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正人の話 其の弐肆
しおりを挟む「おや、あなた。またお会いしましたね」
平城京の中にはもはや何者の姿も無かった。そこから気配をたどり、東に歩を進めると、池に月を映す小さな庭園があった。天逆毎はそこにいた。
「碁を打っていると聞いたが、もう勝負はついたようだな」俺は碁盤の上に置かれた須佐之男命の首と、その横に倒れる体を見て言った。碁盤からは真っ赤な血が滴り、今まさに切られたばかりの生気の抜けきらないその顔は、今にも何かを語り出しそうな雰囲気さえある。
「なんてことを……」そう言ってヤエは天逆毎を見据えた。そんなヤエの姿を見て、さすがだなと俺は思った。こんな光景を目の当たりにしても目を背けない。いくつもの死を見届け、それがどれほど醜悪で残酷なものであっても対峙して生きてこなければいけなかったのだろう。俺はヤエの脳裏に焼き付いている一切の死の光景を消し去ってやりたいと思った。そしてヤエのお腹に宿った命に、そんな光景を見せまいと心に誓った。
何やら息苦しい。空気が重くて息苦しいのではなく、逆に空気が軽く、薄くなったような息苦しさだ。呼吸は軽いのに、そこに含まれる酸素が薄い。正人の体のままでは吐き気と眩暈に襲われ、意識が遠のく。ヤエもこのままでは限界だろう。
「久しぶりだな、天逆毎。いや、俺たちが会うのは二千年近くも後の話だな」
「時の流れなど人の世の俚俗(りぞく)な考え。わたくしたち神にとっては意味のないことです」
「俺もお前も神とは言えねえがな」
「何をおっしゃいます。私は三貴神の一人の片割れ、あなたは神をも超える力の持ち主。あなたは謙遜が過ぎますよ」
「その三貴神の一人は、今お前が殺しちまったのだろう」
「ええ、そうですね……。悲しいことです」そう言って天逆毎は、本当に悲しみに愁いだ表情を見せた。
「そちらのお方、どこかでお会いした気がしますが」天逆毎はヤエを見て言った。
「私はお前のことなど知らぬ」
天逆毎は首を傾げ、しばし考えた。
「ああ、そうそう、思い出しました。後の世で私は、あなたの遠い子供の首を落としました。その娘に似ていたのです。人違いをお許しください」
「いいか、挑発に乗るな。平静を保て。あいつは自身の片割れを失い、力がない。だからヤエ……」
「言うな。わかっている」
「そうだな」なぜか俺はこの場で、無性にヤエの小さな背中が愛おしく思えた。
「天逆毎、一つ聞きたい」
「なんでございましょう?」
「なぜお前ほどのものが、他の者の言いなりになどなった」
「言いなりに? 私はそんな覚えはございません。あなたのおっしゃっているのが天照大神のことであるなら、私はむしろ、あのお方の意にそぐわぬことをしております」
「わからねえな」
「あのお方が望んでおられるのは、のどやかなる世界です。争いの無い、生きとし生けるものすべてが同等な命を持つ世を望んでおられます。私はむしろ、それを邪魔しているのです」
「邪魔?」
「はい。わたくしの性分でございます。人が右と言えば左、上と言えば下を取らずにはおられません。安泰な世を望むものがおれば、私はそれを壊したくなるのです」
「お前はそれを、利用されているとは思わなかったのかい」
「それはそれでかまいませぬ。私はただ、この広い世界で碁を打てることに悦びを得たのですから」
「うまいこと言うじゃねえか。天照大神が望んだ世界とお前が望んだ世界、白と黒のどちらの色が盤を制すか楽しんでいたってわけかい」
「その通り。天照大神殿の心中(しんちゅう)は存じております。あの方は、須佐之男命の死を望んでおられたのでしょう。そして私はその望みに答えた。ですが私にとってそれは、自分の黒石を一つ取られたにすぎません」
「つまりそれは、捨て石に過ぎなかったってことだな」
「その通り。私の片割れ、つまり須佐之男命は、人との間に子を残すことで、神の力を分け与えました。それにより、人は火を使い、田畑を耕し、この世のありとあらゆるものを自らの物として利用する知恵を身につけました。捨て石にしては、とてもよく働いてくれましたよ。私は人の心に、ほんの少し邪心を植え付けるだけでよかったのですから」
「で、どっちが勝ったんだい」
「それが明らかなのは、あなたが一番ご存じなのでは? 二千年後の世に、生きとし生けるものの平等などありましたでしょうか?」
「確かにな。目に映るのは、お前の黒石だらけだぜ」俺がそう言ったにもかかわらず、天逆毎はふと沈んだ顔をした。
「どうしたい。不服かい?」
「ええ。あまりにも勝負が簡単につきすぎてしまいました」
「人の世を黒く染めるのは簡単だったってかい」俺はそう言って笑った。
「はい。人とはこうも容易く美しいものを捨て去ってしまうものとは」
「ま、俺は否定しねえよ」
「やはりあなたとは気が合いますね」
「残念ながら、そうみたいだな」
天逆毎はしばし黙り込むと、目を細めて月を眺め言った。「さて、あなたとの御喋りも楽しむことができました。そろそろ終わりにいたしましょう」
「そうだな」
「私の首をはねていただけるのは、そちらのお方でしょうか?」
「ああそうだ。約束しただろ、お前の首をはねるのにふさわしい奴を連れてくると」
「ええ、ええ、覚えていますとも。お約束通り、このお方なら、私の首を落とすのにふさわしい。凛々しく、お美しい、清らかなお方です」
「ヤエ、やるんだ」俺がそう言うと、天逆毎は正座したまま目を閉じ、前かがみになって首を露わにした。
「ご覚悟願う」そう言ってヤエは天逆毎の横に立ち、両手に持った剣を上に構えた。
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