚を悟ると、今度は少数ずつに分かれて接岸を試みるようになった。
波打ち際にはすでに無数の木材の破片や同胞の死体が浮かんでいたが、そんなことで意気阻喪する彼らではなかった。
むしろ、よりいっそうの怒りに燃えて、彼らは上陸を決行しようとした。
しかし、迎え撃つアテナイ軍、デモステネス率いる海岸守備隊は、彼らの猛攻を受けてなお、一歩も退かなかった。
逆に凄まじい抵抗を示し、ラケダイモン軍を幾度となく波打ち際へと押し返した。
険阻な岩場という地形のために、ラケダイモン軍は得意の密集戦列ファランクスでの前進をじゅうぶんに行うことができずにいた。
これに対し、アテナイ軍は徹底的に地の利を生かして直接刃を交えることなく敵に損害を与える作戦を立てており、これを実行した。
たとえば岩場の少しでも平坦になる場所には、アテナイ軍の手によって無数の尖った鉄菱が撒かれていた。
これは四本の鉄のとげを組み合わせ、どのように置いても鋭い先端が上を向くようになったもので、下手に踏み抜けば歩けなくなる。
英雄アキレスの唯一の弱点は踵であったというが、いかに強靭な肉体を持つラケダイモンの戦士たちといえども、サンダル履きの足の裏までを鍛えておくわけにはいかなかったから、彼らはこの仕掛けに非常に難渋した。
正面きっての戦いを良しとするラケダイモンの戦士たちはこの戦法に激怒し、さんざんにアテナイ軍を罵ったが、
「ははん、何を言うとるんやか。あーんな筋肉オバケどもと正面切って殴り合うなんちゅうアホウな真似、誰がするねんな。なあ?」
と、デモステネスは部下たちに向かって肩を竦め、指先でこつこつと自分の額を叩いてみせた。
「ほんのちょっとでも頭のある奴なら、艦隊規模の敵を相手に、百人が正々堂々の勝負を挑んでくる……なんちゅう発想自体がアホの産物やっちゅうことに気付きそうなもんや。これやから、戦闘バカの美学っちゅうやつは始末に負えへん!
まあ、ちょっと前には、三百人も枕並べて討ち死にしはった国やから、そういうのがカッコええと思うてはるんやろうな。……僕らは、違うけどなあ!」
デモステネスはラケダイモン人の頑迷さを馬鹿にしていたが、ひとたび真っ向から武器を交えることになれば、自分たちでは到底彼らに太刀打ちできないであろうことをよく知っていた。
だからこそ、徹底して策を弄した。
鉄菱によって前進の速度が鈍ったラケダイモンの戦士たちに、アテナイの弓兵たちが放つ矢が降り注ぐ。
弓兵たちが主に陣取っているのは、陸上に引き上げられ、周囲に防禦柵を建てめぐらせた三段櫂船の甲板上だ。
それら三隻の三段櫂船は、デモステネスの作戦に基づき、巧妙に配置されていた。
ラケダイモンの戦士たちは例外なく堅牢な盾を携えており、これで防がれれば、矢での攻撃は用をなさない。
だが、彼らの盾は、その正面の向く一方向からの攻撃しか防ぐことはできなかった。
デモステネスは三隻の三段櫂船を、一隻は海岸線と平行に置き、それを挟む形で、残る二隻を海岸線と垂直に近い斜め方向に配置した。
これにより、アテナイの弓兵たちは、防禦を突破しようと突撃してくるラケダイモンの戦士たちに対し、猛烈な横矢を掛けることが可能になった。
密集戦列ファランクスの隊形のひとつ「亀甲」ならば、全方位からの射撃にも対応することができただろうが、少人数ずつでの上陸しかできないことと、険阻な地形や鉄菱による妨害によって、いまやファランクスはほとんど機能していなかった。
そして、弓兵たちの攻撃によってさらに足並みの乱れたラケダイモン軍に、デモステネス率いるアテナイの重装歩兵たちが襲いかかる。
彼らは徹底して一対一の戦闘を避け、常に多数をもって少数に当たるという姿勢を崩さなかった。
少しでも不利な状況になれば歩兵たちはすばやく退いて損害を最小限にとどめ、体勢を立て直してから、機を見て再び襲い掛かるという、陸上から寄せては返す波のような戦法をとった。
ラケダイモンの戦士たちは、アテナイの歩兵たちが退いてゆく機に猛追をかけようとしたが、弓兵たちによる盛んな応射に妨げられ、一挙に突撃することはできなかった。
こうして、上陸戦は一進一退のまま、時間だけが過ぎていった。
ペロポネソス艦隊を率いるラケダイモン人の司令官たちは、一向に破瓜のいかない戦況に苛立ちを隠せずにいた。
何しろ、彼らの全兵力のうち、現時点で陸地に到達できた者はほんのわずかであり、その他の者たちは岩礁と海岸線の険しい地形に阻まれ、陸にあがった同胞たちの苦闘を船上から空しく見守るだけになっているのである。
司令官たちは、兵力を小出しにしてはそのたびに打ち破られるという、戦術の最も愚かな型にはまってしまっている自分たちの状況を理解してはいたが、地形という天然の禦ぎの前には為す術がなかった。
何しろ、強引に上陸しようとすれば岩礁に突き当たり、陸地に降り立つ前に、艦がばらばらになってしまうのだ。
ラケダイモンのブラシダス将軍は、自らも三段櫂船長であったが、この状況を見て切歯扼腕し、接岸しあぐねている操舵手を今にも殴りつけかねない剣幕であった。
「敵とその砦を目の前にして、木材ごときを惜しむ奴があるか! 躊躇せず海岸へ突っ込め! たとえ、それで艦は粉砕したとしても、引き換えに上陸を果たし、敵を血祭りにあげるのだ!」
彼はとうとうそう叫び、操舵手を押し退けると、自ら舵をとって接岸を試み、驚いたことにそれを実現した。
だが、迎え撃つアテナイ重装歩兵団が激しく応戦したため、さしものブラシダス将軍も前進することができず、とうとう波打ち際まで押し返され、全身に傷を負って意識を失い、危ういところで味方に収容されるという事態にまでなった。
彼はその際に、自身の盾を海中に取り落とし、アテナイ軍に奪われてしまった。
敵に盾を奪われるということは、ラケダイモン人にとって非常な不名誉である。
それが他ならぬブラシダス将軍のものであったという事実は、彼らに少なからぬ衝撃を与え、他方、アテナイ側の士気を大いに高めた。
「これを見ィ! 勝てるぞォ! 皆、それぞれの持ち場で粘り切れェ!」
長身を砂と血に塗れさせて砦に戻ったデモステネスは、奪った盾を槍先に括りつけて従卒たちに高く掲げさせ、各部署を回っては兵員を鼓舞して回った。
(ザキュントスからの援軍は、もうすぐ来る……! このまま、しのぎ切ることさえできれば!)
一方、スファクテリア島では、エピタダス将軍率いるラケダイモン軍の男たち――その中には無論、レオニダスら《獅子隊》の面々も含まれている――が、島の北側の高台に築いた陣地から、戦いの様子を見守っていた。
島と本土とのあいだの距離はさほどでもなかったから、優れた視力を持つ者ならば、上陸戦の大まかな趨勢を見て取ることもできた。
レオニダスは急ごしらえの物見台の天辺に上り、アテナイ軍が立て籠もるピュロスの砦の方角をじっと見据えていたが、すぐに降りてきた。
地面で待っていた一同のあいだに流れる空気は重く、硬く張り詰めている。
「味方は、まだ、苦戦しているのですか?」
沈黙を破ってクレイトスが問い掛けたが、レオニダスはちらりとそちらを見ただけで、答えることはしなかった。
己が口にする言葉が、運命の女神たちの耳に入ることを恐れるかのように。
クレイトスは目を伏せ、《獅子隊》の男たちは顔を見合わせた。
「くそっ」
同じくその場にいたディオクレスが、だん、と地を踏んだ。
その背後で、彼の愛人であるヘファイスティオンが不安げな顔をする。
「エピタダス将軍! 今からでも遅くはない。我々も島を出て、上陸戦の加勢に!」
噛みつかんばかりのディオクレスの主張に、エピタダス将軍はじろりと視線を返し、それだけで、相手の言葉を封じた。
「……本国からの命令は、このスファクテリア島を死守せよということ。我々は、動かぬ」
「くそっ!」
ディオクレスが再び吐き捨て、顔を背ける。
ディオクレスとて、理解しているのだ。
地形に阻まれ、多数での上陸が困難な状況で、自分たちが加勢に赴いても無駄であるということを。
だが、焦りが、彼を突き動かした。
彼だけではなく、その場の誰もが、同じ焦燥感を抱いていた。
一瞬にして叩き潰せると思っていた、あの急造の砦に籠もるアテナイ軍が、まさか、これほどまでの粘りを見せるとは。
急がなければ――
「総員、休息をとっておけ。今のうちにな」
エピタダス将軍が告げ、その場の空気がざわめいた。
(どうか、早く……)
レオニダスは、祈る思いで拳を握り締めた。
急がなければ。
このままでは――
ザキュントス島から、アテナイ艦隊がやってくる。
潮風が絶え間なく吹きつけるピュロス湾の北の岬――
アテナイの砦の西側、即ち外洋に面した海岸に立ち、景気良く叫んだのは、いまやラケダイモン軍の唯一の攻撃目標と定められたこの砦の指揮官たるアテナイのデモステネスである。
今、海岸には、絶え間なく寄せては返す波の音をも圧倒する音量で、戦太鼓と笛の音が鳴り響いていた。
アテナイ勢のものではない。
彼らを皆殺しにすべくこの砦の西の海を包囲しているペロポネソス艦隊、そして東側を包囲するラケダイモン陸軍のものだ。
だが、それらの不吉な物音など一切耳に入っていないかのように、デモステネスの表情から笑みが消えることはなかった。
「お天気は上々、しかし、波はちょい高め! 絶好のお日和やなぁ、諸君!」
ひょろりとすら形容できそうな長躯を鎧に包み、彼はおどけるように微笑みながら、居並ぶ部下たちに頷きかける。
歳の頃は、三十の半ば、いや、四十の手前というところだろうか。
もっと若く見えるが、それは表情が与える印象のためで、日焼けした顔には細かい皺が多く、こめかみ辺りの髪には白いものが混じりはじめている。
全体として、穏やかそうで理知的で、「会計係です」と自己紹介されたら、そうかと思うような風貌だ。
だが、そんなデモステネスを見詰める彼の部下たちの視線は、真剣そのものだった。
恐怖や不安に浮ついたようなところは微塵もない。
天下に名だたるラケダイモン軍の攻撃を、わずかな兵力で、補給すらも乏しい状況で、海陸の両面から受け止める。
この、常人ならば戦うより先に神経の方が参ってしまうであろう凄まじい心理的重圧の中で、これだけの規律を保ち、反乱のひとつも起こさせずに今日という日を迎えたこと自体が、デモステネスという指揮官の何たるかを語っていた。
ラケダイモン軍が、海陸の両面からピュロスの砦を挟撃すべく軍勢を移動させているあいだ、デモステネスは、決してぼやぼやしてはいなかった。
無論、震え上がって逃げ出す算段をしたりもしていなかった。
この急ごしらえの砦に立て籠もった瞬間から今日まで、彼は着々とラケダイモン軍を迎え撃つための準備を進めてきたのだ。
「えー、はい! あの通り、ペロポネソス艦隊の皆さんも、やる気満々で浮かんではるというわけで! ここはひとつ、僕らも気張っていこうというわけで」
長い腕を、背後の海面を一撫でにするように振って、やはりにこにこと、デモステネス。
海上では、既にペロポネソス艦隊が舳先をこちらに向けて並び、いつ動き出してもおかしくない陣形を見せていた。
それでも、デモステネスの笑みは崩れない。
「とにかく、二日ね! 二日もてば、ザキュントス島の皆さんが援軍に来てくれる! とりあえず二日間、死力を尽くしてがんばろう!」
デモステネスは一同の前を行ったり来たりしながら、長い両腕を開いて語り続けた。
一同――といっても、こちら、砦の西側を守備する全兵力は、今、デモステネスの前にいる六十名の重装歩兵と、その半数ほどの弓兵、合わせて百名そこそこである。
資材と人員の絶対数が足りない中で陸海両面の敵を防ぐことを求められたデモステネスは、冷静に優先順位をつけ、それに従って各方面に振り分ける人と物の量を調整していた。
彼の決断は、砦の東の防壁、すなわち本土方面の守りのほうを徹底的に手厚くするというものだった。
仮にも世界最強を謳われるラケダイモンの陸戦部隊を食い止めようというのである。
それくらいしておかなければ、物理的にも、守備側の精神的にも、とても持ち堪えられるものではない。
まず防壁の工事の段階から、海側とは比較にならぬほど力を入れさせた。
基礎を築いたのは確かに六日間という突貫工事であったが、その後、繰り返し補強のための工事を施させ、防壁としてはそれなりに信頼のおけるものが出来上がっている。
その防壁を守るために、デモステネスは手持ちの兵力の大半を結集させ、最も信頼する副官に様々な策を授けて、あとの指揮は一任してあった。
残った兵力は百名程度。
その、たった百名を、本土方面と比べればいささか、いや、大分、いや、非常に心もとない程度の堅固さしか持ち合わせない海岸方面の防壁を守るために配備することとしたのだが、ここから先が、デモステネスという男の非凡さであった。
いよいよ決戦のときを迎えたこの日、彼は、その百名の男たちと共に、自ら武装し、砦を出て海岸へと進み出たのである。
海岸を守備する百名の男たちに対する寄せ手、ペロポネソス艦隊の攻撃部隊は、物見の報告を正確とするならば四十三隻分の三段櫂船に兵力を満載していた。
この、とても正気とは思えぬ防衛戦の開始を前にして、しかし、デモステネスは自身の弾き出した計算を信じ、落ち着いていた。
その計算のかなめが、地形だ。
デモステネスはこの場所に砦を築くにあたり、周辺の地形を詳細に調査させていた。
まず、海岸近くで砕ける白い波の真下は、危険極まりない岩礁地帯となっている。
満潮時でも水面下すぐに潜む峻嶮な岩の峰は、うかつに突撃してきた三段櫂船の船底を容赦なく突き破るであろう。
寄せ手の操舵手がよほどの腕前であったとしても、まず、接岸そのものが困難なはずだ。
上陸に失敗し座礁した船は、新たな障害物となり、続く船の接岸をますます困難なものとするであろう。
また、波打ち際付近には、デモステネスの発案で、風変わりな障害物が設置されていた。
船だ。
アテナイ側の三段櫂船である。
それが、三隻。
彼らには、もともと手持ちの戦艦が五隻しかなかった上、そのうちの二隻は、ザキュントス島に駐留するアテナイ艦隊の来援を乞うために派遣してしまっていた。
「たったの三隻ぽっち、戦艦としては、あっても無くても変わらへん。かといって、ただ泊めといて敵に拿捕されるなんちゅうアホな話はあらへん。有効に使おうや、有効にな!」
そんなデモステネスの指示で、三隻の三段櫂船はすべて陸上に引き上げられ、その側面に柵を建て巡らせ、いまや船としてではなく、防禦用の障害物として存在している。
そして――
それらの障害を乗り越え、上陸を果たした敵が砦に至るまでの距離が、およそ二百歩。
そう、平地であれば、たった二百歩の歩みで辿り着ける距離だ。
デモステネスは敵の艦隊が浮かぶ海に背を向け、自分たちの陣地である砦を見上げて、にっこりと笑った。
砦までの二百歩分は、初めは緩やかで、徐々に急勾配になる坂となっており、さらにその全てが、ごつごつした岩場に覆われている。
ラケダイモン陸軍の御家芸といわれる密集戦列ファランクスの威力も、ここでは半減、いや、それ以下とならざるを得まい――
「デモステネス将軍!」
物見の兵の鋭い叫びが響き渡った。
「ペロポネソス同盟の艦隊が、動き出しました! 突撃してきます!」
「よろしい! ……さあーて、ラケダイモンの皆さんの上陸戦のお手並み、ひとつ拝見といこうやないの」
深々と兜をかぶり直し、そのまびさしの下でデモステネスは呟いた。
その眼差しはあくまでも落ち着き払って前方を見据え、海面上を刻々と迫ってくる敵艦隊の動きを見詰めている。
民主主義を標榜する国家アテナイ、そのもうひとつの顔は、海洋国家アテナイだ。
アテナイ市民には兵役に就く義務があり、それはつまり三段櫂船の乗組員となって各地の海へと派遣され、幾多の海戦の経験を積むということだった。
デモステネスと百名の男たちの奇妙な落ち着きの理由は、地形への信頼と共に、彼らのほうが海での戦いを知っている、ラケダイモンの戦士たちなど及びもつかぬほどに良く知っているというところにあったのだ。
「おう、おう、よう見えよるなぁ」
ここまで彼我の距離が詰まってくると、迫りくる艦隊の一隻一隻に、ラケダイモンの戦士たちが満載されているのがはっきりと見える。
デモステネスは再び、あの莞爾とした笑みを浮かべた。
船上のラケダイモンの戦士たちは、槍を携え、彼ら自身の家や国家をあらわす絵や文字を描いた大きな円形の盾を壁のように押し立てていた。
彼らがその盾を命のように大切にし、戦士の名誉のあらわれであると考えていることをデモステネスはよく知っていた。
「やっぱりねぇ。律儀なもんや。このガッタガタの土地に、あんなクソ重たいモン持って上陸しようなんて狂気の沙汰やのに、アホらしい――
そうら、来たでえっ!」
凄まじい物音が起こった。
衝角を立てて突撃してきたペロポネソス艦隊の最初の一隻が、岩礁の餌食となり、波打ち際に辿り着く前に大きく傾いて止まったのである。
アテナイ勢の位置からは、衝撃によって幾人もの戦士たちが船端から転げ落ち、海面に叩きつけられるのが見えた。
船底が引き裂かれるばりばりという音がまるで雷鳴のように響き、ペロポネソス艦隊の男たちの怒号と悲鳴、アテナイの男たちの歓声といりまじる。
「はっはぁ! ドアホが、かかりよった!」
子供のように手を叩き、踊るような身振りをしてデモステネスは叫んだ。
彼らの目の前で、座礁した三段櫂船の尻にもう一隻が突っ込み、大勢の戦士たちを巻き添えにして大破する。
だが、初手から被害を出しつつも、ペロポネソス艦隊の前進は止まらない。
勢いのついた三段櫂船というものは、止めようとして止まるものではないのだ。
岩礁をすり抜け、今や次なる障害物となった仲間たちの船をもすり抜けて、なおも接岸を試みようとする。
ようやく、数名の戦士たちが転げるようにして波打ち際に降り立ったが、その動作はいかにも鈍重で、上陸急襲戦にまったく不慣れであることを露呈していた。
「ありゃりゃ、初々しい。可愛いねえ……
よおーっしゃあ! ええかあーっ、諸君!」
自分自身の槍を高々と突き上げ、デモステネスは声を張り上げた。
「地の利は、我らにあり! 相手の数になんか、びびることはない!
この、接岸がクソ難しい場所で、あの全員がいっぺんに上陸なんか、できるわけないやろが!?
敵はちょっとずつバラバラ上がってきよる。つまり、実際にぶつかるときの条件は五分と五分! 全兵力の差なんてもんは、問題にならん!
諸君! 君らは海戦での武勇をもって鳴らしたアテナイの男、当然、皆、敵前上陸の経験はあるやろう!
その経験からも分かるやろうが、陸上で頑強に踏み止まって抵抗する勢力があれば、船からの敵前上陸なんちゅうのは、そないに強行できるもんやあらへんでぇ!
今こそ、僕らが、その『陸上の抵抗勢力』になるときやーっ!
ええかァー! どこまでも徹底的に、この波打ち際で、敵を押し返せーっ!
それが、諸君らも生き残り、砦も守り抜くことができる、たったひとつの道や――!」
それは、あまりにも奇妙な光景であった。
海洋国家アテナイの男たちが、敵国ラケダイモンの大地に陣取ってそれを死守しようとし、陸戦において最強と謳われるラケダイモンの戦士たちが、海上から攻めかかってそれを奪取しようとしているのだ。
アララララーイ!
百人のアテナイ兵の叫びと共に、前代未聞の防衛戦の幕が上がった――
続く一両日のあいだ、海から押し寄せて上陸を強行しようとするラケダイモン軍と、陸上からそれを阻止しようとするアテナイ軍とのあいだに、激烈な戦闘が繰り広げられた。
上陸戦に不慣れなラケダイモン軍は、当初は無謀な接岸によって――つまりそこが危険な岩礁地帯であるにもかかわらず、多数の艦で一斉に岸辺に漕ぎ寄せるという挙に出たために――多くの三段櫂船を失ったが、やがてその戦法の愚を悟ると、今度は少数ずつに分かれて接岸を試みるようになった。
波打ち際にはすでに無数の木材の破片や同胞の死体が浮かんでいたが、そんなことで意気阻喪する彼らではなかった。
むしろ、よりいっそうの怒りに燃えて、彼らは上陸を決行しようとした。
しかし、迎え撃つアテナイ軍、デモステネス率いる海岸守備隊は、彼らの猛攻を受けてなお、一歩も退かなかった。
逆に凄まじい抵抗を示し、ラケダイモン軍を幾度となく波打ち際へと押し返した。
険阻な岩場という地形のために、ラケダイモン軍は得意の密集戦列ファランクスでの前進をじゅうぶんに行うことができずにいた。
これに対し、アテナイ軍は徹底的に地の利を生かして直接刃を交えることなく敵に損害を与える作戦を立てており、これを実行した。
たとえば岩場の少しでも平坦になる場所には、アテナイ軍の手によって無数の尖った鉄菱が撒かれていた。
これは四本の鉄のとげを組み合わせ、どのように置いても鋭い先端が上を向くようになったもので、下手に踏み抜けば歩けなくなる。
英雄アキレスの唯一の弱点は踵であったというが、いかに強靭な肉体を持つラケダイモンの戦士たちといえども、サンダル履きの足の裏までを鍛えておくわけにはいかなかったから、彼らはこの仕掛けに非常に難渋した。
正面きっての戦いを良しとするラケダイモンの戦士たちはこの戦法に激怒し、さんざんにアテナイ軍を罵ったが、
「ははん、何を言うとるんやか。あーんな筋肉オバケどもと正面切って殴り合うなんちゅうアホウな真似、誰がするねんな。なあ?」
と、デモステネスは部下たちに向かって肩を竦め、指先でこつこつと自分の額を叩いてみせた。
「ほんのちょっとでも頭のある奴なら、艦隊規模の敵を相手に、百人が正々堂々の勝負を挑んでくる……なんちゅう発想自体がアホの産物やっちゅうことに気付きそうなもんや。これやから、戦闘バカの美学っちゅうやつは始末に負えへん!
まあ、ちょっと前には、三百人も枕並べて討ち死にしはった国やから、そういうのがカッコええと思うてはるんやろうな。……僕らは、違うけどなあ!」
デモステネスはラケダイモン人の頑迷さを馬鹿にしていたが、ひとたび真っ向から武器を交えることになれば、自分たちでは到底彼らに太刀打ちできないであろうことをよく知っていた。
だからこそ、徹底して策を弄した。
鉄菱によって前進の速度が鈍ったラケダイモンの戦士たちに、アテナイの弓兵たちが放つ矢が降り注ぐ。
弓兵たちが主に陣取っているのは、陸上に引き上げられ、周囲に防禦柵を建てめぐらせた三段櫂船の甲板上だ。
それら三隻の三段櫂船は、デモステネスの作戦に基づき、巧妙に配置されていた。
ラケダイモンの戦士たちは例外なく堅牢な盾を携えており、これで防がれれば、矢での攻撃は用をなさない。
だが、彼らの盾は、その正面の向く一方向からの攻撃しか防ぐことはできなかった。
デモステネスは三隻の三段櫂船を、一隻は海岸線と平行に置き、それを挟む形で、残る二隻を海岸線と垂直に近い斜め方向に配置した。
これにより、アテナイの弓兵たちは、防禦を突破しようと突撃してくるラケダイモンの戦士たちに対し、猛烈な横矢を掛けることが可能になった。
密集戦列ファランクスの隊形のひとつ「亀甲」ならば、全方位からの射撃にも対応することができただろうが、少人数ずつでの上陸しかできないことと、険阻な地形や鉄菱による妨害によって、いまやファランクスはほとんど機能していなかった。
そして、弓兵たちの攻撃によってさらに足並みの乱れたラケダイモン軍に、デモステネス率いるアテナイの重装歩兵たちが襲いかかる。
彼らは徹底して一対一の戦闘を避け、常に多数をもって少数に当たるという姿勢を崩さなかった。
少しでも不利な状況になれば歩兵たちはすばやく退いて損害を最小限にとどめ、体勢を立て直してから、機を見て再び襲い掛かるという、陸上から寄せては返す波のような戦法をとった。
ラケダイモンの戦士たちは、アテナイの歩兵たちが退いてゆく機に猛追をかけようとしたが、弓兵たちによる盛んな応射に妨げられ、一挙に突撃することはできなかった。
こうして、上陸戦は一進一退のまま、時間だけが過ぎていった。
ペロポネソス艦隊を率いるラケダイモン人の司令官たちは、一向に破瓜のいかない戦況に苛立ちを隠せずにいた。
何しろ、彼らの全兵力のうち、現時点で陸地に到達できた者はほんのわずかであり、その他の者たちは岩礁と海岸線の険しい地形に阻まれ、陸にあがった同胞たちの苦闘を船上から空しく見守るだけになっているのである。
司令官たちは、兵力を小出しにしてはそのたびに打ち破られるという、戦術の最も愚かな型にはまってしまっている自分たちの状況を理解してはいたが、地形という天然の禦ぎの前には為す術がなかった。
何しろ、強引に上陸しようとすれば岩礁に突き当たり、陸地に降り立つ前に、艦がばらばらになってしまうのだ。
ラケダイモンのブラシダス将軍は、自らも三段櫂船長であったが、この状況を見て切歯扼腕し、接岸しあぐねている操舵手を今にも殴りつけかねない剣幕であった。
「敵とその砦を目の前にして、木材ごときを惜しむ奴があるか! 躊躇せず海岸へ突っ込め! たとえ、それで艦は粉砕したとしても、引き換えに上陸を果たし、敵を血祭りにあげるのだ!」
彼はとうとうそう叫び、操舵手を押し退けると、自ら舵をとって接岸を試み、驚いたことにそれを実現した。
だが、迎え撃つアテナイ重装歩兵団が激しく応戦したため、さしものブラシダス将軍も前進することができず、とうとう波打ち際まで押し返され、全身に傷を負って意識を失い、危ういところで味方に収容されるという事態にまでなった。
彼はその際に、自身の盾を海中に取り落とし、アテナイ軍に奪われてしまった。
敵に盾を奪われるということは、ラケダイモン人にとって非常な不名誉である。
それが他ならぬブラシダス将軍のものであったという事実は、彼らに少なからぬ衝撃を与え、他方、アテナイ側の士気を大いに高めた。
「これを見ィ! 勝てるぞォ! 皆、それぞれの持ち場で粘り切れェ!」
長身を砂と血に塗れさせて砦に戻ったデモステネスは、奪った盾を槍先に括りつけて従卒たちに高く掲げさせ、各部署を回っては兵員を鼓舞して回った。
(ザキュントスからの援軍は、もうすぐ来る……! このまま、しのぎ切ることさえできれば!)
一方、スファクテリア島では、エピタダス将軍率いるラケダイモン軍の男たち――その中には無論、レオニダスら《獅子隊》の面々も含まれている――が、島の北側の高台に築いた陣地から、戦いの様子を見守っていた。
島と本土とのあいだの距離はさほどでもなかったから、優れた視力を持つ者ならば、上陸戦の大まかな趨勢を見て取ることもできた。
レオニダスは急ごしらえの物見台の天辺に上り、アテナイ軍が立て籠もるピュロスの砦の方角をじっと見据えていたが、すぐに降りてきた。
地面で待っていた一同のあいだに流れる空気は重く、硬く張り詰めている。
「味方は、まだ、苦戦しているのですか?」
沈黙を破ってクレイトスが問い掛けたが、レオニダスはちらりとそちらを見ただけで、答えることはしなかった。
己が口にする言葉が、運命の女神たちの耳に入ることを恐れるかのように。
クレイトスは目を伏せ、《獅子隊》の男たちは顔を見合わせた。
「くそっ」
同じくその場にいたディオクレスが、だん、と地を踏んだ。
その背後で、彼の愛人であるヘファイスティオンが不安げな顔をする。
「エピタダス将軍! 今からでも遅くはない。我々も島を出て、上陸戦の加勢に!」
噛みつかんばかりのディオクレスの主張に、エピタダス将軍はじろりと視線を返し、それだけで、相手の言葉を封じた。
「……本国からの命令は、このスファクテリア島を死守せよということ。我々は、動かぬ」
「くそっ!」
ディオクレスが再び吐き捨て、顔を背ける。
ディオクレスとて、理解しているのだ。
地形に阻まれ、多数での上陸が困難な状況で、自分たちが加勢に赴いても無駄であるということを。
だが、焦りが、彼を突き動かした。
彼だけではなく、その場の誰もが、同じ焦燥感を抱いていた。
一瞬にして叩き潰せると思っていた、あの急造の砦に籠もるアテナイ軍が、まさか、これほどまでの粘りを見せるとは。
急がなければ――
「総員、休息をとっておけ。今のうちにな」
エピタダス将軍が告げ、その場の空気がざわめいた。
(どうか、早く……)
レオニダスは、祈る思いで拳を握り締めた。
急がなければ。
このままでは――
ザキュントス島から、アテナイ艦隊がやってくる。
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