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第4章
別離
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今、《獅子隊》の生き残りの男たちのほぼ全てが、真っ暗な海岸に顔を揃えている。
寄せては返す波の音だけが、辺りに響いていた。
「フェイディアス」
長い沈黙の後、ようやく口を開いたのはオイオノスだ。
彼は、クレイトスを探すためレオニダスに従って浜に降りた十人のうちの一人だった。
フェイディアスとは同年輩で、ずっと同じ兵舎で育ってきた、肝胆相照らす仲だ。
辺りを覆う闇は深く、常人には、互いの顔を判別することすらも難しかっただろう。
だが、夜の闇の中でもよく物を見分けるよう訓練された男たちにとっては、互いの表情を漠然と見分けることさえも不可能ではなかった。
あるいはそれは、長く起居を共にし、生死を共にした者たちだけが持つ敏感な感応のゆえだったかもしれぬ。
オイオノスの表情は、今、おそろしく厳しい。
その表情を崩さぬまま、彼は言った。
「おそらく、俺と同じ気持ちの者は多いだろうと思う。その皆を代表して言わせてもらおう。
つい今しがた、お前が俺たちに語った計画――
それは、正しいことだと、お前は本当に考えているのか?」
フェイディアスは、答えない。
周囲の男たちも皆、押し黙ったままだ。
だが、その場の空気は明らかに、オイオノスの主張に同調している。
「隊長殿は、いまだ目覚めない」
オイオノスはまっすぐにフェイディアスと向き合い、ほとんど睨みつけるようにして続けた。
「仮に、このまま永遠に目覚めることがないとすれば、お前がしようとしていることは全て無駄となる。
そして、神々の助けにより、隊長殿が再び目覚めるときが来たとすれば……
その時、隊長殿は、そのことを神々の助けではなく、むしろ呪いだと考えるのではないだろうか?
お前の判断を、忠誠ではなく、裏切りだと感じるのではないだろうか?」
「……俺も、そう思う」
「俺もだ……」
それまで黙り込んでいた《獅子隊》の男たちのあいだから、次々と声が上がりはじめた。
「何故だ、フェイディアス。あんな言葉は、お前らしくもない!」
「戦士として、これほどの不名誉があるか……」
「俺たちはこれまで、どんな時も運命を共にしてきた。皆、ここで死ぬ覚悟はできている。無論、隊長もそうだったはずだ」
「その通りだ。それなのに、フェイディアス、君はこの期に及んで、隊長の輝かしい戦歴、その名誉を汚すつもりなのか?」
誰の言葉つきも、非難する調子ではあるが、声を荒らげて難詰する者はいなかった。
その口調に表れているのは、怒りよりもむしろ衝撃、信じ難いという思いだ。
つい先ほど、フェイディアスがレオニダスの名代として指示を発し、全員を集めた。
その場で彼は、ほとんど全員が予想だにしなかったことを口にしたのである。
『戦うことの出来ぬ重傷者を、今、この島から脱出させる』
誰もが、言葉を失った。
戦えぬ者が、戦を避けて逃げることは、当然の習いだ。
だが、それはもはや身体の利かぬ老人や、女子供の話ではないか。
ラケダイモンの男には、戦場から逃げ出すなどという選択肢は、有り得ない。
あってはならないのだ。
それは、もはや戦士ではないという、男にとって最も恐れるべき烙印を押されることに他ならないのだから。
「――奥方の驚くべき勇気には、満腔の敬意を表した上で、敢えて、失礼を承知で申し上げる」
オイオノスが続けた。
この場には《獅子隊》の男たちの他に、リュクネもいたのだ。
彼女は男たちの輪から少し離れて立ち、常の彼女にも似ず、何も言わずに、事の成り行きを見守っていた。
オイオノスの、そして男たち全員の視線を受けてなお、彼女は一言も発さず、穏やかな、内面を窺わせぬその顔つきを変えることはなかった。
「女に連れられて、戦場から脱出するなど……俺なら……俺は、ラケダイモンの男として、そんな不名誉にはとても耐えられない。死ぬ方がまだいい」
オイオノスがしぼり出すように告げると、周囲から次々に賛同の声が湧き起こった。
「その通りだ……」
「戦士として生まれながら、もはや戦士と呼ばれず、生き恥を晒すくらいなら、死んだ方がましというもの!」
「おお、その通りだ!」
ラケダイモンには、この手の物語が幾つも伝えられている。
生きて戦から戻った息子を、なぜ戦友たちと共に死ななかったかと叱責して戦場に送り返した母親のこと。
熱き門において王と三百名の戦士たちが討ち死にしたあの戦いで、伝令として本国に送り返され、ただ二人生き残った男たちが、人々からどんな扱いを受けたかについて。
それらは絵空事ではなく、かつてあった事実として、そしてラケダイモン人の生き方の規範として、彼らのあいだに語り伝えられてきた。
「皆、同じ意見か」
やがて戦士たちの憤然たる呟きが途切れ、フェイディアスがゆっくりと周囲を見回しながら問い掛けた。
何人もが頷いたのが分かった。
当然だ、という声もそこここで上がった。
やがて、誰かが言った。
「クレイトスは、どう考えているのだ?」
「そうだ、隊長のメイラクスとして、お前は、このことをどう考える!」
「美少年の考えを話させるべきだ!」
全員の視線が、フェイディアスの傍らで沈黙を守っていたクレイトスに集まった。
「……僕は……」
クレイトスは一歩前に進み出て、しかし、そのまま言葉を途切れさせた。
男たちの食い入るような視線が、伏せられたその顔に注がれている。
長い沈黙の後、クレイトスはゆっくりと手をあげ、剣の柄に触れた。
「僕は……この剣で、レオニダス様の胸を刺し貫くつもりでした」
「なぜ、そうしなかったのだ?」
もどかしそうに訊ねた声に、クレイトスは、答えなかった。
男たちは唸り声を上げて同情を示し、口々に言い始めた。
「ああ、気持ちは分かる」
「敬愛するフィロメイラクスに自ら手を下すなど、自分自身の心臓を突き刺すも同然の苦しみだ」
「今も、さぞや辛いことだろう……」
「フェイディアスよ!」
最も年嵩の戦士が、声を荒らげて迫った。
「若いクレイトスが出来ぬというなら、お前が代わりに辛い役目を負ってやるべきだろう。《獅子隊》を次に担う者として、必要な決断を果たせ!」
「……なぜ」
フェイディアスの口から、ぽつりと呟きが漏れた。
「なぜ、死ななければならないんだ」
その声がひどく静かで、真剣で、日頃の彼の様子とはまったく違っていたために、男たちは思わず口を閉ざした。
「なぜだ、皆。……なぜ、隊長は死ななければならない?」
フェイディアスは繰り返し問いかけながら、一歩、また一歩と進み出て、男たちの輪の中央に立った。
周囲のぐるりに立つ仲間たち一人一人の顔をゆっくりと見渡しながら、彼は続けた。
「俺もラケダイモンの男だ。皆の言わんとすることはよく分かる。
この俺も、皆と同意見だったのだ。……先程までは、な。
パイアキスをこの手で刺して、命を奪うつもりだった。
あいつを敵に踏み躙らせるなど、絶対に許せないからだ。
だが……そこへ、リュクネ様が来た」
フェイディアスのその瞬間の表情を、はっきりと目にした者は少なかった。
だが、それを見て取った者は、残らず息を呑んだ。
フェイディアスの顔に、はっきりと、恐怖の色があった。
たやすく命の消し飛ぶ戦場でも、これまで決して見せたことのなかった、恐れの色が。
「その時、俺は、思ったのだ。
来ることが出来たのならば、戻ることも出来るはずだと。
怪我人を、小舟に乗せて送り出せば、アテナイ人どもの目を掠めて脱出させることも可能ではないか。
望みが、わずかにでもあるのならば、それに賭けるべきだ。
俺は……もう少しで、取り返しのつかぬ過ちを犯すところだった。
あとわずかにでも早まっていれば、俺はこの手で、最も大切な者を救うどころか、彼から太陽の光を取り上げ、永久に暗がりの中へ追いやるところだった――」
「どちらが取り返しのつかぬ過ちか、分かったものではないぞ!」
年嵩の戦士の怒声が、闇を震わせてとどろいた。
「この変節漢が! 父祖からの教えを忘れたか!?
『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』!
どれほど深い傷を負おうとも、勝利を得ずしておめおめと生き延びようと考える者など、ラケダイモンの男には一人もおらぬわ!
想い人にそのような不名誉をなすり付けようと考えるなど、あの剛勇のフェイディアスが、急に気でも狂ったのか!?
それとも、男ではなく、女になり下がったのか!?」
そのとき、輪の外にいたリュクネがものすごい咳払いの音をたて、一同は一瞬、気を殺がれて、そのまま黙り込んだ。
「……なぜ、死ななければならない?」
フェイディアスが再び、口を開いた。
「なぜ、無駄に死ななければならないんだ?
確かに、戦う力を充分に残した男が勇気を失い、敵に背を向けるのは、最も蔑むべき怯惰のふるまいだ。
だが……戦う力を失った者を戦場から遠ざけるのが、誤ったことだというのか?
戦えるにもかかわらず怯えて逃げることと、戦うことができないために戦を避けることとは、全く別のことではないのか!?」
「貴様は……《半神》やパイアキスを、年寄りや女子供のように扱うというのか!」
目を剥いてそう怒鳴った戦士に、誰が止める間もなくフェイディアスが飛びかかった。
だが彼は固めた拳を叩きつけることなく、相手の肩を掴むと、唾がかかるほどの距離で怒鳴り返した。
「では、戦えなくなった者には、もはや用はないというのか!?
だから、さっさと死ねというのか!?」
「そういうことを言っているのではないわ、馬鹿たれが!」
戦士もまた、フェイディアスの両腕を掴んでねじ上げようとしながら、喉も破れよとばかり叫んだ。
「俺は、名誉の話をしているんだ!」
フェイディアスは相手を突きのけるようにして手を離し、
「戦う力を失った者は殺せと、それが、その者の名誉を守ることだと、おまえは考えるのか!?」
相手の顔に指を突きつけ、激しく詰め寄った。
「生き延びて……生きて、いつかその四肢に力を取り戻す希望が残されているとしても、それを取ることなく、速やかな死を選べと?
それが、俺たちの名誉だというのか!」
「その通りだ!」
フェイディアスの指を払い除け、年嵩の戦士は地団駄を踏まんばかりの剣幕で喚いた。
二人のやりとりのあまりの激しさに、周囲の男たちは割って入ることもできず、その場に黙って立ったままでいる。
「勝つか、死ぬか……俺たちには、そのどちらかの道しか許されない。
それが、俺たちの名誉だ!
おまえは、大切な者に自ら手を下すことを恐れているだけだ。臆病者だ……」
彼は囁くように言い、腰の剣に手をかけた。
「フェイディアス。おまえがやらぬというなら、俺がやる」
その瞬間、フェイディアスが抜く手も見せずに白刃を閃かせた。
誰が動く暇もなかった。
半ばほどまで武器を引き抜きかかった相手の喉元に、研ぎ澄まされた切っ先をわずかに食い込ませ、フェイディアスは底光りのする目で唸った。
「彼らに、指一本でも触れてみろ。
たとえラケダイモン人同士であっても、容赦はせん」
年嵩の戦士のメイラクスが声もなく武器を抜いて飛び出そうとしたが、周囲の男たちが咄嗟に、本当の流血を食い止めるべく、これを押さえつけた。
「パイアキス愛おしさに、とうとう狂ったか?」
自分の武器をそれ以上抜くこともできず、だが欠片ほどの恐怖もその面に浮かべることなく、年嵩の戦士は表情を歪めた。
「剛勇のフェイディアスのこのような醜態、目にせずに済んだ隊長殿は、幸運であったのかもしれんな。
刺してみろ、フェイディアス! 貴様に、まだそれだけの勇気があるのならばな!」
「いけません、クセノクラテス様!」
彼のメイラクスが地面に押し伏せられてもがき、必死に訴える声だけが辺りに響く。
フェイディアスは野生の獣のように歯を剥き、相手の喉元に切っ先を当てたまま、鼻先がぶつかりそうなほど近く顔を寄せて囁いた。
「俺が、臆病者かどうか、明日の俺の戦いぶりを見てから決めるがいい。
だが……だが、これだけは言っておく。
俺たちは、何のために、これまで戦ってきた?
死ぬために戦ってきたのか?
そうではないはずだ。
俺たちは……生きるために戦っているのではないのか!?
戦場で、死を恐れずに戦うことと、軽率に死を求めることは違うはずだ!」
そこまで言って、急に眉を下げ、首を振った。
「くそっ。……自分でも、何を言っているのかよく分からなくなってきた。
俺は、あまり弁論は得意ではないのだ。これ以上、難しいことを喋らせるな」
そのとき、誰かの手がフェイディアスの襟首をむんずと掴み、クセノクラテスから引き離すと、有無を言わさずその顔面に拳を叩き込んだ。
フェイディアスは抜き身の剣を手にしたまま鼻血を吹いて吹っ飛び、男たちの輪の中に倒れ込んで受け止められた。
「エ」
と目を丸くして呟きかけたクセノクラテスの頬桁にもまた、岩のような拳が容赦なく叩きつけられ、彼は回転しながら仲間たちの人垣の中に突っ込んだ。
「――双方の言い分、よう分かった!」
「エピタダス将軍……」
それまで何ひとつ言葉を発さなかった老将軍は、男たちの中央に進み出ると、部下の鼻血に塗れた太い腕をいつものように組んで立った。
「皆、少々、気が立ち過ぎておるようじゃな。落ち着け。
戦いを前にして逸る気持ちは分かるが、本物のラケダイモンの男ならば、どのような時も、巌のように静かな心であらねばならぬ」
「じゃあ俺たち、今なんで殴られたんだ……?」
「さあな……」
仲間たちの手で地面に座らされ、憑き物が落ちたような顔で情けなさそうに言い合うフェイディアスとクセノクラテスをそれぞれぎろりと睨み据えておいて、エピタダス将軍は大きく咳払いをした。
「皆、聞け。――よいか。今、我らドーリア人の男の数は少ない。
我らが皆死ねば、それはラケダイモンにとって大きな痛手となろう。
今は身動きならぬ怪我人であるとしても、いずれ快復し、優れた血を繋ぐ望みがあるのならば、そのために国元へ返すというのは、理に適った判断であると言える。
たとえ、この場で戦いの役には立たずとも、将来の優れた戦士を生み出すことに貢献することで、ラケダイモンにとって価値ある働きができるというわけじゃ」
男たちがざわめいた。
エピタダス将軍は、フェイディアスの主張を擁護したのだ。
フェイディアスは思わず口を開きかけて、やめた。
話しながら、将軍が再びぎろりと彼を睨んだからだった。
エピタダス将軍の言葉は、フェイディアスの言わんとしたこととは少し食い違っていたが、将軍は、それを承知で話しているのだ。
『無駄に命を捨てることはない』
幾多の戦場を往来した老将軍は、そのことを若い部下たちに納得させるために、敢えて、別の理屈を説いている。
「わしは何も、怪我人にラコニアの地まで歩いて帰れと言っておるのではないぞ。
ピュロスの砦を包囲しておる味方の軍勢と合流することさえできれば、故郷に戻れるよう、彼らが取りはからってくれるじゃろう」
「ですが……」
飄々とした将軍の話しぶりにすっかり勢いを殺がれながらも、気遣わしげな様子で、戦士たちは口々に言った。
「果たして、本国は彼らを受け容れるでしょうか?」
「そうです。エウリュトスとアリストデモスの例があります……」
エウリュトスとアリストデモスは、熱き門の三百人から二人だけ伝令としてラケダイモンに帰還した男たちの名だった。
彼らは同じラケダイモンの市民たちに、自分たちだけ戦いから逃れた臆病者、卑怯者と罵られ、蔑まれ、一人は首をくくって死に、もう一人は行方をくらましたという。
「戦場から自ら逃げ出した臆病者ならば、ラケダイモンは、決して彼らを許さぬ。
その者は市民としての資格を剥奪され、人々の侮蔑と嘲笑を受けることとなろう。
――じゃが、わしらの戦友たちは臆病者などではない。
卑怯な敵とも正々堂々と渡り合い、己の名誉を汚すことなく、戦傷を負うた者たちじゃ。そうであろうが?
ふむ、そうじゃな、この事情が正確に伝わらなければ、怪我人たちがいわれのない難詰を受ける破目になるやもしれんのう。ちょっと書いといてやるか」
エピタダス将軍は何のためらいもなく自分自身の衣の裾を引き裂き、片手をひらひらと動かした。
側に控えていた従卒が心得たように携帯用のインク壺とペンを差し出し、将軍は、布の上に事の次第をすらすらと書きつけていった。
「将軍は……隊長たちが再び快復することがあるとお考えなのですか?」
「それは、わしらではなく、神々のお決めになることよ」
あっという間に手紙を書き終えた将軍は、それをくるくると巻き、
「さあ」
そう言って、リュクネを手招いた。
「お嬢さんや、これを持ってゆきなさい。良いかな、時間はあまり残されておらんぞ」
戦士たちは、顔を見合わせた。
少女だった頃に野犬と格闘して絞め殺し、《牙を砕く者》の二つ名を持つリュクネに、こんなふうに呼びかける男はめったにいない。
「ボートはあるのかな?」
「ええ」
リュクネは、はっきりと答えた。
「我々が乗ってきたものがあります」
「いかんな。わしも見たが、あれは小さすぎる。三段櫂船に積んである上陸用のボートを下ろして使うとよい。わしらは、もう、あれに用はないじゃろうから」
あっさりとそう言い放ち、将軍は、フェイディアスに向き直った。
「脱出させるべき、重傷の兵は何人おる?」
「隊長を含め、計五名です」
「よし。その者たちを乗せるのに、まずは一艘。そこにお嬢さんと、お嬢さんが連れてきた男、他に漕ぎ手として三名の国有農奴どもを乗せる。
その他に、あるだけ全てのボートを、面おもて暗き海に下ろすのじゃ。
――今、この島におる国有農奴ども全員を、本土へと送り返す!」
周囲の戦士たちがどよめいた。
だが、部下たちの動揺とは対照的に、エピタダス将軍の口調は落ち着き払っている。
「わしらは、もはや、彼らにも用はあるまい。
たって希望する者は残ってもよいが、その勇気のない者は、この島が血の流れる戦場と化す前に立ち去るのがよかろう」
「ですが、将軍!」
フェイディアスは思わず、将軍に詰め寄らんばかりの剣幕で言い募った。
「国有農奴たちは、脱出の足手まといになります!
この作戦の成否は、いかに隠密に動くかという一点にかかっている。
家畜の群れのように、海上を大勢でのろのろと動いていたのでは、敵の目についてしまいます!」
「ゆえに、時間をおき、別々の地点から、海上の異なる経路を通って脱出させる。
怪我人たちの乗るボートを、最も見つかりにくいところから、最も先んじて送り出し、国有農奴どもは別の地点から、少し時間をおいてボートを出させるのじゃ」
将軍はそこまで言うと、表情はまったく変えぬまま、ぐっと声を低めて続けた。
「よいか。いざ、アテナイ人どもが上陸してきたとき、彼らはほとんど戦力にならぬ。
それだけではない。おそらくクレオンは、自由や金をちらつかせて彼らを取り込み、扇動し、我らに歯向かわせようとするじゃろう。
戦場で彼らの忠誠を期待するなど無駄、かえって、身内に敵を抱えるようなものじゃ」
戦士たちが一様に得心した表情を見せると、将軍は大きく頷き、
「オイオノス、ヒエロス、テラコス、メリッソス!」
雷鳴のような声で呼ばわった。
呼ばれた戦士たちが、たちまち整列する。
「お前たちが、国有農奴どもに命じて今の指示を実行させよ。細部は、お前たちの判断に任せる。行け!
……よし。フェイディアスよ、そもそもこの話、当の負傷兵たちには?」
「まだです」
そう答えたフェイディアスの口調は、平静を装おうとはしているものの、明らかに重苦しい調子を帯びた。
「というよりも、身動きならないほどの重傷者の中で、話ができるほど意識がはっきりしている者は、パイアキス以外におりません」
「で、そのパイアキスにも、まだ話しておらぬのだな」
将軍は腕を組み、大きく鼻息を吹いた。
「この計画、何よりも、当の本人が納得せねば話にならん。
だが、ごたごたと長話をしておる暇はない。フェイディアスよ、恨まれる覚悟はしておけ」
「無論です。頭を殴り付けて失神させてでも、送り出します」
「……嫌ですよ……」
弱々しいけれどもはっきりとしたその声が届いた瞬間、フェイディアスの断乎たる表情が、そのまま凍りついたように見えた。
戦士たちの輪がざわめき、左右に退いて道を空ける。
姿を現したのは、仲間たちに左右から腕を担いで支えられたパイアキスだった。
フェイディアスの計画が実行に移されそうだと見て、矢も楯もたまらず、パイアキスに知らせに走った男たちがいたのだ。
――フェイディアスは、彼らを非難しはしなかった。
むしろ、彼らのことなど目にも入らぬというように、ただ、パイアキスの顔だけを見つめていた。
「フェイディアス……」
パイアキスは脚の激痛を堪えて顔を引き攣らせ、今にもその場に倒れ伏しそうな顔色ながら、激しい口調でフィロメイラクスを詰った。
「あなたは、一体、何を言い出したんです……?
この私に、あなたを残して、ここから逃げろと?
そんなこと、できるはずがない! 私は残ります!」
「足手まといだ」
フェイディアスがそう言い放ち、男たちは皆、自分自身がそう言われたかのように黙りこくった。
パイアキスの目が、ゆっくりと見開かれ、その顔が悲痛に歪んだ。
何か言おうとするように口が開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。
彼がかぶりを振ると、見開かれた目から涙が流れ落ちた。
「それなら……殺して下さい、あなたの手で。
さっきは、そうしようとしたじゃありませんか。
あなたを残していくなら、死んだ方がいい。
フェイディアス、あなたの手で、私を刺し殺して下さい……」
男たちの中には、堪え切れずに顔を背け、咽び泣く者さえもいた。
同時に、フェイディアスに対しての憤慨を新たにする者たちもいた。
いかに傷つき、身体の自由が利かぬ身となったとはいえ、誇り高きラケダイモンの戦士に、それも己自身のメイラクスに対して「足手まとい」とは、何という残酷な言い様か――
「パイアキス」
そう呼びかけたフェイディアスは――微かに、笑ったのではないだろうか?
「いいか? 俺はな、とんでもなく嫉妬深い男なんだ。
俺はお前を、たとえ、死体になってたとしても、アテナイの連中に触れさせるなんてことには我慢できない。絶対にだ」
彼は大股にパイアキスに歩み寄り、両脇で支える連中のことなど意にも介さずに愛人の頬を両手で挟み込むと、愛おしげに見つめた。
そして口づけをし、彼を強く抱きしめた。
「……俺のために、生きてくれ、パイアキス。
生涯、俺のことを忘れずに生きてくれ。
俺を愛しているなら、それくらい、簡単なことだろう?」
身を離し、そう言ったフェイディアスの目は涙に濡れていたが、その顔には、いつものからかうような笑みが浮かんでいる。
「安心しろ。俺たちは、死ぬために戦うわけじゃない。
どれほど血を流し、泥に塗れようが……最後の最後まで、生き延びるために戦う!
お前が生きていると思えば、そのための力も湧いてくるというものだ。
約束しよう。――お前が生きている限り、俺は、決して死なんと」
フェイディアスの言葉に、何を感じ取ったのか。
パイアキスは涙を流しながら、長いあいだ、フィロメイラクスの目を見つめていた。
やがて、その顔がくしゃりと歪み、パイアキスは泣きながら微笑んだ。
「無茶苦茶ですよ、あなたは……でも、あなたはこれまで、約束を破ったことはない」
パイアキスは震える手を伸ばし、祈るように、フェイディアスの腕に触れた。
「必ず……その盾と、共に」
「ああ」
フェイディアスは、磊落に笑った。
「必ず、また会おう」
そして彼は、くるりとパイアキスに背を向けた。
仲間たちに支えられて去るパイアキスは、何度もフェイディアスの方を振り向いたが、フェイディアスは、もう振り返ることはなかった。
「リュクネ様」
ずっと無言でいたクレイトスが進み出て、しぼり出すような声で言った。
「どうか……レオニダス様を」
それを聞いた男たちが、誰からともなくリュクネの側に寄り、彼女を囲んで立った。
「隊長を、どうか……」
「無事で、故郷へ」
「ああ」
リュクネはひとりひとりの戦士たちの目を見返しながら、はっきりと頷いた。
「必ず守ってみせる。婿殿の命も、他の皆の命も」
* * *
彼女たちは去った。
残された戦士たちは、海岸から引き上げて泉の陣地に拠り、夜明けまで仮眠を取ろうとしていた。
だが、実際に眠ったのはわずかな者たちだけで、残りの者はあるいは横たわり、あるいは物にもたれて座ったまま、まじろぎもせずに闇を見つめていた。
フェイディアスは小高い岩山の上にただひとり、身動きもせずに突っ立っていた。
確かに目は開いているのに、星々は頭上に輝いているのに、何も見えないような気がした。
パイアキスは、もういない。
自分の傍らに、暗く深い穴が開いてしまったような気がした。
不意に目の中で星々の光がぼやけて、たくさんの白いもやのようになった。
そのとき、誰かが側に来る気配がして、彼は激しい咳払いにごまかして顔をぬぐった。
やってきたのは、クレイトスだ。
彼は何も言わずに、フェイディアスの隣に立った。
その瞬間にフェイディアスが感じたのと同じ感覚を、クレイトスもまた味わったはずだ。
(違う)
自分の隣にいるはずの相手は、もういない。
二人は、長いこと、黙ったまま佇んでいた。
やがて、クレイトスが呟くように言った。
「僕たちの決断は……正しかったのでしょうか?」
フェイディアスは、しばらくのあいだ何も言わず、ただ夜の闇を見つめていた。
「分からん」
と、やがて彼は言った。
「だが、俺は、後悔していない。これほど苦しくとも……後悔は、していない。
あとは、それを貫き通すだけだ。たとえ、どんなことになってもな」
クレイトスもまた、何も言わず、身動きさえもしなかった。
彼が何を感じ、何を考えているのか、フェイディアスには分からなかった。
そのときだ。
闇の中に、小さな炎の点が灯った。
北の方角。
角度からして、砦があるはずの高台の頂上。
あまりにも小さな光だった。
目を凝らしていた信号係でさえも気付かなかったかもしれない。
だが、彼らは気付いた。
「狼煙が上がった! 北の砦! ――敵襲だっ!」
フェイディアスが叫び、泉の陣地は騒然となった。
もともと眠っている者がほとんどいなかったために、反応が早い。
「馬鹿な。真夜中だぞ!?」
「いや、俺も見た!」
「あれだ! 見ろ、確かに、炎のあかりだ」
「だが、何かの手違いではないのか……」
「何を、ごちゃごちゃ言っておる!」
エピタダス将軍が破れ鐘のような声で命令を発した。
「ぼやぼやするな! 狼煙を上げよ!」
信号係は飛び上がり、狼煙台に点火した。
乾いた枝葉を舐めるように炎が伸び上がり、火の粉を撒き散らす。
ほどなくして、南の砦がある辺りにも炎が灯ったのが見えた。
信号が伝わったのだ。
そのとき、北に向けて目を凝らしていた戦士たちがどよめいた。
北の砦に灯った小さな炎が、消えたのだ。
「なぜ、炎が消えたのでしょう? ……まさか」
クレイトスは思わず呟いた。
不要不急の火の使用が禁じられている今、たとえば手元を照らすなどの下らぬ用事で炎を灯すはずがない。
北の砦には、ディオクレス率いる部隊が詰めている。
彼らは確かに、こちらに何かを伝えようとしたのだ。
そして、今のが『敵艦隊に動きあり』という警告だったとすれば、一度灯った炎がすぐに消えたことの説明がつかない。
では、まさか――
「北の砦に、敵が?」
「おそらくは、な」
いつの間にかフェイディアスとクレイトスを押しのけるようにして岩山の一番上に立ち、北の砦の辺りを睨みながら、エピタダス将軍が言った。
「夜間の奇襲とは、獣並みの行いよ。だが、どうやら敵は、どんな汚い手でも使う気でおるらしい。おそらく、奴らはそれをやったじゃろう」
「まさか!」
「北の砦は、あの地形に守られているというのに」
「では、ディオクレス殿は――」
「静まれい!」
一挙に広がろうとした動揺を叩き潰すように、エピタダス将軍は両手を広げた。
男たちが口を閉じ、食い入るように見つめる中、
「聞け! 北の砦は、既に敵に制圧されたものと思われる。
いまや、決戦のときは来たれり。各員、配置に着け!」
老将軍は宣言し、腕を組んだ。
男たちは、速やかに動き始めた。
別離の悲しみがある。緊張も、不安も、無いとは言えない。
だが、いざ戦いとなれば、そんなことは関係なかった。
ただ持ち場を守り、一歩も退かず、仲間を守り、敵を殺すだけだ。
「いよいよですな」
幾分か冗談のような調子でフェイディアスが呟くと、
「然様」
エピタダス将軍は太い腕を組んだまま、派手に鼻息を吹いた。
「武勲詩でも、ここからが面白いところじゃろうが?
アテナイの腰抜けどもに、ただで手柄を立てさせてやるつもりなど、毛頭ないわ。
いざ、戦神アレスも照覧あれ!
我らラケダイモンの戦士、その名に恥じぬ勇戦をお見せいたそう。
我らが血と、我らが敵の血で、この島を赤く染めようぞ!」
* * *
「やれやれ……」
崩れた狼煙台の傍らに立って、クレオンは呟いた。
ここまで、真っ暗闇の中を味方に先導され、死体に蹴つまづき、浮き石に足を取られそうになりながら、苦労してここまで這い登ってきたのだ。
少し平らになった場所で片足を引いて、ふくらはぎと足首の腱を伸ばし、もう一方の足も同様に伸ばし、仕上げに腰に手を当ててぐっと背を反らしてから、姿勢を戻す。
そうして見据えた先には、今、あかあかと灯るふたつの炎があった。
ひとつの炎はこの地点よりもずいぶんと低い位置に、そして、さらに遠くに見える炎は、ここと同じくらいの高さにあるように見えた。
狼煙の炎だ。
「完全に、バレてしもたな。もっと隠密敏速に動く予定やったのに、めんどくさいことになってしもた……」
彼が送り込んだ特殊部隊は、北の砦を制圧するという任務は果たしたものの、隠密裏にという件に関しては完全に失敗した。
「まあ、それだけ相手が手強いっちゅうことやな。
まったくラケダイモン人ゆうのは、ほんま、化け物じみとるで。すごい、すごい」
クレオンは言いながら、狼煙台の側に転がっていたふたつの死体を足先でつついた。
珍しい虫の死骸を棒でつついてみる子供のような仕草だった。
全身を血に染めて倒れ伏した二人の男たちは、死してなお武器を手放しておらず、互いの手を固く握り合ったままで事切れていた。
そこへ、クレオンの付き人の一人が息を切らせて登ってきた。
スファクテリア島に上陸したクレオンに、もちろん彼らも付き従っている。
「あの坊や、おった?」
クレオンは、敵味方の死体が無数に散らばる辺り一帯を漠然と示すような手つきをしながら言った。
「ほら、海岸におったやろ。あの、めっちゃ可愛い子。
……見てない? あ、そう。よかったわ。
あんな別嬪殺してもうたら、もったいないどころの話やあらへんからなァ」
真顔でしみじみと頷く司令官を、集まったアテナイの男たちは、どこか不気味そうに見つめていた。
「――で、」
と、問い掛けたのはデモステネスだ。
彼もまた、戦いの顛末を最後まで見届けるべく、この場所に来ている。
「これから、どないする。夜明けまで待つか?」
「『どないする』やて?」
クレオンが振り向いた。
その顔には、顔を二分しそうな笑みが浮かんでいた。
「そんなもん、決まってるやん。
――ぶっ潰すんや。今、すぐに!」
アテナイ艦隊の総員に、スファクテリア島への上陸命令が発された。
弓兵、歩兵、漕ぎ手までが総動員され、彼らは幾つもの小部隊に分かれて、ラケダイモン人たちの陣地を目指す。
寄せては返す波の音だけが、辺りに響いていた。
「フェイディアス」
長い沈黙の後、ようやく口を開いたのはオイオノスだ。
彼は、クレイトスを探すためレオニダスに従って浜に降りた十人のうちの一人だった。
フェイディアスとは同年輩で、ずっと同じ兵舎で育ってきた、肝胆相照らす仲だ。
辺りを覆う闇は深く、常人には、互いの顔を判別することすらも難しかっただろう。
だが、夜の闇の中でもよく物を見分けるよう訓練された男たちにとっては、互いの表情を漠然と見分けることさえも不可能ではなかった。
あるいはそれは、長く起居を共にし、生死を共にした者たちだけが持つ敏感な感応のゆえだったかもしれぬ。
オイオノスの表情は、今、おそろしく厳しい。
その表情を崩さぬまま、彼は言った。
「おそらく、俺と同じ気持ちの者は多いだろうと思う。その皆を代表して言わせてもらおう。
つい今しがた、お前が俺たちに語った計画――
それは、正しいことだと、お前は本当に考えているのか?」
フェイディアスは、答えない。
周囲の男たちも皆、押し黙ったままだ。
だが、その場の空気は明らかに、オイオノスの主張に同調している。
「隊長殿は、いまだ目覚めない」
オイオノスはまっすぐにフェイディアスと向き合い、ほとんど睨みつけるようにして続けた。
「仮に、このまま永遠に目覚めることがないとすれば、お前がしようとしていることは全て無駄となる。
そして、神々の助けにより、隊長殿が再び目覚めるときが来たとすれば……
その時、隊長殿は、そのことを神々の助けではなく、むしろ呪いだと考えるのではないだろうか?
お前の判断を、忠誠ではなく、裏切りだと感じるのではないだろうか?」
「……俺も、そう思う」
「俺もだ……」
それまで黙り込んでいた《獅子隊》の男たちのあいだから、次々と声が上がりはじめた。
「何故だ、フェイディアス。あんな言葉は、お前らしくもない!」
「戦士として、これほどの不名誉があるか……」
「俺たちはこれまで、どんな時も運命を共にしてきた。皆、ここで死ぬ覚悟はできている。無論、隊長もそうだったはずだ」
「その通りだ。それなのに、フェイディアス、君はこの期に及んで、隊長の輝かしい戦歴、その名誉を汚すつもりなのか?」
誰の言葉つきも、非難する調子ではあるが、声を荒らげて難詰する者はいなかった。
その口調に表れているのは、怒りよりもむしろ衝撃、信じ難いという思いだ。
つい先ほど、フェイディアスがレオニダスの名代として指示を発し、全員を集めた。
その場で彼は、ほとんど全員が予想だにしなかったことを口にしたのである。
『戦うことの出来ぬ重傷者を、今、この島から脱出させる』
誰もが、言葉を失った。
戦えぬ者が、戦を避けて逃げることは、当然の習いだ。
だが、それはもはや身体の利かぬ老人や、女子供の話ではないか。
ラケダイモンの男には、戦場から逃げ出すなどという選択肢は、有り得ない。
あってはならないのだ。
それは、もはや戦士ではないという、男にとって最も恐れるべき烙印を押されることに他ならないのだから。
「――奥方の驚くべき勇気には、満腔の敬意を表した上で、敢えて、失礼を承知で申し上げる」
オイオノスが続けた。
この場には《獅子隊》の男たちの他に、リュクネもいたのだ。
彼女は男たちの輪から少し離れて立ち、常の彼女にも似ず、何も言わずに、事の成り行きを見守っていた。
オイオノスの、そして男たち全員の視線を受けてなお、彼女は一言も発さず、穏やかな、内面を窺わせぬその顔つきを変えることはなかった。
「女に連れられて、戦場から脱出するなど……俺なら……俺は、ラケダイモンの男として、そんな不名誉にはとても耐えられない。死ぬ方がまだいい」
オイオノスがしぼり出すように告げると、周囲から次々に賛同の声が湧き起こった。
「その通りだ……」
「戦士として生まれながら、もはや戦士と呼ばれず、生き恥を晒すくらいなら、死んだ方がましというもの!」
「おお、その通りだ!」
ラケダイモンには、この手の物語が幾つも伝えられている。
生きて戦から戻った息子を、なぜ戦友たちと共に死ななかったかと叱責して戦場に送り返した母親のこと。
熱き門において王と三百名の戦士たちが討ち死にしたあの戦いで、伝令として本国に送り返され、ただ二人生き残った男たちが、人々からどんな扱いを受けたかについて。
それらは絵空事ではなく、かつてあった事実として、そしてラケダイモン人の生き方の規範として、彼らのあいだに語り伝えられてきた。
「皆、同じ意見か」
やがて戦士たちの憤然たる呟きが途切れ、フェイディアスがゆっくりと周囲を見回しながら問い掛けた。
何人もが頷いたのが分かった。
当然だ、という声もそこここで上がった。
やがて、誰かが言った。
「クレイトスは、どう考えているのだ?」
「そうだ、隊長のメイラクスとして、お前は、このことをどう考える!」
「美少年の考えを話させるべきだ!」
全員の視線が、フェイディアスの傍らで沈黙を守っていたクレイトスに集まった。
「……僕は……」
クレイトスは一歩前に進み出て、しかし、そのまま言葉を途切れさせた。
男たちの食い入るような視線が、伏せられたその顔に注がれている。
長い沈黙の後、クレイトスはゆっくりと手をあげ、剣の柄に触れた。
「僕は……この剣で、レオニダス様の胸を刺し貫くつもりでした」
「なぜ、そうしなかったのだ?」
もどかしそうに訊ねた声に、クレイトスは、答えなかった。
男たちは唸り声を上げて同情を示し、口々に言い始めた。
「ああ、気持ちは分かる」
「敬愛するフィロメイラクスに自ら手を下すなど、自分自身の心臓を突き刺すも同然の苦しみだ」
「今も、さぞや辛いことだろう……」
「フェイディアスよ!」
最も年嵩の戦士が、声を荒らげて迫った。
「若いクレイトスが出来ぬというなら、お前が代わりに辛い役目を負ってやるべきだろう。《獅子隊》を次に担う者として、必要な決断を果たせ!」
「……なぜ」
フェイディアスの口から、ぽつりと呟きが漏れた。
「なぜ、死ななければならないんだ」
その声がひどく静かで、真剣で、日頃の彼の様子とはまったく違っていたために、男たちは思わず口を閉ざした。
「なぜだ、皆。……なぜ、隊長は死ななければならない?」
フェイディアスは繰り返し問いかけながら、一歩、また一歩と進み出て、男たちの輪の中央に立った。
周囲のぐるりに立つ仲間たち一人一人の顔をゆっくりと見渡しながら、彼は続けた。
「俺もラケダイモンの男だ。皆の言わんとすることはよく分かる。
この俺も、皆と同意見だったのだ。……先程までは、な。
パイアキスをこの手で刺して、命を奪うつもりだった。
あいつを敵に踏み躙らせるなど、絶対に許せないからだ。
だが……そこへ、リュクネ様が来た」
フェイディアスのその瞬間の表情を、はっきりと目にした者は少なかった。
だが、それを見て取った者は、残らず息を呑んだ。
フェイディアスの顔に、はっきりと、恐怖の色があった。
たやすく命の消し飛ぶ戦場でも、これまで決して見せたことのなかった、恐れの色が。
「その時、俺は、思ったのだ。
来ることが出来たのならば、戻ることも出来るはずだと。
怪我人を、小舟に乗せて送り出せば、アテナイ人どもの目を掠めて脱出させることも可能ではないか。
望みが、わずかにでもあるのならば、それに賭けるべきだ。
俺は……もう少しで、取り返しのつかぬ過ちを犯すところだった。
あとわずかにでも早まっていれば、俺はこの手で、最も大切な者を救うどころか、彼から太陽の光を取り上げ、永久に暗がりの中へ追いやるところだった――」
「どちらが取り返しのつかぬ過ちか、分かったものではないぞ!」
年嵩の戦士の怒声が、闇を震わせてとどろいた。
「この変節漢が! 父祖からの教えを忘れたか!?
『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』!
どれほど深い傷を負おうとも、勝利を得ずしておめおめと生き延びようと考える者など、ラケダイモンの男には一人もおらぬわ!
想い人にそのような不名誉をなすり付けようと考えるなど、あの剛勇のフェイディアスが、急に気でも狂ったのか!?
それとも、男ではなく、女になり下がったのか!?」
そのとき、輪の外にいたリュクネがものすごい咳払いの音をたて、一同は一瞬、気を殺がれて、そのまま黙り込んだ。
「……なぜ、死ななければならない?」
フェイディアスが再び、口を開いた。
「なぜ、無駄に死ななければならないんだ?
確かに、戦う力を充分に残した男が勇気を失い、敵に背を向けるのは、最も蔑むべき怯惰のふるまいだ。
だが……戦う力を失った者を戦場から遠ざけるのが、誤ったことだというのか?
戦えるにもかかわらず怯えて逃げることと、戦うことができないために戦を避けることとは、全く別のことではないのか!?」
「貴様は……《半神》やパイアキスを、年寄りや女子供のように扱うというのか!」
目を剥いてそう怒鳴った戦士に、誰が止める間もなくフェイディアスが飛びかかった。
だが彼は固めた拳を叩きつけることなく、相手の肩を掴むと、唾がかかるほどの距離で怒鳴り返した。
「では、戦えなくなった者には、もはや用はないというのか!?
だから、さっさと死ねというのか!?」
「そういうことを言っているのではないわ、馬鹿たれが!」
戦士もまた、フェイディアスの両腕を掴んでねじ上げようとしながら、喉も破れよとばかり叫んだ。
「俺は、名誉の話をしているんだ!」
フェイディアスは相手を突きのけるようにして手を離し、
「戦う力を失った者は殺せと、それが、その者の名誉を守ることだと、おまえは考えるのか!?」
相手の顔に指を突きつけ、激しく詰め寄った。
「生き延びて……生きて、いつかその四肢に力を取り戻す希望が残されているとしても、それを取ることなく、速やかな死を選べと?
それが、俺たちの名誉だというのか!」
「その通りだ!」
フェイディアスの指を払い除け、年嵩の戦士は地団駄を踏まんばかりの剣幕で喚いた。
二人のやりとりのあまりの激しさに、周囲の男たちは割って入ることもできず、その場に黙って立ったままでいる。
「勝つか、死ぬか……俺たちには、そのどちらかの道しか許されない。
それが、俺たちの名誉だ!
おまえは、大切な者に自ら手を下すことを恐れているだけだ。臆病者だ……」
彼は囁くように言い、腰の剣に手をかけた。
「フェイディアス。おまえがやらぬというなら、俺がやる」
その瞬間、フェイディアスが抜く手も見せずに白刃を閃かせた。
誰が動く暇もなかった。
半ばほどまで武器を引き抜きかかった相手の喉元に、研ぎ澄まされた切っ先をわずかに食い込ませ、フェイディアスは底光りのする目で唸った。
「彼らに、指一本でも触れてみろ。
たとえラケダイモン人同士であっても、容赦はせん」
年嵩の戦士のメイラクスが声もなく武器を抜いて飛び出そうとしたが、周囲の男たちが咄嗟に、本当の流血を食い止めるべく、これを押さえつけた。
「パイアキス愛おしさに、とうとう狂ったか?」
自分の武器をそれ以上抜くこともできず、だが欠片ほどの恐怖もその面に浮かべることなく、年嵩の戦士は表情を歪めた。
「剛勇のフェイディアスのこのような醜態、目にせずに済んだ隊長殿は、幸運であったのかもしれんな。
刺してみろ、フェイディアス! 貴様に、まだそれだけの勇気があるのならばな!」
「いけません、クセノクラテス様!」
彼のメイラクスが地面に押し伏せられてもがき、必死に訴える声だけが辺りに響く。
フェイディアスは野生の獣のように歯を剥き、相手の喉元に切っ先を当てたまま、鼻先がぶつかりそうなほど近く顔を寄せて囁いた。
「俺が、臆病者かどうか、明日の俺の戦いぶりを見てから決めるがいい。
だが……だが、これだけは言っておく。
俺たちは、何のために、これまで戦ってきた?
死ぬために戦ってきたのか?
そうではないはずだ。
俺たちは……生きるために戦っているのではないのか!?
戦場で、死を恐れずに戦うことと、軽率に死を求めることは違うはずだ!」
そこまで言って、急に眉を下げ、首を振った。
「くそっ。……自分でも、何を言っているのかよく分からなくなってきた。
俺は、あまり弁論は得意ではないのだ。これ以上、難しいことを喋らせるな」
そのとき、誰かの手がフェイディアスの襟首をむんずと掴み、クセノクラテスから引き離すと、有無を言わさずその顔面に拳を叩き込んだ。
フェイディアスは抜き身の剣を手にしたまま鼻血を吹いて吹っ飛び、男たちの輪の中に倒れ込んで受け止められた。
「エ」
と目を丸くして呟きかけたクセノクラテスの頬桁にもまた、岩のような拳が容赦なく叩きつけられ、彼は回転しながら仲間たちの人垣の中に突っ込んだ。
「――双方の言い分、よう分かった!」
「エピタダス将軍……」
それまで何ひとつ言葉を発さなかった老将軍は、男たちの中央に進み出ると、部下の鼻血に塗れた太い腕をいつものように組んで立った。
「皆、少々、気が立ち過ぎておるようじゃな。落ち着け。
戦いを前にして逸る気持ちは分かるが、本物のラケダイモンの男ならば、どのような時も、巌のように静かな心であらねばならぬ」
「じゃあ俺たち、今なんで殴られたんだ……?」
「さあな……」
仲間たちの手で地面に座らされ、憑き物が落ちたような顔で情けなさそうに言い合うフェイディアスとクセノクラテスをそれぞれぎろりと睨み据えておいて、エピタダス将軍は大きく咳払いをした。
「皆、聞け。――よいか。今、我らドーリア人の男の数は少ない。
我らが皆死ねば、それはラケダイモンにとって大きな痛手となろう。
今は身動きならぬ怪我人であるとしても、いずれ快復し、優れた血を繋ぐ望みがあるのならば、そのために国元へ返すというのは、理に適った判断であると言える。
たとえ、この場で戦いの役には立たずとも、将来の優れた戦士を生み出すことに貢献することで、ラケダイモンにとって価値ある働きができるというわけじゃ」
男たちがざわめいた。
エピタダス将軍は、フェイディアスの主張を擁護したのだ。
フェイディアスは思わず口を開きかけて、やめた。
話しながら、将軍が再びぎろりと彼を睨んだからだった。
エピタダス将軍の言葉は、フェイディアスの言わんとしたこととは少し食い違っていたが、将軍は、それを承知で話しているのだ。
『無駄に命を捨てることはない』
幾多の戦場を往来した老将軍は、そのことを若い部下たちに納得させるために、敢えて、別の理屈を説いている。
「わしは何も、怪我人にラコニアの地まで歩いて帰れと言っておるのではないぞ。
ピュロスの砦を包囲しておる味方の軍勢と合流することさえできれば、故郷に戻れるよう、彼らが取りはからってくれるじゃろう」
「ですが……」
飄々とした将軍の話しぶりにすっかり勢いを殺がれながらも、気遣わしげな様子で、戦士たちは口々に言った。
「果たして、本国は彼らを受け容れるでしょうか?」
「そうです。エウリュトスとアリストデモスの例があります……」
エウリュトスとアリストデモスは、熱き門の三百人から二人だけ伝令としてラケダイモンに帰還した男たちの名だった。
彼らは同じラケダイモンの市民たちに、自分たちだけ戦いから逃れた臆病者、卑怯者と罵られ、蔑まれ、一人は首をくくって死に、もう一人は行方をくらましたという。
「戦場から自ら逃げ出した臆病者ならば、ラケダイモンは、決して彼らを許さぬ。
その者は市民としての資格を剥奪され、人々の侮蔑と嘲笑を受けることとなろう。
――じゃが、わしらの戦友たちは臆病者などではない。
卑怯な敵とも正々堂々と渡り合い、己の名誉を汚すことなく、戦傷を負うた者たちじゃ。そうであろうが?
ふむ、そうじゃな、この事情が正確に伝わらなければ、怪我人たちがいわれのない難詰を受ける破目になるやもしれんのう。ちょっと書いといてやるか」
エピタダス将軍は何のためらいもなく自分自身の衣の裾を引き裂き、片手をひらひらと動かした。
側に控えていた従卒が心得たように携帯用のインク壺とペンを差し出し、将軍は、布の上に事の次第をすらすらと書きつけていった。
「将軍は……隊長たちが再び快復することがあるとお考えなのですか?」
「それは、わしらではなく、神々のお決めになることよ」
あっという間に手紙を書き終えた将軍は、それをくるくると巻き、
「さあ」
そう言って、リュクネを手招いた。
「お嬢さんや、これを持ってゆきなさい。良いかな、時間はあまり残されておらんぞ」
戦士たちは、顔を見合わせた。
少女だった頃に野犬と格闘して絞め殺し、《牙を砕く者》の二つ名を持つリュクネに、こんなふうに呼びかける男はめったにいない。
「ボートはあるのかな?」
「ええ」
リュクネは、はっきりと答えた。
「我々が乗ってきたものがあります」
「いかんな。わしも見たが、あれは小さすぎる。三段櫂船に積んである上陸用のボートを下ろして使うとよい。わしらは、もう、あれに用はないじゃろうから」
あっさりとそう言い放ち、将軍は、フェイディアスに向き直った。
「脱出させるべき、重傷の兵は何人おる?」
「隊長を含め、計五名です」
「よし。その者たちを乗せるのに、まずは一艘。そこにお嬢さんと、お嬢さんが連れてきた男、他に漕ぎ手として三名の国有農奴どもを乗せる。
その他に、あるだけ全てのボートを、面おもて暗き海に下ろすのじゃ。
――今、この島におる国有農奴ども全員を、本土へと送り返す!」
周囲の戦士たちがどよめいた。
だが、部下たちの動揺とは対照的に、エピタダス将軍の口調は落ち着き払っている。
「わしらは、もはや、彼らにも用はあるまい。
たって希望する者は残ってもよいが、その勇気のない者は、この島が血の流れる戦場と化す前に立ち去るのがよかろう」
「ですが、将軍!」
フェイディアスは思わず、将軍に詰め寄らんばかりの剣幕で言い募った。
「国有農奴たちは、脱出の足手まといになります!
この作戦の成否は、いかに隠密に動くかという一点にかかっている。
家畜の群れのように、海上を大勢でのろのろと動いていたのでは、敵の目についてしまいます!」
「ゆえに、時間をおき、別々の地点から、海上の異なる経路を通って脱出させる。
怪我人たちの乗るボートを、最も見つかりにくいところから、最も先んじて送り出し、国有農奴どもは別の地点から、少し時間をおいてボートを出させるのじゃ」
将軍はそこまで言うと、表情はまったく変えぬまま、ぐっと声を低めて続けた。
「よいか。いざ、アテナイ人どもが上陸してきたとき、彼らはほとんど戦力にならぬ。
それだけではない。おそらくクレオンは、自由や金をちらつかせて彼らを取り込み、扇動し、我らに歯向かわせようとするじゃろう。
戦場で彼らの忠誠を期待するなど無駄、かえって、身内に敵を抱えるようなものじゃ」
戦士たちが一様に得心した表情を見せると、将軍は大きく頷き、
「オイオノス、ヒエロス、テラコス、メリッソス!」
雷鳴のような声で呼ばわった。
呼ばれた戦士たちが、たちまち整列する。
「お前たちが、国有農奴どもに命じて今の指示を実行させよ。細部は、お前たちの判断に任せる。行け!
……よし。フェイディアスよ、そもそもこの話、当の負傷兵たちには?」
「まだです」
そう答えたフェイディアスの口調は、平静を装おうとはしているものの、明らかに重苦しい調子を帯びた。
「というよりも、身動きならないほどの重傷者の中で、話ができるほど意識がはっきりしている者は、パイアキス以外におりません」
「で、そのパイアキスにも、まだ話しておらぬのだな」
将軍は腕を組み、大きく鼻息を吹いた。
「この計画、何よりも、当の本人が納得せねば話にならん。
だが、ごたごたと長話をしておる暇はない。フェイディアスよ、恨まれる覚悟はしておけ」
「無論です。頭を殴り付けて失神させてでも、送り出します」
「……嫌ですよ……」
弱々しいけれどもはっきりとしたその声が届いた瞬間、フェイディアスの断乎たる表情が、そのまま凍りついたように見えた。
戦士たちの輪がざわめき、左右に退いて道を空ける。
姿を現したのは、仲間たちに左右から腕を担いで支えられたパイアキスだった。
フェイディアスの計画が実行に移されそうだと見て、矢も楯もたまらず、パイアキスに知らせに走った男たちがいたのだ。
――フェイディアスは、彼らを非難しはしなかった。
むしろ、彼らのことなど目にも入らぬというように、ただ、パイアキスの顔だけを見つめていた。
「フェイディアス……」
パイアキスは脚の激痛を堪えて顔を引き攣らせ、今にもその場に倒れ伏しそうな顔色ながら、激しい口調でフィロメイラクスを詰った。
「あなたは、一体、何を言い出したんです……?
この私に、あなたを残して、ここから逃げろと?
そんなこと、できるはずがない! 私は残ります!」
「足手まといだ」
フェイディアスがそう言い放ち、男たちは皆、自分自身がそう言われたかのように黙りこくった。
パイアキスの目が、ゆっくりと見開かれ、その顔が悲痛に歪んだ。
何か言おうとするように口が開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。
彼がかぶりを振ると、見開かれた目から涙が流れ落ちた。
「それなら……殺して下さい、あなたの手で。
さっきは、そうしようとしたじゃありませんか。
あなたを残していくなら、死んだ方がいい。
フェイディアス、あなたの手で、私を刺し殺して下さい……」
男たちの中には、堪え切れずに顔を背け、咽び泣く者さえもいた。
同時に、フェイディアスに対しての憤慨を新たにする者たちもいた。
いかに傷つき、身体の自由が利かぬ身となったとはいえ、誇り高きラケダイモンの戦士に、それも己自身のメイラクスに対して「足手まとい」とは、何という残酷な言い様か――
「パイアキス」
そう呼びかけたフェイディアスは――微かに、笑ったのではないだろうか?
「いいか? 俺はな、とんでもなく嫉妬深い男なんだ。
俺はお前を、たとえ、死体になってたとしても、アテナイの連中に触れさせるなんてことには我慢できない。絶対にだ」
彼は大股にパイアキスに歩み寄り、両脇で支える連中のことなど意にも介さずに愛人の頬を両手で挟み込むと、愛おしげに見つめた。
そして口づけをし、彼を強く抱きしめた。
「……俺のために、生きてくれ、パイアキス。
生涯、俺のことを忘れずに生きてくれ。
俺を愛しているなら、それくらい、簡単なことだろう?」
身を離し、そう言ったフェイディアスの目は涙に濡れていたが、その顔には、いつものからかうような笑みが浮かんでいる。
「安心しろ。俺たちは、死ぬために戦うわけじゃない。
どれほど血を流し、泥に塗れようが……最後の最後まで、生き延びるために戦う!
お前が生きていると思えば、そのための力も湧いてくるというものだ。
約束しよう。――お前が生きている限り、俺は、決して死なんと」
フェイディアスの言葉に、何を感じ取ったのか。
パイアキスは涙を流しながら、長いあいだ、フィロメイラクスの目を見つめていた。
やがて、その顔がくしゃりと歪み、パイアキスは泣きながら微笑んだ。
「無茶苦茶ですよ、あなたは……でも、あなたはこれまで、約束を破ったことはない」
パイアキスは震える手を伸ばし、祈るように、フェイディアスの腕に触れた。
「必ず……その盾と、共に」
「ああ」
フェイディアスは、磊落に笑った。
「必ず、また会おう」
そして彼は、くるりとパイアキスに背を向けた。
仲間たちに支えられて去るパイアキスは、何度もフェイディアスの方を振り向いたが、フェイディアスは、もう振り返ることはなかった。
「リュクネ様」
ずっと無言でいたクレイトスが進み出て、しぼり出すような声で言った。
「どうか……レオニダス様を」
それを聞いた男たちが、誰からともなくリュクネの側に寄り、彼女を囲んで立った。
「隊長を、どうか……」
「無事で、故郷へ」
「ああ」
リュクネはひとりひとりの戦士たちの目を見返しながら、はっきりと頷いた。
「必ず守ってみせる。婿殿の命も、他の皆の命も」
* * *
彼女たちは去った。
残された戦士たちは、海岸から引き上げて泉の陣地に拠り、夜明けまで仮眠を取ろうとしていた。
だが、実際に眠ったのはわずかな者たちだけで、残りの者はあるいは横たわり、あるいは物にもたれて座ったまま、まじろぎもせずに闇を見つめていた。
フェイディアスは小高い岩山の上にただひとり、身動きもせずに突っ立っていた。
確かに目は開いているのに、星々は頭上に輝いているのに、何も見えないような気がした。
パイアキスは、もういない。
自分の傍らに、暗く深い穴が開いてしまったような気がした。
不意に目の中で星々の光がぼやけて、たくさんの白いもやのようになった。
そのとき、誰かが側に来る気配がして、彼は激しい咳払いにごまかして顔をぬぐった。
やってきたのは、クレイトスだ。
彼は何も言わずに、フェイディアスの隣に立った。
その瞬間にフェイディアスが感じたのと同じ感覚を、クレイトスもまた味わったはずだ。
(違う)
自分の隣にいるはずの相手は、もういない。
二人は、長いこと、黙ったまま佇んでいた。
やがて、クレイトスが呟くように言った。
「僕たちの決断は……正しかったのでしょうか?」
フェイディアスは、しばらくのあいだ何も言わず、ただ夜の闇を見つめていた。
「分からん」
と、やがて彼は言った。
「だが、俺は、後悔していない。これほど苦しくとも……後悔は、していない。
あとは、それを貫き通すだけだ。たとえ、どんなことになってもな」
クレイトスもまた、何も言わず、身動きさえもしなかった。
彼が何を感じ、何を考えているのか、フェイディアスには分からなかった。
そのときだ。
闇の中に、小さな炎の点が灯った。
北の方角。
角度からして、砦があるはずの高台の頂上。
あまりにも小さな光だった。
目を凝らしていた信号係でさえも気付かなかったかもしれない。
だが、彼らは気付いた。
「狼煙が上がった! 北の砦! ――敵襲だっ!」
フェイディアスが叫び、泉の陣地は騒然となった。
もともと眠っている者がほとんどいなかったために、反応が早い。
「馬鹿な。真夜中だぞ!?」
「いや、俺も見た!」
「あれだ! 見ろ、確かに、炎のあかりだ」
「だが、何かの手違いではないのか……」
「何を、ごちゃごちゃ言っておる!」
エピタダス将軍が破れ鐘のような声で命令を発した。
「ぼやぼやするな! 狼煙を上げよ!」
信号係は飛び上がり、狼煙台に点火した。
乾いた枝葉を舐めるように炎が伸び上がり、火の粉を撒き散らす。
ほどなくして、南の砦がある辺りにも炎が灯ったのが見えた。
信号が伝わったのだ。
そのとき、北に向けて目を凝らしていた戦士たちがどよめいた。
北の砦に灯った小さな炎が、消えたのだ。
「なぜ、炎が消えたのでしょう? ……まさか」
クレイトスは思わず呟いた。
不要不急の火の使用が禁じられている今、たとえば手元を照らすなどの下らぬ用事で炎を灯すはずがない。
北の砦には、ディオクレス率いる部隊が詰めている。
彼らは確かに、こちらに何かを伝えようとしたのだ。
そして、今のが『敵艦隊に動きあり』という警告だったとすれば、一度灯った炎がすぐに消えたことの説明がつかない。
では、まさか――
「北の砦に、敵が?」
「おそらくは、な」
いつの間にかフェイディアスとクレイトスを押しのけるようにして岩山の一番上に立ち、北の砦の辺りを睨みながら、エピタダス将軍が言った。
「夜間の奇襲とは、獣並みの行いよ。だが、どうやら敵は、どんな汚い手でも使う気でおるらしい。おそらく、奴らはそれをやったじゃろう」
「まさか!」
「北の砦は、あの地形に守られているというのに」
「では、ディオクレス殿は――」
「静まれい!」
一挙に広がろうとした動揺を叩き潰すように、エピタダス将軍は両手を広げた。
男たちが口を閉じ、食い入るように見つめる中、
「聞け! 北の砦は、既に敵に制圧されたものと思われる。
いまや、決戦のときは来たれり。各員、配置に着け!」
老将軍は宣言し、腕を組んだ。
男たちは、速やかに動き始めた。
別離の悲しみがある。緊張も、不安も、無いとは言えない。
だが、いざ戦いとなれば、そんなことは関係なかった。
ただ持ち場を守り、一歩も退かず、仲間を守り、敵を殺すだけだ。
「いよいよですな」
幾分か冗談のような調子でフェイディアスが呟くと、
「然様」
エピタダス将軍は太い腕を組んだまま、派手に鼻息を吹いた。
「武勲詩でも、ここからが面白いところじゃろうが?
アテナイの腰抜けどもに、ただで手柄を立てさせてやるつもりなど、毛頭ないわ。
いざ、戦神アレスも照覧あれ!
我らラケダイモンの戦士、その名に恥じぬ勇戦をお見せいたそう。
我らが血と、我らが敵の血で、この島を赤く染めようぞ!」
* * *
「やれやれ……」
崩れた狼煙台の傍らに立って、クレオンは呟いた。
ここまで、真っ暗闇の中を味方に先導され、死体に蹴つまづき、浮き石に足を取られそうになりながら、苦労してここまで這い登ってきたのだ。
少し平らになった場所で片足を引いて、ふくらはぎと足首の腱を伸ばし、もう一方の足も同様に伸ばし、仕上げに腰に手を当ててぐっと背を反らしてから、姿勢を戻す。
そうして見据えた先には、今、あかあかと灯るふたつの炎があった。
ひとつの炎はこの地点よりもずいぶんと低い位置に、そして、さらに遠くに見える炎は、ここと同じくらいの高さにあるように見えた。
狼煙の炎だ。
「完全に、バレてしもたな。もっと隠密敏速に動く予定やったのに、めんどくさいことになってしもた……」
彼が送り込んだ特殊部隊は、北の砦を制圧するという任務は果たしたものの、隠密裏にという件に関しては完全に失敗した。
「まあ、それだけ相手が手強いっちゅうことやな。
まったくラケダイモン人ゆうのは、ほんま、化け物じみとるで。すごい、すごい」
クレオンは言いながら、狼煙台の側に転がっていたふたつの死体を足先でつついた。
珍しい虫の死骸を棒でつついてみる子供のような仕草だった。
全身を血に染めて倒れ伏した二人の男たちは、死してなお武器を手放しておらず、互いの手を固く握り合ったままで事切れていた。
そこへ、クレオンの付き人の一人が息を切らせて登ってきた。
スファクテリア島に上陸したクレオンに、もちろん彼らも付き従っている。
「あの坊や、おった?」
クレオンは、敵味方の死体が無数に散らばる辺り一帯を漠然と示すような手つきをしながら言った。
「ほら、海岸におったやろ。あの、めっちゃ可愛い子。
……見てない? あ、そう。よかったわ。
あんな別嬪殺してもうたら、もったいないどころの話やあらへんからなァ」
真顔でしみじみと頷く司令官を、集まったアテナイの男たちは、どこか不気味そうに見つめていた。
「――で、」
と、問い掛けたのはデモステネスだ。
彼もまた、戦いの顛末を最後まで見届けるべく、この場所に来ている。
「これから、どないする。夜明けまで待つか?」
「『どないする』やて?」
クレオンが振り向いた。
その顔には、顔を二分しそうな笑みが浮かんでいた。
「そんなもん、決まってるやん。
――ぶっ潰すんや。今、すぐに!」
アテナイ艦隊の総員に、スファクテリア島への上陸命令が発された。
弓兵、歩兵、漕ぎ手までが総動員され、彼らは幾つもの小部隊に分かれて、ラケダイモン人たちの陣地を目指す。
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