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3 暗い場所
しおりを挟むそこはとても美しい世界だった。
見上げると何万もの銀色の魚が風になびくように水中を舞い、岩陰には巨大なフグが身を潜めている。旅をするエイが数百匹もの群れで頭上を通り過ぎたかと思うと、足元を僕の足をくすぐるようにカニが歩いて行った。
「僕は、水の中にいるのに息ができるよ」
「わらわの力をそなたに授けたのです」
「君の力を?」
「そうです。神は自らの力を人に分け与えることができます。わらわは海の神。その力の一片を、そなたに授けました」
「そうか。それでこんな海の底でも息ができるんだね」僕は遥か上にある水面の光の揺らめきを見上げながら言った。
「それにしても美しい世界だね。これは何て言うんだい?」僕は淡いピンク色をした小さな木のような石を撫でながら聞いた。
「それはサンゴです。石のように見えますが、いくつもの命が重なり合ってできています」
「すごいや! こっちの不思議な生き物はなんだい?」僕は水色をしたナメクジのような生き物を見つけて聞いた。
「ウミウシと言うものです。貝殻を捨て、自由と美しさを得た生き物です」
「じゃああれは?」「これは?」と見るものすべてが珍しい僕は、僕を助けてくれた女の子にいろんなことを聞いていった。
ある夜のこと、僕は夜の世界も見てみたいと思い、目を覚ますとこっそり神社の外へ出てみることにした。きっと何も見えない、真っ暗で静かな世界だと思っていた。けれど夜の森に比べれば、歩くのを躊躇するほどのものではない。見上げた水面にはゆらゆらと月の光が照らし、僕はその光にどこか懐かしさを感じた。
思ったほど暗くないや。僕はそう思って辺りをうろついてみた。昼間には見られない生き物たちが夜の世界に暮らしていた。エビやカニが岩場を歩き、光を帯びたクラゲが漂っていた。何本もの銀色の剣が縦に並んで浮かんでいると思ったら、それらもまた魚だった。
ふと遠くを見ると、そこだけ他と違う暗い場所があった。
こんな場所、昼間にもあったかな。僕はそう思いながらそこに近づいた。
ここにきてもうずいぶん時間が経つ。
最初は昼と夜が入れ替わる回数を数えていたが、三十を超えた辺りでもうやめてしまった。それから先は、どれほどここにいるのかわからない。その間、好奇心の赴くままいろんなところを歩き回り、この辺の地形は完全に頭に入っていた。
おかしいなあ。月の光は同じにあるのに、ここだけどうしてこんなに暗いんだろう。そう思いながら近づくと、そこには一軒の古びた家があった。
家? どうしてこんなとこに……。
海の、底だよね、ここ。僕は目の前で自分の手をひらひらさせて、ここが水の中だと言うことを確かめた。
僕は恐る恐るその家に近づいた。
玄関の扉は暗く閉ざされている。眠り込んだように人の気配はない。
また明日、明るくなってから来ようか。僕はそう考えたけれど、きっとこの家は明るくなると消えてしまう、そんな予感があった。
僕は思い切って玄関の扉に手をかけた。扉に鍵はかかっておらず、すこし軋みはしたものの、あっさりと開けることができた。
「すみません? こんばんは? 誰かいますか?」僕は何度も家の中に呼び掛けた。けれど返事はなかった。
「あれ?」と僕は気づいた。僕はもう水の中にはいなかった。さっきと同じように目の前で手をひらひらさせてみたが、水の感触はなかった。急に体が重くなった気がした。
どうなってるんだろう。ちゃんと空気がある。それに、体も濡れていない。今度はまるで、今まで海の底にいたことが夢であったとでも言われているようだった。
僕は警戒しながらも、何かに呼ばれるように家の中に上がった。
真っ暗な廊下の先に、灯りの漏れる部屋があった。僕はそっとその部屋を覗いた。すると六畳ほどの畳の間に、真ん中にポツリと欠けた皿に火の灯された蝋燭が置いてあった。
ぼんやりと、まるで何かを照らそうとしているのではなく、そこが暗闇であることを思い出させるために灯されたような蝋燭だった。
僕はそこに一人の男が座っているのを見つけた。目を閉じ、何の気配もさせないので、昔ここに住んでいた者の残像でも見ている気分だった。まるで暗闇に紛れようとしているかのように薄汚れ、長い髪を後ろで結んでいた。
「そこへ座れ」男は言った。男の声には、まるで胸の中心にある魂に直接触れられたようなざらざらとした感触があった。
僕は言われたまま蝋燭を挟んで男の向かい側に座った。
そのまま男は何も言わなくなった。
時が止まったかのようだった。
まるでこの蝋燭が暗闇の深さを暗示するように、この男はこの世に時などと言うものは存在しないと暗示しているようだった。
男は本当にここにいるのだろうか?
僕はだんだん、暗闇の中に男を見ることが難しくなっていった。
目の前にあるのが男の姿なのか、それともただの暗闇なのか見極められない。
瞬きをすれば消えてしまいそうなほど、男の存在は希薄なものだった。
目の前で蝋燭がチリチリと燃えていた。
かなりの時間が経つはずなのに、その蝋燭が燃え尽きることはなかった。
やがて僕は、僕自身の存在も希薄になっているのに気が付いた。
僕が見失いそうになっている男の姿は、僕自身なのだろうか。
僕は慌てて呼吸をしようとした。
けれど肺を膨らませても、空気が体に流れ込んでくるのを感じられない。
僕は存在を失いそうになっている。
僕は暗闇だ。
この蝋燭がなければ存在できない存在なんだ。
僕は急に恐ろしくなった。
叫びたくなった。
泣きたくなった。
わなわなと震え、拳で地面を叩き、大声を上げ泣き叫びたかった。
悲しみを感じ、怒りをぶつけ、どこかにある希望と幸福に縋り付きたかった。
そうやって自分を確かめたかった。
バラバラになっていた自分が一つになっていく気がした。
僕は今までどこにいたのだろう。
僕は今まで誰だったのだろう。
僕は今まで何を見つけ、何を失い、何を、何を……。
僕は今まで……。
僕は自分に問いかけた。
「君はだれ?」
けれど僕は僕を置いて答えを残さずに消えて行った。
そして残ったもの、それが僕だった。
「行け」
男の声に顔を上げると、僕は月明かりの照らす海の底にいた。
そこにあるはずの家も男も蝋燭も消えていた。
目の前で手をひらひらとさせてみると、そこにはちゃんと水の感触があった。
ここは、どこだ?
芹那は? 正人は? 香奈子は?
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僕は和也、そして、須佐之男命だ。
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