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第4章
盾の誓い
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「ふざけるな!」
ディオクレスが怒鳴り、地面を踏みつけて立ち上がった。
大きく灰が舞い上がり、彼の隣に腰を下ろしたフェイディアスが顔を背けて片手を振る。
ラケダイモンの戦士たちのうち、年嵩の者たちが中央に、若い者たちは外周に集まり、大きな輪を作っていた。
少し外れたところでは、アテナイ艦隊から派遣されてきた使者が交差した槍で砂の上に押し伏せられ、蒼ざめた顔だけをこちらに向けている。
「無条件降伏だと!? 誰に向かって物を言っている! 下らぬことを抜かすその舌を叩き切り、肉も一寸刻みにして送り返してやるわ! それが、我らの答えだ!」
激しい賛同の唸りと、武具を打ち鳴らす凄まじい物音が上がり、使者の顔色は死人のそれのようになった。
「まあ、皆、落ち着け」
エピタダス将軍が立ち上がり、静かに言った。
部下たちが示す興奮とは対照的に、将軍は腕を組み、その視線はまっすぐに据えられ、まるで自分たちとは何ら関わりのないことを話しているかのようだ。
「聞いての通り、アテナイ側の主張は、無条件降伏か、それとも全滅か、日暮れまでに選べと、こういうことじゃ。
ディオクレスの意見は徹底抗戦。皆、それでよいかな?」
「無論だ!」
「戦おう! 大地の上でラケダイモン人を相手取るとはどういうことか、とくと教えてやるわ!」
年嵩の者も、年若い者も一様に熱狂的な叫びをあげる中、フェイディアスだけは、炎を見つめて黙り込んでいる。
「《獅子隊》を預かるフェイディアスよ。そなたの考えを述べるがいい」
エピタダス将軍の言葉に、皆が静まり、ディオクレスが「ふん」と鼻を鳴らす音だけがやけに大きく響いた。
フェイディアスは食い入るように見返してくる一同の顔を順に見渡してから、立ち上がり、おもむろに口を開いた。
「俺も、戦うことに賛成だ」
「おお!」
「やろう! アテナイ野郎どもを冥府の河に叩き込め!」
「――ただし!」
出し抜けに両手を強く突き出した、フェイディアスのただならぬ剣幕に、再び全員が押し黙る。
今度は、しわぶきひとつ聞こえない、本当の沈黙だ。
「交渉の余地は、本当に、もう、全くないのか?」
「……交渉だと!?」
「俺たちは、いいだろう!」
喚き出したディオクレスを、目玉を剥いて怒鳴りつけ、フェイディアスは、再び急速に声の調子を落とした。
「そうだ。俺たちは、いいだろう。この手に盾と槍を持ち、父祖の名に恥じぬ戦いをし、恐れることなく死ぬだけだ。
だが……戦えない者は、どうする? 負傷兵たちは。俺たちの、同胞たちは……」
フェイディアスのその言葉に、全員が黙り込んだ。
ラケダイモンの男たちは、一定の年齢になれば全員が兵舎で共同生活を送る。
戦士たちの誰もが、互いに食事を共にした仲であり、幾度もの遠征を乗り越えてきた戦友同士だ。
ここにいる全員が、全ての負傷兵たちと、直接、言葉を交わしたことがある。
特に、自分自身のメイラクス、あるいはフィロメイラクスが傷を負い横たわっている者たちは、顔を伏せて苦しげな表情を見せた。
誰もが、分かっている。
自分たちは、素晴らしい武勲をあげるだろう。
一人が十人、二十人を殺し、最後の一人まで敵に背を向けることなく戦い続けるだろう。
そして、最後の一人が倒れた後には、血に塗れた盾と槍と、名誉だけが残されるのだ。
だが、戦えない者たちは?
地形の点から見て、アテナイ勢を迎え撃つとすれば、もともと陣地を築いていた場所で密集し、防御を固めるしかない。
だが、重傷の戦士たちを今いる場所から動かすことはほとんど不可能だった。
よしんば無事に陣地まで移送することができたとしても、彼らを守りながら、押し寄せるアテナイ兵たちと戦うなどということはできない。
傷ついた男たちは、我が身を守るために盾を掲げることすらできず、切り刻まれ、踏み躙られて息絶えてゆくしかないのだ。
しばらくして、男たちのあいだから、呟くような声がいくつも上がった。
「もしも、交渉の余地が、あるのだとすれば……」
「せめて……負傷兵たちだけでも本土に後送することができるよう、掛け合うことはできないものか?」
「馬鹿な! こんな卑怯な手を使うような男相手に、交渉など!」
「――使者殿よ、どうなんじゃ?」
エピタダス将軍に、視線さえも向けずに問われ、使者はもはや歯の根の合わぬ口を必死に動かして返答した。
「わ、我らの司令官は……む、む、無条件降伏か、全滅か、それより他に、一切、選択肢はないと伝えよ、と……」
「戦いましょう!」
不意に決然と響いた声の源に、一同が注目する。
輪の外周で、クレイトスが立ちあがっていた。
年が若いということもあり、彼がこのような場ですすんで発言したことは、これまでに一度もない。
一瞬、場がざわめいたが、一同はやがて静まり、彼の言葉に耳を傾けた。
「クレオンは、神々をも恐れぬ、残虐な、卑怯者です。正面からの戦いを恐れ、火をもって我らを焼こうとするような男だ。そんな男に、ラケダイモン人が降伏することなど、絶対に有り得ない。
そして、フェイディアス様、失礼を承知で申し上げます。
交渉など、初めから無駄です。それを守る気もないような男を相手に、交渉をするなど馬鹿げている。飛び道具をもって勇士を討ち取ろうとするような男相手に、いったい、どんな交渉が成り立つというのでしょうか」
「おお……その通りだ!」
「クレイトスの言う通りだ!」
周囲から賛同の唸りが上がり、がちゃがちゃと武具が打ち鳴らされた。
フェイディアスは、クレイトスの目をじっと見つめた。
そこに、不退転の覚悟を読み取り、フェイディアスはかすかに頷いた。
そして自分は腰を下ろし、腕を振って、クレイトスに先を続けるよう促した。
「僕は、この目で、クレオンの姿を直接見ました」
クレイトスは、一同のあいだを一歩、また一歩と進みながら語った。
その美しい青い目は、今は怒りと憎悪に翳っているように見えた。
「奴は……レオニダス様を射たとき、笑っていた! あれは、血も涙も持たぬ魔物です。
覚えておいでですか。かつて、ミュティレネ市が、アテナイ率いるデロス同盟から脱退しようとしたときのことを? その報復として、ミュティレネの市街を完膚なきまでに打ち壊させたのがクレオンだったはず。
それだけではない。奴は、ミュティレネ市の成年男子は全員処刑し、女子供は奴隷として売るよう提案したといいます」
彼は一同を見渡し、最後に、エピタダス将軍を見た。
その目には、ほとんど睨みつけるような、強い光があった。
「交渉も、降伏も、結果は同じ。名誉なき死が待つだけだ。
我らは、ラケダイモン人としての名誉を守り、最後の一人まで戦いましょう!」
「無論だ! よく言った、小僧!」
ディオクレスが勢いよく立ち上がり、叫んだ。
彼がこのようにクレイトスを讃えたのは、皆の記憶にある限り、今この時のただ一度きりだった。
「小僧の言う通りだ。――皆! あの誓いを思い出せ!
『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』!
ラケダイモンの戦士には、勝利か、さもなくば死かの選択肢しかないのだ! 生きて虜囚の辱めを受けるなど、思いもよらん!」
「よし」
エピタダス将軍が、淡々と、穏やかな笑みさえ浮かべて頷き、立ち上がった。
「話は決まった。
此度が、我らの最後の戦となるじゃろう。
皆、これより身を清め、髪をくしけずり、膚に香油を塗っておけ。もしも、まだあればの話じゃが。
……おお、そうじゃ」
とぼけた道端のじいさんのような調子で振り向いたエピタダス将軍に見つめられ、使者はがちがちと歯を鳴らして身をもがいたが、槍の柄でますます強く砂の上に押し伏せられただけだった。
「この話を、クレオンに伝えてもらわねばならんな。
誰か、返事を書いといてやれ。そうじゃな、こういう仕事は、ディオクレスが得意かのう」
「お任せを」
短剣を引き抜いたディオクレスが、舌舐めずりをしそうな顔で近付いてくるのを見て、使者はとうとう悲鳴を上げ、失禁した。
「ああ、そう怖がることはない。殺しはせんよ。
……そう、本物の男なら、これくらいのことで死にはしないはずだ。そうだろう?」
* * *
「うっわ……えっぐい真似しよんなぁ!」
二人がかりで担ぎ込まれてきた使者が、自分の足元に倒れ込んだのを見て、クレオンは両手と片足を上げて驚きを表した。
《勝利をもたらす者》号はやや沖合に投錨させ、小舟で半島の海岸に上陸したクレオンは、大きな天幕を張らせてそこに陣取り、報告を待っていた。
そこへ、スファクテリア島から小舟で送り返された、半死半生の使者が運び込まれたのである。
血塗れになった使者の裸の背中には、一面に、刃物で付けられたと思しき傷で“MOΛΩN ΛABE”と刻みつけられていた。
天幕にはクレオンと、出入口を守る付き人たちしかいないが、ここにたどり着くまでに、多くの兵士たちが使者の無残な姿を目にしたはずだ。
戦うより先に、恐怖をもって敵を威圧する。
ラケダイモンの常套手段だ。
「大丈夫か、君!? よう、生きて戻って来れたねえ」
自分で送り出しておきながらそんなことを言って、クレオンは、急に笑い出した。
「それにしても、また、この台詞かいな!
《来て、手に入れるがいい》……ああ、そう来ると思うとったよ。ほんま、あの人らの頭ァ、揃いも揃って、岩と鋼でできとるんとちゃうか? 後悔しても、知らへんでェ」
「……クレオン様!」
「うん、何?」
急に、使者の男が血塗れの手でクレオンの足首を掴んだ。
クレオンは大して嫌な顔もせず、その場にしゃがみ込んで首を傾げた。
「どないしたん? 遺言やったら、誰か呼んで記録さしとくけど。
いや、でもなー、この傷の程度やったらまだ大丈夫と思うで? 僕は」
「あの話は……本当なのですか!?」
「あの話? て、どの話?」
「あの島に、火を放ったのが、貴方だと!」
使者は肘をついて身を起こし、目を剥いてクレオンを見た。
「ラケダイモン人たちが、話しておりました……! 貴方は、まさか」
目にも止まらぬ速さで引き抜かれた短剣が背中に突き立ち、使者は全身を硬直させると、ごぼりと血を吐いて死んだ。
頭が床にぶつかるごとんという音が、重く、虚ろに響いた。
「あかんて……そんな、いらんこと言うたら」
使者の服の端で短剣を入念に拭い、クレオンは、嫌そうな顔で付き人を呼んだ。
「ここ、片付けといて。――彼は、傷の痛みのためと、血を失い過ぎたために死んだっちゅうことにしよう。
非戦闘員である使者に残虐な行為を加え、死に至らしめたラケダイモン人どもには、それなりの代償を支払ってもらう必要がある……」
もはや物言わぬ使者を運び、付き人たちが出ていくと、クレオンは天幕の中に運びこませてある小さな机と椅子に座り、紙とペンを取って熱心に手紙を書き始めた。
記録を兼ねた報告を、本国に書き送るためだ。
しばし一心にペンを走らせていたクレオンだが、何度目かにインク壺にペン先を突っ込んだとき、その動きが止まった。
天幕の外で、低く抑えたやり取りの声がしたのを聞きつけたのだ。
「……ええよ。通して!」
天幕の出入口に下がった布がめくられ、姿を現したのは、デモステネスだった。
腫れぼったい両目は、いまだ本調子ではないことを窺わせるが、今、その視線はまっすぐにクレオンを捉えていた。
「おお、デモステネス君」
クレオンは笑顔になり、ペンを置いて立ち上がり、両腕を広げて彼を迎えた。
「もう、具合はええんか? そない無理せんと、ゆっくり寝とったらええのに」
「懐に短剣隠し持った奴に、寝台の真横で見張られて、のんきに寝てなんかおられるかいな」
デモステネスは、表情を変えずにそう言った。
クレオンもまた、表情を動かさなかった。
にこやかな顔のままで、言った。
「ほんで? どうよ。――腹ァ、括ったんかいな」
「僕も、だいぶ悩んだよ」
そう言って視線を逸らしたデモステネスの声は、相変わらず静かで、顔つきもどこかぼんやりと、まだ眠気が去らないといったふうだ。
そのまま、しばし、沈黙が落ちる。
天幕の外で、クレオンの付き人たちが槍を握り込み、剣を鞘から引き抜く、その微かな音さえも聞こえそうなほどに。
デモステネスは、盛大に鼻息を吹いた。
「僕の結論は、こうや。――僕は、奥さんが待ってるアテナイに帰りたい。
名誉ある死体になってやなしに、生きて、アテナイに帰りたい。
そして――生きて帰る以上は、惨めな敗戦の将軍としてやなしに、名将として帰りたいんや」
再びクレオンを見返したデモステネスの眼差しは、完全に据わっている。
「クレオン君。僕は、誇りを捨てても、栄誉と共に帰ることを選んだ。
そのために、君に協力しようやないか。
もちろん君は、僕に、正当な対価を支払ってくれる用意があるんやろうな?」
「ははははは!」
クレオンは大声を放って笑い、使者の血に汚れた絨毯を何のためらいもなく踏んで、デモステネスの肩を抱いた。
「さすがや、デモステネス君! 君なら、きっと、僕の考えを理解してくれると思うとった。
正当な対価やて? ……もちろん! そこらのいんちき商売人と一緒にせんといてや。僕は、必ず、スファクテリア島を落とす!」
「ラケダイモン側が、無条件降伏の勧告を蹴ったらしいやないか。まあ、それは最初から分かっとったことやけど。……後は、上陸戦しかない」
デモステネスは、意図して茫洋と見せていた表情を引き締めた。
「明日の夜明けを待って、いよいよ、総攻撃やな?」
もはや太陽は西の水平線に向かって傾きつつある。
激突のときは、明日。
夜の闇が去り、再び日が昇ってからとなるだろう――
「デモステネス君、デモステネス君」
クレオンはにやにや笑いながら、デモステネスの肩をぽんぽんと叩いた。
「なーにを、言うてはりますねんな。相手は、痩せても枯れても、天下のラケダイモン軍やで? そないに古臭い手ェ使うたら、先方さんに対して、失礼にあたりますがな!」
「はあ?」
わざとらしいクレオンの口調に、デモステネスは眉をひそめた。
「クレオン君。……君、まだ、何か企んでるんか?」
「まあ、見とき」
この上もなく甘美な果実を口にしたときのように、クレオンは口元を綻ばせた。
「僕は、今夜、戦争の歴史を変える」
ディオクレスが怒鳴り、地面を踏みつけて立ち上がった。
大きく灰が舞い上がり、彼の隣に腰を下ろしたフェイディアスが顔を背けて片手を振る。
ラケダイモンの戦士たちのうち、年嵩の者たちが中央に、若い者たちは外周に集まり、大きな輪を作っていた。
少し外れたところでは、アテナイ艦隊から派遣されてきた使者が交差した槍で砂の上に押し伏せられ、蒼ざめた顔だけをこちらに向けている。
「無条件降伏だと!? 誰に向かって物を言っている! 下らぬことを抜かすその舌を叩き切り、肉も一寸刻みにして送り返してやるわ! それが、我らの答えだ!」
激しい賛同の唸りと、武具を打ち鳴らす凄まじい物音が上がり、使者の顔色は死人のそれのようになった。
「まあ、皆、落ち着け」
エピタダス将軍が立ち上がり、静かに言った。
部下たちが示す興奮とは対照的に、将軍は腕を組み、その視線はまっすぐに据えられ、まるで自分たちとは何ら関わりのないことを話しているかのようだ。
「聞いての通り、アテナイ側の主張は、無条件降伏か、それとも全滅か、日暮れまでに選べと、こういうことじゃ。
ディオクレスの意見は徹底抗戦。皆、それでよいかな?」
「無論だ!」
「戦おう! 大地の上でラケダイモン人を相手取るとはどういうことか、とくと教えてやるわ!」
年嵩の者も、年若い者も一様に熱狂的な叫びをあげる中、フェイディアスだけは、炎を見つめて黙り込んでいる。
「《獅子隊》を預かるフェイディアスよ。そなたの考えを述べるがいい」
エピタダス将軍の言葉に、皆が静まり、ディオクレスが「ふん」と鼻を鳴らす音だけがやけに大きく響いた。
フェイディアスは食い入るように見返してくる一同の顔を順に見渡してから、立ち上がり、おもむろに口を開いた。
「俺も、戦うことに賛成だ」
「おお!」
「やろう! アテナイ野郎どもを冥府の河に叩き込め!」
「――ただし!」
出し抜けに両手を強く突き出した、フェイディアスのただならぬ剣幕に、再び全員が押し黙る。
今度は、しわぶきひとつ聞こえない、本当の沈黙だ。
「交渉の余地は、本当に、もう、全くないのか?」
「……交渉だと!?」
「俺たちは、いいだろう!」
喚き出したディオクレスを、目玉を剥いて怒鳴りつけ、フェイディアスは、再び急速に声の調子を落とした。
「そうだ。俺たちは、いいだろう。この手に盾と槍を持ち、父祖の名に恥じぬ戦いをし、恐れることなく死ぬだけだ。
だが……戦えない者は、どうする? 負傷兵たちは。俺たちの、同胞たちは……」
フェイディアスのその言葉に、全員が黙り込んだ。
ラケダイモンの男たちは、一定の年齢になれば全員が兵舎で共同生活を送る。
戦士たちの誰もが、互いに食事を共にした仲であり、幾度もの遠征を乗り越えてきた戦友同士だ。
ここにいる全員が、全ての負傷兵たちと、直接、言葉を交わしたことがある。
特に、自分自身のメイラクス、あるいはフィロメイラクスが傷を負い横たわっている者たちは、顔を伏せて苦しげな表情を見せた。
誰もが、分かっている。
自分たちは、素晴らしい武勲をあげるだろう。
一人が十人、二十人を殺し、最後の一人まで敵に背を向けることなく戦い続けるだろう。
そして、最後の一人が倒れた後には、血に塗れた盾と槍と、名誉だけが残されるのだ。
だが、戦えない者たちは?
地形の点から見て、アテナイ勢を迎え撃つとすれば、もともと陣地を築いていた場所で密集し、防御を固めるしかない。
だが、重傷の戦士たちを今いる場所から動かすことはほとんど不可能だった。
よしんば無事に陣地まで移送することができたとしても、彼らを守りながら、押し寄せるアテナイ兵たちと戦うなどということはできない。
傷ついた男たちは、我が身を守るために盾を掲げることすらできず、切り刻まれ、踏み躙られて息絶えてゆくしかないのだ。
しばらくして、男たちのあいだから、呟くような声がいくつも上がった。
「もしも、交渉の余地が、あるのだとすれば……」
「せめて……負傷兵たちだけでも本土に後送することができるよう、掛け合うことはできないものか?」
「馬鹿な! こんな卑怯な手を使うような男相手に、交渉など!」
「――使者殿よ、どうなんじゃ?」
エピタダス将軍に、視線さえも向けずに問われ、使者はもはや歯の根の合わぬ口を必死に動かして返答した。
「わ、我らの司令官は……む、む、無条件降伏か、全滅か、それより他に、一切、選択肢はないと伝えよ、と……」
「戦いましょう!」
不意に決然と響いた声の源に、一同が注目する。
輪の外周で、クレイトスが立ちあがっていた。
年が若いということもあり、彼がこのような場ですすんで発言したことは、これまでに一度もない。
一瞬、場がざわめいたが、一同はやがて静まり、彼の言葉に耳を傾けた。
「クレオンは、神々をも恐れぬ、残虐な、卑怯者です。正面からの戦いを恐れ、火をもって我らを焼こうとするような男だ。そんな男に、ラケダイモン人が降伏することなど、絶対に有り得ない。
そして、フェイディアス様、失礼を承知で申し上げます。
交渉など、初めから無駄です。それを守る気もないような男を相手に、交渉をするなど馬鹿げている。飛び道具をもって勇士を討ち取ろうとするような男相手に、いったい、どんな交渉が成り立つというのでしょうか」
「おお……その通りだ!」
「クレイトスの言う通りだ!」
周囲から賛同の唸りが上がり、がちゃがちゃと武具が打ち鳴らされた。
フェイディアスは、クレイトスの目をじっと見つめた。
そこに、不退転の覚悟を読み取り、フェイディアスはかすかに頷いた。
そして自分は腰を下ろし、腕を振って、クレイトスに先を続けるよう促した。
「僕は、この目で、クレオンの姿を直接見ました」
クレイトスは、一同のあいだを一歩、また一歩と進みながら語った。
その美しい青い目は、今は怒りと憎悪に翳っているように見えた。
「奴は……レオニダス様を射たとき、笑っていた! あれは、血も涙も持たぬ魔物です。
覚えておいでですか。かつて、ミュティレネ市が、アテナイ率いるデロス同盟から脱退しようとしたときのことを? その報復として、ミュティレネの市街を完膚なきまでに打ち壊させたのがクレオンだったはず。
それだけではない。奴は、ミュティレネ市の成年男子は全員処刑し、女子供は奴隷として売るよう提案したといいます」
彼は一同を見渡し、最後に、エピタダス将軍を見た。
その目には、ほとんど睨みつけるような、強い光があった。
「交渉も、降伏も、結果は同じ。名誉なき死が待つだけだ。
我らは、ラケダイモン人としての名誉を守り、最後の一人まで戦いましょう!」
「無論だ! よく言った、小僧!」
ディオクレスが勢いよく立ち上がり、叫んだ。
彼がこのようにクレイトスを讃えたのは、皆の記憶にある限り、今この時のただ一度きりだった。
「小僧の言う通りだ。――皆! あの誓いを思い出せ!
『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』!
ラケダイモンの戦士には、勝利か、さもなくば死かの選択肢しかないのだ! 生きて虜囚の辱めを受けるなど、思いもよらん!」
「よし」
エピタダス将軍が、淡々と、穏やかな笑みさえ浮かべて頷き、立ち上がった。
「話は決まった。
此度が、我らの最後の戦となるじゃろう。
皆、これより身を清め、髪をくしけずり、膚に香油を塗っておけ。もしも、まだあればの話じゃが。
……おお、そうじゃ」
とぼけた道端のじいさんのような調子で振り向いたエピタダス将軍に見つめられ、使者はがちがちと歯を鳴らして身をもがいたが、槍の柄でますます強く砂の上に押し伏せられただけだった。
「この話を、クレオンに伝えてもらわねばならんな。
誰か、返事を書いといてやれ。そうじゃな、こういう仕事は、ディオクレスが得意かのう」
「お任せを」
短剣を引き抜いたディオクレスが、舌舐めずりをしそうな顔で近付いてくるのを見て、使者はとうとう悲鳴を上げ、失禁した。
「ああ、そう怖がることはない。殺しはせんよ。
……そう、本物の男なら、これくらいのことで死にはしないはずだ。そうだろう?」
* * *
「うっわ……えっぐい真似しよんなぁ!」
二人がかりで担ぎ込まれてきた使者が、自分の足元に倒れ込んだのを見て、クレオンは両手と片足を上げて驚きを表した。
《勝利をもたらす者》号はやや沖合に投錨させ、小舟で半島の海岸に上陸したクレオンは、大きな天幕を張らせてそこに陣取り、報告を待っていた。
そこへ、スファクテリア島から小舟で送り返された、半死半生の使者が運び込まれたのである。
血塗れになった使者の裸の背中には、一面に、刃物で付けられたと思しき傷で“MOΛΩN ΛABE”と刻みつけられていた。
天幕にはクレオンと、出入口を守る付き人たちしかいないが、ここにたどり着くまでに、多くの兵士たちが使者の無残な姿を目にしたはずだ。
戦うより先に、恐怖をもって敵を威圧する。
ラケダイモンの常套手段だ。
「大丈夫か、君!? よう、生きて戻って来れたねえ」
自分で送り出しておきながらそんなことを言って、クレオンは、急に笑い出した。
「それにしても、また、この台詞かいな!
《来て、手に入れるがいい》……ああ、そう来ると思うとったよ。ほんま、あの人らの頭ァ、揃いも揃って、岩と鋼でできとるんとちゃうか? 後悔しても、知らへんでェ」
「……クレオン様!」
「うん、何?」
急に、使者の男が血塗れの手でクレオンの足首を掴んだ。
クレオンは大して嫌な顔もせず、その場にしゃがみ込んで首を傾げた。
「どないしたん? 遺言やったら、誰か呼んで記録さしとくけど。
いや、でもなー、この傷の程度やったらまだ大丈夫と思うで? 僕は」
「あの話は……本当なのですか!?」
「あの話? て、どの話?」
「あの島に、火を放ったのが、貴方だと!」
使者は肘をついて身を起こし、目を剥いてクレオンを見た。
「ラケダイモン人たちが、話しておりました……! 貴方は、まさか」
目にも止まらぬ速さで引き抜かれた短剣が背中に突き立ち、使者は全身を硬直させると、ごぼりと血を吐いて死んだ。
頭が床にぶつかるごとんという音が、重く、虚ろに響いた。
「あかんて……そんな、いらんこと言うたら」
使者の服の端で短剣を入念に拭い、クレオンは、嫌そうな顔で付き人を呼んだ。
「ここ、片付けといて。――彼は、傷の痛みのためと、血を失い過ぎたために死んだっちゅうことにしよう。
非戦闘員である使者に残虐な行為を加え、死に至らしめたラケダイモン人どもには、それなりの代償を支払ってもらう必要がある……」
もはや物言わぬ使者を運び、付き人たちが出ていくと、クレオンは天幕の中に運びこませてある小さな机と椅子に座り、紙とペンを取って熱心に手紙を書き始めた。
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しばし一心にペンを走らせていたクレオンだが、何度目かにインク壺にペン先を突っ込んだとき、その動きが止まった。
天幕の外で、低く抑えたやり取りの声がしたのを聞きつけたのだ。
「……ええよ。通して!」
天幕の出入口に下がった布がめくられ、姿を現したのは、デモステネスだった。
腫れぼったい両目は、いまだ本調子ではないことを窺わせるが、今、その視線はまっすぐにクレオンを捉えていた。
「おお、デモステネス君」
クレオンは笑顔になり、ペンを置いて立ち上がり、両腕を広げて彼を迎えた。
「もう、具合はええんか? そない無理せんと、ゆっくり寝とったらええのに」
「懐に短剣隠し持った奴に、寝台の真横で見張られて、のんきに寝てなんかおられるかいな」
デモステネスは、表情を変えずにそう言った。
クレオンもまた、表情を動かさなかった。
にこやかな顔のままで、言った。
「ほんで? どうよ。――腹ァ、括ったんかいな」
「僕も、だいぶ悩んだよ」
そう言って視線を逸らしたデモステネスの声は、相変わらず静かで、顔つきもどこかぼんやりと、まだ眠気が去らないといったふうだ。
そのまま、しばし、沈黙が落ちる。
天幕の外で、クレオンの付き人たちが槍を握り込み、剣を鞘から引き抜く、その微かな音さえも聞こえそうなほどに。
デモステネスは、盛大に鼻息を吹いた。
「僕の結論は、こうや。――僕は、奥さんが待ってるアテナイに帰りたい。
名誉ある死体になってやなしに、生きて、アテナイに帰りたい。
そして――生きて帰る以上は、惨めな敗戦の将軍としてやなしに、名将として帰りたいんや」
再びクレオンを見返したデモステネスの眼差しは、完全に据わっている。
「クレオン君。僕は、誇りを捨てても、栄誉と共に帰ることを選んだ。
そのために、君に協力しようやないか。
もちろん君は、僕に、正当な対価を支払ってくれる用意があるんやろうな?」
「ははははは!」
クレオンは大声を放って笑い、使者の血に汚れた絨毯を何のためらいもなく踏んで、デモステネスの肩を抱いた。
「さすがや、デモステネス君! 君なら、きっと、僕の考えを理解してくれると思うとった。
正当な対価やて? ……もちろん! そこらのいんちき商売人と一緒にせんといてや。僕は、必ず、スファクテリア島を落とす!」
「ラケダイモン側が、無条件降伏の勧告を蹴ったらしいやないか。まあ、それは最初から分かっとったことやけど。……後は、上陸戦しかない」
デモステネスは、意図して茫洋と見せていた表情を引き締めた。
「明日の夜明けを待って、いよいよ、総攻撃やな?」
もはや太陽は西の水平線に向かって傾きつつある。
激突のときは、明日。
夜の闇が去り、再び日が昇ってからとなるだろう――
「デモステネス君、デモステネス君」
クレオンはにやにや笑いながら、デモステネスの肩をぽんぽんと叩いた。
「なーにを、言うてはりますねんな。相手は、痩せても枯れても、天下のラケダイモン軍やで? そないに古臭い手ェ使うたら、先方さんに対して、失礼にあたりますがな!」
「はあ?」
わざとらしいクレオンの口調に、デモステネスは眉をひそめた。
「クレオン君。……君、まだ、何か企んでるんか?」
「まあ、見とき」
この上もなく甘美な果実を口にしたときのように、クレオンは口元を綻ばせた。
「僕は、今夜、戦争の歴史を変える」
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戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
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戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
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滝川一益と、その郎党。
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どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
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日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
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希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
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改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
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歴史・時代
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娘仇討ち、孝女千勢!妹の評判は瞬く間に広がった。方や、兄の新平は仇を追う道中で本懐成就の報を聞くものの、所在も知らせず帰参も遅れた。新平とて、辛苦を重ねて諸国を巡っていたのだ。ところが、世間の悪評は日増しに酷くなる。碓氷峠からおなつに助けられてやっと江戸に着いたが、助太刀の叔父から己の落ち度を酷く咎められた。儘ならぬ世の中だ。最早そんな世とはおさらばだ。そう思って空を切った積もりの太刀だった。短慮だった。肘を上げて太刀を受け止めた叔父の腕を切りつけたのだ。仇討ちを追って歩き続けた中山道を、今度は逃げるために走り出す。女郎に売られたおなつを連れ出し・・・
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