古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第4章

スファクテリア炎上

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 反射的に動きを止めた、刹那の判断が仇となった。
  頭の右側面に激しい衝撃が走り、一瞬、目の前が真っ暗になる。
  クレイトスはよろめき、その場に崩れ落ちるように両膝をついた。

  背後から駆け寄り、槍を振り回して石突でクレイトスの後頭部を殴り付けたのは、黒い武装の隊長だった。
  だがその時のクレイトスには、そんなことは分からなかった。凄まじい眩暈と吐き気に耐え、意識を失わないように堪えるのが精いっぱいだった。
  背後から太い腕が首に巻き付き、引き千切らんばかりの強さで絞めつけてくる。
  一旦は暗くなった目の前が真っ白になった。

  これが、最期か。
  奇妙に冷静に、クレイトスはそう感じた。
  こんなところで。たった六人を斬って終わりか。こんな。
  こんなことで、レオニダス様に顔向けができるとでも思うのか?

  若者の体がぐったりと力を失うのを感じ、隊長は、満身の力で絞めていた腕を緩めた。
  瞬間、力無く垂れたはずの両手にがっちりと腕を掴まれて、隊長が驚愕に目を見開く暇もあらばこそ――
 クレイトスは相手の腕に手をかけ、大地に足をつけたかと思うと、渾身の力で体を跳ね上げた。
  真下から顎に頭突きを食らわされ、隊長が片手の槍を取り落としてのけぞる。
  クレイトスは痛みを堪え、首にかかった相手の腕を掴んだまま、上体を思い切り前に倒した。
  隊長の両足が浮く。彼は宙で完全に一回転して、背中から砂の上に激しく叩きつけられた。
  クレイトスは、体格で遥かに上回る相手を背負い、投げ飛ばしたのだ。
  だが、大きな動作はそれだけ大きな隙を生む。
  目の前に転がった隊長に留めを刺そうと剣を振り上げたクレイトスの動きが、そのままの姿勢で、凍りついたように止まった。

  眼前に、槍の穂先が突きつけられている。
  ひとつだけではない。
  周囲のぐるりから、アテナイ兵たちの無数の穂先が彼を取り囲み、ぶつかり合いながら突き出された。
  後頭部の痛みがいっそう激しくなり、がんがんと頭の中で金属が乱打されているようで、周囲の風景がぐらりと揺らいで見えた。
  倒れていた隊長が、部下たちの槍の柄の下からゆっくりと起き上がり、落とした槍を持ち上げ、ごきりごきりと肩を鳴らすのが悪夢のように見えた。

 (また……駄目なのか。僕は、また)

  ラケダイモンの戦士らしく、死を目前にして鉄壁の無表情を守りながら、クレイトスは、泣きたいような思いにとらわれていた。
  入り江の戦いでの出来事が甦った。自分は最後まで、役立たずの間抜けのままだ。
 恐怖はなく、ただ、自分の不甲斐なさが哀しかった。

 (レオニダス様、僕は……)

  その瞬間だった。
  どっと鈍い音がして、クレイトスの目の前の兵士が血を吐いた。
  ゆっくりと後ろざまに倒れてゆくその胸を、投槍がまともに貫いていた。
  何の飾りもないその槍の柄に、覚えがある。
  忘れるはずがなかった。あの人の武器を。

  時間が引き延ばされたように奇妙にゆっくりと見える中、自分を取り囲んでいた兵士たちの槍の穂先が、狼狽したようにわずかに逸れてゆく。
  それらは一様に、クレイトスの背後に向けられた。
  背後から遠雷のごとき響きが近付いてきたと思うと、突然、膜を引き裂いたように全ての音がはっきりと聞こえるようになった。
  それは戦いに挑む男たちの雄叫びだった。

  槍を構え、盾を押したてたラケダイモンの男たちが、その場に突っ込んできたのだ。

  頑強な盾に槍の穂先を跳ねのけられて、アテナイ兵たちが後退する。
  たちまち周囲は、敵味方の入り乱れる乱戦となった。

  目の前がちらつき、砂の上に両手をついて喘いだクレイトスの視界の端に、炎の照り返しを受けて緋色に輝くマントが翻った。
  彼は、顔を上げた。
  クレイトスを背後にかばい、レオニダスが盾を構え、投げ放った槍のかわりに剣を抜き放っていた。
  その姿勢には一部の隙とてなく、腕と脚の筋肉の隆起がくっきりと浮かび上がった後ろ姿は、神代の英雄が地上によみがえったかと思わせるほどの力強さを備えていた。

 《半神》の前に立ちはだかる黒い武装の隊長もまた、盾を構え、槍を握り込んだ。
  周囲では、兵士たちがそれぞれに激しく武器を交えている。
  ふたりのつわものの激突に、干渉する余裕は誰にもなさそうだった。

  そんな二人の姿がまたもや大きくぼやけたが、クレイトスには、もはやそれが涙のためか、眩暈のためかさえ、区別がつかなかった。
  彼は砂に突き立てた剣に縋って立ち上がろうとしたが、頭が割れそうに痛み、身動きさえも満足にできなかった。

  声すら立てずに、レオニダスが、動いた。わずかに踏み込み、敵の動きを誘う。
  ほぼ同時に恐るべき速度で突き出されてきた穂先を、盾で打ち払い、さらに圧倒的な速度をもって踏み込んだ。
  辛うじてその様子を視野に収めながら、先ほどの自分の戦い方をクレイトスは思い出した。
  同じ動きだ。
  いや、そうではない。あの動きは、レオニダス様から教えられたものだった。
  そしてレオニダス様の動きは、自分よりもずっと速く、鋭い――

《半神》の体が旋風のように回転し、花が咲くように深紅のマントが広がった。死をもたらす切っ先が弧を描き、黒い鎧の胸板を削った。
  黒い武装の隊長は盾を跳ね上げ、レオニダスの次の一撃を辛うじて受けた。
  力が拮抗して押し合いになるよりも早く、自ら飛び退って距離をとると、猛然と反撃に転じた。
  獣のような咆哮と共に、凄まじい突きが連続して繰り出される。
  常人ならば、一瞬のうちに三度は串刺しになっていただろう。
  だが、レオニダスはそれらのことごとくを受け、かわし、弾いて――



「何やねん、あいつ」

  ボートの上から、隊長と激しい戦いを繰り広げる男の姿を眺め、面白くもなさそうにクレオンは呟いた。
  ぼやぼやしとる間にラケダイモン人が増えてしもたがな、えらいこっちゃ、それにしてもややこしそうな奴出てきよったなあ、せっかくええとこやったのに邪魔しくさって、などと彼はなおもぶつぶつ言っていたが、

 「あ……」

  その隣で、デモステネスは、あんぐりと開けた口をわなわなと震わせていた。
  その顔は、まるで死をもたらす翼を目の前に見た人のように、蒼白になっていた。

 「あいつ……まさか……あれとちゃうか!?」

 「『あれ』? あれって何や、デモステネス君?」

 「何て、君、聞いたことないんか!?」

  答えるデモステネスの声は、ほとんど悲鳴のようになっていた。

 「あれがラケダイモンの《半神》……! 《獅子隊》の隊長や!」

  それを聞いても、クレオンは一瞬、何ら反応らしきものを見せなかった。
  一瞬だけ。

 「あ、そう……」

  彼は呟き、不意に、大きく頷いた。
  つまらなさそうだったその顔に、にんまりと笑みが広がった。

 「そうか。そうなんや。そらまた……なるほどな。おおおい! リュコプロン!」

  クレオンは出し抜けに、両手をラッパにして叫び、その手を頭上に掲げてぶんぶんと振った。

 「聞こえるかァ! おおおい! こっち見ろ、こっち! どこ見とんねん、こっちやっちゅうねん!」



  少し離れた海上に浮かぶボートの上で、まるで気でも狂ったように両手を振り回しながら叫んでいる男がいる。
  踊りでも踊るように複雑な身ぶりをして、陸上の味方に何事かを伝えようとしているようだった。

 (あれが、クレオンなのか?)

  そんな疑問が泡沫のように浮かんで、すぐに消えた。
  レオニダスは、目の前の敵から一切注意を逸らさず、一定の距離を保ちながら、じりじりと砂の上を移動し続けていた。
  ボートの上の男の姿も、はっきり見たというのではない。目の端にちらりと入ったものを、漠然とした印象として認識したというだけのことだった。周囲で戦っている敵味方の状況についても、同じようなものだった。

  目の前の黒い武装の男が、再び凄まじい刺突を繰り出してくる。
  盾の表面を削られながらもそれを受け流し、レオニダスはその場から一歩たりとも動かなかった。
  背後に、守るべきものがあるからだ。

  炎は既に凄まじい勢いで燃え盛っている。周囲には薪が散らばり、壺が落ちていた。
  この火が人為的に放たれたものであることは明らかだった。クレイトスは、この姦計を見抜き、たった一人でアテナイ勢に戦いを挑んだのだ。
  クレイトスが車の輻のような槍の群れに取り囲まれているのを見た瞬間には、全身の血が凍りつくような気がした。辛うじて間に合ったことを何千回でも神々に感謝したいと思った。振り向いてクレイトスに笑いかけ、よくやったと言ってやりたかったが、今はそれどころではなかった。

  相手が突いてくる。盾で防いだが、わずかに二の腕をかすめられた。
  先ほどクレイトスを救うために投げ放った槍を、もう一度、手にすることができれば。
  だが、愛用の武器は敵兵の死骸の胸に深々と突き刺さったままだ。あれを引き抜くためには、大きな動作が要る。それは、この状況においては、あまりにも大きな隙となるだろう――

 そのとき、レオニダスは不意に、視界の端の上方に動くものを認めた。
  何か大きな、黒いものが、こちらに向かって飛んでくる――
 レオニダスは、そちらを見もせずに剣を振るった。
  ガッと重い手応えがあって、何かが砕け散った。
  壺だ。鋭い破片とともに、中の油が飛び散ってレオニダスの体に降りかかった。
  少し離れたところからそれを投げつけたアテナイ兵は、それ以上何かをする前に、横手から突進してきたラケダイモン兵オルセアスによって首を刎ね飛ばされた。



 「あああ! あかーん!」

  ボートの上で両腕をわななかせ、心の底から残念そうにクレオンはそう叫んだ。
  デモステネスが不気味そうに見守る中、彼はそのまま三呼吸ほどのあいだ、じっと動きを止めていたが、ふと腕を下ろし、落ち着き払ってきょろきょろと左右を見回した。



  隊長は、この一瞬の隙を見逃すような男ではなかった。
  これを先途とばかりに、渾身の突きを繰り出した。空中の壺を叩き落とすために体が泳いだレオニダスの、がら空きになった脇腹目がけて鋭い穂先が奔る――
 レオニダスの喉から、凄まじい咆哮がほとばしった。
  赤い血がしぶく。
  レオニダスは、宙に泳いだ盾で敵の穂先を受けようとはしなかった。
  彼は神がかった動きで身をひるがえし、大きくひねった脇腹に浅手を受けながらも、敵に向かって踏み込み――
 一回転した遠心力を活かして、握った剣の柄を、相手の顔面に思い切り叩き込んだ。
  隊長がよろめく。前歯が何本か折れたことが手応えで分かった。
  レオニダスはさらにその衝撃を活かして片足を軸に反転し、無防備だった相手の脇腹に、刃を深々と埋め込んだ。
  隊長がぐうっと呻き、体を折り曲げて動きを止めた。
  レオニダスが剣を引き抜くと熱い血が溢れ出して彼の手を濡らし、黒い武装の隊長は、そのまま砂の上に倒れ伏した。

  レオニダスは、ようやく動きを止め、激しく肩を上下させた。
  三人――自分とテレシクラテス、オルセアスで、十人以上の敵を相手取り、全滅させたのだ。
  いや、自分は最初に槍で殺した一人と、隊長のほかは相手にしていないのだから、実質的にはテレシクラテスとオルセアスが二人で後の全員を片付けた勘定になる。
  ラケダイモンの男の名に恥じぬ、見事な戦いぶりだ。

  一番若いオイクレスは、戦いに突入する直前、炎を目にした時点で伝令に走らせた。今頃、彼は暗い斜面を猛然と駆け上がり、北の陣地に到着して状況を報告しているだろう。
  テレシクラテスは腿のあたりにやや深い手傷を負わされたらしく、オルセアスが彼に駆け寄り、肩を貸している。だが、テレシクラテスはレオニダスと視線が合うと、にやりと笑い返してきた。命に別条はないようだ。

  ここに至って、レオニダスは初めて、クレイトスを振り返った。
  クレイトスは、よろめきながら辛うじて立ち上がり、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。
  レオニダスは、賞賛の意をこめてメイラクスを見つめ、小さくかぶりを振った。
  きっと、お前はまた、自分には何もできなかったと嘆いているのだろう。
  そうではない。神代の英雄にも比すべき偉業を、お前はなしとげたのだ。
  あの砂浜でのお前の行動、お前の機転がなければ、我らは状況を理解することもできないまま、何の備えもなしに圧倒的な炎に襲われていただろう。

 (だから、そんなふうに、泣かなくていい)

  レオニダスは、そう言おうとした。
  彼がかすかに口を開いたとき、ひゅうと音がして、暗い海の方から一条の光が飛来した。
  赤みがかった小さなその光は、斜め後ろから勢いよくレオニダスの肩にぶつかり――
 次の瞬間、光は爆発的に広がり、炎となって、レオニダスの体を呑み込んだ。


  テレシクラテス、オルセアスが、石と化したように硬直する。
  クレイトスにもまた、何が起きたのか分からなかった。
  レオニダスが苦痛の叫びを上げ、燃え上がるマントを振り払おうと身をよじるのを見て、男たちはついに何が起きたのかを悟った。

  レオニダスの背に、一本の矢が突き立っていた。
  海から飛来した一条の光と見えたもの、それはだったのだ。
  先ほどアテナイ兵が投げつけた壺を叩き割ったとき、レオニダスは全身に油を浴びていた。
 火矢の炎は、その油に引火して――

 クレイトスは、絶叫した。
  自分自身の苦痛など、完全に意識から消え去った。
  彼はもつれる足でレオニダスに向かって突進し、身を焼く炎を振り払おうと虚しく振り回される腕を掴んだ。
  油のにおいに混じって、髪の焦げる嫌なにおいが鼻をついた。
  愛する人を焼く炎が、自分自身の皮膚をも焼く。
その痛みにも構わず、クレイトスはレオニダスを抱きかかえ、無我夢中で走った。

 (どうか!)

  走りながら、クレイトスは泣いていた。
  自分が泣いていることにも気付かずに、泣きながら祈っていた。
  どうか、神々よ、愛するこの方をお救い下さい。レオニダス様の命が助かるのならば、僕の命を捧げます。どうか、どうか――

 ずいぶん長い時間に思えたが、実際にはほんの少しのあいだだったのだろう。
  彼は思い切り砂を蹴り、レオニダスの体もろとも、暗い海へと突っ込んだ。
  激しいしぶきが上がり、拷問のような熱と入れかわりに刺すような冷たさが全身を包み込んだ。
  海水が焼けた肌に触れる激しい痛みに、クレイトスは水中で悲鳴を上げた。
  ごぼりと泡を吐いて海水を飲み、腕と足をばたつかせて、辛うじて波の上に顔を出した。

 (レオニダス様!)

  そうだ、こんなことをしていては、レオニダス様が溺れてしまう。
  暗く濁った水の中で何度も手足を突き出し、クレイトスはようやく右手が砂に突き刺さるのを感じた。
  ここは波打際なのだ。水深はほんのわずかしかない。水底がどこにあるのかさえ分かれば、立ち上がることは困難ではなかった。

  クレイトスは海水を飛び散らして立ち上がり、激しく瞬きをしながら必死に辺りを見回した。
  すぐ側に、力無くうつぶせに浮いている体を見つけ、鎧のふちを掴んで力任せに引き上げた。

 「レオニダス様!」

  その背に突き立った矢を掴み、引き抜く。
  クレイトスは片膝をつき、そこにもたせかけるようにして、レオニダスの体を仰向けにした。
  がくりとレオニダスの首が仰け反った瞬間、クレイトスはもう少しで悲鳴を上げるところだった。
  神の血を受けたと謳われた美しい顔の右半分に酷い火傷が広がり、焦げて縮れた髪が濡れてはりついていた。
  凝固したようになったクレイトスの側で、海面が小さく弾けた。

  クレイトスは、振り返った。
  やや離れた海の上に、ボートが浮かんでいる。
  その船端に片足をかけ、弓を構えて矢をつがえ、こちらに狙いをつけている男がいた。

  その右隣には、恭しく松明を捧げ持つ男が控え、反対側には、何事か怒鳴りながら二人がかりで押さえつけられている男の姿があった。
  びゅっと空気が鳴り、先ほどよりも近い場所で再び水面が弾けた。

  クレイトスの顔が、悪鬼のように歪んだ。
  彼は腹の底からほとばしるような絶叫を発し、その場に立ち上がった。

  弓を構えた男、この卑劣な策を主導した男、レオニダスに火矢を射かけた男――クレオンと、まともに視線がぶつかる。
  彼は薄く笑いを浮かべ、波に上下するボートの上で慎重に狙いを定めていた。
  クレイトスは言葉にならぬ咆哮をあげながら、レオニダスの体を背後にかばい、大きく腕を広げて立った。

  クレオンの顔に、軽い驚きの表情があらわれる。
  やがて、彼は、つがえていた矢を弦から外し、弓を下ろした。
  その顔にゆっくりと笑みが広がり、彼は、声を立てて笑い始めた。

  三度、クレイトスは絶叫した。
  悲愴な咆哮と、狂ったような哄笑が、炎に呑まれた木々の幹が弾ける激しい音にかき消されていった。


 * * * * *


  激しい蹄の音がふたつ、夜の闇を裂いてゆく。
  ふたつの騎馬の影が、月明かりに照らされてメッセニアの大地を突っ走っていた。
  夜に、こんなふうに馬を疾駆させるなど、本来ならば正気の沙汰ではない。
  だが、馬上の二人には、一時も無駄にはできぬ用事があった。
  どちらも厚いマントで体を包み、頭も顔も覆っている。

  馬に乗ることができたのは幸いだった、と先を駆ける男は思った。かつての追い剥ぎ稼業で、馬を扱う機会も多かったのだ。
  野蛮な暮らしをしてきたことも、こうなってみれば、何かしらの役には立つものだ。

  だが、後に続くもう一人が馬に乗れたとは驚きだった。
  これまでも型破りな方だとは思っていたが、ここまで来ると、いったいこの方の父上や母上はどのような教育方針だったのだろうかと思わないでもない。

  ここまでの道は、登り坂の連続だった。男が先に駆けのぼり、後に続くもう一人も、やや遅れながらではあるが、それ以上に引き離されることなくついてくる。
  ようやく、長い登り坂の頂点が見えてきた。
  星空に飛び込むようにして坂の頂に達し、目の前に広がるイオニア海を見下ろした男は、いきなり手綱を引いた。
  夜の闇に、鋭い嘶きが響き渡る。

 「あれは……」

  しきりに後足で立ち上がろうとする馬の胴をぐっと膝で挟み込みながら、男はそう呻くなり、黙り込んでしまった。

 「どうした!」

  背後から蹄の音が近付き、ここまで長く乗り続けてきた疲れをほとんど感じさせない張りのある声が呼びかけた。
  だが、男が目にしたのと同じ光景を見て、もう一人もまた、そのまま言葉を途切れさせた。

 「嘘だろ」

  やがて、男は言った。言わずにはいられなかった。

 「島が、燃えてやがる……」


 * * * * * 


 「あー、あー……」

  笑い過ぎて涙さえ浮かべた目で、クレオンはもう一度、スファクテリア島を見やった。
  炎は、もはや天空の最高神が突然の雷雨でももたらさぬ限り、何人たりとも止めようがないほどの勢いと範囲で燃え盛っている。
  そんなクレオンの顔面に、いきなり、拳が叩きつけられた。

 「この、恥知らずが! 何ちゅうことをするんや!」

  デモステネスだ。
  彼は付き人たちの手を跳ね除けると、大きく揺れるボートの上で立ち上がり、クレオンに詰め寄って激しくなじった。

 「あれほどの男を、正々堂々の戦いやなしに、弓矢で……火矢で焼き殺すなんちゅうことが、許されると思うんか!
  何ちゅう、汚い真似を! アテナイの恥さらしや! この……」

  デモステネスは普段の冷静さと温和さをかなぐり捨て、再びクレオンに打ってかかろうとしたが、それは付き人たちに阻まれた。
  殴られて舟底に引っくり返ったクレオンは、くくく、とまだ小さく体を震わせながら、両の目を星空に向けていた。
  やがて、彼は呟いた。

 「デモステネス君。僕は……そうやなあ、多分、明日くらいに着くことにするわ」

 「はあ!? 何が明日や!? おい! 僕の話を――」

 「よし。じゃあ、そういうことで。
  僕は、明日くらいに、ここに着くことにするわ」

  クレオンはむっくりと起き上がり、殴られたことなど忘れたような顔でデモステネスに笑いかけた。

 「だから、今日、僕はまだ、ここにはねん。
  あの火ィは……何やろうなあ? 山火事かな?」

 「何を言うとるんや! おい!」

 「風も強いしなあ」

  デモステネスはなおも激昂していたが、クレオンはこの状況からすれば一種異様なほどに涼しい顔と口調で、続けた。

 「きっと、炊事でもしとって、うっかり火の粉でも飛んでしもたんやろなあ。
  僕が着いたときには、島がもう丸焼けになってしもうてて、ほんま、拍子抜けっちゅうか、びっくりやで!」

 「は!? ふざけとるんか!? さっきから、一体、何を言うとるんや!?」

 「そうしとく、ちゅうてるねんやんか」

  クレオンは微笑を絶やさず、はっきりと言った。

 「敵を焼き殺すために、島に火ィ放つ? 勇士を火矢で焼き殺す?
  そんな奴、恥も外聞もない、悪逆非道の最低野郎やんけ! なあ? そんな評判、僕は絶対いらんわ。
  あの火ィは、不慮の事故! 失火! そう書いておけば、もう大丈夫や。
  アテナイの今の市民たちも……百年後、千年後の市民たちも……それを読めば、みんな、納得してくれる」

  デモステネスは、言葉を失った。
  クレオンは急速に腫れ上がる頬を意にも介さず、まるで慰めるように、デモステネスの肩をぽんぽんと叩いた。

 「歴史は常に、勝者によって記される。
  つまり、これから僕たちが語ることこそが事実であり、真実であり、歴史や。
  なあ、デモステネス君。君かて、悪逆非道の作戦を知りながら黙って片棒担いだ共犯者として、歴史書に載りたくなんかないやろ?
  僕たち二人で、スファクテリアの英雄になろうや!」
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