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第二話
香川沙知子、二十七歳。
私がこの世界に転移したのは二十四歳の時だった。原因は不明。出勤途中に電車からホームに降りたら、そこは異世界だった。
ちまたで流行りの異世界召喚だとか、女神の導きで転移しただとかだったらまだマシだっただろう。何故なら使命を果たすという“目的”があるからだ。
けれど私の場合、誰かに呼ばれるでもなければ、何のお告げもなく異世界に飛ばされた。どうすればいいのか、帰れるか否かもわからない状況に私は大いに混乱した。
「お嬢さん、お困りですか」
多くの人達が呆然と佇む私をチラッと見るだけで素通りして行くなか、唯一声をかけてくれたのが今の夫だった。
ディランシーズ・モンセン
彼は困り果てた私を屋敷に連れて行き、食べ物と住むところを与えてくれた。あの時彼と出会わなければ、今私は生きてはいなかっただろう。
私がここではない別の世界から来たことを話しても、彼は突き放すことなく信じてくれた。言葉は話せるけれど読めないことが分かれば真摯にサポートしてくれたし、この世界のことも辛抱強く教えてくれた。
「サチコ、もしこのまま帰れなかったら僕と結婚してくれないか」
「え?」
「愛してるんだ。どこにも行かず、残りの人生を僕と共に歩んでほしい」
いつの間に用意したのか、彼の手にはダイヤの指輪がケースの中で輝いていた。
この時すでに彼を愛し始めていた私に断る理由などなかった。求婚を受け入れ結ばれた私たちは、彼の両親からの強い反対を押し切って結婚したのだった。
私たちの結婚生活は順調だった。あれほど反対していた彼の両親も、私たちが心から愛し合っていると分かると、少しずつだが交流の場を持つようになっていった。
貴族としてのマナーが苦手な私を気遣って、茶会の誘いは最低限に調整してくれたし、晩餐会などのパーティーには私の負担を考えて遠縁の婦人を連れて行くという気遣いも見せてくれた。
ところが一年ほど経ったある日、夫の不在時に愛人だという女性が突然家に押しかけて来た。
「先触れもなく、このように突然来られましても!」
「わたくしがわざわざ来て差し上げたというのに、会わせられないとはどういうことですの!?」
「ですが現在奥様は不在でして……」
「そう、でしたらここで待たせてもらうわ。客間に案内しなさい」
二階で読み書きの勉強をしていると、一階から騒がしい音が聞こえてきた。何事かと下の階に向かうと、私を見た執事は青ざめ、見たことのない婦人はニヤリと嫌な笑みを浮かべてこちらを見上げた。
「貴方がディランシーズの妻ですの?随分と貧相な方ですのね」
「……どちら様でしょうか」
赤いドレスと揃いのルージュが良く似合う妖艶な女性は、私の質問にディランシーズの愛人だと答えた。この場にいる誰もが凍りついて立ち尽くす。玄関先でする話ではないと判断した私は、彼女を客間に通して話を聞くことにした。
紅茶を運んで来た侍女は顔色が悪く、給仕が済むとさっさと退出して行った。出された紅茶を一口飲み、カップをソーサーに置いたところで話が始まった。
「阿婆擦の雌猫さん、そろそろ彼を私に返してくださいな。本来でしたらわたくしと結ばれるはずでしたのに、どんな手を使ったのかディランシーズを横取りして。そんなに伯爵夫人という地位が欲しかったのかしら」
「おっしゃる意味がわかりません……」
突然やって来て私を侮辱する言葉を吐き、しかも愛する夫を返せとは一体どういう了見だ。そもそも彼女が誰なのか見当もつかなかった。
「貴方、どうして彼がパーティーに貴方を連れて行かないのか考えたことがおありですの?」
「……それは、場慣れしていない私に気を遣って……」
「ふふふ、そんなの単なる言い訳ですわ。だってわたくし、貴方の代わりにずっと彼のパートナーとして出席しているんですもの。それも貴方と結婚する前からずっと」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。今まで見せてきた気遣いの裏で、彼は私を裏切っていたというのだろうか。目眩を感じ、一瞬目の前が真っ暗になる。そんな私を見て、勝ち誇った表情を見せる彼女に寒気を感じた。
「お分かりになったでしょう?貴方は仮染めの妻でしかないの。だからさっさとその座を明け渡しなさい」
ショックで何も言い返せなかった。彼を信じたい。けれど私をパーティーに連れて行かなかったことは事実だし、彼女が代わりに同伴していたと言うのであれば、それが事実なんだろう。
他にも何か言われたけれど、それどころではなく覚えていない。彼女が去っても勉強の続きをする気力が起きず、自室のベッドでうずくまって泣いた。
「……帰りたい……、お母さん……お父さんに会いたいよぉ」
久しぶりに流す涙だった。異世界に来てすぐの頃、故郷を想って泣いているとディランシーズが慰めてくれた。私のために花をプレゼントしてくれたり、気晴らしにと市井に連れて行ってくれたりもした。数え切れないほどの労りと気配りをもって接してくれた。
それなのに、私は彼の愛を受け取るばかりで、何も与えようとしなかった。だから、こうなっても仕方がないのかもしれないと自分に呆れて笑ってしまった。
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