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3 夏休みと美津子のキツオン

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夏休みに入っても、しばらく三人は全く連絡を取らなかった。
僕に限っては、まるで引きこもりになったかのように部屋から外に出なかった。
罪悪感よりひどい何かが胸の中に寄生虫のように蠢き、吐き気がしてベッドから出ることができなかった。
親には本当のことを言うこともできず、風を引いたのだと言ってごまかした。
実際何が原因かはわからないが微熱が続いた。

あの夜から一週間ほどたったころ、美津子からLINEでメッセージが届いた。
「ねえ和也、あの夜のことで話がしたいんだけど、今夜三人で会えますか?」と言うことだった。
僕は断る理由も見つけられず、約束の時間のギリギリまでベッドの中にいたが、しぶしぶ体を起こして約束の公園まで足を運んだ。
五分ほど遅れて着いたのだけれど、いたのは美津子だけだった。
「正人は?」と尋ねると、美津子はただ首を横に振った。
LINEで連絡を入れてみたが、正人から返事はなかった。
どうしようもなく、夜の公園で美津子と並んで正人を待った。
夜になっても蒸し暑く、僕は時々目の前を飛ぶ小さな虫を追い払った。
見上げると街灯には無数の羽虫が集まっていた。
無言で美津子と座っていると、いつしかやはり、心の中にあの夜の光景がよみがえってきた。
「ねえ……」僕は我慢ができず、美津子に話しかけた。
美津子は何も言わず、黒縁の眼鏡の向こうから僕を見上げ、話の続きを待った。
「あの夜のこと……」けど僕は、いったい何を話そうとしているのか自分でもよくわからなかった。
美津子は相変わらず僕をじっと見つめている。
「あの夜、あの男はほんとに死んだのかな」僕がそう言うと、美津子もやはり何か話したかったのか、口を開いた。
「そ、そ、そのことなんだけど、じ、じ、実は……」そこまで話して美津子は口をつぐんだ。
僕と美津子はその瞬間、「あれ?」と言った表情でお互いの顔を見合わせた。
今まで美津子は、僕と正人に話す時にキツオンになったことはない。
「あ、あ、あ、ああ、あ、あれ……、わ、わ、わたし、い、いったいど、ど、どーうなって……」そこまで言って、美津子はもう何も話せなくなってしまった。
今まで何度も美津子が人と話している時にキツオンになるのは見て来たけれど、これは今まで見た中で一番酷い状態だった。もう美津子は頭の中がパニックになったかのように口をパクパクとさせ、瞬きもせず早く浅い呼吸を繰り返し、やがて声も出さずに開けたままの目から涙をぽろぽろと流し始めた。
「美津子! 美津子! 落ち着いて!?」僕はそう言って美津子の手を握ったものの、その後どうすればいいのかわからなかった。
美津子はまるで体の自由を失ったかのように硬くなり、唇を震わせ僕を見つめたままの状態で涙を流し続けた。
「美津子、大丈夫だよ。落ち着いて深呼吸するんだ、ほら、ゆっくり。ゆっくりだ」そう言って僕は、美津子が僕を見て真似をできるように、大げさに息を吸って、吐いて、吸って、吐いてを繰り返した。
背中を撫で、徐々にゆっくり、ゆっくりと美津子を見ながら呼吸のペースを落としていった。
やがて美津子は、しゃくりあげているものの、肩から力が抜け、目を閉じ、徐々に落ち着きを取り戻して行った。
「さあ、もう大丈夫だよ」それでも僕は、左手で美津子の手を握り、右手でその背中を撫で続けた。
僕の左手も美津子の両手も冷たい汗でじっとりと濡れていた。
美津子はだいぶ落ち着いたものの、顔色が悪く、まるで体が熱を失ったかのようにガタガタと震えていた。
いつもなら、例え普段はどんなに神経質で内気であったとしても、僕ら二人の前では物怖じせず陽気で天真爛漫に振舞った。けれど今の美津子は、まるで別人のようにか細く頼り無げに見える。僕は今まで僕や正人の前で見せる美津子の姿が本当の美津子なのだと思い込んでいた。けれどもしかしたら、本当の美津子はこんなにも繊細でか弱い存在なのかも知れないことを知って驚いた。そして驚いたのはきっと、美津子も同じことなのではないだろうかと僕は思った。

どれくらいの間、僕は美津子の手を握り、背中をさすっていたのかわからない。
美津子の体の震えが止まり、涙も止まり、顔色が戻り、いつも通りの呼吸に戻るまで一時間はかかったのではないかと思う。
そして美津子は臆病な子猫がそっと見知らぬ花に触れるように、ゆっくり、ゆっくりと声を出した。
「わ、わ、わ、わた……、き、きょーう……」
「いい、いいよ美津子。無理しないで」僕はどうやって美津子を慰めればいいのかわからなかった。
けれど美津子はきつく目を閉じ、「そうじゃない!」とでも言いたげに首を横に振った。
そして美津子は何を思ったかカバンからスマホを取り出し、僕にLINEの画面を見せた。
「え、なに?」
すると美津子はLINEの画面に何かを打ち込み始め、それを送信すると、今度は僕に自分のスマホを見ろとジェスチャーで促した。
「LINEだと、うまく話せるの」と、美津子からのメッセージにはそう書かれていた。
「和也は普通にしゃべっていいから。でも私はしばらくこれで話すね」と再びメッセージが送られてきた。
すぐ隣にいる美津子とLINEで話すと言うのはどうにも変な気分だったけれど、美津子がそれでしか話す手段がないのなら仕方ないと思った。
「私、もう一度あの踏切に行きたい」
「えっ? 嘘だろ?」
「ほんとだよ。ねえ、私言ったでしょ? あの踏切を渡ると、異世界に行けるって」
僕は何も言わず頷いた。
「あの時、あの男の人、私たちの目の前で消えたじゃない?」
「うん、確かに。でもあれは、電車に飛び込んで……」
「ねえあの時、男の人が電車にぶつかる音聞こえた?」
美津子の質問は、思い出したくもないことだったが、僕はもう一度考えて答えた。
「う、うん。あんまり覚えてないけど、音は聞いてない」
「でしょ?」
「でもそんなの、それで異世界に行っただなんて、信じられないよ」
「でもね、聞いて? 隣のクラスにね、あの団地に住んでいる子がいたの。で、話を聞くと、あの踏切では時々飛び込み自殺が起きるんだって。でも、不思議なことに、その死体が見つからないことがあるらしいのよ」
「そんな……」
「ね、だからきっと、あの男の人も、死んだわけじゃなくて、きっと今ごろどこかの異世界に飛ばされてるのよ」
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